INAX大阪で開催されたアーキフォーラムにコーディネーターとして参加する。ゲストは槻橋修さん。
京都大学の体育会アメフト部「ギャングスターズ」に所属していた槻橋さんは、建築家としては珍しいほどの大男である。ただし、外見に反して物腰は非常に柔らかい。そのギャップが魅力的だった。
合計7年に渡る大学院時代は原広司さんの研究室に所属し、集落調査のために中近東やアフリカを20回以上旅したという。プレゼンテーションでは集落の写真をたくさん見せてくれた。
目の前の風景は常に変化している。その風景を見ている自分もまた、常に変化している。集落が作られた経緯がわかると、それまで見ていた風景は一変する。住居のカタチに宿る意味を教えてもらうと、集落の風景がまったく違ったものに見える。槻橋さんは、20回の集落調査を通じてそういう瞬間を何度も体験したと言う。
つまり風景とは、それを見る人が瞬間的に出会った空間の残像であり、同じ風景を2度見ることは無いのである。そんな意味を込めて、レクチャーのテーマを「フラッシュバック・ランドスケープ」にしたそうだ。
風景の「見方」が変わるという意味で、槻橋さんの郊外住宅地論は面白かった。現在、地方都市の郊外住宅地には虫食い状の空き地が目立っている。その数は急速に増えている。空き地はしばらくすると駐車場になり、その駐車場には多くのクルマが停められる。かつては家々が連なる街並みを形成していた街路景観も、ところどころに駐車場が差し込まれたルーズな風景へと変異している。
ルーズな風景を否定して、引き締まった街並みを維持するために住宅を増やす、というのは現実的な解答ではないだろう。むしろ「ルーズな風景をどう見るのか」という見方の問題として解くほうがうまい。さんざん議論されているコンパクトシティという都市像も、土地との結びつきの強い日本では実現されそうにない。土地の所有権をきれいに整理し、小さくて住みやすい都市を作れるなら悩みは少ないだろう。しかし日本人が持つ土地の所有感覚は、必ずや土地の流動化に歯止めをかける。つまり、地方都市のいたるところで今後数年間のあいだに虫食い状の駐車場が発生するのである。そのことを否定しても始まらない。むしろ、そんなルーズな風景の「見方」を変えるようなプロジェクトを立ち上げようじゃないか、というのが槻橋さんの考え方である。
駐車場が増えているのなら、その駐車場をデザインしてしまえばいい。ただし、駐車場本体にデザインを施すのではない。駐車場に停まるクルマの色を揃えることで風景を作ろう、というのが槻橋さんのプロジェクト「パークレット」である。
クルマの種類と外装の色によって麻雀の役にあたるルールを作り、近くに停まっている車と協働することによって駐車料金の割引を受ける。そんなルールを市内全域の駐車場に適用することができれば、駐車場に緩やかなコミュニケーションが発生することになるのではないか。また、クルマの色が揃い始めると、従来の雑多な駐車場というイメージが払拭され、駐車場に対する人々の見方が変わることになるのではないか。駐車場が「自分も関われる場所」へと変化し、そこに停まる車の色も一定のまとまりを作り出す。
槻橋さんの提案は、虫食い状の都市を使いこなすための方法だといえるだろう。程度の差こそあれ、今後10年で僕らはルーズな風景に取り囲まれることになる。虫食い状に点在する駐車場や空き地や空き家や農地。そんな風景の見方を変えるような提案が求められる時代になるはずだ。
控え室で初めて挨拶した時に感じた槻橋さんの第一印象は、会場でのディスカッションや2次会/3次会での世間話を通じて目まぐるしく変化した。アメフト部だったこと、集落調査の用心棒役だったこと、施工会社に叱られながら現場を監理していること、奥さんが事務所の所長だということ、実は仙台からお土産を持ってきていたこと。印象が瞬間的に変化する。槻橋さんは、自身に対する「見方」を変化させるような話題を豊富に持っている人だということを実感した。
槻橋修さん
山崎
2005年2月26日土曜日
2005年2月23日水曜日
「スイミーな建築」
塚本さんの「小さな家の気づき」を読む。
この本を読むと、塚本さんが建築物を単体で捉えることなく、常に都市との関係性のなかで捉えようとしていることが良くわかる。
例えば塚本さんは、建築が出現するときのことをこう表現する。建築はその出現にあたってたくさんの情報を引き寄せている。その情報は、周辺環境から取り出されたものだけではない。社会的、文化的、技術的環境といった、さまざまな側面から引き寄せられた情報である。いったん建築が出現すると、こうして引き寄せた情報が再び環境へと送り返されることになる。
だとすれば、風景を注意深く観察することによって、一つ一つの建築が環境をどう定義してきたのか読み取ることができるはずだ。塚本さんは言う。「ランドスケープ的なモノの見方の可能性は、実態の現れ方という最終局面の中に、それぞれを形作っている複数の意図の協調や対立や矛盾といった関係を読み取ることにある」と。つまり、目の前の風景の「あり方」を観察することによって、その場所における諸々の「やり方」を想起することがランドスケープ的なモノの見方だというのである。
さらに塚本さんは、この考え方を設計に反映させる。「建物と境界条件との結びつきの検討を徹底的に、これ以上ないという次元まで推し進めれば、あとから介入したひとつの住宅のほうが、条件の取り扱いの次元で周辺の既存住宅を逆に包囲してしまうことが起こりうる」。さらに、「この包囲の及ぶ範囲が、介入されたランドスケープのとりあえずの全体ということになる。物理的には周辺環境に包囲されつつ、条件の取り扱いの次元では周辺環境を包囲している」という。
例えば、高校野球で有名な甲子園球場がある西宮市。一般的な住宅街が続くその場所に新しいマンションが建った。その名も「ドムス芦屋」。隣の芦屋市が持つ高級な街のイメージを利用したネーミングである。「反則じゃないか」と思いながらも、その場所が芦屋に近いということを認識している自分がいることに気づく。そのときから、周囲の風景が少しだけ高級感を増したように感じることになる。後から介入したひとつのマンションが、周囲のランドスケープを包囲していたのである。少々力技だが、マンションのネーミングによって風景の見方が変わることもあるだろう。
この考え方は、レオ・レオニが「スイミー」で表現した視点に近い。一般的な住宅街に建つ「ドムス芦屋」は、赤い魚の中に混じる1匹の黒い魚「スイミー」の立場に似ている。
かつてたくさんいた友達の赤い魚たちが、全員マグロに食べられてしまって、1匹だけ生き残った黒い魚「スイミー」。新しく出会った赤い魚たちの群れに向かって、後から加わったスイミーは「ぼくが目になろう!」と言う。黒いスイミーが「目」の役割を担うことによって、赤い魚の群れはマグロより大きな1匹の魚に見えるようになる。
物理的には赤い魚たちに包囲されながらも、黒いスイミーは「目」になることで全体を「巨大な魚」というランドスケープにまとめてしまう。全体はスイミーを包囲し、スイミーは全体を包囲する。レオ・レオニはこう言っている。「一匹の小さな黒い魚は指導者というわけではなく、他の人にかわってものを見ることのできる芸術家であり、それがスイミーの社会における役割なのだ」。
塚本さんの建築は、都市における「スイミー」的な役割を果たしているように思う。
その他、興味深い記述は以下のとおり。
・いろいろな人が、思い思いの向きに、思い思いの姿勢で同時にいられる。そんな光景がマイクロ・パブリック・スペースのひとつのイメージである。建物や家具はそのとき、ヒトをレイアウトするための治具(ジグ:加工するときに、特定の角度や位置に材を固定するもの)のような役割を果たす。
