昼から「archireview eX」に出席する。テーマは「建築×アート」。ゲストはアダム・フレリン(Adam Frelin)。水や人の流れを変える作品が多いアメリカの作家である。
ミズーリ州の公園のプロジェクトでは、一般的な園路線形を囚人の脱走ルートに改変した。何気なく歩いていた公園のルートが、ある箇所から急に脱走ルートの線形に変わる。元の園路に戻るまで右往左往したルートは、最後に囚人が捕まった場所で行き止まりになる。
公園内に設置された脱走ルートは3種類。いずれも有名な脱走劇で、「テキサス-7」と「アルカトラズ-62」と「イースタンステイトトンネル」のルートである。州から州へと渡った脱走劇のルートなので、その縮尺は大きく縮められてミズーリ州の公園内に収められている。何の意味も持たなかった園路に意味を付与し、人の流れを改変し、別の場所の歴史を体感させるプロジェクトとしては、面白い試みだと思う。
アダム・フレリンのアプローチが新しいのは、「どこか別のサイト」の特性を「いまここにあるサイト」へと切り張りしている点に集約できよう。テキサスで起きた脱走劇のルートをミズーリ州に切り張りすることは、単に脱走ルートの線形を公園へ持ち込んだという以上の意味を持つ。そこで衝突しているのは「公園の園路」と「脱走ルート」という即物的な要素ではなく、「ミズーリ州」と「テキサス州」という場所の特性なのだろう。つまり、コンテクスト付きの「部分」をコンテクスト付きの「サイト」へと切り張りすることによって、そこに生じるコンテクスト同士の衝突を楽しもうとしているのである。
ロサンジェルスやダラスの都市に中国や南米の山をコラージュするプロジェクトも、「どこか別のサイト」の特性を「いまここにあるサイト」へと切り張りすることによって、ダラスと中国という都市のコンテクスト同士を衝突させていると考えられよう。
洗面所の水をトイレの中へ流し、トイレの水をバケツの中に流し、バケツの中の水を屋外の側溝へと流すプロジェクトも同じ構図だ。移し変えられているのは同じ水なのだが、それぞれの水が持っている特性(洗面所の水、トイレの水、側溝の水など)同士が混ざり合う状況を作り出している。それぞれの水が持っている特性同士を衝突させるところに、アダム・フレリンの手法が持つ面白さがある。
そう考えると、アダム・フレリンがやっているのは「実空間のコラージュ」だと言えるかもしれない。アダムになぜこんな作品を作るようになったのかを尋ねてみた。彼はカリフォルニア大学のサンディエゴ校で長く勉強したという。サンディエゴというのは、生活のための水を遠く別の州から引き込んでいる都市である。別の州の水を使ってサンディエゴで生活しているという違和感と躍動感。それが彼の作品の原体験となっているのだという。
「Collarge of Site Specific」。アダム・フレリンの手法を、ひとまずこんな風に呼んでみたい。
山﨑
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