2005年1月30日日曜日

「美の問題」

六本木ヒルズの森美術館で「アーキラボ」という企画展が開催されている。この展覧会にあわせて東京と大阪でシンポジウムが行われるというので、さっそく会場へ出かけてみる。大阪会場は万博公園にある彩都IMI大学院スクール。ゲストは加藤晃規さん、宮本佳明さん、長坂大さん、そして藤本壮介さん。アーキフォーラムでお世話になっている面々だ。

この日の議論で印象的だったのはカタチの話。最近、カタチの美しさを褒め称える態度に出会うことが少なかった僕にとって少し新鮮な議論だった。ともすれば「単なるカタチの問題なんて」ということになってしまうデザインの問題を、もう一度ひっくり返して「やっぱりカタチでしょう」と語っているのが面白かったのである。

議論がカタチの問題へとシフトするきっかけになったのは藤本さんの発言。藤本さんは、アーキラボ展に出展しているフランスのフィリップ・モレルさん(EZCT Architecture & Design Reserch)が自作の説明に用いた言語を俎上に上げた。例えば、3DCGで描かれたぐにゃぐにゃな建築を、モレルさんはこう説明したと言う。「13の無限極と12の水平域によってできあがるヴァイア-シュトラス複素数関数を平準化した形態」。

藤本さんは、この説明に対して言う。「何のことやらさっぱり分からない」。そして続ける。「建築は人が生活する空間である。それを単なるカタチの理論だけで語るのは何か物足りない。僕は空間を建築の理論として語りたいと思う」。

藤本さんの発言は、デザインを巡る昨今の議論のなかでよく耳にする類のものだ。プログラム至上主義に繋がる考え方かもしれないが、僕はこの意見に概ね賛成である。

ところが、加藤晃規さんは少し違った視点を提示した。カタチの理論が空間の行為を連想させることもあるのではないか、というのである。例えば公共性の定義をこんなふうにしてみる。「公共性とは、公共空間における行為の特性である」と。

この定義は、一見何も説明していないように思える。しかし、公共空間における人々の利用形態から、その場所の公共性が読み取れることを僕たちは経験的に知っている。あるいは、公共空間における「空間形態」がどんな「利用形態」を生み出すのかをよく理解している。つまり、公共空間の空間形態(カタチ)が利用形態(行為)を生み出し、利用形態がその場所での公共性を生み出しているのである。

カタチが行為を連想させる。このことを宮本佳明さんは「機能は形態に宿る」と表現する。ここから、カタチと美についての話が展開することになる。

この話の展開の中で面白かったのは加藤さんの意見。一般的に、建築のカタチを考える時は「用/強/美」が大切だとされている。ところが「用(機能や用途)」は時代によって変化するもので信用できない側面である。「用」に基づいて設計を進めれば、求められる機能や用途が変わった瞬間に使えない建築ができあがってしまう。だから「用」に従って建築のカタチを決定すべきではない。

「強(構造)」については、すでに耐震構造や免震構造などの技術が発達しており、あらゆる重力の制約を克服している。だから「強」が建築のカタチを決定する主要因にはなり得ない。

そのうえで加藤さんは、建築が「美」の問題を取り扱うことの重要性を説く。地域や時代によって変化する「用」や「強」の問題ではなく、普遍性を持った「美」の問題を取り扱うべきである、と。「美」の問題こそが世界標準なのであり、いつの時代/どの場所でも「自分にとっての美の問題」は変わらない、というのだ。

自分が美しいと思うもの。建築の用途や機能や構造に依拠するのではなく、自分が美しいと思う建築を作ることが地域や時代を超えた名作を作ることに繋がる。加藤さんの提言は非常に力強いものであり、魚の鱗が美しいとするフランク・ゲーリーのデザインポリシーに似たものを感じた。

シンポジウムの最後に会場から面白い質問があった。自分が美しいと思うものをみんなも美しいと思うだろうか、という質問。建築は社会的な存在である。独りよがりな美しさに基づいて建築を作ることが、本当に万人にとって美しい街を作ることに繋がるのだろうか、という疑問を抱いた学生の質問だった。

「個人的な美を突き詰めると、かなり深いところで他人と共有できる美を見つけ出すことができる」というような答えが返ってくるのかと思った。しかし加藤さんの答えは違っていた。「自分が美しいと思うものをみんなが美しいと思うなんてことはあり得ない。自分の嫁さんですらぜんぜん好みが一致しないのだから」。

おや?