・「建ち方」とは、例えば「とりうるヴォリュームの形状と隣地までの距離の相関」であり、「塀や庭と建物の関係」のようなものだ。
・小さな家にすることで周辺にオープンスペースができる。南面配置とは違ってどの面も表にすることができる。周辺の流動的な土地利用がどう変わっても対応することができる。
・自分のキャリアのあるひとつの成果物として、郊外でもいいから家を買うという感覚じゃなくて、東京で生活しやすくするために、どんな小さい家でもいいから作りたいという、都市をカスタマイズするために家を作るみたいな、そんな感じだと思う。
・建築だけを取り出して思考するのではなく、できるだけその建物がまとっている現実を含めた全体を思考するべき。
山崎
この本を読むと、塚本さんが建築物を単体で捉えることなく、常に都市との関係性のなかで捉えようとしていることが良くわかる。
例えば塚本さんは、建築が出現するときのことをこう表現する。建築はその出現にあたってたくさんの情報を引き寄せている。その情報は、周辺環境から取り出されたものだけではない。社会的、文化的、技術的環境といった、さまざまな側面から引き寄せられた情報である。いったん建築が出現すると、こうして引き寄せた情報が再び環境へと送り返されることになる。
だとすれば、風景を注意深く観察することによって、一つ一つの建築が環境をどう定義してきたのか読み取ることができるはずだ。塚本さんは言う。「ランドスケープ的なモノの見方の可能性は、実態の現れ方という最終局面の中に、それぞれを形作っている複数の意図の協調や対立や矛盾といった関係を読み取ることにある」と。つまり、目の前の風景の「あり方」を観察することによって、その場所における諸々の「やり方」を想起することがランドスケープ的なモノの見方だというのである。
さらに塚本さんは、この考え方を設計に反映させる。「建物と境界条件との結びつきの検討を徹底的に、これ以上ないという次元まで推し進めれば、あとから介入したひとつの住宅のほうが、条件の取り扱いの次元で周辺の既存住宅を逆に包囲してしまうことが起こりうる」。さらに、「この包囲の及ぶ範囲が、介入されたランドスケープのとりあえずの全体ということになる。物理的には周辺環境に包囲されつつ、条件の取り扱いの次元では周辺環境を包囲している」という。
例えば、高校野球で有名な甲子園球場がある西宮市。一般的な住宅街が続くその場所に新しいマンションが建った。その名も「ドムス芦屋」。隣の芦屋市が持つ高級な街のイメージを利用したネーミングである。「反則じゃないか」と思いながらも、その場所が芦屋に近いということを認識している自分がいることに気づく。そのときから、周囲の風景が少しだけ高級感を増したように感じることになる。後から介入したひとつのマンションが、周囲のランドスケープを包囲していたのである。少々力技だが、マンションのネーミングによって風景の見方が変わることもあるだろう。
この考え方は、レオ・レオニが「スイミー」で表現した視点に近い。一般的な住宅街に建つ「ドムス芦屋」は、赤い魚の中に混じる1匹の黒い魚「スイミー」の立場に似ている。
かつてたくさんいた友達の赤い魚たちが、全員マグロに食べられてしまって、1匹だけ生き残った黒い魚「スイミー」。新しく出会った赤い魚たちの群れに向かって、後から加わったスイミーは「ぼくが目になろう!」と言う。黒いスイミーが「目」の役割を担うことによって、赤い魚の群れはマグロより大きな1匹の魚に見えるようになる。
物理的には赤い魚たちに包囲されながらも、黒いスイミーは「目」になることで全体を「巨大な魚」というランドスケープにまとめてしまう。全体はスイミーを包囲し、スイミーは全体を包囲する。レオ・レオニはこう言っている。「一匹の小さな黒い魚は指導者というわけではなく、他の人にかわってものを見ることのできる芸術家であり、それがスイミーの社会における役割なのだ」。
塚本さんの建築は、都市における「スイミー」的な役割を果たしているように思う。
その他、興味深い記述は以下のとおり。
・いろいろな人が、思い思いの向きに、思い思いの姿勢で同時にいられる。そんな光景がマイクロ・パブリック・スペースのひとつのイメージである。建物や家具はそのとき、ヒトをレイアウトするための治具(ジグ:加工するときに、特定の角度や位置に材を固定するもの)のような役割を果たす。
・「建ち方」とは、例えば「とりうるヴォリュームの形状と隣地までの距離の相関」であり、「塀や庭と建物の関係」のようなものだ。
・小さな家にすることで周辺にオープンスペースができる。南面配置とは違ってどの面も表にすることができる。周辺の流動的な土地利用がどう変わっても対応することができる。
・自分のキャリアのあるひとつの成果物として、郊外でもいいから家を買うという感覚じゃなくて、東京で生活しやすくするために、どんな小さい家でもいいから作りたいという、都市をカスタマイズするために家を作るみたいな、そんな感じだと思う。
・建築だけを取り出して思考するのではなく、できるだけその建物がまとっている現実を含めた全体を思考するべき。
山崎
2005年2月19日土曜日
「変化する/しない空間」
昼から「archireview」に出席する。テーマはカルロ・スカルパのブリオン・ヴェガ墓廟。コーディネーターは安部麻衣さんと吉儀路也さん。
ブリオン・ヴェガ墓廟に対する僕の印象は「緑が活き活きとした墓地」というもの。別段、珍しい植物や大きな樹木を用いているわけではない。しかし、空間全体として植物が自由に成長しているという印象がある。壁を這い登るツタや、まっすぐに伸びるイトスギ。一般的な公園や墓地に比べて、ブリオン・ヴェガ墓廟の植物には独特の躍動感があるように思う。
そんなブリオン・ヴェガ墓廟の分析に先立って、吉儀さんから他のスカルパ作品(ポッサーニョ陳列館、カステルヴェッキオ美術館、オリベッティのショールーム、クエリーニ・スタンパーリア財団、バルボーニ邸、ヴェローナ銀行、オットレンギー邸など)についての説明があった。
印象的だったのはポッサーニョ陳列館。この陳列館は石膏像を展示する美術館なので、展示物はすべて白い石膏でできている。スカルパは、白い展示物に対して、あえて白い壁を用意した。この「ホワイト・オン・ホワイト」によって、石膏像の陰影がかなり強調されることになる。
ポッサーニョ陳列館
とはいえ、スカルパはこの場所にホワイトキューブを作ったわけではない。展示内容が変化してもそこそこ対応できる無味乾燥なホワイトキューブ(白い箱)は、職人肌のスカルパがもっとも嫌う空間の形式だといえよう。一般的な美術館とは違って、ポッサーニョ陳列館では「展示替え」というオペレーションがほとんど想定されていない。どの石膏像も専用の台座に乗っており、その台座はひとつひとつスカルパによってデザインされている。十字架を模した展示台、宙に浮いたような片持ちの展示台、1本の細い柱で支えられた展示台。細部の形態や素材にこだわった展示台のデザインは、ひとつひとつの彫刻作品に対応してデザインされている。ガラス工場で働いていたスカルパらしい職人的な仕事だ。
スカルパのデザインを僕なりの言葉で表現するなら「すべてを決定するつもりのデザイン」ということになるだろう。夥しい数の詳細図やスケッチ。職人との共同作業。何度も重ねられる素材や色の検討。神経質なまでのディテール装飾。すべてが「スカルパの決定」によって誕生する。こうして出来上がった空間は宝石のように美しく、その美しさは永遠に変化しないことを望んでいるかのようだ。
