午後から東大にて研究室会議。
博士論文のテーマについて相談した。
その後、博報堂にてプロジェクトの打ち合わせ。
博士論文はなかなか進まないが、こちらのプロジェクトは楽しくてどんどん進む。
これまで議論してきたプロジェクト以外にも、もうひとつ新しいプロジェクトを立ち上げよう、という話にもなった。今後の展開が楽しみなプロジェクトである。
新幹線の終電までに少し時間があったので、神田の古本屋街を歩く。久しぶりにネットではなく古本屋で本を買う。重いのでよほどの本が無い限り買わないぞ、と心に決めていたものの、結局3冊購入してしまう。
山崎
2008年1月29日火曜日
白砂伸夫作品集
白砂伸夫さんから自身の作品集を頂いた。白砂さんの仕事は本当に多岐に渡っているので、いつもその全体像が把握しきれないでいたのだが、作品集を見せてもらってようやく少しそれが把握できてきたような気がする。
それにしても、仕事の種類もいろいろだし、現場も日本全国(世界各地)に点在している。誰もが思うことだが、多種多様な仕事をどうやって手に入れるのか理解できない。しかも、どうやら白砂さんは一切「営業活動」というものをしないらしい。先日、その秘訣について少しお伺いしたのだが、極言すれば「人とのつながり」というのが重要なようだ。民間の仕事も公共の仕事も、社会的に重要な立場で活躍している人とのつながりから発生する。そういう人といかに出会って、仲良くなって、仕事を依頼されることになるのか。ここに、白砂さん独特の技術(性格?)が隠されている。ただし、同じやり方で僕が仕事を依頼されるかというと、きっとそうならないだろう。自分の性格や持っている武器に応じた仕事のつくり方というのがあるんだ、ということを実感する。
多岐にわたる仕事は、大阪府、京都府、滋賀県、鳥取県、石川県、静岡県、神奈川県、東京都、山口県、高知県の四万十川上流、鹿児島県の出水市、屋久島と、日本各地に散在する。さらにベルギーやスリランカでの仕事もある。1991年に自身の設計事務所を立ち上げてから作品集が2003年に出版されるまでの12年間に、これだけ多様な土地で多様な施主を相手に仕事をしているというのは驚きである。
作品集に掲載された数々の作品のなかで、僕が好きなのは「四万十古道の再生」と「スリランカのピースセンター」である。四万十古道の再生は、作り手が誰なのか、何を主張したかったのかが、ほとんどわからないくらいに風化していきそうなデザインが微笑ましい。白砂さんが言う「ピュシスを呼び覚ます」デザインに見える。スリランカのピースセンターは、その施工に世界中からボランティアが集まったというのがすごい。素材の調達は地域を熟知している僧侶に協力してもらっているという。その結果できあがった素朴さが、好ましい「土地らしさ」をつくりだしている。
2003年以降、白砂さんはさらに多様な施主と知り合い、世界各地で仕事をしていると聞く。2013年ごろには、そうした最新作をとりまとめた作品集をもう一度出版して欲しいものである。
山崎
それにしても、仕事の種類もいろいろだし、現場も日本全国(世界各地)に点在している。誰もが思うことだが、多種多様な仕事をどうやって手に入れるのか理解できない。しかも、どうやら白砂さんは一切「営業活動」というものをしないらしい。先日、その秘訣について少しお伺いしたのだが、極言すれば「人とのつながり」というのが重要なようだ。民間の仕事も公共の仕事も、社会的に重要な立場で活躍している人とのつながりから発生する。そういう人といかに出会って、仲良くなって、仕事を依頼されることになるのか。ここに、白砂さん独特の技術(性格?)が隠されている。ただし、同じやり方で僕が仕事を依頼されるかというと、きっとそうならないだろう。自分の性格や持っている武器に応じた仕事のつくり方というのがあるんだ、ということを実感する。
多岐にわたる仕事は、大阪府、京都府、滋賀県、鳥取県、石川県、静岡県、神奈川県、東京都、山口県、高知県の四万十川上流、鹿児島県の出水市、屋久島と、日本各地に散在する。さらにベルギーやスリランカでの仕事もある。1991年に自身の設計事務所を立ち上げてから作品集が2003年に出版されるまでの12年間に、これだけ多様な土地で多様な施主を相手に仕事をしているというのは驚きである。
作品集に掲載された数々の作品のなかで、僕が好きなのは「四万十古道の再生」と「スリランカのピースセンター」である。四万十古道の再生は、作り手が誰なのか、何を主張したかったのかが、ほとんどわからないくらいに風化していきそうなデザインが微笑ましい。白砂さんが言う「ピュシスを呼び覚ます」デザインに見える。スリランカのピースセンターは、その施工に世界中からボランティアが集まったというのがすごい。素材の調達は地域を熟知している僧侶に協力してもらっているという。その結果できあがった素朴さが、好ましい「土地らしさ」をつくりだしている。
2003年以降、白砂さんはさらに多様な施主と知り合い、世界各地で仕事をしていると聞く。2013年ごろには、そうした最新作をとりまとめた作品集をもう一度出版して欲しいものである。
山崎
2008年1月28日月曜日
マイナスのデザイン覚書
最近、「マイナスのデザイン」ということをよく考える。
「これまで、あまりにプラスのデザインが多すぎたんじゃないか」という問題意識が前提にある。今が「ちょうどいい」と感じている人にとっては、ここからマイナスするということは負の方向になってしまうのでよろしくないのだろうが、僕はすでに情報も物質も音も、何もかも「過剰」な気がしている。その「過剰」をマイナスすることができるデザインがあれば、社会を「ちょうどいい」に持っていくことができるんじゃないか、と考えている。
朝日ジャーナル編集部が出した「こんなものいらない事典」という本の最初に「前宣言」というものがある。そこに、以下のような文章が記されている。
---------------------------
われわれは必要なものの10倍ぐらい、いらないものを抱え込んでしまった。ガラクタの山に埋もれて、必要なものを見つけ出すのも難儀である。本当のところ、何が必要なのかもよくわからなくなっているのだ。
