確かにそのとき、僕は猛スピードで自転車を運転していた。事務所から地下鉄の駅までは走り慣れた道。終電の5分前。いつものペースで走れば、ぎりぎり終電に間に合うはずなのだ。
事務所の自転車は前輪にも後輪にも鍵がついていない。ワイヤー錠を使っているため、外した錠は前かごに入れて運転するのが常だ。だから、見る人が見れば鍵のついていない自転車を猛スピードで運転しているように見えるのだろう。オマケに運転しているのは坊主頭でヒゲ面だ。警察官が僕を停止させたくなる気持ちは分からないでもない。
しかし、こっちは終電ぎりぎりだから猛スピードなのだ。止まる予定の無い場所で止まることは、終電を逃す危険性を孕んでいる。警察官の停止を無視して振り切りたいところだが、それではますます怪しい輩になってしまう。
わき目も振らず運転する僕の横に、パトカーが寄ってきて「ちょっと止まりなさい」と声をかけた。警察官が市民を止めて職務質問する権利を有していることは認めよう。いや、それはむしろ権力だと言ってもいいだろう。しかし、権利や権力には義務が伴うはずだ。急いでいる僕を停止させるからには、それだけの義務感を持って職務を全うしてもらいたいものである。
警察官の指示に従って急停止した僕は、振り向きざまにこう言った。「僕は終電に乗らなければならないので急いでいます。職務質問を受けていると終電に間に合わなくなるのですが、それでも僕を止めますか?」
「ああ、お急ぎでしたか。それではそのまま行ってください」、なんてことになろうはずがない。何しろ僕は怪しい輩なのである。それを承知の上でこう続けた。「僕の家は平野駅の近くです。ここからタクシーに乗ったら5000円はかかる。職務質問に協力したせいでタクシー代を支払わなければならなくなった、なんてことになるのはご免だ。僕をいま足止めするのであれば、あなたたちはそれなりの義務を負うことになる。そのことをしっかり認識しているのであれば、僕は喜んで職務質問に応じましょう。」
偉そうなことを言ったって、僕は怪しいのである。彼らが僕を見逃すわけが無い。警察官は僕を自転車から降ろし、防犯登録を確認し、警察署に問い合わせた。当然、終電の時刻には間に合わない。
10分後、僕が乗っていた自転車が盗難車でないことが確認できると、彼らはそのまま立ち去ろうとした。権利だけ主張して義務を果たさない輩がこんなところにもいる。ユニセフパークプロジェクトのファシリテーターだって、権利と義務が表裏一体だってことくらいしっかり認識できているだろう。今度は僕が職務質問する番だ。
「方法は2つしか思い浮かびません。パトカーで僕のタクシー役をするか、必要なタクシー代を僕に支払うか。終電が無くなる事は事前に伝えたはずです。そのことを知った上であなたたちは僕を止めたわけです。仕事はまだ終わっていない。権利を主張するだけで仕事を終えようとするのは間違いだ。そのとき同時に発生した義務も果たすべきなのです。」
路上で坊主頭が警察官を説教する。これも怪しい風景である。警察官2人は困ってうつむいている。なかなか答えが出ない。「そうやって悩んでいる時間がもったいない。すぐにパトカーで送ってくれたほうがお互い仕事に戻れるんじゃないですか?」
しばらく悩んでいた2人だったが、小さな声でこそこそ相談してからこう言った。「わかりました。ご自宅までお送りしましょう。」
走るパトカーに乗ったのは初めてだ。一般的なメーターのほかに、大きなオレンジ色のデジタルメーターがついている。スピード違反を取り締まるため、運転席と助手席の双方から見やすい位置についている。よく見ると、走っている速度より10km/h低い値が表示されている。スピード違反の取締りを確実にするため、わざと10km/h低い値を表示しているのだろう。そのメーターに表示された速度が法定速度を超えるとすれば、前を走る車は間違いなくスピード違反なのである。
ナビゲーションシステムも少し変わっていた。パトカーの走った軌跡がすべて記録されている。大阪府警の本部がどこにどのパトカーがいるのかが把握できるようになっているのだろう。また、走り出す前に「何の任務でパトカーを運転するのか」をナビゲーションシステムの画面で登録する決まりがあるようだ。「追跡」「警邏」「犯罪」「取締」などという項目が見える。今回の運転は「特命」という任務のようだ。「タクシー」という項目が無いのだから仕方ない。
阪神高速を走る。早く任務に戻りたいのだろう。明らかに警察官は急いでいる。制限速度が60km/hの阪神高速を100km/hで走る。が、すぐに速度が落ちる。前を走るすべての車が、急に速度を落とすからだ。前の車に追いついてしまうと、その車は急に60km/hまで速度を落とす。その車を追い越そうとして斜線を変えると、追い越し車線を走っていた車も60km/hまで速度を落とす。パトカーとは実に厄介な乗り物である。
自宅前に横付けしてもらったパトカーから降りた僕は、しかしお礼を言う話でもないと思ったので、こう言い添えた。「ややこしいことを言ったので嫌な気分になったかもしれませんね。その点については謝ります。これからも権利と義務について考えながら仕事に励んでくださいね。」
まちづくりはひとづくりである。警察官も「市民」たるべきである。僕はこれからも地域住民の市民意識向上に日々精進したいと思う。
山崎
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