永遠に変化しないことを目指す空間。上述のポッサーニョ陳列館は、展示替えや配置変えを許さない現状凍結型の空間である。同様に、ブリオン・ヴェガ墓廟もコンクリートの壁に囲まれた「永遠の庭」である。コンクリートの壁に刻まれた襞や穿たれた穴は、無限に変化する壁の形態をある時点で永久に凍結したように見える。それはまさしく、無限に続くスカルパの形態操作を、ある時点で凍結した結果として建ち現れる壁なのである。
連続するスカルパの思考をある時点で凍結した結果としてのブリオン・ヴェガ墓廟。気取った言い方をすれば、この墓廟はスカルパの思考の一断面を体現した空間なのである。実際、「瞑想の湖」をボートで回る計画などがあったものの、それらが実現することはなかった。スカルパが死んだのである。1978年、来日していたスカルパは階段から転倒してこの世を去った。その瞬間に凍結されたスカルパの思考は、現在のブリオン・ヴェガ墓廟として永遠を志向し始めることになる。
コンクリートやタイルや金属。永遠に変化しないことを望むブリオン・ヴェガ墓廟において、刻々と変化するものがある。植物である。スカルパが植えたイトスギは大きく育ち、芝生にはマーガレットやシロツメクサが混ざり、壁にはツタが絡みつく。変化しないものの上に変化し続けるものが重なる。「グリーン・オン・グレー」。ブリオン・ヴェガ墓廟の緑が活き活きとしているように見えるのは、永遠を志向するスカルパの建築が細部に至るまで「変化しない」からだろう。
「変化するもの」と「変化しないもの」の拮抗。ブリオン・ヴェガ墓廟は、きっと美しい廃墟になるだろう。石の文化が持つ廃墟の美学を兼ね備えた「永遠の墓地」になるはずだ。
ブリオン・ヴェガ墓廟のエントランス
墓廟外壁のコーナー部分
山崎
ブリオン・ヴェガ墓廟に対する僕の印象は「緑が活き活きとした墓地」というもの。別段、珍しい植物や大きな樹木を用いているわけではない。しかし、空間全体として植物が自由に成長しているという印象がある。壁を這い登るツタや、まっすぐに伸びるイトスギ。一般的な公園や墓地に比べて、ブリオン・ヴェガ墓廟の植物には独特の躍動感があるように思う。
そんなブリオン・ヴェガ墓廟の分析に先立って、吉儀さんから他のスカルパ作品(ポッサーニョ陳列館、カステルヴェッキオ美術館、オリベッティのショールーム、クエリーニ・スタンパーリア財団、バルボーニ邸、ヴェローナ銀行、オットレンギー邸など)についての説明があった。
印象的だったのはポッサーニョ陳列館。この陳列館は石膏像を展示する美術館なので、展示物はすべて白い石膏でできている。スカルパは、白い展示物に対して、あえて白い壁を用意した。この「ホワイト・オン・ホワイト」によって、石膏像の陰影がかなり強調されることになる。
ポッサーニョ陳列館
とはいえ、スカルパはこの場所にホワイトキューブを作ったわけではない。展示内容が変化してもそこそこ対応できる無味乾燥なホワイトキューブ(白い箱)は、職人肌のスカルパがもっとも嫌う空間の形式だといえよう。一般的な美術館とは違って、ポッサーニョ陳列館では「展示替え」というオペレーションがほとんど想定されていない。どの石膏像も専用の台座に乗っており、その台座はひとつひとつスカルパによってデザインされている。十字架を模した展示台、宙に浮いたような片持ちの展示台、1本の細い柱で支えられた展示台。細部の形態や素材にこだわった展示台のデザインは、ひとつひとつの彫刻作品に対応してデザインされている。ガラス工場で働いていたスカルパらしい職人的な仕事だ。
スカルパのデザインを僕なりの言葉で表現するなら「すべてを決定するつもりのデザイン」ということになるだろう。夥しい数の詳細図やスケッチ。職人との共同作業。何度も重ねられる素材や色の検討。神経質なまでのディテール装飾。すべてが「スカルパの決定」によって誕生する。こうして出来上がった空間は宝石のように美しく、その美しさは永遠に変化しないことを望んでいるかのようだ。
永遠に変化しないことを目指す空間。上述のポッサーニョ陳列館は、展示替えや配置変えを許さない現状凍結型の空間である。同様に、ブリオン・ヴェガ墓廟もコンクリートの壁に囲まれた「永遠の庭」である。コンクリートの壁に刻まれた襞や穿たれた穴は、無限に変化する壁の形態をある時点で永久に凍結したように見える。それはまさしく、無限に続くスカルパの形態操作を、ある時点で凍結した結果として建ち現れる壁なのである。
連続するスカルパの思考をある時点で凍結した結果としてのブリオン・ヴェガ墓廟。気取った言い方をすれば、この墓廟はスカルパの思考の一断面を体現した空間なのである。実際、「瞑想の湖」をボートで回る計画などがあったものの、それらが実現することはなかった。スカルパが死んだのである。1978年、来日していたスカルパは階段から転倒してこの世を去った。その瞬間に凍結されたスカルパの思考は、現在のブリオン・ヴェガ墓廟として永遠を志向し始めることになる。
コンクリートやタイルや金属。永遠に変化しないことを望むブリオン・ヴェガ墓廟において、刻々と変化するものがある。植物である。スカルパが植えたイトスギは大きく育ち、芝生にはマーガレットやシロツメクサが混ざり、壁にはツタが絡みつく。変化しないものの上に変化し続けるものが重なる。「グリーン・オン・グレー」。ブリオン・ヴェガ墓廟の緑が活き活きとしているように見えるのは、永遠を志向するスカルパの建築が細部に至るまで「変化しない」からだろう。
「変化するもの」と「変化しないもの」の拮抗。ブリオン・ヴェガ墓廟は、きっと美しい廃墟になるだろう。石の文化が持つ廃墟の美学を兼ね備えた「永遠の墓地」になるはずだ。
ブリオン・ヴェガ墓廟のエントランス
墓廟外壁のコーナー部分
山崎
2005年2月18日金曜日
「僕らの公園」
夕方から、扇町インキュベーションプラザで講座を担当する。講座のタイトルは「近くの空き地に自分たちの公園を作ろう」。
公園を行政が整備して、その公園をまた行政が管理する。当たり前だと思われているこの方法だと、公園面積が増えれば増えるほど管理のためのお金が膨れ上がることになる。労働人口が増えて税収も順調に上がっていた時代なら、この方法も成り立っていたのかもしれない。しかし、これからの時代は少し勝手が違ってくるはずだ。労働人口は間違いなく減少する。税収が低い水準に移行することはほぼ確実である。となれば、これ以上公園の面積を増やして、管理費用を増大させるわけにはいかないだろう。
それでも公園が必要なら、僕らは自分たちで公園を作って管理していくほかない。その公園は、いわゆる官が設置する公園でなくてもいいだろう。公園っぽい空間だと感じられるような「みなし公園」でもいい。民設の公園もあり得るだろう。
そこで、今回の講座では参加者に自分たちが作りたいと思う公園のイメージについて話し合ってもらった。いろいろなアイデアが出たが、最終的には3つくらいのイメージに集約された。
■グリーンフラット
美術品を展示するために、できるだけ空間の装飾を減らした美術館の展示室。「ホワイトキューブ」と揶揄される無個性さを、今一度ポジティブに捉えなおして公園へと展開できないものだろうか。ホワイトキューブならぬグリーンフラット。できるだけ要素を減らした公園に、その場所を使いこなすためのキットの貸出しシステムを重ね合わせる。芝生やボードデッキなど、ごくシンプルな床の整備に留めた公園へ、椅子や枕やパラソルを貸し出すシステムを差し込む。貸し出すキットの種類によって、公園の風景はダイナミックに変化することになる。物品賃貸料の一部を公園管理費に充てることもできるだろう。