---------------------------
この文章が書かれたのは1986年。それから20年以上経っているが、その間にもまだまだいらないものが増え続けたように思う。ガラクタの山は高くなるばかり。都市空間にもいらないものがどんどん貼りついていく。ケータイにもいらない機能が付加され続ける。そろそろ誰かが、マイナスのデザインを叫んでもいいような気がする。
ちなみに、同書の「後宣言」もなかなか冴えている。
---------------------------
「すでに在るもの」を否定するには、なかなか勇気がいる。「在るもの」には、それなりの理由と、時代の背景と支持者がいるからだ。そこで「いらない」と論じるためには、反論を組み立て、時代の要請を否定し、支持者を敵に回さなければならない。
(中略)
だが、「いらない」の精神にもけっこう美点がある。その最大のものは、やわらかい知性と鋭い感性がなくては成り立たない、ということだろう。「在るもの」を在るがままに肯定するのなら、アタマはいらない。かすかにうなずけるだけの筋肉と、単純な音のでる声帯があればいい。オモチャのロボットだって、最近はもっと上等だ。
こう考えてくると「こんなものいらない!」は人間の行為の中でもっとも評価されるべき勇気の一つといえる。とくに今のご時世のように、「知性」なるものがどこかに逃げ失せてしまって、登場するのはテレビのコマーシャルや広告コピーの中だけ、という状況では、「いらない」の精神は貴重品そのものなのだ。
と、まあ、エラソーに論じてみたが、ヘソ曲がりも遊びの一つとして面白いということだ。遊びに目的などない。ソントクもない。ただ、その面白さが分かるのは高い水準の知性とユーモアのセンスをもっている人、とだけ言っておこう。
(後略)
----------------------------
この文章を書いたのは、当時朝日ジャーナルの編集長だった筑紫哲也さん。「こんなものいらない」というのは、確かにネガティブだし否定形だったわけですが、それを「遊びだ」と言い切ってしまう。少し逃げた感じもするが、しかしこの種の本の閉め方としてはこういう表現しか成立しないんだろうなぁ、とも思う。
が、僕はもう少しポジティブにマイナスのデザインを考えてみたい。世の中にあふれてしまった騒音を消すためのサウンドスケープデザイン。これはマイナスのデザインとして、かなりポジティブな部類だろう。もちろん、音源自体をマイナスすることも考えられるが、それだと「こんなものいらない」と同じ路線に陥ってしまう危険性がある。マイナスすることによってある価値を生み出すデザインが、飽食の日本だからこそありえるのではないか。
都市計画にちなんで言えば、木造賃貸密集市街地の建物をいくつかマイナスするだけで広場が出来上がるし、それができることによって広場の周りの土地の価格が上がることになる。カフェやたこ焼き屋が入るかもしれない。いくつかの古い木造住宅は消えるけれども、その代わり周囲の地価が上がったり環境が改善されたりする。これもマイナスのデザインの一つだろう。
これからしばらくは、そんなことを考えてみたい。
山崎
「これまで、あまりにプラスのデザインが多すぎたんじゃないか」という問題意識が前提にある。今が「ちょうどいい」と感じている人にとっては、ここからマイナスするということは負の方向になってしまうのでよろしくないのだろうが、僕はすでに情報も物質も音も、何もかも「過剰」な気がしている。その「過剰」をマイナスすることができるデザインがあれば、社会を「ちょうどいい」に持っていくことができるんじゃないか、と考えている。
朝日ジャーナル編集部が出した「こんなものいらない事典」という本の最初に「前宣言」というものがある。そこに、以下のような文章が記されている。
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われわれは必要なものの10倍ぐらい、いらないものを抱え込んでしまった。ガラクタの山に埋もれて、必要なものを見つけ出すのも難儀である。本当のところ、何が必要なのかもよくわからなくなっているのだ。
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この文章が書かれたのは1986年。それから20年以上経っているが、その間にもまだまだいらないものが増え続けたように思う。ガラクタの山は高くなるばかり。都市空間にもいらないものがどんどん貼りついていく。ケータイにもいらない機能が付加され続ける。そろそろ誰かが、マイナスのデザインを叫んでもいいような気がする。
ちなみに、同書の「後宣言」もなかなか冴えている。
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「すでに在るもの」を否定するには、なかなか勇気がいる。「在るもの」には、それなりの理由と、時代の背景と支持者がいるからだ。そこで「いらない」と論じるためには、反論を組み立て、時代の要請を否定し、支持者を敵に回さなければならない。
(中略)
だが、「いらない」の精神にもけっこう美点がある。その最大のものは、やわらかい知性と鋭い感性がなくては成り立たない、ということだろう。「在るもの」を在るがままに肯定するのなら、アタマはいらない。かすかにうなずけるだけの筋肉と、単純な音のでる声帯があればいい。オモチャのロボットだって、最近はもっと上等だ。
こう考えてくると「こんなものいらない!」は人間の行為の中でもっとも評価されるべき勇気の一つといえる。とくに今のご時世のように、「知性」なるものがどこかに逃げ失せてしまって、登場するのはテレビのコマーシャルや広告コピーの中だけ、という状況では、「いらない」の精神は貴重品そのものなのだ。
と、まあ、エラソーに論じてみたが、ヘソ曲がりも遊びの一つとして面白いということだ。遊びに目的などない。ソントクもない。ただ、その面白さが分かるのは高い水準の知性とユーモアのセンスをもっている人、とだけ言っておこう。
