京都造形芸術大学にランドスケープデザインのコースがある。このコースの演習発表会に批評者として呼ばれたので、午後から京都へ行った。発表者は17名。デザインの全体的な傾向として、与えられた敷地を「デザインし尽くす」という態度が弱まっているように感じた。
僕が学生の頃は、与えられた敷地を隅から隅まで思う存分デザインし尽した覚えがある。理想的な空間を作りこむこと。見たことも無いような空間を作り上げること。そんな気負いがあった。図面に空白があることを恐れるかのごとく、与えられた敷地のすべてをデザインし尽くしたものだ。
ところが今回の発表では、多くの学生が「住民が作る場所」や「利用者が改変する余地」をデザインの中に組み込んでいた。つまり、敷地に空白をプランニングしている人が多かったのである。
ランドスケープデザインが変化を前提としている以上、デザイナーがすべてを作り上げるという理想像に嘘っぽさを感じる学生が多くなったのかもしれない。植物は成長するし、人々はその管理に参加する。樹木は枯れるかもしれないし、人々は好き勝手な花を植えるかもしれない。そんなオープンスペースの設計に対して、デザイナーが頑なに「完璧なランドスケープを作るんだ」という意思を持つこと自体に無理がある。学生たちはそのことを感じ取っているのかもしれない。
その視点を批判するつもりはない。そういう見方があっていいと思うし、図面に色が塗られていない部分に可能性を感じることもできる。ただ、なかには無責任に投げ出しただけの余白も見受けられる。誰かが何かを作ってくれるはずだから、僕はここをデザインしないんだという態度。
それは少し無責任だろうと思う。図面に空白を残すのであれば、その空白に色を塗る以上の説明が必要になるはずだ。誰がそこで活動するのか。それはどんな組織なのか。活動の財源はどこから得るのか。材料はどうやって手に入れるのか。空白のデザインを展開するのなら、こうした諸条件についても同時に検討しておくべきである。空白が空白としてしっかり機能するために。
誰かが何かをしてくれるだろう、と放り出すのであれば、最初からデザイナーなんて必要ない。中途半端にデザインしておきながら、都合よく余白を放り投げる態度にはリアリティが感じられない。なぜ空白なのか。誰が関わるのか。関わるきっかけをどう設定するのか。そういうことを考え抜いたとき「空白」は力を持ち始めるのである。
「都市に原っぱを」という言説を耳にすることがある。同じ論理だ。都市に原っぱなんて作っても意味が無い。かつて原っぱで展開された遊びが多様だったという理由から、半ばノスタルジックな感傷も含めて原っぱの復権を唱える人がいる。でも、その頃「プレステ」は存在しなかった。子ども部屋を持つ家も少なかった。そもそも家が狭かった。屋外で遊ばざるを得なかったのだ。だから、原っぱに行けば同じように家から飛び出してきた友達がいた。こうした背景が重なり合って原っぱが機能していたのである。そんな背景を無視して「現代の都市に原っぱを」と叫ぶのは、深く考えることなく図面に余白を残すのと同じ無責任さを内包している。
僕らはまだ「作らないほうがいい」ということを説明する論理を確立していない。「作らないほうがいい」という提案で商売を成り立たせるシステムも確立していない。オープンスペースのデザインが過剰になってしまうのは、作ることのコストに設計料が含まれているからである。作らないこと、壊すこと、間引くこと等で豊かな空間を作り出すことができれば、僕らはカタチを捏造する職能から開放されるだろう。
設計図面に残した空白が成立するような論理を展開する学生が増えたら、ランドスケープデザインは新たなフェーズを迎えることになるはずだ。
山崎
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