■情報発信公園
多くの人がインターネットを介して情報を得る時代。多くの情報を受発信できる反面、生身の身体にとって「手ごたえのある」情報は徐々に少なくなっているように感じる。例えば電線の地中化に伴う電信柱の撤去。さまざまな情報が無断で貼り付けられていた電柱が、街から少しずつ消えていく。手書き、印刷、走り書き、ワープロ書き、風雨にさらされた古さ、色紙、ガムテープ、その貼紙を読む人の風貌など。電柱の貼紙から得られる「手ごたえ」によって、僕らは情報の新しさや古さ、信憑性、緊急度、書き手の素性などを想像したものである。そんな「手ごたえ」を持つメディアとしての貼紙と、貼紙を支える電柱が街から消えている。そこで、地中化に伴って撤去された電柱を一ヶ所に集めて「電柱公園」を作る。グリッド状に並んだ電柱は、貼紙のテーマごとに色分けされる。同じ電柱に集まる人の間に新たな出会いがあるかもしれない。
■公園へのコンバージョン
都心型再開発が盛んなせいで、古いオフィスビルに空き室が増えていることは周知のとおり。オフィスビルを住宅や学校に用途変更するコンバージョンがじわじわと注目を集めつつある。この際、オフィスビルを公園にコンバージョンしてはどうだろうか。空き室を何部屋かつないで公園を作る。誰でも何時間でも過ごすことができる空間。片隅に残した部屋をカフェとして活用することもできる。林立する柱と窓からの木漏れ日に包まれて、ゆっくりとした時間を過ごすことができるオフィスビル内の公園。
公園へのコンバージョンに似た事例が、すでに東京で話題になっている。銀行の金庫室を農園へコンバージョンしたという事例。こんな事例を見ていると、僕らが考えていたこともあながち夢物語ではないと感じる。
2005年2月11日 Chunichi Web Press
地下金庫が農園に:大手町に1000平方メートル
山崎
公園を行政が整備して、その公園をまた行政が管理する。当たり前だと思われているこの方法だと、公園面積が増えれば増えるほど管理のためのお金が膨れ上がることになる。労働人口が増えて税収も順調に上がっていた時代なら、この方法も成り立っていたのかもしれない。しかし、これからの時代は少し勝手が違ってくるはずだ。労働人口は間違いなく減少する。税収が低い水準に移行することはほぼ確実である。となれば、これ以上公園の面積を増やして、管理費用を増大させるわけにはいかないだろう。
それでも公園が必要なら、僕らは自分たちで公園を作って管理していくほかない。その公園は、いわゆる官が設置する公園でなくてもいいだろう。公園っぽい空間だと感じられるような「みなし公園」でもいい。民設の公園もあり得るだろう。
そこで、今回の講座では参加者に自分たちが作りたいと思う公園のイメージについて話し合ってもらった。いろいろなアイデアが出たが、最終的には3つくらいのイメージに集約された。
■グリーンフラット
美術品を展示するために、できるだけ空間の装飾を減らした美術館の展示室。「ホワイトキューブ」と揶揄される無個性さを、今一度ポジティブに捉えなおして公園へと展開できないものだろうか。ホワイトキューブならぬグリーンフラット。できるだけ要素を減らした公園に、その場所を使いこなすためのキットの貸出しシステムを重ね合わせる。芝生やボードデッキなど、ごくシンプルな床の整備に留めた公園へ、椅子や枕やパラソルを貸し出すシステムを差し込む。貸し出すキットの種類によって、公園の風景はダイナミックに変化することになる。物品賃貸料の一部を公園管理費に充てることもできるだろう。
■情報発信公園
多くの人がインターネットを介して情報を得る時代。多くの情報を受発信できる反面、生身の身体にとって「手ごたえのある」情報は徐々に少なくなっているように感じる。例えば電線の地中化に伴う電信柱の撤去。さまざまな情報が無断で貼り付けられていた電柱が、街から少しずつ消えていく。手書き、印刷、走り書き、ワープロ書き、風雨にさらされた古さ、色紙、ガムテープ、その貼紙を読む人の風貌など。電柱の貼紙から得られる「手ごたえ」によって、僕らは情報の新しさや古さ、信憑性、緊急度、書き手の素性などを想像したものである。そんな「手ごたえ」を持つメディアとしての貼紙と、貼紙を支える電柱が街から消えている。そこで、地中化に伴って撤去された電柱を一ヶ所に集めて「電柱公園」を作る。グリッド状に並んだ電柱は、貼紙のテーマごとに色分けされる。同じ電柱に集まる人の間に新たな出会いがあるかもしれない。
■公園へのコンバージョン
都心型再開発が盛んなせいで、古いオフィスビルに空き室が増えていることは周知のとおり。オフィスビルを住宅や学校に用途変更するコンバージョンがじわじわと注目を集めつつある。この際、オフィスビルを公園にコンバージョンしてはどうだろうか。空き室を何部屋かつないで公園を作る。誰でも何時間でも過ごすことができる空間。片隅に残した部屋をカフェとして活用することもできる。林立する柱と窓からの木漏れ日に包まれて、ゆっくりとした時間を過ごすことができるオフィスビル内の公園。
公園へのコンバージョンに似た事例が、すでに東京で話題になっている。銀行の金庫室を農園へコンバージョンしたという事例。こんな事例を見ていると、僕らが考えていたこともあながち夢物語ではないと感じる。
2005年2月11日 Chunichi Web Press
地下金庫が農園に:大手町に1000平方メートル
山崎
2005年2月13日日曜日
「純粋な贈与」
兵庫県姫路市の南。瀬戸内海に浮かぶ家島へ写真を撮影しに行く。家島町の振興計画策定に関わった経緯で、振興計画書の表紙写真や内部のトビラ写真などの撮影を依頼されたのである。
今日の家島町は曇り空だった。時折、雲間から光が射すのを狙って、海や山や街を撮影した。島内を歩き回り、面白いと思ったものや美しいと思ったものを撮り続けた。
撮影の途中で、一人の男性に声をかけられた。その男性は、1年前に開催された家島町のシンポジウムを聞きに来てくれた人だった。パネリストとして出席していた僕のことを覚えていたので声を掛けてくれたそうだ。ありがたい話である。
「そのときの話が面白かったので。」という言葉とともに、その人は自家製の海苔を僕にくれた。今の季節、家島町では海苔づくりが盛んなのだという。その人がくれた海苔もできたてなのだそうで、火で炙ってから食べるように言われた。
不思議な気分になった。その人はなぜ今、僕に海苔をくれるのだろうか。たまたま自家製の海苔を持っていたことがそのきっかけだろう。1年前のシンポジウムの内容が面白かったというのもきっかけだろう。しかし、だからといって僕に海苔を渡す必要はないはずだ。あるいはその人は、僕に海苔を渡すことで何か他の見返りを期待しているのだろうか。いや、その可能性は低いだろう。次に会うのがいつになるのかも分からないような僕に、交換的な意味でモノを贈与するとは考えられない。
この海苔の贈与は、モースの言うところの平和のための贈与なのか。またはレヴィ=ストロースの言うところのコミュニケーション的贈与なのか。それともボードリヤールの言うところの象徴的な贈与なのか。あるいはバタイユの言うところの純粋な贈与なのか。
「1年前のシンポジウムであなたがしゃべったことは面白かったから、昨日私が家で作った海苔を差し上げましょう」。そんなことが当たり前に行われる家島が、僕にとってますます興味深い島になった1日だった。
家島の海
漁業用のウキ
山崎
今日の家島町は曇り空だった。時折、雲間から光が射すのを狙って、海や山や街を撮影した。島内を歩き回り、面白いと思ったものや美しいと思ったものを撮り続けた。