(後略)
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この文章を書いたのは、当時朝日ジャーナルの編集長だった筑紫哲也さん。「こんなものいらない」というのは、確かにネガティブだし否定形だったわけですが、それを「遊びだ」と言い切ってしまう。少し逃げた感じもするが、しかしこの種の本の閉め方としてはこういう表現しか成立しないんだろうなぁ、とも思う。
が、僕はもう少しポジティブにマイナスのデザインを考えてみたい。世の中にあふれてしまった騒音を消すためのサウンドスケープデザイン。これはマイナスのデザインとして、かなりポジティブな部類だろう。もちろん、音源自体をマイナスすることも考えられるが、それだと「こんなものいらない」と同じ路線に陥ってしまう危険性がある。マイナスすることによってある価値を生み出すデザインが、飽食の日本だからこそありえるのではないか。
都市計画にちなんで言えば、木造賃貸密集市街地の建物をいくつかマイナスするだけで広場が出来上がるし、それができることによって広場の周りの土地の価格が上がることになる。カフェやたこ焼き屋が入るかもしれない。いくつかの古い木造住宅は消えるけれども、その代わり周囲の地価が上がったり環境が改善されたりする。これもマイナスのデザインの一つだろう。
これからしばらくは、そんなことを考えてみたい。
山崎
2008年1月26日土曜日
探られる里
朝から夕方まで、箕面市の止々呂美地域で開催されている「探られる里プロジェクト」の最終日に参加する。
探られる里プロジェクトは、余野川ダム事業地およびその周辺地域である止々呂美地域を文字通り探るプロジェクトで、11名の大学生や大学院生が参加したプロジェクトである。7日間のプロジェクトで、途中3日間は現地に宿泊しながらフィールドワークを実施する。
最終日の今日は、学生たちが探った結果をまとめた冊子や地図やハガキを地域の人々に紹介し、双方の意見交換を行った。学生たちがつくった冊子や地図やハガキは、いずれも完成度が高く、地元の人々からも喜びの声が多数聞かれた。
このプロジェクトは、いろいろな課題を抱えた状態でスタートした。そんな課題を解決する糸口を見つけるため、学生が地域を探って、美しい風景を発見し、さまざまな人と知り合い、地域の実情や住民の本音を聞き出すことが求められた。その意味で、学生にとっては非常にハードルの高いプロジェクトだったと思う。
そんなプロジェクトを、しかし参加した学生たちは見事にやり遂げた。写真を撮ること、通りがかりの人と仲良くなること、最終日の発表会へ来てもらうよう誘うこと、地域の歴史を調べること、入手したすべての情報を冊子にまとめること、情報を再編集して地図やハガキに仕立て上げること、外部からみた地域の魅力を分かりやすく地域に住んでいる方々へ伝えること。こうした難しい作業を見事にこなし、地元の方々から多くの笑顔を引き出した。その笑顔は、これまでに見たことの無いような種類の笑顔だった。
「最近の大学生は昔の高校生レベルだ」という人がいる。「日本の大学生は海外の大学生より劣る」という人もいる。確かにそうかもしれない。が、僕は今回のプロジェクトを通じて、最近の日本の大学生はまだまだ優秀だ、ということを実感した。彼らが活躍するであろう日本の未来は、それほど悪いものではないような気がしたのである。
山崎
探られる里プロジェクトは、余野川ダム事業地およびその周辺地域である止々呂美地域を文字通り探るプロジェクトで、11名の大学生や大学院生が参加したプロジェクトである。7日間のプロジェクトで、途中3日間は現地に宿泊しながらフィールドワークを実施する。
最終日の今日は、学生たちが探った結果をまとめた冊子や地図やハガキを地域の人々に紹介し、双方の意見交換を行った。学生たちがつくった冊子や地図やハガキは、いずれも完成度が高く、地元の人々からも喜びの声が多数聞かれた。
このプロジェクトは、いろいろな課題を抱えた状態でスタートした。そんな課題を解決する糸口を見つけるため、学生が地域を探って、美しい風景を発見し、さまざまな人と知り合い、地域の実情や住民の本音を聞き出すことが求められた。その意味で、学生にとっては非常にハードルの高いプロジェクトだったと思う。
そんなプロジェクトを、しかし参加した学生たちは見事にやり遂げた。写真を撮ること、通りがかりの人と仲良くなること、最終日の発表会へ来てもらうよう誘うこと、地域の歴史を調べること、入手したすべての情報を冊子にまとめること、情報を再編集して地図やハガキに仕立て上げること、外部からみた地域の魅力を分かりやすく地域に住んでいる方々へ伝えること。こうした難しい作業を見事にこなし、地元の方々から多くの笑顔を引き出した。その笑顔は、これまでに見たことの無いような種類の笑顔だった。
「最近の大学生は昔の高校生レベルだ」という人がいる。「日本の大学生は海外の大学生より劣る」という人もいる。確かにそうかもしれない。が、僕は今回のプロジェクトを通じて、最近の日本の大学生はまだまだ優秀だ、ということを実感した。彼らが活躍するであろう日本の未来は、それほど悪いものではないような気がしたのである。
山崎
2008年1月25日金曜日
属人型まちづくりの引き継ぎ方
午前中は大阪府岸和田土木事務所にて、泉佐野丘陵緑地(仮称)の運営計画に関する打ち合わせ。
午後から、株式会社ヘッズの田中康さんに、芦屋公園の指定管理者としてどんなことに取り組んでいるのかをヒアリング。
夕方からは大日6丁目商店街の城戸会長に、商店街が取り組むまちづくりに関するヒアリング。城戸会長には夜10時30分までヒアリングに応じていただいた(感謝)。とても熱意を持った方で、この人がいるからまちづくりがうまく進んでいるんだな、と実感できる話だった。
成功しているまちづくりにはいくつかのタイプがあるように思う。そのうちのひとつが「キーマンが活躍する属人的発展型まちづくり」だといえるだろう。熱意のある人が中心になってまちづくりの活動や人脈などが広がっているタイプである。アサザプロジェクトの飯島さん、多摩ニュータウンの富永さん、そして大日6丁目の城戸さんは、それぞれこのタイプのキーマンである。