誰とも共有できない「美」の問題を僕らが学ぶ意味はあるのだろうか。独りよがりの美に依拠して建築を設計すればいいというのだろうか。

最後の最後で論理矛盾を露呈したまま会場を去る加藤さんに対して、僕はフランク・ゲーリーの後姿に似たすがすがしさを感じていた。


ビルバオ・グッゲンハイム美術館
(設計:フランク・ゲーリー)


■追記01:
個人の美が他人の美と一致しないことは、地区の景観を考える際にも顕在化する問題である。ある地区が目指すべき景観を考えていくプロセスで、多様な美意識をどう統合していくのかが僕らに問われている。地区の景観の全体像は誰が決めるのか。景観の専門家か、住民の総意か、代表者の合議か、権力者か。昨今の景観行政では、「全体性の決定手法」や「民意の取りまとめ方」が問題になっている。当然、僕らも僕らなりの手法を見出しておかなければならないだろう。

■追記02:
ところがそこにもうひとつの問題がある。景観法に関わるほとんどの委員会に、いわゆる「ランドスケープアーキテクト」は呼ばれていないのである。各地の景観委員会における主なメンバー構成は、建築/土木/都市計画/法律/経済。景観(ランドスケープ)を職能に掲げる造園分野から景観委員会へ出席しているケースは稀である。景観法に関する書籍を執筆しているメンバーも工学系や法学系が多い。どうやら、農学系ランドスケープアーキテクトは、都市景観を語る際に必要とされていないようだ。造園へ引きこもるか、工学のフィールドへ打って出るか。僕らが考えなければならない問題がここにもある。

■追記03:
造園に引きこもるとしても、デザインに使える言語が少なすぎるのは問題である。今回は否定的に扱ったEZCTであるが、彼らが持つデザイン言語の豊富さは見習うべきものがある。EZCTがカタチを生み出すために用いている関数は、前述のヴァイア-シュトラス複素数関数やgggRibbon関数など多数。提唱している概念は神経系市場主義や積分系資本主義。生命資本主義的景観という考え方についても研究している。ランドスケープデザインがグリッドや地形を使いまわしている間に、世界では新しいカタチが生み出され続けているのである。

山崎

2005年1月29日土曜日

「居場所の建築」

INAX大阪で開催されたアーキフォーラムにコーディネーターとして参加する。ゲストは藤本壮介さん。

藤本さんは、2つの理由から是非とも話を聞いてみたかった人だ。

ひとつ目は、藤本さんのデザインアプローチと僕らのデザインアプローチの親和性が非常に高いということ。緩やかな空間領域を設定し、領域同士の関係性を組み立てるプランニング。利用者が空間を読み取って使いこなすことができるようなデザイン。僕らが「マゾヒスティックアプローチ」と呼んでいるデザイン手法を、既に藤本さんは共有しているような気がしてならない。

ふたつ目は、本人の言説によく登場する「弱い建築」というキーワード。隈研吾さんの「負ける建築」と比較されることもあるが、両者は本質的な違いを持っているように思う。「弱い建築」は、空間に対する利用者の多様な読み取りと使いこなしを前提にしている。一方、「負ける建築」は建築の建ち方の問題であり、そこに利用者による空間の使いこなしという視点は無い。

講演のタイトルは「Space in No Intention」。意図のない空間。意訳すれば「押し付けがましくない空間」ということになるだろうか。藤本さんは、押し付けがましくない空間のつくり方について以下の5点を挙げた。
・居場所
・部分からの建築
・形のない建築
・離れていて、同時に繋がっている
・レイアウトではなく新しい座標系を

これらのキーワードを用いて、藤本さんは自作である聖台病院、青森県立美術館のコンペ案、N-House Project、伊達の援護寮、T-House Project、安中環境アートフォーラムなどについて発表した。

聖台病院では、部屋と部屋を繋ぐ「廊下」を作るのではなく、小さなリビングルームが連なった「廊下のような役割を果たす空間」を作り上げている。この考え方は、青木淳さんがかつてよく使った「動線体」に近い。

青森県立美術館のコンペ案では、抑揚によって「場」を作り出そうとしている。ここで藤本さんは、「行き当たりばったり」と「全体の統一」を両立できないか模索したと言う。参照したのは有名なイリヤ・プリゴジンの「混沌からの秩序」。森における木と木の関係のように、部分と部分の関係が全体を作るような方法を探っている。「時を越えた建設の道」の著者、クリストファー・アレグザンダーの視点と共通するものを感じる。


聖台病院


青森県立美術館コンペ案


N-House Projectでは、動物の巣にようなものを作りたかったそうだ。350mmの段差が、空間の新しい利用方法を見つけるためのきっかけになっている。その段差について、青木淳さんから「椅子と机はうまく機能するかもしれないが、収納部分は荷物が見えてしまって雑然としてしまうのではないか」と指摘されたことがあるそうだ。しかし藤本さんは「雑然さが秩序だてられるような状態」を作り出したいと考えているのだと言う。なかなか難しい課題である。

伊達の援護寮では、基本図形が少しずつズレながら繋がっている状態を空間化している。ユニバーサルスペースのように均質な空間の連続ではなく、リズム感のある空間体験をユーザーに提供したいそうだ。楽譜に例えれば、音符を均質な箱に並べる五線譜が消えた状態。音符同士が直接関わり合うダイナミックな状態を目指している。


N-House Project 


伊達の援護寮


T-House Projectでは、ル・コルビュジエの「住宅は住むための機械である」に対抗して「住宅は住むための場である」という考え方で設計を進めている。生活にフィットした機能的な空間を提供するのではなく、生活者が居場所を見つけられるような空間の設計。居場所同士の関係性を何度も検討したそうだ。