撮影の途中で、一人の男性に声をかけられた。その男性は、1年前に開催された家島町のシンポジウムを聞きに来てくれた人だった。パネリストとして出席していた僕のことを覚えていたので声を掛けてくれたそうだ。ありがたい話である。
「そのときの話が面白かったので。」という言葉とともに、その人は自家製の海苔を僕にくれた。今の季節、家島町では海苔づくりが盛んなのだという。その人がくれた海苔もできたてなのだそうで、火で炙ってから食べるように言われた。
不思議な気分になった。その人はなぜ今、僕に海苔をくれるのだろうか。たまたま自家製の海苔を持っていたことがそのきっかけだろう。1年前のシンポジウムの内容が面白かったというのもきっかけだろう。しかし、だからといって僕に海苔を渡す必要はないはずだ。あるいはその人は、僕に海苔を渡すことで何か他の見返りを期待しているのだろうか。いや、その可能性は低いだろう。次に会うのがいつになるのかも分からないような僕に、交換的な意味でモノを贈与するとは考えられない。
この海苔の贈与は、モースの言うところの平和のための贈与なのか。またはレヴィ=ストロースの言うところのコミュニケーション的贈与なのか。それともボードリヤールの言うところの象徴的な贈与なのか。あるいはバタイユの言うところの純粋な贈与なのか。
「1年前のシンポジウムであなたがしゃべったことは面白かったから、昨日私が家で作った海苔を差し上げましょう」。そんなことが当たり前に行われる家島が、僕にとってますます興味深い島になった1日だった。
家島の海
漁業用のウキ
山崎
2005年2月12日土曜日
「場所の特性」
昼から「archireview eX」に出席する。テーマは「建築×アート」。ゲストはアダム・フレリン(Adam Frelin)。水や人の流れを変える作品が多いアメリカの作家である。
ミズーリ州の公園のプロジェクトでは、一般的な園路線形を囚人の脱走ルートに改変した。何気なく歩いていた公園のルートが、ある箇所から急に脱走ルートの線形に変わる。元の園路に戻るまで右往左往したルートは、最後に囚人が捕まった場所で行き止まりになる。
公園内に設置された脱走ルートは3種類。いずれも有名な脱走劇で、「テキサス-7」と「アルカトラズ-62」と「イースタンステイトトンネル」のルートである。州から州へと渡った脱走劇のルートなので、その縮尺は大きく縮められてミズーリ州の公園内に収められている。何の意味も持たなかった園路に意味を付与し、人の流れを改変し、別の場所の歴史を体感させるプロジェクトとしては、面白い試みだと思う。
アダム・フレリンのアプローチが新しいのは、「どこか別のサイト」の特性を「いまここにあるサイト」へと切り張りしている点に集約できよう。テキサスで起きた脱走劇のルートをミズーリ州に切り張りすることは、単に脱走ルートの線形を公園へ持ち込んだという以上の意味を持つ。そこで衝突しているのは「公園の園路」と「脱走ルート」という即物的な要素ではなく、「ミズーリ州」と「テキサス州」という場所の特性なのだろう。つまり、コンテクスト付きの「部分」をコンテクスト付きの「サイト」へと切り張りすることによって、そこに生じるコンテクスト同士の衝突を楽しもうとしているのである。
ロサンジェルスやダラスの都市に中国や南米の山をコラージュするプロジェクトも、「どこか別のサイト」の特性を「いまここにあるサイト」へと切り張りすることによって、ダラスと中国という都市のコンテクスト同士を衝突させていると考えられよう。
洗面所の水をトイレの中へ流し、トイレの水をバケツの中に流し、バケツの中の水を屋外の側溝へと流すプロジェクトも同じ構図だ。移し変えられているのは同じ水なのだが、それぞれの水が持っている特性(洗面所の水、トイレの水、側溝の水など)同士が混ざり合う状況を作り出している。それぞれの水が持っている特性同士を衝突させるところに、アダム・フレリンの手法が持つ面白さがある。
そう考えると、アダム・フレリンがやっているのは「実空間のコラージュ」だと言えるかもしれない。アダムになぜこんな作品を作るようになったのかを尋ねてみた。彼はカリフォルニア大学のサンディエゴ校で長く勉強したという。サンディエゴというのは、生活のための水を遠く別の州から引き込んでいる都市である。別の州の水を使ってサンディエゴで生活しているという違和感と躍動感。それが彼の作品の原体験となっているのだという。
「Collarge of Site Specific」。アダム・フレリンの手法を、ひとまずこんな風に呼んでみたい。
山﨑
ミズーリ州の公園のプロジェクトでは、一般的な園路線形を囚人の脱走ルートに改変した。何気なく歩いていた公園のルートが、ある箇所から急に脱走ルートの線形に変わる。元の園路に戻るまで右往左往したルートは、最後に囚人が捕まった場所で行き止まりになる。
公園内に設置された脱走ルートは3種類。いずれも有名な脱走劇で、「テキサス-7」と「アルカトラズ-62」と「イースタンステイトトンネル」のルートである。州から州へと渡った脱走劇のルートなので、その縮尺は大きく縮められてミズーリ州の公園内に収められている。何の意味も持たなかった園路に意味を付与し、人の流れを改変し、別の場所の歴史を体感させるプロジェクトとしては、面白い試みだと思う。
アダム・フレリンのアプローチが新しいのは、「どこか別のサイト」の特性を「いまここにあるサイト」へと切り張りしている点に集約できよう。テキサスで起きた脱走劇のルートをミズーリ州に切り張りすることは、単に脱走ルートの線形を公園へ持ち込んだという以上の意味を持つ。そこで衝突しているのは「公園の園路」と「脱走ルート」という即物的な要素ではなく、「ミズーリ州」と「テキサス州」という場所の特性なのだろう。つまり、コンテクスト付きの「部分」をコンテクスト付きの「サイト」へと切り張りすることによって、そこに生じるコンテクスト同士の衝突を楽しもうとしているのである。
ロサンジェルスやダラスの都市に中国や南米の山をコラージュするプロジェクトも、「どこか別のサイト」の特性を「いまここにあるサイト」へと切り張りすることによって、ダラスと中国という都市のコンテクスト同士を衝突させていると考えられよう。
洗面所の水をトイレの中へ流し、トイレの水をバケツの中に流し、バケツの中の水を屋外の側溝へと流すプロジェクトも同じ構図だ。移し変えられているのは同じ水なのだが、それぞれの水が持っている特性(洗面所の水、トイレの水、側溝の水など)同士が混ざり合う状況を作り出している。それぞれの水が持っている特性同士を衝突させるところに、アダム・フレリンの手法が持つ面白さがある。
そう考えると、アダム・フレリンがやっているのは「実空間のコラージュ」だと言えるかもしれない。アダムになぜこんな作品を作るようになったのかを尋ねてみた。彼はカリフォルニア大学のサンディエゴ校で長く勉強したという。サンディエゴというのは、生活のための水を遠く別の州から引き込んでいる都市である。別の州の水を使ってサンディエゴで生活しているという違和感と躍動感。それが彼の作品の原体験となっているのだという。
「Collarge of Site Specific」。アダム・フレリンの手法を、ひとまずこんな風に呼んでみたい。
山﨑
2005年2月7日月曜日
「紀伊半島の旅」
昨日に引き続き、壮大な半島の各地を回る。
