2009年8月8日土曜日

そらぷちとデザイン会議

 朝から北海道滝川市の丸加高原で行われているそらぷちキッズキャンプを視察する。難病を抱えたこどもが屋外で思う存分遊ぶ時間をデザインするキャンプとして、滝川市にて開催されている。5年ほど前、このプロジェクトを立ち上げる際に企画をお手伝いさせてもらったことがある。その後の進捗を知らなかったのだが、一時期に比べるとかなり前進しているように感じた。以前の職場で一緒に働いていた佐々木健一郎氏が事務局長代理として常勤スタッフとなっている。佐々木氏はstudio-Lのメンバーとして大阪府堺市でのフィールドワークにも参加していた同志である。また、前の職場の恩師である東京農業大学教授の浅野房世氏にも久しぶりに会うことができた。僕の近況を報告するとともに、浅野さんが最近考えていることなどをいろいろ伺った。日本公園緑地協会の唐澤さんとも久しぶりに再会することができた。さらに、企画時に国土交通省の審議官だった松本守氏にも久しぶりに挨拶することができた。松本さんは現在、フジテレビの総務局長になっている。そらぷちは、すでに専用棟が2棟建設中で、近いうちにさらなる棟が建つ予定だという。正しいことをやろうとしているプロジェクトだけに、ぜひとも成功させて欲しい。

 昼食は、佐々木氏に紹介してもらった「ママーズキッチン」にてスープカレーを食べる。農園で栽培された野菜をそのまま使ったスープカレーは秀逸である。

 午後からは、滝川市の中心市街地にある太郎吉蔵で開催されている「太郎吉蔵デザイン会議」に参加する。最近仲良くさせてもらっている空想生活の西山浩平さんに誘ってもらったのがきっかけで参加した会議である。会場では、下田のまちづくりでお会いした新堀学さん、銀座で行われたライブラウンドアバウトジャーナルでお会いした倉方俊輔さん、『マゾヒスティックランドスケープ』という書籍の企画で鼎談させてもらった原研哉さんにお会いする。東京や大阪で会うとそれぞれお忙しい方たちだから、ゆっくり話をする機会がないのだが、北海道の滝川で会えばやることはほかにないのでじっくりと話をすることができるのが嬉しい。

 会議のテーマは「デザイナーの新しい役割」。とても冴えたテーマ設定である。特に若い世代のデザイナーは、自分たちがこれまでと同じような「カタチのデザイン」を続けてもあまり意味が無いのではないか、と考えているように思う。そういう人たちに対して新しい役割を見つけ出すこと(発明すること)がとても重要になるだろうと思っている。ただし、会議は必ずしもこのテーマに沿って議論が進んだわけではなかった。

共感した発言には以下のようなものがあった。

・1950年から60年代は、新しいものをつくることで生活を豊かにすることが至上命題だった。そのとき、デザインというのはまさにモノをつくるための有効な方法だった。しかし、現在はすでにモノが飽和している。それなのに、まだデザイナーはモノをつくるだけの職能として捉えられている。そろそろ新しい役割を担うべきではないだろうか(西山浩平さん)。

・デザイナーは新しいビジョンを掲げる必要がある。ビジョンがないデザインが多すぎるのではないか(梅原真さん:デザイナー)。

・アメリカで生活していると「デザイン」という言葉を眼にすることはほとんどない。あるとすれば、銀行などで「あなたの退職後の生活をデザインしましょう」とか「あなたの資産運用をデザインしましょう」というときくらいである。つまり、デザインの対象はすでにモノだけに収まりきらない状態になっている。日本でいうところの「デザイン」はモノの形の話だけに収まっているが、これはアメリカでいうところの「ビジュアルデザイン」の範疇でしかない。日本のデザインも、政治のデザインやシステムのデザインなど、新しい分野に関わる必要があるのではないか(伊藤隆介さん:映像作家)。

・新しいものとともにいることを良しとして、古いものとともにいることを恐怖としたのがこれまでのデザインだった(原研哉さん:グラフィックデザイナー)。

・日本にはデザイナーが多すぎるのではないか。ほとんどの大学にデザイン学科があるというのはおかしな話だ。海外ではそれほど多くのデザイン学科はない。それほど多くのデザイン学生が卒業する国は日本だけである(五十嵐威暢さん:アーティスト)。