こういう人と話をしているといつもワクワクするし、自分のプロジェクトを省みつつ「まだまだできることがあるなぁ」と新たな発想を得ることができる。その一方で、属人型のまちづくりはキーマンの存在が重要すぎて、その活動をどう後世へ伝えていくのかが難しいことを実感する。
飯島さん、富永さん、城戸さんが、どのように後進を育ててプロジェクトを引き継ぐのか。NPOやまちづくりが一通り出揃ったこれからの社会では、重要なプロジェクトの引き継ぎ方が重要になると考える。価値のある活動だけに、1代限りで終わってしまうのは実に惜しい。その意味では、大企業がどのように創業者から2代目社長へ経営権を引き継ぐのか、などという事例が参考になるのかもしれない。
山崎
午後から、株式会社ヘッズの田中康さんに、芦屋公園の指定管理者としてどんなことに取り組んでいるのかをヒアリング。
夕方からは大日6丁目商店街の城戸会長に、商店街が取り組むまちづくりに関するヒアリング。城戸会長には夜10時30分までヒアリングに応じていただいた(感謝)。とても熱意を持った方で、この人がいるからまちづくりがうまく進んでいるんだな、と実感できる話だった。
成功しているまちづくりにはいくつかのタイプがあるように思う。そのうちのひとつが「キーマンが活躍する属人的発展型まちづくり」だといえるだろう。熱意のある人が中心になってまちづくりの活動や人脈などが広がっているタイプである。アサザプロジェクトの飯島さん、多摩ニュータウンの富永さん、そして大日6丁目の城戸さんは、それぞれこのタイプのキーマンである。
こういう人と話をしているといつもワクワクするし、自分のプロジェクトを省みつつ「まだまだできることがあるなぁ」と新たな発想を得ることができる。その一方で、属人型のまちづくりはキーマンの存在が重要すぎて、その活動をどう後世へ伝えていくのかが難しいことを実感する。
飯島さん、富永さん、城戸さんが、どのように後進を育ててプロジェクトを引き継ぐのか。NPOやまちづくりが一通り出揃ったこれからの社会では、重要なプロジェクトの引き継ぎ方が重要になると考える。価値のある活動だけに、1代限りで終わってしまうのは実に惜しい。その意味では、大企業がどのように創業者から2代目社長へ経営権を引き継ぐのか、などという事例が参考になるのかもしれない。
山崎
2008年1月24日木曜日
卒業制作とは恥ずかしいものである
この2日間、京都造形芸術大学の卒業制作審査会に出席した。建築デザインコース、ランドスケープデザインコース、地域デザインコースの3コースが合同で行う公開審査会である。大学生活4年間の集大成であり、1年間かけて作成してきた作品であると思うと、いずれも物足りないものばかりだったといえよう。同じ学生に同じ作品を3ヶ月でつくれといえば、きっと仕上げただろうと思える程度の作品ばかりだった。
実際、彼らが真剣に制作に取り組んだのは最後の1ヶ月間だっただろう。残り2ヶ月くらいはテーマ探しや基礎調査に費やしたとしても、合計3ヶ月で完成させられる程度の作品だというのは大げさな表現ではない。1年間あれば、もっと深く考えられるし、もっといろいろ表現できるし、もっと詳しく説明できるはずである。
このことは、学生の時間の使い方に大きく関係しているように思う。彼らに必要なスキルは、設計の方法や発想の奇抜さではなく、時間の使い方でありスケジュール管理の方法なのだということを感じる。いつまでに調査を終えるのか、いつまでにテーマを設定するのか、いつまでにどれくらいの図面を用意するのか、いつまでにプレゼンテーションパネルをどの程度作成するのか。そういうスケジューリングが重要であり、スケジュールに基づいて行動する力が求められる。
もうひとつ重要なスキルはプレゼンテーションスキルである。たとえ3ヶ月分の内容だったとしても、それを十分に相手に伝えることができればある程度の感動を与えることができるはずだ。ところが彼らは、3ヶ月分の作業内容を1週間分の作業内容に見せるようなプレゼンテーションを行う。伝えるべきことの半分も伝えられていない。逆に、伝えなくてもいいようなことに時間を使いすぎて、発表時間の終わりごろにやっと本題に入ることが多い。これはあまりにもったいないことである。
卒業制作のゼミを担当する場合、上記2点に徹するだけで学生の作品レベルはかなり上げられると思う。ただし、それは概ね作品の見栄えを上げるためのスキルアップである。本質的に卒業制作期間を通じて学生に伝えるべきことは「真剣に悩むこと」なんだと思う。極論すれば、「恥ずかしい結果を残すこと」であり、卒業制作を「トラウマ」にすることだといえよう。
社会に出たほとんどのデザイナーにとって「卒業制作」とは恥ずかしいものであり、改良すべき点が無数にあるものであり、できれば穴を掘って埋めておきたいものである。そんな「トラウマ」があるからこそ、それを乗り越えようとして実務に邁進することができる。人生の節目節目に思い出しては苦笑いし、今の自分は卒業制作のテーマに対してどんな回答を与えるだろうか、と自問自答する対象である。そんな卒業制作になれば、結果はどうであれ「これからの人生に効く」卒業制作となるだろう。こぎれいなパネルを作って、ちょっとした理論を構築したくらいで卒業制作の結果に満足してしまうと、その後にはあまり成長が望めない。卒業制作とは、本人が満足してしまうとマズイものなのである。
だから僕は「満足のいく卒業制作ができた」という言葉をあまり信用していない。どこまでも不満で、いつまでも恥ずかしいものこそ、卒業時の制作としてふさわしいのだと思う。
上記のようなことを考えながら、今年度の山崎ゼミを進めてきたつもりである。設計の手順を教えるわけでもなく、図面表現を教えるわけでもなく、スケジュールを管理するわけでもなく、プレゼンテーションの方法を教えるわけでもない。それらは、必要なら本人たちがどこかで学んでくればいいことである。むしろ、必要な議論に応じ、適切な疑問を投げかけ、しかるべき悩みを増幅させる。成果品に対しては、至らない点をたくさん指摘する。