関わっているプロジェクトの工場予定地を視察する。埋立地に建設が予定されている工場敷地には、海に沈める前のテトラポッドが並んでいた。地上に並ぶテトラポッドは、下手なパブリックアートやランドアートよりもインパクトのある風景を作る。そこには人の心に擦り寄らないすがすがしさがある。ぶっきらぼうな風景とでも言おうか。ぶっきらぼうだからこそ、そこに立つ人を際立った存在にする。土木の景観が持つ独特の心地よさである。一緒に現場を視察した忽那裕樹さんの姿も、ぶっきらぼうな風景のなかでひときわ印象的なシルエットを作り出していた。
地上に並ぶテトラポッド
写真を撮る忽那裕樹さん
その後、那智の大滝を見に行く。滝の近くにはマイナスイオンがたくさん発生していて、その場にいるだけで癒されるという。どうも胡散臭い話だ。本当にマイナスイオンなるものが人を癒すのであれば、日本一落差のある那智の大滝は究極の癒し空間になるはずだろう。
実際、那智の大滝は巨大な癒し空間だった。大量のマイナスイオンが発生しているのかもしれない、と思える空間だった。その場所に立つと、不思議と心が落ち着くような気もした。土産物を売る巫女さんが居眠りしているのを責める気持ちにもなれなかった。日本一マイナスイオンに包まれた職場である。「しっかり働け」というほうが無理なのである。
那智の大滝
居眠りする巫女さん
昼に食べた「めはり寿司」は美味しかった。しょうゆ漬けにした野沢菜をおにぎりに巻いたもので、農家の人が畑仕事の途中で食べたものだという。食べるときに大きく口を開いて目を張ることから「めはり寿司」という名前が付いたそうだ。ご飯と漬物を同時に食べることができる上、米で指先が汚れることもない。なんとも合理的な食べ物である。
めはり寿司
帰りに妹島和世さんが設計した熊野古道なかへち美術館に寄る。半透明のガラスに覆われた小さな美術館である。晴れた日にはガラス面の反射光と室内からの透過光が入り混じって、周辺の風景から際立つ建築になることだろう。僕が見に行ったときは曇り空だった。雨も少し降っていた。そんな天候のなか、なかへち美術館は予想以上に周囲の風景へと溶け込んでいた。晴れれば周囲から際立ち、曇ったり雨が降ったりすると風景に溶け込む美術館。好感の持てる建築である。
熊野古道なかへち美術館
山崎
関わっているプロジェクトの工場予定地を視察する。埋立地に建設が予定されている工場敷地には、海に沈める前のテトラポッドが並んでいた。地上に並ぶテトラポッドは、下手なパブリックアートやランドアートよりもインパクトのある風景を作る。そこには人の心に擦り寄らないすがすがしさがある。ぶっきらぼうな風景とでも言おうか。ぶっきらぼうだからこそ、そこに立つ人を際立った存在にする。土木の景観が持つ独特の心地よさである。一緒に現場を視察した忽那裕樹さんの姿も、ぶっきらぼうな風景のなかでひときわ印象的なシルエットを作り出していた。
地上に並ぶテトラポッド
写真を撮る忽那裕樹さん
その後、那智の大滝を見に行く。滝の近くにはマイナスイオンがたくさん発生していて、その場にいるだけで癒されるという。どうも胡散臭い話だ。本当にマイナスイオンなるものが人を癒すのであれば、日本一落差のある那智の大滝は究極の癒し空間になるはずだろう。
実際、那智の大滝は巨大な癒し空間だった。大量のマイナスイオンが発生しているのかもしれない、と思える空間だった。その場所に立つと、不思議と心が落ち着くような気もした。土産物を売る巫女さんが居眠りしているのを責める気持ちにもなれなかった。日本一マイナスイオンに包まれた職場である。「しっかり働け」というほうが無理なのである。
那智の大滝
居眠りする巫女さん
昼に食べた「めはり寿司」は美味しかった。しょうゆ漬けにした野沢菜をおにぎりに巻いたもので、農家の人が畑仕事の途中で食べたものだという。食べるときに大きく口を開いて目を張ることから「めはり寿司」という名前が付いたそうだ。ご飯と漬物を同時に食べることができる上、米で指先が汚れることもない。なんとも合理的な食べ物である。
めはり寿司
帰りに妹島和世さんが設計した熊野古道なかへち美術館に寄る。半透明のガラスに覆われた小さな美術館である。晴れた日にはガラス面の反射光と室内からの透過光が入り混じって、周辺の風景から際立つ建築になることだろう。僕が見に行ったときは曇り空だった。雨も少し降っていた。そんな天候のなか、なかへち美術館は予想以上に周囲の風景へと溶け込んでいた。晴れれば周囲から際立ち、曇ったり雨が降ったりすると風景に溶け込む美術館。好感の持てる建築である。
熊野古道なかへち美術館
山崎
2005年2月6日日曜日
「政(まつりごと)」
僕がイメージする「半島」を遥かに凌ぐ巨大な半島が大阪の南に横たわっている。紀伊半島。和歌山県・奈良県・三重県を取り込む巨大な半島の幅は約100km。これが半島なんだとすれば、中国地方全体だって同じく半島のスケールだと言えなくも無い。
大阪からこの半島の先端を目指す。目的地は和歌山県の新宮市。毎年2月6日に実施される「お燈祭り」が有名な街だ。「お燈祭り」は、松明を持った白装束の男たちが山の上から走り降りるダイナミックな祭りである。この祭りを見るため、大阪から和歌山、白浜、串本を経て新宮へと向かった。
特急で3時間半。祭り当日の午後3時、新宮駅に降り立つ。しかし、駅前に祭りを感じさせるものは何一つ無い。観光案内所で今日が祭りの日であることを確かめなければ不安になるほどの静けさである。
地元の人は「お燈祭りは見る祭りではない。参加する祭りだ。」と言う。事実、地元の人でなくても祭りに参加することができる。観光客がバスでやってきて、白装束に着替えて祭りに参加することも多いという。地域性にこだわらない、一風変わった祭りである。
しばらく街を歩くと、白装束に松明を持った人に会う頻度が少しずつ高まる。時刻が遅くなるにつれて、どこからともなく白装束の男性が集まってくる。目指すは阿須賀神社、熊野速玉大社、妙心寺の3ヶ所。祭りの参加者は、独特の白い服で3つの寺社をお参りした後、祭りの舞台である神倉神社へと向かう。
途中、他の参加者とすれ違う際には、手にした松明をお互いにぶつけ合いながら「頼むで!」と声をかける。何を頼んでいるのかは不明だが、祭りのクライマックスに向けて気分が高まることは確かだ。高まりすぎて喧嘩が起きることも多い。手にした松明で殴りあう光景を何度か目にした。仲間が殴られると集団同士の殴り合いが始まる。真っ赤に染まった白装束のまま神倉神社へと登る人もいる。
神倉神社の前には小さな川が流れていて、そこに太鼓橋がかかっている。祭りの参加者以外は、橋の手前で男たちの帰りを待つことになる。気分が高まった男たちは、太鼓橋を渡ってからも喧嘩を続ける。整列した機動隊が持つジュラルミンの盾を松明で殴りながら山を登っていく。
松明をぶつけ合う
機動隊
すべての参加者が山の上にある神倉神社へ登った午後8時。2000人の参加者が持つ松明に火が灯される。神社の門が一端閉じられ、辺り一面が松明の火で覆われる。男たちの興奮が絶頂に達する。
そして開門。大きな歓声とともに、2000人の男が松明を持って山を駆け下りる。火の川が山を流れ落ちるような光景である。
神倉神社から駆け下りる2000人の参加者
というのは、僕の想像である。実際に見たわけではない。写真も僕が撮影したものではない。祭りの参加者ではない僕は、神倉神社の太鼓橋から先へ入ることはできなかったのである。
太鼓橋の手前に立つ僕が目にしたのは、すでに山から駆け下りた後で、手に持った松明も燃え尽きて、興奮も冷めてしまった男たちが、ゾロゾロと列を作って歩いている姿である。神倉神社を登る前の興奮した男たちは、山から下りてくる頃にはまるで別人と化していた。燃え尽きた松明と同様に、男たちもすっかりおとなしくなってしまっていたのである。
