午前10時から「あそびの王国」のオープニングイベントに出席する。
5年前に子ども150人を集めて行ったワークショップに始まり、基本計画、基本設計、実施設計を経て2年の工事期間の後に完成した遊び場である。工事期間中の2年間は、この遊び場で活躍するプレイリーダーグループ「ガキクラ」を育成・組織化した。ガキクラの主要メンバーが確定した去年からは、兵庫県とガキクラが共催で実施するオープニングイベントのプログラムについて検討した。さらに、公園内のサイン計画や「あそびの王国ものがたり」という紙芝居の作成、そしてパンフレットのデザイン等を担当した。いろいろな側面から関わることのできた公園である。
オープニングイベントには、ガキクラのメンバーや5年前のワークショップに参加してくれた子どもたち、ガキクラのイベントに参加してくれた子どもたち、地元三田の中学生(吹奏楽部)、有馬富士公園の協議会委員、兵庫県知事や三田市長や地元の議員などが参加した。
通常の開園式なら、知事や市長の挨拶、地元議員の祝辞などが長々と続く。僕も何度かそんな「形式的な開園式」を運営したことがある。運営している僕自身が面白くないと思ってしまう開園式の形式である。今回は子どもの遊び場がオープンするということで、いろいろな批判があったものの市長や議員の挨拶は省略した。代わりに、子どもたちやガキクラメンバーと兵庫県知事との対話からオープニングイベントを始めた。
イベントの演奏は地元三田市の藍中学校の吹奏楽部が担当してくれた。全日本マーチングフェスティバルで日本一になった吹奏楽部だけあって、その音はかなり良質だった。「あそびの王国」の入口付近に、屋外用の楽器を配した「カミナリの砦」という場所がある。その砦内で藍中学校の吹奏楽部に演奏してもらった。周囲の壁が音を反響することによって、思ったとおりの音響効果が得られた。
午前中のイベントは、ガキクラが子どもたちと遊ぶ姿を関係者に見てもらう(たまに体験してもらう)というものだった。あらかじめ準備した遊びを展開するガキクラは、2年前に比べてかなりアクティビティマネジメントの力を上げていた。開園後は、月1回「あそびの王国」で活動するという。十分にその力を持っているといえるだろう。
藍中学校の吹奏楽部
オープニングイベントの全体写真
午後からは一般の来園者に向けた開園。想像していた以上の人が押し寄せた。一面に広げられたレジャーシートと錯綜する動線。走り回る子どもたち。少しおかしな光景だった。
遊び場にしては人が多すぎる。
「カミナリの砦」内部も人が多すぎる。
午後1時から「OPUS PRESS」というフリーペーパーのインタビューに応じる。僕の活動を紹介するだけでなく、OPUSの活動についていろいろ聞いてみた。今まで知らなかったのだが、このOPUSという組織はかなり面白いことをやっていることがわかった。特に、僕が関わっているユニセフパークプロジェクト(UPP)に近いコンセプトを持っているということがわかった。組織運営という点で、UPPがOPUSに学ぶところは多いはずだ。さらに詳しくOPUSを研究してみたいと思う。
OPUSのインタビューを終えて大阪へ戻り、午後5時からINAX大阪で行われるアーキフォーラムにコーディネーターとして出席する。ゲストは長坂大さん。
長坂さんのプレゼンテーションは、ネパールのカトマンズで撮った写真から始まった。スラムの広場で活き活きと遊ぶ子どもたちの写真。舗装は部分的に剥がれ、壁が崩れ落ちている個所もある。それでも子どもたちは楽しそうに遊んでいる。完成された遊び場と壊れかけた遊び場。子どもたちにとってどちらがワクワクするのだろうか。完成した「あそびの王国」のオープニングを終えて会場に駆けつけた僕を考え込ませるのに十分な写真だった(写真の精度もかなり高かった)。