大学4年の学生に対して僕ができることというのは、きっとそういうことくらいなんだと思う。
山崎
実際、彼らが真剣に制作に取り組んだのは最後の1ヶ月間だっただろう。残り2ヶ月くらいはテーマ探しや基礎調査に費やしたとしても、合計3ヶ月で完成させられる程度の作品だというのは大げさな表現ではない。1年間あれば、もっと深く考えられるし、もっといろいろ表現できるし、もっと詳しく説明できるはずである。
このことは、学生の時間の使い方に大きく関係しているように思う。彼らに必要なスキルは、設計の方法や発想の奇抜さではなく、時間の使い方でありスケジュール管理の方法なのだということを感じる。いつまでに調査を終えるのか、いつまでにテーマを設定するのか、いつまでにどれくらいの図面を用意するのか、いつまでにプレゼンテーションパネルをどの程度作成するのか。そういうスケジューリングが重要であり、スケジュールに基づいて行動する力が求められる。
もうひとつ重要なスキルはプレゼンテーションスキルである。たとえ3ヶ月分の内容だったとしても、それを十分に相手に伝えることができればある程度の感動を与えることができるはずだ。ところが彼らは、3ヶ月分の作業内容を1週間分の作業内容に見せるようなプレゼンテーションを行う。伝えるべきことの半分も伝えられていない。逆に、伝えなくてもいいようなことに時間を使いすぎて、発表時間の終わりごろにやっと本題に入ることが多い。これはあまりにもったいないことである。
卒業制作のゼミを担当する場合、上記2点に徹するだけで学生の作品レベルはかなり上げられると思う。ただし、それは概ね作品の見栄えを上げるためのスキルアップである。本質的に卒業制作期間を通じて学生に伝えるべきことは「真剣に悩むこと」なんだと思う。極論すれば、「恥ずかしい結果を残すこと」であり、卒業制作を「トラウマ」にすることだといえよう。
社会に出たほとんどのデザイナーにとって「卒業制作」とは恥ずかしいものであり、改良すべき点が無数にあるものであり、できれば穴を掘って埋めておきたいものである。そんな「トラウマ」があるからこそ、それを乗り越えようとして実務に邁進することができる。人生の節目節目に思い出しては苦笑いし、今の自分は卒業制作のテーマに対してどんな回答を与えるだろうか、と自問自答する対象である。そんな卒業制作になれば、結果はどうであれ「これからの人生に効く」卒業制作となるだろう。こぎれいなパネルを作って、ちょっとした理論を構築したくらいで卒業制作の結果に満足してしまうと、その後にはあまり成長が望めない。卒業制作とは、本人が満足してしまうとマズイものなのである。
だから僕は「満足のいく卒業制作ができた」という言葉をあまり信用していない。どこまでも不満で、いつまでも恥ずかしいものこそ、卒業時の制作としてふさわしいのだと思う。
上記のようなことを考えながら、今年度の山崎ゼミを進めてきたつもりである。設計の手順を教えるわけでもなく、図面表現を教えるわけでもなく、スケジュールを管理するわけでもなく、プレゼンテーションの方法を教えるわけでもない。それらは、必要なら本人たちがどこかで学んでくればいいことである。むしろ、必要な議論に応じ、適切な疑問を投げかけ、しかるべき悩みを増幅させる。成果品に対しては、至らない点をたくさん指摘する。
大学4年の学生に対して僕ができることというのは、きっとそういうことくらいなんだと思う。
山崎
2008年1月23日水曜日
政治家への近道は松下政経塾ではなく吉本興業なのか
大阪府知事選に橋下氏が当選した。38歳だという。いろんな不安はあるものの、知事としてはちょうどいい若さだと思う。若い知事にはできないことがたくさんあるだろうけれど、若い知事にしかできないこともまたたくさんある。にも関わらず、できないことばかりが強調されて、これまで30代の知事がほとんど誕生しなかった(橋下氏が戦後4人目だという)。経験が無ければ分からないことは、人生経験豊富なブレーンたちと相談すればいい。けん引役は、やっぱり若いほうがいいと思う。その意味では、知事というのはそもそもタレント的な要素を持っているものなのかもしれない。
ただし、タレントが軒並み当選するという昨今の選挙には首を傾げたくなるところが多い。有権者の判断に対して首を傾げたくなるのである。橋下氏も政策は強調せず、とにかくイメージ戦略で攻めたと公言する。政策というのは、とかく小難しくなるから、結局知名度と分かりやすさのイメージが重要になるのだろう。しかし、政治家が政策ではなくイメージだけで勝負できてしまうのであれば、当選後の政策にはほとんど期待できないし、そもそも期待してはいけないことになる。何しろ、有権者はイメージだけで投票しているのだから。「それでもいい」と考えての有権者判断なのだろうか。それとも、そんなことはほとんど考えていないのだろうか。
「選挙のデザイン」についても、同じような構図が当てはまりそうだ。僕は現在大阪府民ではないのだが、今回の「大阪府知事選挙選挙公報」を見る機会があった。新聞みたいなモノクロの紙で、すべての候補者が提出した原稿が掲載されたものである。そこには、顔写真やプロフィールや本人の主張や公約が掲げられている。
そのデザインが、いずれも「オシャレ」なものではないということが気になった。当選した橋下氏をはじめ、有力な候補者だった熊谷さんも梅田さんも、いずれもクールな紙面デザインではなく、分かりやすく、どこかで見たことのあるような、普通のデザインなのである。どちらかと言えば、わざと少しダサくしたようなデザインである。
そういえば、選挙のポスターや選挙公報については、カッコよくデザインされたものをあまり目にしない。その必要が無いのだろうか。最先端のデザインの力は、そこに効力を発揮しないのであろうか。
