昼から国立民俗学博物館の「ブリコラージュ・アート・ナウ」展を見に行く。以前見た「ソウルスタイル」展が衝撃的だったので、同じく佐藤浩司さんが企画した今回の展覧会を見に行くことにしたのである。正直に言えば、僕は佐藤さんの企画展を見る以外にみんぱくへ行こうと思ったことがない。佐藤さんの企画展以外に興味を惹かれるみんぱくの企画展に出会ったことがないのである。
ブリコラージュ展も前回のソウルスタイル展と同じく「これはまずいんじゃないだろうか」と思える仕掛けがいっぱいだった。大切な収蔵品が惜しげもなくブリコラージュアートとして利用されている。収蔵品が持つ文脈を無視したかのような取り扱いが、逆にその収蔵品に新しい魅力を与えている。そう感じた。
博物館に勤める人なら誰もが一度はやってみたいと思う企画かもしれない。偉い先生がアフリカの奥地で見つけた仮面に、子どもの体をひっつけてヘヴィメタを演奏させること。アジアの偏狭で見つけてきた像に、吹田市のリサイクルショップで買ってきた釣具と魚のおもちゃを組み合わせて「釣り人」にすること。苦労して収集した先生たちが見たら激怒するような収蔵品の扱いである。
しかし、釣具と組み合わされることによって初めて、僕はその仏像の穏やかな顔をじっくりと眺めたくなったのである。魚が釣り糸にかかるのをじっと待つその表情。背筋を伸ばして座禅しながら釣具を構える無駄のない構え。他の多くの仏像と共に「アジアの仏像」として展示されるよりもずっと親しみが湧く展示だといえよう。
パンフレットには次のように書かれている。「目的に合わせて材料や道具をそろえる近代科学的なアプローチに対して、ブリコラージュはありあわせの素材を利用して何かを成し遂げようとします。カレーライスをつくろうとして材料を買い揃えるのではなく、冷蔵庫のなかのありあわせの材料でつくるお惣菜のようなもの、といえばわかりやすいでしょうか。」
僕らの身の回りにあるものは、ほとんどが単一の目的のための作られたものだ。その目的を一度無視してみると、その他の使い方が思い浮かぶだろう。そんな風に生活を見直してみると、僕らの生き方はずっと楽しいものになる可能性を秘めていることに気づく。
「ビールの缶はビールを容れるためにあるのです。だから、中身のビールがなくなれば、空き缶は用済みになって捨てられてしまいます。ところが、ブリコラージュの仕事人は、空き缶から帽子やカバンや子どもの玩具を作り上げます。私たちは意表をつかれ、そこにビールの缶の可能性と作り手の想像力とを垣間見るのです。」
道路を道路として捉えるのではなく、単に細長い空間が繋がっていると考えてみると、道路空間の用途外利用をたくさん考えることができる。河川や港湾についても同じだ。「こう使うべき」と考えるのではなく「こうも使える」という発想で都市を見るとき、都市はまだまだ楽しめる場所だということに気づく。
道路際に設置された「パーキングメーター」に600円入れることによって、その前面の道路空間で60分間バーベキューをしてみよう。パーキングメーターの利用対象が車両等に限られるのであれば、キャスターを取り付けたボードの上に七輪を置いて焼肉をしてみよう。都市を使いこなす人が増えると、僕らの街はもっとワクワクする場所になると思う。
パンフレットの最後にこんな文章が載っている。「展示の背景にはひとつの社会イメージがあります。それは、社会の理想にあわせて個人が無理をしなければならなかったり、リストラをしたりするのではなく、生きる目的を持った個人の、あるがままの個性の集合を前提にした社会。つまり、ブリコラージュな社会への夢です。」
山崎
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