2004年11月28日日曜日

「価値の相対化」

京都建築フォーラムで井上章一さんの話を聞く。

井上さんはゆっくりと正確にしゃべる人だった。ニコニコ笑いながら講演する。昨日の隈さんも物腰の柔らかい人だと思ったが、井上さんはさらに柔らかい。威圧感のないさわやかさが会場に漂っていた。

「愛の空間」を読んで以来、僕は井上さんの考え方に興味を持っている。この日の講演タイトルは「スケベ建築」。井上さんは講演タイトルの「ひどさ」を謝りながら話を始めた。

講演の主題は「建築表現が持つ力」について。井上さんは、建築の表現が人々を魅了するだけの力を持ち得るのか、ということを疑う。この点については僕も懐疑的で、建築を見て涙を流したと言う人の話はどうしても素直に聞くことができない。

井上さんは、ブルーノ・タウトというドイツの建築家が日本の桂離宮を絶賛したことを例にとって「建築が持つ力」を相対化する。ブルーノ・タウトが愛人であるエリカさんと日本へ訪れたのは1933年のこと。その際、訪問した桂離宮を褒めちぎったという。桂離宮は世界的な建築家タウトをして絶賛させるほどの建築である、というのが通説のようだが、果たして本当にそうなのだろうか。

井上さんは、タウトが日本へ来た経路に着目する。ドイツからトルコ、ソビエトへと渡り、シベリア鉄道でウラジオストックへ。さらにウラジオストックから船で敦賀へ。タウトとエリカは、極北の地を60日間も旅して京都へたどり着いた。そして、この長旅の翌日にタウトは桂離宮を見学することになる。

シベリア鉄道の旅や日本海の船旅を経てたどり着いた新天地で、愛人のエリカと2人で眺める桂離宮。旅の経緯を考えれば、そこが桂離宮でなくてもタウトは感動したのではないか、というのが井上さんの意見である。ドイツでナチスに命を狙われ、離婚裁判は泥沼化し、シベリア鉄道と船で長旅を敢行した先で出会った桂離宮。隣には愛人のエリカがいる。タウトが感動したのも無理はない。

この話は桂離宮の評価を低めるものではない。そうではなくて、建築を鑑賞する主体の心理状況、気温、気象、同伴者の有無等が、鑑賞される建築の評価に大きく影響するのではないか、ということを指摘しているのだ。さらには、建築よりも人間のほうが人に影響を与えるのではないか、ということを指摘しているのである。タウトの場合、エリカと2人だったことが桂離宮の評価に大きく影響しているのではないか。

事実、井上さんは都市や建築を調査しても、通りがかる女性に魅力を感じることのほうが多いという。

・パリを巡った後で脳裏に焼きついていることを丁寧に思い起こしてみると、建築や街並みよりも、風で偶然めくれたスカートの中に見たパリジェンヌの下着のほうが鮮明に思い出されるという。
・建築学会賞を受賞した建物を見学しても、建築の空間ではなく受付のお姉さんがきれいだったことのほうが印象に残る。
・つまり、建築は生モノ(女性)の魅力に勝つことができないのではないだろうか。

僕も同じ意見だ。建築の作品性を強調したり、建築の表現を神聖化しないほうがいいと思う。一般的には、建築に感動を求める人なんてほとんどいないのである。実際、彫刻を見る目と建築を見る目は違うのである。彫刻に感動する人はいるとしても、それが設置されている美術館という建築に感動する人は少ない。ランドスケープも同じだろう。「風景を見て涙を流す」というシチュエーションは、むしろ特殊な精神状況にある人の経験だと考えたほうが自然なのである。

人が感動するような風景を作りたい。ランドスケープデザインに携わる人なら一度は掲げる目標だろう。しかし、この目標を無批判的に輸入すべきではない。「美しい女性」と「美しい風景」のどちらに目が行くのか。そして、どちらが脳裏に焼きつくのか。建築やランドスケープにどれほどの力があるのか。それを冷静に判断しなければならない。

風景(ランドスケープ)の美しさを盲目的に信じたり、それを過大評価するようなメンタリティーに出会うと、僕はいつもげんなりしてしまう。僕らは風景の価値を一度相対化しておくべきなのである。

山崎

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