オシャレなデザインというのは、そのオシャレさゆえに人々との間に少し距離を作り出す。オシャレなレストランやセレクトショップなどに入るときの緊張感が典型的である。ちょっと特別なイメージをつくりだし、ユーザーの日常からの距離感を作り出す。この効果は、選挙公報やポスターに求められない種類の効果なのかもしれない。むしろ、親しみのわく、距離感を縮めて感じさせてくれるようなデザインが必要なのだろう。ちなみに、選挙公報の橋下氏の欄には、本人がラグビーボールを持って走るイラストが掲載されている。いわゆる有名デザイナーが絶対にやらないデザインである。
ひょっとしたら、現代の選挙というのは「一流」を隠すことが重要なのかもしれない。一流の政治家が政策を戦わせようとしても選挙に負ける。そんなに小難しいことは有権者に伝わらないからであり、そもそも有権者のほとんどが小難しいことを知りたがらない。それよりもタレントで知名度が高いことが重要なのである。小泉元首相のような劇場型の政治家がウケる。同様に、一流のデザイナーがデザインしたオシャレな広報は有権者にウケない。有権者は、もっと既視感の高いデザイン、どこかで見たことのあるような「親しみやすい」デザインを求めている。そういうことなのかもしれない。
しかし本当にそれでいいのだろうか、と首を傾げたくなるのである。
山崎
ただし、タレントが軒並み当選するという昨今の選挙には首を傾げたくなるところが多い。有権者の判断に対して首を傾げたくなるのである。橋下氏も政策は強調せず、とにかくイメージ戦略で攻めたと公言する。政策というのは、とかく小難しくなるから、結局知名度と分かりやすさのイメージが重要になるのだろう。しかし、政治家が政策ではなくイメージだけで勝負できてしまうのであれば、当選後の政策にはほとんど期待できないし、そもそも期待してはいけないことになる。何しろ、有権者はイメージだけで投票しているのだから。「それでもいい」と考えての有権者判断なのだろうか。それとも、そんなことはほとんど考えていないのだろうか。
「選挙のデザイン」についても、同じような構図が当てはまりそうだ。僕は現在大阪府民ではないのだが、今回の「大阪府知事選挙選挙公報」を見る機会があった。新聞みたいなモノクロの紙で、すべての候補者が提出した原稿が掲載されたものである。そこには、顔写真やプロフィールや本人の主張や公約が掲げられている。
そのデザインが、いずれも「オシャレ」なものではないということが気になった。当選した橋下氏をはじめ、有力な候補者だった熊谷さんも梅田さんも、いずれもクールな紙面デザインではなく、分かりやすく、どこかで見たことのあるような、普通のデザインなのである。どちらかと言えば、わざと少しダサくしたようなデザインである。
そういえば、選挙のポスターや選挙公報については、カッコよくデザインされたものをあまり目にしない。その必要が無いのだろうか。最先端のデザインの力は、そこに効力を発揮しないのであろうか。
オシャレなデザインというのは、そのオシャレさゆえに人々との間に少し距離を作り出す。オシャレなレストランやセレクトショップなどに入るときの緊張感が典型的である。ちょっと特別なイメージをつくりだし、ユーザーの日常からの距離感を作り出す。この効果は、選挙公報やポスターに求められない種類の効果なのかもしれない。むしろ、親しみのわく、距離感を縮めて感じさせてくれるようなデザインが必要なのだろう。ちなみに、選挙公報の橋下氏の欄には、本人がラグビーボールを持って走るイラストが掲載されている。いわゆる有名デザイナーが絶対にやらないデザインである。
ひょっとしたら、現代の選挙というのは「一流」を隠すことが重要なのかもしれない。一流の政治家が政策を戦わせようとしても選挙に負ける。そんなに小難しいことは有権者に伝わらないからであり、そもそも有権者のほとんどが小難しいことを知りたがらない。それよりもタレントで知名度が高いことが重要なのである。小泉元首相のような劇場型の政治家がウケる。同様に、一流のデザイナーがデザインしたオシャレな広報は有権者にウケない。有権者は、もっと既視感の高いデザイン、どこかで見たことのあるような「親しみやすい」デザインを求めている。そういうことなのかもしれない。
しかし本当にそれでいいのだろうか、と首を傾げたくなるのである。
山崎
2008年1月18日金曜日
2008年1月17日木曜日
2008年1月16日水曜日
アーバンスタイルラボ
夕方からスタジオにて「アーバンスタイルラボ」の打ち合わせ。
杉本さん(大阪府産業デザインセンター)、藤本さん(京都市立芸術大学)、山根さん(山根エンタープライズ)、藤井さん(大阪府)、八木さん(応用社会心理学研究所)が、それぞれ食べ物を持ち寄って集合する。
なかでも、山根さんが持ってきた巨大焼芋は圧巻。スタジオのスタッフも一緒に食べましたが、結局食べきることができませんでした(笑)。
山崎
杉本さん(大阪府産業デザインセンター)、藤本さん(京都市立芸術大学)、山根さん(山根エンタープライズ)、藤井さん(大阪府)、八木さん(応用社会心理学研究所)が、それぞれ食べ物を持ち寄って集合する。
なかでも、山根さんが持ってきた巨大焼芋は圧巻。スタジオのスタッフも一緒に食べましたが、結局食べきることができませんでした(笑)。
山崎
過激な未来像
昼から、21世紀文明セミナーにて限界集落の話をする。参加者は概ね60歳以上と見受けられる「人生の大先輩」たち。
話し終わった後の質問時間に、これから限界集落はどうなっていくのか?という問いがあった。「いずれ消滅するでしょう」という話に加えて、「長い眼で見れば集落だけでなく中小都市も消えるでしょう」と言った。県民の反応が見たかったから、あえて過激な未来像を提示してみたのだ。
ところが、予想に反して会場の方々は「そうだろう」という表情なのである。集落を存続させるために近隣の中小都市とネットワークしたところで、その中小都市も現在大変疲弊している。長い眼で見れば、中小都市も消滅するのではないか。すでにそんな気持ちがみんなの心の中にあったということだろう。
