夕方から、コーディネーターとしてarchiforumに出席する。ゲストは遠藤秀平さん。
遠藤さんがつくる建築は奇抜なカタチが特徴的である。そして、奇抜なカタチをユーザーがどう使いこなすかという点がよく考えられている。しかし、そのことはあまり多くの人に知られていない。そのため、カタチの奇抜さだけを問題にされることが多いようだ。今日のディスカッションでも、遠藤さんはカタチの奇抜さについてほとんど触れないように話を進めていた。奇抜なカタチが可能にする利用の多様性について議論しようとしても、慎重にカタチの話を避けて話を進めているように感じられた。
たぶん、遠藤さんはこれまでカタチについてかなり多くの議論を交わしてきたのだろう。あれだけ個性的なカタチである。いろいろな場所で議論のネタになったはずだ。その経験から、不用意な「カタチ議論」からは距離をとる習慣が出来上がっているのだろう。そう考えてしまうほどに、遠藤さんはカタチの話に寄り付かなかったのである。
「わからないことの位置づけをもう一度考えなければならない」と遠藤さんは言う。「ある種の正当性や妥当性、そういうわかりやすさの要求が防衛本能を優先させる状態を生み出している」というのだ。ランドスケープデザインにも同じことが言える。無駄の利をどう説くのか。機能がないことが全体にどう機能するのか。遠藤さんの考え方、そして出来上がる建築のカタチには、無駄や不可解や無機能といった空間的特長が多く見られる。それが大切だと遠藤さんは言うし、僕もそう思うのである。
帯状の連続した空間に、閉鎖した部分と開放した部分があって、利用者が場所を選んで使うことができる建築。遠藤さんの建築は、そんな建築だと思う。つまりそれは選択的に利用できる建築であり、家族構成や利用者層の変化に対応できる建築である。
遠藤さんとのディスカッションで面白かったのは以下の点。
・パブリックスペースを設計する際、個人をどう介入させるかが難しい。
・建築は場所によって変わるが、土木は場所性を消していく。景観法を作っても、土木構造物をつくるシステムが変わらなければ景観は全国一律にならざるを得ない。
・公園を住宅のように作れないか。プライベートな空間構成を有するパブリックスペース。住宅のような居心地で公園を使うこと。30年後、その場所に公園が要らないということになった場合、ガラスをはめ込めば住宅になるような公園。
・逆に、ガラスを取り外せば公園になるような住宅は設計できないか。人口減少時代に対応した住宅のあり方とは。
・扉や窓や階段など、建築のスケールを屋外へ持ち出すことによって、人々が「使いこなす外部空間」を作り出すことはできないだろうか。
・人々の関与のきっかけを与える建築をつくりたい。人々が環境に関与し始めるきっかけとなる空間とはどんなものか。
マゾヒスティックランドスケープとしても、郊外の安楽死プロジェクトとしても、興味深いディスカッションだった。
遠藤秀平さん
山崎
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