昼からコスモスフォーラムに出かける。基調講演はサル学の河合雅雄さん。兵庫県立人と自然の博物館の館長時代にお世話になった先生だ。現在は兵庫県立丹波の森公苑の苑長を務める。基調講演に続くフォーラムのパネリストは4人。総合地球環境学研究所の秋道智彌さんと佐藤洋一郎さん、名古屋大学の池内了さん、そして大阪大学の鷲田清一さん。コーディネーターは吹田市立博物館の小山修三さん。
河合さんの基調講演は、サルから人間への進化を端的に示すものだった。
・サルの脳が他の生物に比べて大きくなった理由は、①片手で物がつかめること、②物の色や奥行きを認識できること、③座れることの3点に集約される。
・サルが生活した森という空間の特徴は、①植物が多くて隠れやすいこと、②食材が豊富に存在すること、③食材確保の競争相手がいないこと、④天敵がいないことの4点に集約される。
・サルが人間に似ているところは、①道具を作ったり使ったりすること、②肉食であること(動物の脳が大好物!)、③協働して狩りを行うこと、④分配行動があること(仲間に物乞いをする!)、⑤あいさつをすること(キスもする!)の5点に集約される。
・サルから人間へと進化したきっかけは、①直立二足歩行を始めたこと、②家族を持ったこと、③音声言語を使うようになったこと、の3点に集約される。
・人間は、自然環境と文明環境を改変し続けた。文明環境が進歩すればするほど自然環境は破壊された。今、人間はそのことを反省して「人と自然の共生」を目指している。一方で、同じ人間が「内なる自然環境」を破壊しつつある。いわゆるヒトゲノム計画。DNAを操作することによって、人間の内側にある自然が破壊される。人間は自然的な進化存在である。それが、50年後には人為的に操作できるようになるかもしれない。今こそ、人間とは何か、人間の自然とは何なのかを考えるべきだろう。
続くフォーラムで興味深かった意見は以下のとおり。
・人間という循環系は、脳の1本の血管が切れただけで死んでしまう。循環型社会について考えるとき、そのウィークポイントはどこなのかを見据えておく必要がある。(池内さん)
・スギやヒノキといった裸子植物は独特の匂いを出す。人間はあの匂いが好きだが、あれは害虫を自分に寄せ付けないようにする匂いであり、他の花粉を殺そうとする匂いである。裸子植物の多くは排他的であり、社寺林などがひっそりとしているのはそのせいである。逆に被子植物は外向的であり、花や香りで昆虫や人間にかわいがってもらいながら繁殖する。(佐藤さん)
・物事の関係性を捉えようとするとき、少しレンジを広げて余裕を持った視点で眺めるべき。物の背景にある文化や環境や生態が見えてくる。こうした背景を含めた物と物の関係を考えるとき、最初に捉えた単純な構図では結論がでない複雑な関係性が浮き上がることになる。(秋道さん)
・ヒトが持つ自然性、いわゆるヒューマンネイチャーというのは、自然環境を改変するという行為に集約されているのではないか。つまり僕たちは、自然を改変しているときが一番人間らしいのであって、自然な状態なのである。(鷲田さん)
・ヒトは自然に影響を受けながら生きている。同時に習慣にも影響を受けながら生きている。「習慣は第2の自然である」という言い方があるが、人が自然を見る視点も習慣に影響されていることを考えると、「自然は第2の習慣である」と言えるのではないか。(鷲田さん)
この言い方には少々説明が必要かもしれない。ヒトが自然を見るときの視点は、その地域独特の習慣に基づいていることが多い。ヘビやアルマジロを見て「おいしそう」と思う日本人は少ないが、世界の別の国ではそれを「おいしそう」と思って眺める人がいるそうだ。同じ自然の生き物でも、習慣によって「見方」が違うのである。
そう考えると、僕らが第1に影響を受けている自然という存在自体が、僕らの習慣によって作り出された概念だということが分かる。つまり、人は習慣を通して認識した《自然》に影響を受けているのである。だから「習慣は第2の自然である」というよりもむしろ「自然は第2の習慣である」といったほうが実情にあっているのである。
「人間が自然をどう見ているのか」ということについては、別の視点も提示された。佐藤さんの農耕社会に対する問題提起である。狩猟/採集社会では、1週間に2日ほど働けばよかった。ところが農耕社会になると1週間に5日間も働かなければ生きていけなくなる。これは進歩と呼べるのだろうか。
狩猟/採集社会は環境の変化に敏感だった。自分が獲得できる対象が減るかもしれないから、少しの変化も見過ごさない感受性を持っていた。ところが農耕社会になると少々の差異は無視するようになる。環境の微妙な差異は無視して、計画に基づいた収穫の増加を目指すようになる。おのずと感受性は鈍くなる。これを進化と呼べるのだろうか。
この視点は、「農業は人類の原罪である」の著者コリン・タッジの考え方に通じるものがある。人間が自然環境を改変できるものとして捉えるきっかけになった農耕。現在に至る環境破壊の始まりが、実は農耕社会の発生を起源としているかもしれないのだ。農的生活至上主義者や里山礼賛の傾向が強い人に、ぜひともしっかり考えてもらいたい農耕社会の側面である。
山崎
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