「祭り」とは、時の為政者が民衆のフラストレーションを爆発させるための装置であった、という話を聞いたことがある。酒を飲んだり喧嘩したりして日常の不満や怒りを発散することができる祭り。民衆の怒りが為政者へと向かわないようにするガス抜きは、為政者にとって重要な「政(まつりごと)」のひとつだったのだという。
酒を飲んで、喧嘩して、暴れて、駆け下りて、燃え尽きる。僕が見る限り「お燈祭り」の参加者は為政者の思惑通りに行動していた。松明で機動隊に殴りかかっていた人でさえ、為政者が仕組んだ「祭り」という装置にまんまと転がされていたのである。
まちづくりの現場で「真の住民参加を」という言葉を耳にすることがある。まちづくりのワークショップで、住民同士の激しい議論を目にすることもある。しかし、住民参加型ワークショップというフレームも、為政者が作り出した新たな政(まつりごと)なのである。そのフレームの内部で「ガス抜き」させられている限り、生活者が主体的に街をつくることなんてないのかもしれない。
燃え尽きた男たちの後姿を見ながら、僕は「住民参加のまちづくり」という政(まつりごと)の胡散臭さについて考えていた。
山崎
大阪からこの半島の先端を目指す。目的地は和歌山県の新宮市。毎年2月6日に実施される「お燈祭り」が有名な街だ。「お燈祭り」は、松明を持った白装束の男たちが山の上から走り降りるダイナミックな祭りである。この祭りを見るため、大阪から和歌山、白浜、串本を経て新宮へと向かった。
特急で3時間半。祭り当日の午後3時、新宮駅に降り立つ。しかし、駅前に祭りを感じさせるものは何一つ無い。観光案内所で今日が祭りの日であることを確かめなければ不安になるほどの静けさである。
地元の人は「お燈祭りは見る祭りではない。参加する祭りだ。」と言う。事実、地元の人でなくても祭りに参加することができる。観光客がバスでやってきて、白装束に着替えて祭りに参加することも多いという。地域性にこだわらない、一風変わった祭りである。
しばらく街を歩くと、白装束に松明を持った人に会う頻度が少しずつ高まる。時刻が遅くなるにつれて、どこからともなく白装束の男性が集まってくる。目指すは阿須賀神社、熊野速玉大社、妙心寺の3ヶ所。祭りの参加者は、独特の白い服で3つの寺社をお参りした後、祭りの舞台である神倉神社へと向かう。
途中、他の参加者とすれ違う際には、手にした松明をお互いにぶつけ合いながら「頼むで!」と声をかける。何を頼んでいるのかは不明だが、祭りのクライマックスに向けて気分が高まることは確かだ。高まりすぎて喧嘩が起きることも多い。手にした松明で殴りあう光景を何度か目にした。仲間が殴られると集団同士の殴り合いが始まる。真っ赤に染まった白装束のまま神倉神社へと登る人もいる。
神倉神社の前には小さな川が流れていて、そこに太鼓橋がかかっている。祭りの参加者以外は、橋の手前で男たちの帰りを待つことになる。気分が高まった男たちは、太鼓橋を渡ってからも喧嘩を続ける。整列した機動隊が持つジュラルミンの盾を松明で殴りながら山を登っていく。
松明をぶつけ合う
機動隊
すべての参加者が山の上にある神倉神社へ登った午後8時。2000人の参加者が持つ松明に火が灯される。神社の門が一端閉じられ、辺り一面が松明の火で覆われる。男たちの興奮が絶頂に達する。
そして開門。大きな歓声とともに、2000人の男が松明を持って山を駆け下りる。火の川が山を流れ落ちるような光景である。
神倉神社から駆け下りる2000人の参加者
というのは、僕の想像である。実際に見たわけではない。写真も僕が撮影したものではない。祭りの参加者ではない僕は、神倉神社の太鼓橋から先へ入ることはできなかったのである。
太鼓橋の手前に立つ僕が目にしたのは、すでに山から駆け下りた後で、手に持った松明も燃え尽きて、興奮も冷めてしまった男たちが、ゾロゾロと列を作って歩いている姿である。神倉神社を登る前の興奮した男たちは、山から下りてくる頃にはまるで別人と化していた。燃え尽きた松明と同様に、男たちもすっかりおとなしくなってしまっていたのである。
「祭り」とは、時の為政者が民衆のフラストレーションを爆発させるための装置であった、という話を聞いたことがある。酒を飲んだり喧嘩したりして日常の不満や怒りを発散することができる祭り。民衆の怒りが為政者へと向かわないようにするガス抜きは、為政者にとって重要な「政(まつりごと)」のひとつだったのだという。
酒を飲んで、喧嘩して、暴れて、駆け下りて、燃え尽きる。僕が見る限り「お燈祭り」の参加者は為政者の思惑通りに行動していた。松明で機動隊に殴りかかっていた人でさえ、為政者が仕組んだ「祭り」という装置にまんまと転がされていたのである。
まちづくりの現場で「真の住民参加を」という言葉を耳にすることがある。まちづくりのワークショップで、住民同士の激しい議論を目にすることもある。しかし、住民参加型ワークショップというフレームも、為政者が作り出した新たな政(まつりごと)なのである。そのフレームの内部で「ガス抜き」させられている限り、生活者が主体的に街をつくることなんてないのかもしれない。
燃え尽きた男たちの後姿を見ながら、僕は「住民参加のまちづくり」という政(まつりごと)の胡散臭さについて考えていた。
山崎
2005年2月5日土曜日
「自然の見方」
昼からコスモスフォーラムに出かける。基調講演はサル学の河合雅雄さん。兵庫県立人と自然の博物館の館長時代にお世話になった先生だ。現在は兵庫県立丹波の森公苑の苑長を務める。基調講演に続くフォーラムのパネリストは4人。総合地球環境学研究所の秋道智彌さんと佐藤洋一郎さん、名古屋大学の池内了さん、そして大阪大学の鷲田清一さん。コーディネーターは吹田市立博物館の小山修三さん。
河合さんの基調講演は、サルから人間への進化を端的に示すものだった。
・サルの脳が他の生物に比べて大きくなった理由は、①片手で物がつかめること、②物の色や奥行きを認識できること、③座れることの3点に集約される。
・サルが生活した森という空間の特徴は、①植物が多くて隠れやすいこと、②食材が豊富に存在すること、③食材確保の競争相手がいないこと、④天敵がいないことの4点に集約される。
・サルが人間に似ているところは、①道具を作ったり使ったりすること、②肉食であること(動物の脳が大好物!)、③協働して狩りを行うこと、④分配行動があること(仲間に物乞いをする!)、⑤あいさつをすること(キスもする!)の5点に集約される。
・サルから人間へと進化したきっかけは、①直立二足歩行を始めたこと、②家族を持ったこと、③音声言語を使うようになったこと、の3点に集約される。
・人間は、自然環境と文明環境を改変し続けた。文明環境が進歩すればするほど自然環境は破壊された。今、人間はそのことを反省して「人と自然の共生」を目指している。一方で、同じ人間が「内なる自然環境」を破壊しつつある。いわゆるヒトゲノム計画。DNAを操作することによって、人間の内側にある自然が破壊される。人間は自然的な進化存在である。それが、50年後には人為的に操作できるようになるかもしれない。今こそ、人間とは何か、人間の自然とは何なのかを考えるべきだろう。
続くフォーラムで興味深かった意見は以下のとおり。
・人間という循環系は、脳の1本の血管が切れただけで死んでしまう。循環型社会について考えるとき、そのウィークポイントはどこなのかを見据えておく必要がある。(池内さん)
・スギやヒノキといった裸子植物は独特の匂いを出す。人間はあの匂いが好きだが、あれは害虫を自分に寄せ付けないようにする匂いであり、他の花粉を殺そうとする匂いである。裸子植物の多くは排他的であり、社寺林などがひっそりとしているのはそのせいである。逆に被子植物は外向的であり、花や香りで昆虫や人間にかわいがってもらいながら繁殖する。(佐藤さん)