・グローバルな社会には外国語が重要になるといわれているが、本来は母国語を鍛えるべきである。母国語で自分がやっていることをしっかり説明できることが重要。それを海外に伝えたいのであれば、通訳をうまく使って相手にそれを伝える技術を手に入れておくことが重要(原研哉さん)。

・今後はいまほどデザイナーは必要なくなるだろう。札幌の若いクリエイターは東京に呼ばれても行きたがらない。行かなくてもWEBを通じてデータ入稿したり仕事を進めたりすることができるからだろう。それよりも自分の友達や彼女を大切にしたいと思っているようだ。これはグローバルを意識してローカルで活動するという考え方ではなく、ローカルなまま活動しても大丈夫だという感覚に近い。ローカルのためにローカルなまま活動していても、必要であればグローバルとつながれるという安心感なのかもしれない(伊藤隆介さん)。

・移動が必要な人は複数の言語を駆使してユビキタスな環境を求めることになるだろう。移動が必要ではない人は、自宅でネットに接続すれば世界中の仕事をすることができるようになるだろう。そういう人はプロトコルとしての外国語さえ知っていればいい、という状況になっている(西山浩平さん)。

・これまで一部の人にしかできなかったデザインという行為が、学生や高齢者でもできるようになってきているし、単価の安い海外の人でもできるようになってきている。となると、これまでデザインと呼ばれていた行為(ビジュアルデザイン)はみんなができることになっていき、これからデザインと呼ばれるものはどういうことをする職能になるのか、というのが見えなくなっている。これからのデザインは何を対象に、どんなことをすることになるのだろうか(西山浩平さん)。

・これまでデザインと呼ばれていたものが誰にでもできるようになって均質化していくというよりは、均質化すべきものが均質化し、特化すべきものが特化していくという時代になるということではないだろうか(原研哉さん)。


 共感した発言をいくつか見つけることができたのは収穫だったが、会議の議論全体としてはどうも不完全燃焼だったという印象を持った。事後の懇親会でいろんな人としゃべってみたのだが、ほとんど印象は一致していた。議論の展開が、誰かが言ったことの重箱の隅をつつくようなものになってしまっていたような気がする。原さんが電気自動車の例を出せば、その後の議論が電気自動車をめぐる議論になってしまう。日本の美意識という話を出せば、その後の議論は日本の美意識だけを議論することになってしまう。これでは「デザイナーの新しい役割」にはぜんぜん近づけない。発言者が具体的な事例を挙げて伝えたかったことの本質について議論できないのはなぜなのか。そのことを考える必要がある。

2 件のコメント:

  1. コメントが遅くなり申し訳ございません。

    会議では、なかなか核心にたどりつけない部分がとても残念でした。やはり、この前お話していた様に会議では多少総括的なものがあっても良かったのではないかと思います。
    ただ、このもやもやした感じが、今回の議論や次回の議論に対して、深く掘り下げることが出来る事になるのではないでしょうか。

    あと、今一度デザインと言うこともきちんと定義するべきだと思います。デザインを定義した上で、各人がデザインに対する自分の立ち位置を話していただけるととても参考になったと思います。

    どうしても<
    デザインという言葉は、共通の認識があっても個人で認識のずれがあり、とても変化しやすい言葉だと思います。
    だからこそパネリストのデザインとの距離感(立ち位置)を伝えていただけることで、それはとても参考になるのではないかと思います。

    マツバ 

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  2. マツバさん、コメントありがとうございました!確かにデザインという言葉が持つ意味はますます広がっていますね。システムデザインやコミュニティデザインやソーシャルデザインという使われ方もしています。プロダクトデザインやグラフィックデザイン、建築デザインやランドスケープデザインなどからソーシャルデザインまでを包括するようなデザインの定義とは一体何なのか。それがディスカッションで共有されたら、そこからそれぞれがどれくらいの距離に立って話をしているのかがわかってくるのかもしれませんね。

    ではでは!

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