県民はすでに感じ取っている。関西で言えば、京都、大阪、神戸といった大都市以外の中小都市や集落はことごとく消滅する。そんな極端な未来像を、「別に極端ではないと思いますよ」とうなずいて受け入れることができる人たちがこれほどいるとは思わなかった。「なんてことを言うんだ!」「信じられない!」といったお叱りや反論をいただくのかと思っていた僕にとって、中小都市も含めた集落がすべて消滅するという未来像をすんなり受け入れたセミナー参加者に驚かされた。同時に、「こういう人たちとなら本質的な議論ができそうだ」と感じた。
山崎
話し終わった後の質問時間に、これから限界集落はどうなっていくのか?という問いがあった。「いずれ消滅するでしょう」という話に加えて、「長い眼で見れば集落だけでなく中小都市も消えるでしょう」と言った。県民の反応が見たかったから、あえて過激な未来像を提示してみたのだ。
ところが、予想に反して会場の方々は「そうだろう」という表情なのである。集落を存続させるために近隣の中小都市とネットワークしたところで、その中小都市も現在大変疲弊している。長い眼で見れば、中小都市も消滅するのではないか。すでにそんな気持ちがみんなの心の中にあったということだろう。
県民はすでに感じ取っている。関西で言えば、京都、大阪、神戸といった大都市以外の中小都市や集落はことごとく消滅する。そんな極端な未来像を、「別に極端ではないと思いますよ」とうなずいて受け入れることができる人たちがこれほどいるとは思わなかった。「なんてことを言うんだ!」「信じられない!」といったお叱りや反論をいただくのかと思っていた僕にとって、中小都市も含めた集落がすべて消滅するという未来像をすんなり受け入れたセミナー参加者に驚かされた。同時に、「こういう人たちとなら本質的な議論ができそうだ」と感じた。
山崎
2008年1月13日日曜日
竹の炭焼き
今日、竹の炭焼きに参加した。
僕はstudio-Lとは別に大阪産業大学内にNPO法人を立ち上げていて、その活動のひとつにチクリンチックというプログラムを企画・運営している。チクリンチックは、全国的に問題となってる竹林管理からでる竹の間伐材の有効活用を図るため、大阪府の大東市内に立ち上げたプロジェクトで、2006年から実施している。
2008年は竹炭の有効活用を図ろうと、あの手この手を考えていたのだが、最終的に水質浄化をやろうということにまとまった。できれば、竹炭を使う他のプロジェクトに負けないものとしたいものだ。
今日はその手始めとして、協力団体が定期的に行っている竹の炭焼きに参加した。僕自身、竹の炭焼きは初めてで、手伝っているのか、邪魔しているのかわからない結果となってしまったが、貴重な経験となった。この日は炭焼きだけで、窯は2月3日にあけるらしい。炭焼きに1日を要したため、いい結果を聞きたいと思う。
ちなみに、この日に大量の煙を浴びて体に臭いがこびり付いている。今後数日はこのにおいと付き合うことになると思う。
神庭
僕はstudio-Lとは別に大阪産業大学内にNPO法人を立ち上げていて、その活動のひとつにチクリンチックというプログラムを企画・運営している。チクリンチックは、全国的に問題となってる竹林管理からでる竹の間伐材の有効活用を図るため、大阪府の大東市内に立ち上げたプロジェクトで、2006年から実施している。
2008年は竹炭の有効活用を図ろうと、あの手この手を考えていたのだが、最終的に水質浄化をやろうということにまとまった。できれば、竹炭を使う他のプロジェクトに負けないものとしたいものだ。
今日はその手始めとして、協力団体が定期的に行っている竹の炭焼きに参加した。僕自身、竹の炭焼きは初めてで、手伝っているのか、邪魔しているのかわからない結果となってしまったが、貴重な経験となった。この日は炭焼きだけで、窯は2月3日にあけるらしい。炭焼きに1日を要したため、いい結果を聞きたいと思う。
ちなみに、この日に大量の煙を浴びて体に臭いがこびり付いている。今後数日はこのにおいと付き合うことになると思う。
神庭
2008年1月12日土曜日
大阪府立大学デザイン演習の合評
午後から大阪府立大学大学院のデザイン演習における合評に参加した。合評メンバーは、増田教授(大阪府立大学大学院)、下村准教授(大阪府立大学)、加我助教(大阪府立大学)、忽那氏(E-DESIGN)、長濱准教授(神戸芸術工科大学)、岩田氏(IXS)、西辻氏(現代ランドスケープ)、嘉名准教授(大阪市立大学)、武田講師(立命館大学)、近藤氏(PPI)、平井氏(ウル)、松下氏(ゆうゆう)、花村助教(大阪大学)、石浦氏(IXS)と僕の合計15名。
学生のデザインは、例年に増してデザインとマネジメントを両方考えたものが多く、共感を覚える作品ばかりだった。樹木や花を貼り付けだだけのランドスケープデコレーションではなく、アクティビティやプログラムやマネジメントをデザインと同等に検討したプランが多く見られたのはちょっとした驚きだった。学生の意識がかなり高くなってきているのかもしれない。今後が楽しみである。
山崎
学生のデザインは、例年に増してデザインとマネジメントを両方考えたものが多く、共感を覚える作品ばかりだった。樹木や花を貼り付けだだけのランドスケープデコレーションではなく、アクティビティやプログラムやマネジメントをデザインと同等に検討したプランが多く見られたのはちょっとした驚きだった。学生の意識がかなり高くなってきているのかもしれない。今後が楽しみである。
山崎
2008年1月10日木曜日
森田夫妻の仕事場
昼から、京都造形芸術大学で2回生の設計演習「ランドスケープカフェ」を担当する。その後、4回生の山崎ゼミで議論。ようやく、少し深い議論ができるようになってきた。あと2週間で卒業制作を仕上げなければならない。これ以上の議論は無用なので、あとは表現に徹するのみである。
夕方から、大徳寺近くで建築の設計などを営む森田夫妻の事務所へ。編集者の岡崎さん、アーティストの外村さん一緒に、森田夫妻の事務所で夕食。機織機が2台入っていたという京町屋の奥土間を改装したスペースはとても心地がいい。そのスペースで料理教室を主宰している奥さんによる料理はさすが!と唸らせるものばかり。ゆったりとした時間を過ごすことができた。森田さん、ありがとうございました!