・物事の関係性を捉えようとするとき、少しレンジを広げて余裕を持った視点で眺めるべき。物の背景にある文化や環境や生態が見えてくる。こうした背景を含めた物と物の関係を考えるとき、最初に捉えた単純な構図では結論がでない複雑な関係性が浮き上がることになる。(秋道さん)
・ヒトが持つ自然性、いわゆるヒューマンネイチャーというのは、自然環境を改変するという行為に集約されているのではないか。つまり僕たちは、自然を改変しているときが一番人間らしいのであって、自然な状態なのである。(鷲田さん)
・ヒトは自然に影響を受けながら生きている。同時に習慣にも影響を受けながら生きている。「習慣は第2の自然である」という言い方があるが、人が自然を見る視点も習慣に影響されていることを考えると、「自然は第2の習慣である」と言えるのではないか。(鷲田さん)
この言い方には少々説明が必要かもしれない。ヒトが自然を見るときの視点は、その地域独特の習慣に基づいていることが多い。ヘビやアルマジロを見て「おいしそう」と思う日本人は少ないが、世界の別の国ではそれを「おいしそう」と思って眺める人がいるそうだ。同じ自然の生き物でも、習慣によって「見方」が違うのである。
そう考えると、僕らが第1に影響を受けている自然という存在自体が、僕らの習慣によって作り出された概念だということが分かる。つまり、人は習慣を通して認識した《自然》に影響を受けているのである。だから「習慣は第2の自然である」というよりもむしろ「自然は第2の習慣である」といったほうが実情にあっているのである。
「人間が自然をどう見ているのか」ということについては、別の視点も提示された。佐藤さんの農耕社会に対する問題提起である。狩猟/採集社会では、1週間に2日ほど働けばよかった。ところが農耕社会になると1週間に5日間も働かなければ生きていけなくなる。これは進歩と呼べるのだろうか。
狩猟/採集社会は環境の変化に敏感だった。自分が獲得できる対象が減るかもしれないから、少しの変化も見過ごさない感受性を持っていた。ところが農耕社会になると少々の差異は無視するようになる。環境の微妙な差異は無視して、計画に基づいた収穫の増加を目指すようになる。おのずと感受性は鈍くなる。これを進化と呼べるのだろうか。
この視点は、「農業は人類の原罪である」の著者コリン・タッジの考え方に通じるものがある。人間が自然環境を改変できるものとして捉えるきっかけになった農耕。現在に至る環境破壊の始まりが、実は農耕社会の発生を起源としているかもしれないのだ。農的生活至上主義者や里山礼賛の傾向が強い人に、ぜひともしっかり考えてもらいたい農耕社会の側面である。
山崎
河合さんの基調講演は、サルから人間への進化を端的に示すものだった。
・サルの脳が他の生物に比べて大きくなった理由は、①片手で物がつかめること、②物の色や奥行きを認識できること、③座れることの3点に集約される。
・サルが生活した森という空間の特徴は、①植物が多くて隠れやすいこと、②食材が豊富に存在すること、③食材確保の競争相手がいないこと、④天敵がいないことの4点に集約される。
・サルが人間に似ているところは、①道具を作ったり使ったりすること、②肉食であること(動物の脳が大好物!)、③協働して狩りを行うこと、④分配行動があること(仲間に物乞いをする!)、⑤あいさつをすること(キスもする!)の5点に集約される。
・サルから人間へと進化したきっかけは、①直立二足歩行を始めたこと、②家族を持ったこと、③音声言語を使うようになったこと、の3点に集約される。
・人間は、自然環境と文明環境を改変し続けた。文明環境が進歩すればするほど自然環境は破壊された。今、人間はそのことを反省して「人と自然の共生」を目指している。一方で、同じ人間が「内なる自然環境」を破壊しつつある。いわゆるヒトゲノム計画。DNAを操作することによって、人間の内側にある自然が破壊される。人間は自然的な進化存在である。それが、50年後には人為的に操作できるようになるかもしれない。今こそ、人間とは何か、人間の自然とは何なのかを考えるべきだろう。
続くフォーラムで興味深かった意見は以下のとおり。
・人間という循環系は、脳の1本の血管が切れただけで死んでしまう。循環型社会について考えるとき、そのウィークポイントはどこなのかを見据えておく必要がある。(池内さん)
・スギやヒノキといった裸子植物は独特の匂いを出す。人間はあの匂いが好きだが、あれは害虫を自分に寄せ付けないようにする匂いであり、他の花粉を殺そうとする匂いである。裸子植物の多くは排他的であり、社寺林などがひっそりとしているのはそのせいである。逆に被子植物は外向的であり、花や香りで昆虫や人間にかわいがってもらいながら繁殖する。(佐藤さん)
・物事の関係性を捉えようとするとき、少しレンジを広げて余裕を持った視点で眺めるべき。物の背景にある文化や環境や生態が見えてくる。こうした背景を含めた物と物の関係を考えるとき、最初に捉えた単純な構図では結論がでない複雑な関係性が浮き上がることになる。(秋道さん)
・ヒトが持つ自然性、いわゆるヒューマンネイチャーというのは、自然環境を改変するという行為に集約されているのではないか。つまり僕たちは、自然を改変しているときが一番人間らしいのであって、自然な状態なのである。(鷲田さん)
・ヒトは自然に影響を受けながら生きている。同時に習慣にも影響を受けながら生きている。「習慣は第2の自然である」という言い方があるが、人が自然を見る視点も習慣に影響されていることを考えると、「自然は第2の習慣である」と言えるのではないか。(鷲田さん)
この言い方には少々説明が必要かもしれない。ヒトが自然を見るときの視点は、その地域独特の習慣に基づいていることが多い。ヘビやアルマジロを見て「おいしそう」と思う日本人は少ないが、世界の別の国ではそれを「おいしそう」と思って眺める人がいるそうだ。同じ自然の生き物でも、習慣によって「見方」が違うのである。
そう考えると、僕らが第1に影響を受けている自然という存在自体が、僕らの習慣によって作り出された概念だということが分かる。つまり、人は習慣を通して認識した《自然》に影響を受けているのである。だから「習慣は第2の自然である」というよりもむしろ「自然は第2の習慣である」といったほうが実情にあっているのである。
「人間が自然をどう見ているのか」ということについては、別の視点も提示された。佐藤さんの農耕社会に対する問題提起である。狩猟/採集社会では、1週間に2日ほど働けばよかった。ところが農耕社会になると1週間に5日間も働かなければ生きていけなくなる。これは進歩と呼べるのだろうか。
狩猟/採集社会は環境の変化に敏感だった。自分が獲得できる対象が減るかもしれないから、少しの変化も見過ごさない感受性を持っていた。ところが農耕社会になると少々の差異は無視するようになる。環境の微妙な差異は無視して、計画に基づいた収穫の増加を目指すようになる。おのずと感受性は鈍くなる。これを進化と呼べるのだろうか。
この視点は、「農業は人類の原罪である」の著者コリン・タッジの考え方に通じるものがある。人間が自然環境を改変できるものとして捉えるきっかけになった農耕。現在に至る環境破壊の始まりが、実は農耕社会の発生を起源としているかもしれないのだ。農的生活至上主義者や里山礼賛の傾向が強い人に、ぜひともしっかり考えてもらいたい農耕社会の側面である。
山崎