安中環境アートフォーラムでは、「離れていて同時に繋がっている状態」を目指したと言う。離れていることに価値があるということを空間的に表現したプラン。湾曲する壁面によって緩やかに空間を分節すると同時に、それぞれの空間相互はしっかり結び付けている状態を作り出している。


T-House Project 


安中環境アートフォーラムコンペ案


藤本さんの建築が魅力的なのは、利用者の「居場所」を作り出そうとしている点だろう。しかし、「居場所」を巡る設計というのは難しいものである。「居場所」のための空間をユーザーに提供してしまうと、そこは「居場所」たり得なくなる。なぜなら、「居場所」は人から与えられるものではなく、自分で獲得する場所なのだから。

文部科学省が推進する「居場所づくり事業」は、小学校に児童の居場所を設置する事業である。大人に与えられる「居場所」空間は、きっと児童にとって本当の居場所にはなり得ないだろう。児童が自分で選び取る場所こそが、1人ひとりにとっての「居場所」になるのである。

利用者が場所を使いこなすことによってのみ「居場所」は出現する。「ここでゆっくり休みなさい」とか「この方向を向いて座りなさい」というような記号的空間は居場所になり得ない。利用者本人が「この場所ならゆっくり休めそうだな」とか「この高さなら座ることができそうだな」と読み取るような空間こそが居場所へと変異する可能性を秘めている。

とはいえ、何の読み取りも許さないような均質空間ではまずい。空間を使いこなす「きっかけ」が無くなってしまうからだ。記号的である必要はないが、利用者が空間に関わるきっかけは必要なのである。

人々が空間を読み取って、自分だけの居場所を作り出すことを可能にする建築。その建築は、従来のように空間の使い方を明示した「強い建築」ではなく、利用のきっかけだけを与える「弱い建築」であるべきである。つまり、藤本さんの「弱い建築」は、利用者が「居場所」を見つけ出すための空間を作りたいという本人の強い意志の現れなのである。

「Space in No Intention」と藤本さんは言うものの、メタレベルの空間には強い「Intention」が横たわっているようだ。そういえば、藤本さんは「独裁者になりたい」と言っていた。あの言葉は、藤本さんが自分の思考を忠実にトレースした結果の表れなんだと思う。


藤本壮介さん

山崎

2005年1月27日木曜日

「ランドスケープアーキテクトの再定義」

仕事で上京したので、夕方から東京大学の大西研究室を訪問した。大西隆さんは「逆都市化時代」の著者である。「逆都市化時代」は、以前「地域開発」の原稿を書く際に購入し、これまでに何度も読み返した本である。人口減少時代を都市計画の視点から論じた著書はそれほど多くなく、現在のところ大西さんの「逆都市化時代」と蓑原敬さんの「成熟のための都市再生」しか出版されていない。

大西さんが「逆都市化時代」のなかで示している問題構成は、僕が危惧している郊外住宅地の問題を含んでいる。日本の都市が成長の時代を終えて収縮の時代(逆都市化時代)を迎えているという現状認識。小さくなっていく都市を僕たちはどう取り扱うべきなのかという問題意識。そこに郊外住宅地の将来像を考えるきっかけがある。大西さんに郊外住宅地の将来像とはどんなものなのかを尋ねてみた。

大西さんのビジョンは、世帯数が減少することによって郊外住宅地の「ゆとり」が増すだろうというものだ。しかし、最近のニュータウンを調査した僕には、世帯数が減って空き家や空き地が増え始めている郊外住宅地から「ゆとり」を感じることができなかった。どうすれば今後「ゆとり」のある郊外住宅地を誕生させることができるのだろうか。

ゆとりある郊外住宅地の作り方について大西さんに尋ねると、逆都市化の手法をひとつ教えてくれた。空き地や放棄田を敷地統合し、1/3を宅地、1/3を農地、1/3を森林として整備する。整備後の土地の資産価値を公平にするため、宅地の売り上げを農地や森林の売り上げへと補填する。このようにして、敷地全体で一定の資産価値を担保しつつ、徐々に農地や森林の面積を増やしていくというのである。まさしく「逆都市化の計画手法」である。大西さんはこの手法のことを三分法と呼んでいた。

また、都心部のランドスケープにおける人工的要素と自然的要素の調和についても話し合った。例えばお城を見るとき、僕らは天守閣だけを見ているわけではない。無意識的に背後の土塀や樹木や石垣を天守閣とセットで眺めている。つまり、天守閣や土塀という人工物と、樹木や石垣という自然物をセットで観察しているのである。日本人の風景観というのは、このように自然物と人工物が混ざった風景を好むという特徴があるのではないだろうか。

その証拠に、天守閣の無い城址公園なら風景として受け入れることができるものの、天守閣だけが建っていて土塀や樹木や石垣や堀のない状況は風景として受け入れにくいものである。天守閣だけが建っている状態は、安物の土産物屋かラブホテルのようなキッチュさを伴う。特に日本の都市景観を検討する際には、人工物と自然物の調和を真剣に考えるべきだろう。そのためには、都市内の農地を都市計画のなかにしっかりと位置付ける必要がある。