壊れかけた遊び場で何ができるかを読み取りながら、子どもたちは活き活きと遊ぶ。実は大人も同じなのかもしれない。「至れり尽くせり」の空間を使わされる生活よりも、空間を読み取って自分で使い方を決める生活のほうが魅力的ではないか。だとすれば、多様な読み取りが可能になる住居はどうあるべきか。長坂さんは、自身の作品でそういうことに取り組んでいるという。
授産施設の腰壁が多様に使われたり、階段の手すりに洗濯物が干されたりする。設計者が意図したことであれ意図しなかったことであれ、使い手が空間を読み取ってその場所を使いこなしている風景はほほえましい。長坂さんがデザインする空間には、そうした風景が多く登場する。しかし、本人は使われ方の多様度をデザインしようとは思っていないようだ。自分自身が持つ美学に基づいて「美しい」と思えるカタチを作り出すことが、それを読み取る人に多様な利用方法を想起させる。長坂さんはそう考えていると言う。
「多様な利用を生み出すためのデザイン」というのは、きっと多様な利用を生み出さないだろう。一方、「利用方法を明示しすぎるデザイン」というのも多様な利用には繋がらない。強いキャラクターを持つ空間ではあるものの、それが利用を規定するような種類ではない場合に限って多様な利用が発生する。どうやって使うのか分からないけれど美しいと思える空間や面白いと思える空間。そんな空間に多様な利用が発生するのだろう。
これは機能主義批判ではない。多様な利用が発生する空間が機能するためには、その周囲には機能的な空間が配されている必要がある。トイレや風呂や寝室が確保されているからこそ、リビングルームの多様度が担保されるのである。住宅や商業や学校が整備されているからこそ、公園や広場に多様な利用が発生するのである。
長坂さんは言う。建築というのは、人間のための空間を作りつくす職能である。柱、梁、屋根、窓、扉、サッシや空調設備。建築家は、人間が快適に暮らすことのできる空間を細かく設計する。これさえできれば、庭や公園や道路や河川といった人間のための空間も設計できるだろう。だから、土木でもランドスケープでもなく、まずは建築の設計をやりたいと思ったのだ、と長坂さんは言う。実際、建築家として公園の設計を提案している。
長坂さんが提案した水戸市の公園は、細長い堀跡を「緑のダム」と呼ばれるマウンドでいくつかの空間に区切って、各空間に屋外彫刻を置くという「屋外彫刻美術館」である。なぜ公園を「公園」としてそのまま提案できなかったのか、と尋ねてみた。長坂さんの回答は「コンペの審査員に美術関係者が多かったから」というものだった。それももちろん理由のひとつだろう。しかしそれだけではないだろう。建築家として、プログラムの見えない空間をデザインすることができなかったというのも理由のひとつなのではないだろうか。
堀跡の細長い空間を「緑のダム」で区切っただけの空間。各空間の植生や地形を少しずつ変化させるだけで、建築家はその場所を「デザインした」と言い切れるだろうか。ランドスケープデザイナーはそれをやる。そこがどう使われるのかは規定しない。屋外彫刻も置かない。細長い空間の周辺には機能が確定した都市が広がっている。その「機能空間」が細長い「無機能空間」を機能させてくれるポテンシャルを持っている。そう考えれば、細長い堀跡に最低限の操作を加えるだけで十分だと考えられるだろう。
建築家は人間のための空間を作りこむ職能である。このことに異論は無い。しかし、だからこそ「至れり尽くせり」の空間を作ってしまう危険性を孕んでいる職能なのである。住宅の細部では「至れり尽くせり」を解消することができたとしても、都市的スケールで敷地を俯瞰しながら「敷地全体を無機能にする」という決断ができるかどうか。住宅のリビングルームに多様な利用を生み出すことのできる長坂さんが、公園の利用に屋外彫刻の鑑賞しか想起できなかったことは、その典型だと言えよう。ここに、「建築がデザインできれば公園もデザインできる」という考え方に潜む落とし穴が見え隠れしているのである。
長坂大さん
山崎
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