山崎
夕方から、大徳寺近くで建築の設計などを営む森田夫妻の事務所へ。編集者の岡崎さん、アーティストの外村さん一緒に、森田夫妻の事務所で夕食。機織機が2台入っていたという京町屋の奥土間を改装したスペースはとても心地がいい。そのスペースで料理教室を主宰している奥さんによる料理はさすが!と唸らせるものばかり。ゆったりとした時間を過ごすことができた。森田さん、ありがとうございました!
山崎
2008年1月9日水曜日
都市をどうたたむか。
京都で、編集者の岡崎エミさん、後藤繁雄さん、多田智美さん、デザイナーの椿昇さん、原田祐馬さんと食事をする。途中から、アマナの児玉さんと八野さんが合流。
椿さんと「都市のたたみ方」についての話で盛り上がる。そろそろ、都市は拡大し続けるということが幻想だということにみんなが気づいているだろうから、誰かが都市をたたもう!と言わなければならない。そして、誰かがシンガリを勤めて見事に撤退して見せなければならない。そんな話で盛り上がった。
岡崎さん、面白い企画に仕立て上げましょうね!
山崎
椿さんと「都市のたたみ方」についての話で盛り上がる。そろそろ、都市は拡大し続けるということが幻想だということにみんなが気づいているだろうから、誰かが都市をたたもう!と言わなければならない。そして、誰かがシンガリを勤めて見事に撤退して見せなければならない。そんな話で盛り上がった。
岡崎さん、面白い企画に仕立て上げましょうね!
山崎
2008年1月8日火曜日
「牛乳豆腐」
みなさま、あけましておめでとうございます
本年もstudio-Lをどうぞよろしくお願い致します。
2008年最初のお客さまは、リビングデザイン編集長の岡崎エミさんです。
エミさんおもてなしメニューは、
・牛乳豆腐(できたてほやほや)
・れんこんきんぴら
・豚の角煮(薪ストーブで2日間煮込んだもの)
・三方六(北海道銘菓)
studio-Lは体育会系が多く、これだけでは足りないということで、エミさんにデパ地下でお惣菜を買ってきていただき、お土産までいただきました。ありがとうございます!
・3種類のサラダ
・バケット
・カニクリームコロッケ♪
・たこ焼き
・特大どら焼き
・ビールと秋田の日本酒
コンビニとか冷凍食品じゃないものが食べられる夕食って、とってもしあわせ。
西上
本年もstudio-Lをどうぞよろしくお願い致します。
2008年最初のお客さまは、リビングデザイン編集長の岡崎エミさんです。
エミさんおもてなしメニューは、
・牛乳豆腐(できたてほやほや)
・れんこんきんぴら
・豚の角煮(薪ストーブで2日間煮込んだもの)
・三方六(北海道銘菓)
studio-Lは体育会系が多く、これだけでは足りないということで、エミさんにデパ地下でお惣菜を買ってきていただき、お土産までいただきました。ありがとうございます!
・3種類のサラダ
・バケット
・カニクリームコロッケ♪
・たこ焼き
・特大どら焼き
・ビールと秋田の日本酒
コンビニとか冷凍食品じゃないものが食べられる夕食って、とってもしあわせ。
西上
2008年1月4日金曜日
21世紀文明研究セミナー
◆21世紀文明研究セミナー
財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構の研究結果やHAT神戸に集積する国際関係機関等、知的ネットワークの総力を地域へ還元するため、当研究機構の骨太の研究テーマとともに、多文化共生や防災支援、保険・医療、地球環境などの平和の技術に関して、主として、高度で専門的な知識を求める一般県民を対象にした「21世紀研究セミナー」を開催します。
テーマ:安全安心研究の現在(いま)
日時:1月16日(水)15:30-17:00
講師:山崎亮((財)ひょうご震災記念21世紀研究機構安全安心社会研究所主任研究員)
石田祐((財)ひょうご震災記念21世紀研究機構安全安心社会研究所研究員)
入江寿大((財)ひょうご震災記念21世紀研究機構安全安心社会研究所研究員)
場所:兵庫県立神戸学習プラザ
〒650-0021 神戸市中央区三宮町1-10-1神戸交通センタービル4F
受講料:無料
募集人員:40名程度
主催:財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構
山崎
財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構の研究結果やHAT神戸に集積する国際関係機関等、知的ネットワークの総力を地域へ還元するため、当研究機構の骨太の研究テーマとともに、多文化共生や防災支援、保険・医療、地球環境などの平和の技術に関して、主として、高度で専門的な知識を求める一般県民を対象にした「21世紀研究セミナー」を開催します。
テーマ:安全安心研究の現在(いま)
日時:1月16日(水)15:30-17:00
講師:山崎亮((財)ひょうご震災記念21世紀研究機構安全安心社会研究所主任研究員)
石田祐((財)ひょうご震災記念21世紀研究機構安全安心社会研究所研究員)
入江寿大((財)ひょうご震災記念21世紀研究機構安全安心社会研究所研究員)
場所:兵庫県立神戸学習プラザ
〒650-0021 神戸市中央区三宮町1-10-1神戸交通センタービル4F
受講料:無料
募集人員:40名程度
主催:財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構
山崎