宅地や農地や森林をセットで取り扱うこと。人工物と自然物を組み合わせて都市の風景を創りだすこと。都市内農地を都市計画のなかに位置付けること。風景を創るということは、敷地境界を越えるだけでなく専門分野の境界も越えて取り組む必要がある。一般的なランドスケープデザイナーは敷地の周辺についても考慮していると言うが、考慮しているだけでは都市の風景など変わらないだろう。逆に、考慮していた周辺敷地のほうが突然変化してしまうこともあり得る。本当に美しい風景を創りしたいのなら、単なる「オープンスペースデザイナー」ではなく、領域や職域を横断する「アーバンデザイナー」か「シティプランナー」の仕事をすべきなのかもしれない。そして、美しい風景を作り出すアーバンデザイナーやシティプランナーが現れたとき、改めてその人のことを「ランドスケープアーキテクト」と呼んだほうがいいのかもしれない。

大西さんとの話が終わった後、大西研究室の瀬田さん、片山さん、斉藤さん、そして大学院生4人と一緒にベトナム料理を食べに行った。大学院生たちは相互に仲が良く、瀬田さんや片山さんや斉藤さんを交えて非常に楽しい時間を過ごすことができた。大西研究室のみなさんに感謝する次第である。

山崎

2005年1月26日水曜日

「堺市での発表」

午後6時から、堺市役所でランドスケープエクスプローラーの活動を発表する。

堺市の中心市街地活性化を検討している会議がある。これまで3回の検討を重ねてきたそうだ。その会議で、ランドスケープエクスプローラーで実施したフィールドワークや提案の内容を発表することになったのである。

発表に対する反応はとても良かった。過去3回の会議で議論していたことに対する方向性を示す提案もあったらしい。同じ問題について真剣に議論している人たちは、他者の提案に対しても真摯な態度で接することができるようだ。堺市の中心市街地で僕らの提案を実現してみたくなった。

会議のなかで印象に残った議論は以下のとおり。

・高島屋の前に自転車が多く放置されている。この自転車を整列していると、駐輪する人のモラルがよく分かる。最近は若い人のほうが高いモラルを持ち合わせているように思う。

・「美しい竹林」というのは、唐傘を差して歩くことのできる間隔で竹が生える状態を言う。

・竹林で演奏会をすると、竹の葉が天井の役割を果たして音響効果を発揮する。空洞になった竹が立ち並ぶことも含めて、竹林は優れた音響効果を持つ空間なのではないだろうか。

・商店街のアーケードも音響効果を発揮するだろう。細長い商店街を仮設的に分節化し、各々のアーケード分節空間で演奏会をすると面白いのではないか。

・店主が店の前を掃除するだけで、道路の防犯効果が高まることがある。通学時間帯に店の前を掃除するようにすれば、子どもたちを犯罪から守ることができるかもしれない。毎日5軒に1軒が店前を掃除するようにすれば、各店主は1週間に1度だけ通学時間帯に掃除すればいいことになる。これはそれほど大きな負担ではないだろう。

山崎

「富永一夫さん」

来年の4月から多摩NTで住み替え支援事業を開始するNPOフュージョンの富永一夫さんに会う。午前中に住み替え支援事業の窓口となる事務所予定地を見学した。京王多摩センターの駅前、京王プラザホテル多摩の3階に事務所が入る予定の部屋があった。ここは京王多摩センター駅からペデストリアンデッキで南に向かってすぐの場所である。駅前の一等地だといえよう。そんな場所に、住み替え支援事業の窓口を設置するのだという。富永さんは言う。「NPOの活動拠点は、雑居ビルの1室から事業を始まって、活動が認められてきたら駅前に進出するというのが一般的。しかし、住み替え支援というのは住み替える人の余生をかけた勝負なのである。雑居ビルの1室に住み替えを相談しにくる人はいない。明るい雰囲気で、アクセスしやすく、信頼できる場所にある窓口でなければ住み替え支援事業は失敗するだろう」。

その後、多摩センターから長池公園へと移動して、長池ネイチャーセンターを視察する。ここは富永さんが理事長を務めるもう1つのNPO「フュージョン長池」が管理する公園施設である。NPOフュージョン長池は、来年の4月から長池公園の指定管理者になることが決まっている。そのセンターで富永さんの話を聞いた後、一緒に内閣官房都市再生本部へと移動する。

都市再生本部では、富永さんの話を聞きたいということで事務局長以下20人ほどの人達が会議室に集まっていた。都市再生本部というのは面白い人員構成である。都市再生本部で働く人達は、国土交通省からの出向や東京都、大阪府、愛知県など、大都市を抱える府県からの出向などがほとんど。各地の都市再生事業を審査し、適切な事業を選び出して支援することが主な仕事なのだから、各都市の実情をよく知っている必要があるのだろう。現場をよく知る人達が集まっている、という印象を受ける。家島地域での活動について、姫路市を通じて都市再生本部に事業応募してみたいと感じた。

