午前中は近畿大学の授業。午後から京都造形芸術大学で研究室会議。午後8時から大阪で元精神科医の永野さんと会う。永野さんは現在お寺に務めている。宗教関係の仕事に携わっているものの、本人は堅苦しいことを言わないし、宗教について細かいことも言わないので気楽に語り合える。
永野さんによれば、精神医学というのは概ね近代的な手法を用いて心の病に対処しようとする専門領域なのだと言う。問題点を分析して、それに対応した処置を講じる。その点で建築やランドスケープデザインも同じ出自である。ところが、心の病はそれだけで完治するとは限らない、と永野さんは言う。もちろん、半分は科学的な見地から治療するべきなのだが、それだけで完全とはいえない、というのだ。事実、科学的には治ってしかるべきの患者がいつまで経っても心の病に悩まされ続けることがある。そんなとき、科学的な手法よりも宗教的な手法が役立つことが多いという。悪い部分だけを治そうとする態度ではなく、その人自身の全体性を受け止める思想が必要になるのだろう。科学だけでは対処しきれない領域がそこにある。
ランドスケープデザインの世界も同じような課題を抱えているといえよう。モダニズムの思想だけでは真に人間のための空間がつくり出せないことは経験的にわかってきた。残された「何か」足りないものをどう満たすのか。庭のデザインにおいては、そこにいわゆる「宗教」を持ち込む人もいる。あるいは「地域性」を持ち込む人がいる。「生態学」を持ち込む人もいる。いや、むしろ「地域性」や「生態学」は、それを信じる人たちにとって見れば宗教的な役割を担っている「何か」なのだろう。そもそもモダニズムという発想自体、それを信じる人たちにとっては宗教的な「何か」を担わされていた「イズム」だったのかもしれない。事実、僕らはコルビュジエの名前やデザインに対して、単なるモダンを超えた「何か」を感じていることが多い。
ただ、こうした「モダニズム」の宗教を信じている人というのは、ごくわずかな人たちだけだ、ということに注意する必要がある。一般的には、コルビュジエがデザインした建築にいまさら感動する人はほとんどいない。単に「ちょっと古いけど変わった形の建築だな」という程度の感想だろう。それを「解ってないなぁ」と蔑んでもしょうがない。むしろ「解っていない」人たちのほうが主流なのである。そんな主流派に対して「モダニズム」だけで勝負しようとしても、人々が宗教的な癒しを得ることはない。僕らのような「モダニズム教」の信者は、コルビュジエがデザインした椅子に座るだけで癒されるのかもしれないが。
「残された半分」をどう満たすか。モダンを乗り越えるための重要なキーワードである。精神医学もデザインも、同じようなところで悩んでいるようだ。
山崎
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