2008年1月28日月曜日

マイナスのデザイン覚書

最近、「マイナスのデザイン」ということをよく考える。

「これまで、あまりにプラスのデザインが多すぎたんじゃないか」という問題意識が前提にある。今が「ちょうどいい」と感じている人にとっては、ここからマイナスするということは負の方向になってしまうのでよろしくないのだろうが、僕はすでに情報も物質も音も、何もかも「過剰」な気がしている。その「過剰」をマイナスすることができるデザインがあれば、社会を「ちょうどいい」に持っていくことができるんじゃないか、と考えている。

朝日ジャーナル編集部が出した「こんなものいらない事典」という本の最初に「前宣言」というものがある。そこに、以下のような文章が記されている。

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われわれは必要なものの10倍ぐらい、いらないものを抱え込んでしまった。ガラクタの山に埋もれて、必要なものを見つけ出すのも難儀である。本当のところ、何が必要なのかもよくわからなくなっているのだ。
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この文章が書かれたのは1986年。それから20年以上経っているが、その間にもまだまだいらないものが増え続けたように思う。ガラクタの山は高くなるばかり。都市空間にもいらないものがどんどん貼りついていく。ケータイにもいらない機能が付加され続ける。そろそろ誰かが、マイナスのデザインを叫んでもいいような気がする。

ちなみに、同書の「後宣言」もなかなか冴えている。

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 「すでに在るもの」を否定するには、なかなか勇気がいる。「在るもの」には、それなりの理由と、時代の背景と支持者がいるからだ。そこで「いらない」と論じるためには、反論を組み立て、時代の要請を否定し、支持者を敵に回さなければならない。
(中略)
 だが、「いらない」の精神にもけっこう美点がある。その最大のものは、やわらかい知性と鋭い感性がなくては成り立たない、ということだろう。「在るもの」を在るがままに肯定するのなら、アタマはいらない。かすかにうなずけるだけの筋肉と、単純な音のでる声帯があればいい。オモチャのロボットだって、最近はもっと上等だ。
 こう考えてくると「こんなものいらない!」は人間の行為の中でもっとも評価されるべき勇気の一つといえる。とくに今のご時世のように、「知性」なるものがどこかに逃げ失せてしまって、登場するのはテレビのコマーシャルや広告コピーの中だけ、という状況では、「いらない」の精神は貴重品そのものなのだ。
 と、まあ、エラソーに論じてみたが、ヘソ曲がりも遊びの一つとして面白いということだ。遊びに目的などない。ソントクもない。ただ、その面白さが分かるのは高い水準の知性とユーモアのセンスをもっている人、とだけ言っておこう。
(後略)
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この文章を書いたのは、当時朝日ジャーナルの編集長だった筑紫哲也さん。「こんなものいらない」というのは、確かにネガティブだし否定形だったわけですが、それを「遊びだ」と言い切ってしまう。少し逃げた感じもするが、しかしこの種の本の閉め方としてはこういう表現しか成立しないんだろうなぁ、とも思う。

が、僕はもう少しポジティブにマイナスのデザインを考えてみたい。世の中にあふれてしまった騒音を消すためのサウンドスケープデザイン。これはマイナスのデザインとして、かなりポジティブな部類だろう。もちろん、音源自体をマイナスすることも考えられるが、それだと「こんなものいらない」と同じ路線に陥ってしまう危険性がある。マイナスすることによってある価値を生み出すデザインが、飽食の日本だからこそありえるのではないか。

都市計画にちなんで言えば、木造賃貸密集市街地の建物をいくつかマイナスするだけで広場が出来上がるし、それができることによって広場の周りの土地の価格が上がることになる。カフェやたこ焼き屋が入るかもしれない。いくつかの古い木造住宅は消えるけれども、その代わり周囲の地価が上がったり環境が改善されたりする。これもマイナスのデザインの一つだろう。

これからしばらくは、そんなことを考えてみたい。

山崎

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