それにしても、富永さんは不思議な人である。初めて会ったのは、兵庫県阪神北県民局が主催する「ニュータウン再生研究会」。その仕事をお手伝いしていた僕に対して、ゲストスピーカーとして会場に訪れた富永さんは「次の会合へ一緒に行かないか」と誘ってくれた。たまたま次の予定が無かった僕は、富永さんとともに大阪府住宅局との打合わせに出席することになる。その席で千里ニュータウンでも住み替え支援が検討されていることを知った。そして今回もまた、富永さんは都市再生本部に僕を連れて行ってくれた。いろんなところへ連れて行ってくれて、いろいろな刺激を与えてくる人である。

山崎

2005年1月24日月曜日

「空間を使いこなす」

大阪府立大学の農学部に緑地計画の研究室がある。この研究室がランドスケープデザインの演習発表会を開催するということで、批評者として会場の末席に座る。

デザイン演習のテーマは「使いこなす」。このテーマには2つのスケールが含まれる。ひとつは「空間を使いこなす」というスケール。もうひとつは「都市を使いこなす」というスケール。いずれも、利用者の主体性を前提としたテーマである。

発表者は10名。そのほとんどは、「空間を使いこなす」というスケールで設計を進めていた。多様な読み取りが可能な空間を作ることで、人々が主体的に空間を読み取って「使いこなす」。記号的なデザイン(座るためのベンチや歩くための園路など)を廃し、地形の起伏だけで「座る」「寝転ぶ」「歩く」などの行為を受け止めるデザイン。利用者が主体的に空間を読み取ることによって成立するデザインである。

この種のデザインで難しいのは、利用者が空間を読み取るきっかけをどう設定するのかということだろう。利用者の読み取りを容易にしすぎると、記号的な空間ができあがってしまう。記号的な空間は、示された意味内容以外の利用を発生させにくい。ベンチという記号は座る行為以外を排除する。だからなるべくどっちつかずな形態が求められることになる。座ってもいいし、寝転んでもいいし、そこを歩くこともできそうだと思えるような空間。どこからが座る場所で、どこまでが寝転ぶ場所か分からないような空間。利用者の多様な読み取りを可能にする空間。

ところが、その空間を具体的に示す段階なると急に汎用なデザイン言語が顔を出す。その言語は「地形」。地形の起伏を作ることで、座るとも寝るとも歩くとも判断できない空間を作り出そうとする。それ以外のデザイン言語が見つからないのだろうか。発表した大学院生のプランは、多くが「地形」を利用したものだった。芝生の地形、コンクリートの地形、木製デッキの地形、エキスパンドメタルやパンチングメタルの地形。

地形が間違った解答だというつもりはない。しかし、地形の起伏だけですべての利用者が空間を読み取れると信じ込むのはまずい。芝生の起伏に腰をかけたくない人だっているし、そこを人が歩けば芝生は剥げてしまうかもしれない。雨が降った後の芝生マウンドは何も読み取らせてくれないだろうし、濡れた木製デッキの地形は滑りやすい。夏場のパンチングメタルに寝転ぶことなど不可能だろう。真っ白に塗装されたコンクリートの地形がどれだけの照り返しを発生させるのかは想像に難くない。

僕らは「地形の起伏」以外のデザイン言語を見つけ出さなければならない。天候や季節によって利用者が空間を選択できるように、多様な読み取りが可能なデザイン言語も複数用意しておくべきなのである。

例えば建築家の藤本壮介さんが提示した「N-HOUSE」というプロジェクトは、350mm間隔でスラブを積み重ねた住居である。350mmなら座る場所になるし、2段分の700mmなら机になる。3段分の1050mmなら棚になるだろう。それぞれの高さを住人が読み取って空間を使いこなす。このプロジェクトでは「積層」というデザイン言語が採用されている。

週末の「archiforum」は件の藤本さんをゲストに迎える。大阪府立大学の大学院生には、ぜひとも会場で新しいデザイン言語を見つけ出してもらいたい。

山崎

2005年1月23日日曜日

「エデンプロジェクト」

午前10時からガキクラの勉強会に出席。

講師は「人と自然の博物館」の宮崎研究員と客野研究員。イギリスのエデンプロジェクトを視察した2人から、プロジェクトの概要を説明してもらった。興味深かった点は以下のとおり。

・同じくイギリスのKEWには植民地時代に世界から集めた植物があった。ところがEDENにはそういうストックがない。敷地も陶土採掘跡地で草一本生えていない。その状態から植物園を作るにあたって、プロデューサーはストーリーを作った。荒廃した土地を楽園にするストーリー。僕たちの生活がどれだけ植物に頼っているのかを理解するストーリー。世界の文化と植物との関係を示すストーリー。いくつものストーリーがエデンプロジェクトを支えている。

・ケーキを作る際の材料がほとんど熱帯雨林地帯から持ち込まれていることを示す展示、コカの木の横にコカコーラの缶で作った木を立てる展示、ゴムの木の前に設置されたタイヤのベンチ、山火事が起きた後の森林を再現した展示、汚れた食器が溜まったキッチンに這う生きたゴキブリの展示など、僕たちの生活と植物との関係にフォーカスした展示が多い。

・研究者は園内ガイドに向いていない。研究者は、来園者が何を知りたいと思っているのかが分からないから、自分の知っていることをすべて話そうとする。園内をガイドする人は、自分が伝えたいことではなく来園者が知りたいことを提供する必要がある。

・プロモーションがうますぎるため、実際に現地へいくとがっかりする側面も多い。ただし、逆に夜間の照明や音楽や踊りなど、パンフレットやホームページでは読み取れなかった魅力に出会うことも多い。

勉強会のなかで、宮崎研究員がエデンプロジェクトを紹介するビデオを見せてくれた。敷地が植物で覆われる前の陶土採掘跡地の映像がたくさん登場する。計画地上空をセスナ機で飛んで撮影したであろう航空映像も登場する。整備が始まる前からプロジェクトの一部始終を映像で残しておくことの重要性を実感した。ユニセフパークプロジェクトの敷地が荒廃した里山だということを映像に残しておくべきである。

夕方からは、同じく「人と自然の博物館」の赤澤研究員の結婚記念パーティーに出席する。以前、同博物館の運営計画の策定を手伝ったこともあり、当時議論した懐かしい研究員たちとの再会を楽しむことができた。また、赤澤研究員とは大学の研究室が同じだったため、研究室の先生や先輩後輩と久しぶりに再会することができた。


エデンプロジェクト


エデンプロジェクトの夜景

山崎

2005年1月22日土曜日

「都市計画と建築形態」

昼から「archireview」に出席する。テーマは丹下健三さんの広島ピースセンター。コーディネーターは遊墨設計の仙入洋さんと林佩樺さん。ゲストは広島大学でコルビュジエを研究している千代章一郎さん。

千代さんは、自分の研究対象であるコルビュジエを参照しながら丹下さんのピースセンターについて語った。ピロティーはそもそも人間や自動車が1階部分を通過するための空間である。建築物が建つことで途切れてしまう動線を確保するために、建物のボリュームを空中に浮かすことが狙い。この操作によって、1階部分のピロティー空間は人々の自由な移動を可能にする。広島ピースセンターの建物が宙に浮いて、その下を人々が通過できるようになっているのは、まさに「ピロティーの正しい使用法」である。ピースセンターは、ピロティーを用いることで広島平和記念公園におけるゲートの役割を果たしている。

これに対して、コーディネーターの仙入さんが疑問を呈した。丹下さんのコンペ案では、ピースセンターというゲートを通り抜けた先に大きな台形の芝生広場が横たわっている。実はこの芝生広場、8月6日の平和記念式典以外の日は立ち入り禁止なのである。現状は芝生広場の中央に園路がつくられているものの、初期案ではピースセンターを潜り抜けた来園者は件の芝生広場を迂回するかたちで公園内へ進まなければならなかった。そう考えると、丹下さんは本当にピースセンターのピロティー空間を人々の通過空間(ゲート)だと認識していたのかどうかが怪しくなる。

確かに指摘どおり、ピースセンターの北側には立ち入り禁止の芝生広場が位置している。エントランスから原爆ドームへのビスタは明確に通っているものの、そのビスタ上を直線で歩くことはできないような空間構成になっている。そのほかにも、原爆死没者慰霊碑や元安川がビスタ上に位置するため、エントランスから原爆ドームへ直線でアプローチすることはできない。

恐らくこのことが平和記念公園の大きなコンセプトだったのではないだろうか、と僕は思う。つまり、原爆ドーム、原爆死没者慰霊碑、原爆資料館という「原爆の歴史」をつなぐ南北軸は象徴のビスタであり、視線でしかアクセスできないものとする。一方、東西方向の100m道路、平和大橋、西平和大橋という「復興のシンボル」をつなぐ東西軸は活動の軸であり、実際に歩いてアクセスできるものとする。「視線のアクセス」と「歩行のアクセス」を一致させないこと。これが平和記念公園の平面計画におけるコンセプトだったのではないか。

だとすれば、ピースセンターは2つの軸(歴史の軸/復興の軸、視線の軸/歩行の軸)が交差する部分に建っていることになる。なぜピースセンターは東西に長い形態なのか。どうして1階部分がピロティーになっているのか。ピースセンター南側のプラザがヴォイドなのはどうしてか。こうした問題は、交差する2つの軸とピースセンターとの関係性から読み解くべきなのかもしれない。

千代さんも、建築単体を見るのではなく、都市計画と建築形態を相互に参照しながら建築の問題について考えることの重要性を強調した。都市計画的視点を持ちながら建築計画について語ることができる数少ない研究者らしい意見である。コルビュジエ研究のみならず、都市計画や日本庭園史を研究した経験を持つ千代さん。近視眼的で局所的になりがちな建築の議論を相対化しながら論じる態度は見習うべきものがある。

その他、興味深かった話は以下のとおり。

・原爆ドームは、戦前から有名な建築物だった。広島で高校生活を送った丹下さんは、戦前の原爆ドームが広島市民にとってどれくらい重要なものだったのかを熟知していたのではないか。平和記念公園におけるビスタの計画は、丹下さんの広島生活から生まれたアイデアだったと考えられる。

・丹下さんは、ほかの人のデザインボキャブラリーを引用して組み合わせるのがうまい人だったのではないか。オリジナルの形態を生み出すというよりは、既にあるボキャブラリーを編集する能力に長けていたように思う。

・コルビュジエはビスタを嫌っていた。ビスタというのは「この場所から見なさい」と見る者の視点を縛り付けるものである。しかし、人間は移動しながら見る生き物。だからコルビュジエは動的な視点場の設定に努めていた。

・コルビュジエは、建築を感覚でつくり、都市計画を論理でつくる人だったのではないか。

・アーバニズムというのもひとつの「イズム」である。それは、都市の公共性を考える主義主張であり、都市の公共空間を充実させる必要があると訴える主義主張である。

・神が死んでしまった現代において説得力を持つのは「環境」しかないだろう。かつて「神」と言われると反論できなかった問題群が、現代では「エコ」の問題として扱われている。建築家は「屋根の上に草が生えているなんてかっこ悪い」という世論が「屋根の上に草が生えていることがかっこいい」ということになるような美学を打ち立てなければならない。建築の実践を通じて、エコ時代の新しい美学を確立させてほしい。


広島平和記念公園設計協議における丹下案(一部)

山崎

2005年1月20日木曜日

「貸本屋というレクリエーション」

夕方から四ツ橋にある「ちょうちょぼっこ」という貸本喫茶へ行く。貸本屋というとレトロなイメージだが、店内は本が多いカフェといった感じ。

最近はカフェにオーナーの趣味を反映した本が並んでいることも多い。うちの事務所の近くにある「カフェ天人(アマント)」「コモンカフェ」にも、オーナー所有の本が並んでいる。カフェを主として運営するのか/本を主として運営するのか、という違いはあるものの、僕にとってはどちらも居心地の良い空間である。

「ちょうちょぼっこ」は週末のみの営業。4人の若い女性が趣味の活動として交代で店に立つ。貸本は会員制で1週間100円/冊。喫茶利用の場合は自由に本を閲覧することができる。古本コーナーもあるので、気に入った本が見つかれば購入することもできる。

同じく週末だけ営業する古本屋が中崎町にある。「soramimibunco」という古本屋。60-70年代の建築やデザインの書籍を中心に扱う古本屋で、若い男女が2人で運営している。

「ちょうちょぼっこ」の運営者4人も「soramimibunco」の運営者2人も、平日は別の仕事をしている。そして週末になると好きな本に関わるプロジェクトを運営する。本好き数人が集まって運営者となり、同じく本が好きな人たちの集まる場所を運営する。これは副収入を狙った単なる副業とは違う質を持ったプロジェクトである。

お客さんの中には書店や出版社で働く「プロ」もいる。自分たちより本に詳しい人が店を訪れることも多い。そこに「経営者/客」あるいは「専門家/素人」というヒエラルキーは存在しない。趣味の活動として運営する空間に同じ趣味を持つ人が集まる。そこに存在するのはフラットな人間関係である。

「ちょうちょぼっこ」は、入会金、貸本代、飲食代、古本代の収入で家賃や光熱費を支払っている。儲けはほとんど無い。原資となる本は4人が気に入って買ったものを持ち寄る。店番は交代制で無償。楽しそうに運営している姿が印象的だった。

本好きが集まる空間を提供すること。本が好きな4人にとって、「ちょうちょぼっこ」の運営は週末のレクリエーション活動になっているようだ。レクリエーション活動が活発になると、往々にして「やりたいこと」よりも「やらなければいけないこと」が増えるケースが多い。こうした「プロジェクトの仕事化」をどう食い止めるのか。レクリエーションをレクリエーションのまま担保するにはどうしたらいいのか。「ちょうちょぼっこ」を先行事例として、これからじっくり観察したいと思う。

山崎

2005年1月18日火曜日

「ランドスケープの本質」

建築文化2000年11月号のランドスケープ特集に掲載されていた塚本さんと千葉学さんの対談「都市の隙間をどうつくるか」を読む。

塚本さんの都市に対する考え方はランドスケープデザインのそれと親和性が高い。建築を建築単体として取り扱うのではなく「環境ユニット」や「都市の生態」というフレームで捉えること。これはランドスケープのなかに建築を位置づける視点であり、建築を介してランドスケープの広がり(まとまり)を規定する視点である。実際、塚本さんは、建築のことばかり考えなければならない「建築家」という立場から自由になるための枠組みとして、ランドスケープデザインに興味を持っているようだ。塚本さんはこう言っている。「建築が担わなきゃいけないと押し付けられている社会性がうっとうしくて、そこから距離をとるものとしてランドスケープに興味がある」。建築家から見るランドスケープデザインは、建築家であることに対して押し付けられてくるプレッシャーとか社会性みたいなものからちょっとはずれて別の角度から都市に参加していくことができる枠組みなのである。

このことを「環境ユニット」や「都市の生態」という概念に引き寄せて捉えた文章が「小さな家の気づき」のなかに収められている。「建築が何かの一部となるまで引いたところから眺めれば、それが何と隣り合い、利用され、比較され、どんな社会関係に置かれるのかといったことが見えてきて、その建物がとるべきあり方が明確になる」。このとき眺められる空間のまとまりこそが「環境ユニット」であり、「都市の生態」であり、「ランドスケープ」なのだろう。

さらに塚本さんは、こうした「ランドスケープ」的なものの見方の可能性は「実態の現れ方という最終局面の中に、それぞれを形作っている複数の意図の協調、対立や矛盾といった関係を読み取ること」にあると言う。ランドスケープデザインの特性をうまく言い当てた表現である。ランドスケープデザインが「関係性のデザイン」だということを塚本さんはしっかり捉えている。

ランドスケープデザインにはもうひとつの特性がある。時間の経過とともに、空間がポジティブな方向へ変化するという特性だ。具体的には、植物の成長であり、多様な人の関わりであり、空間のマネジメントである。これについても塚本さんは以下のような表現で「成長」という特性を言い当てている。「どうなるかわからないけどとにかく育っていくという感覚がいいと思う。メタボリズムの意識はむしろ未来を現在に届けることであり、現在を育てて未来に届けることではなかった。僕は『いまはショボショボかもしれないけれども、育つからね』という感じを狙っています」。

「関係性のデザイン」と「デザインの経年変化」。ランドスケープデザインが金科玉条のごとく大切にしてきた2つの特性は、すでにどちらも塚本さんに実践されてしまっている。ここにランドスケープデザイナーが塚本さんを学ぶ理由がある。

「建築家はランドスケープデザインの本質を分かっていない」なんて寝言を言っている場合ではない。そんなことを口にする前に僕らは「建築家がどこまでランドスケープデザインの特性を理解しているのか」を学ばなければならない。その努力を怠って蛸壺に入ってしまえば、ランドスケープデザイナーは早晩社会から必要とされない職能になるだろう。内藤廣さんが指摘するように「樹木をグリッドに植えるだけなら僕(建築家)にだってできる」のである。

この1年、僕はアーキフォーラムという場を借りて「建築家がどこまでランドスケープデザインの本質を捉えているのか」を探りたいと思っている。「ランドスケープデザインの本質はこれだ」という答えがあるわけではない。僕も同じようにランドスケープデザインの本質を探しているのである。11人の建築家とそれを探したあと、最後に内藤廣さんと議論したいと思っている。

その他、塚本さんの発言で興味深かったのは以下の点。

・「都市の風景」という言い方と「ランドスケープデザイン」と言うものとの間に、まだ相当ギャップがある。日本語に置き換えて、なおかつデザインという言葉をはずしてもやっぱり風景というところまでいかない。

・ランドスケープって、いろんな人が入ってこれるよさがありますね。技術に関してはプリミティヴな段階でずっといけて、しかもそこに現代性があるから面白い。建築だと構造技術とか環境制御技術、材料の技術、あらゆる側面で体系化が行われていて、技術的なタイトさがあるわけだけれど、ランドスケープの場合はそこが少しゆるいというか、木の種類をよく知ることと雨水処理の技術ですか。それは弥生時代の人もできなかったことではないかもしれない。

・建築家は自分が全部デザインすると思っている。ランドスケープデザイナーは半分くらいデザインすればいいと思っている。残りの半分は既にそこにあるものだから。

山崎

2005年1月16日日曜日

「マイナスのデザイン」

ユニセフパークプロジェクトのファシリテーター数名と、ユニセフパークの建設予定地へ行く。必要な施設容量を現場で検証するのが目的である。

現在設計を進めている施設の規模は適切なのか。配置に無理はないか。開口部分の方角は正しいか。窓から魅力的な風景を取り込むことができているか。施設を使うことになるファシリテーター達とともに、僕が設計している施設の妥当性を現場で検証した。

今回検証した施設は2種類。約30m四方のユニセフパークハウスと約10m四方の宿泊棟である。ユニセフパークハウスは、ユニセフパークの核となる施設であり、展示機能や事務所機能を持つ。宿泊棟はファシリテーターや子どもが宿泊するロッジであり、合計12棟建てる予定だ。

その他、屋外展示エリアや木陰広場、森の作業エリア、木材切り出しエリアなどの現場を調査した。

施設の大きさを体感するために、長さを測った赤いビニール紐を竹の棒に結び付けて原寸大の施設外形を示した。ユニセフパークハウスの敷地は棚田3枚分を占めるため、1.5mの段差が2つあってビニール紐を渡しにくかった。ススキやイタドリと3時間ほど格闘した後、何とかユニセフパークの外形を赤いビニール紐で示すことができた。施設内部から見える風景や、施設を周辺から眺めた時の見え掛かりなど、いろいろなことが検証できた。

約10m四方の宿泊棟は規模が小さいため、すぐに赤いビニール紐を張り巡らすことができた。宿泊棟の中で実際に寝てみることによって、ベッドの位置や天窓の必要性、窓から見える風景、斜面地への張り出し方などを検証することができた。

その他、屋外展示エリアや木漏れ日の広場、森の作業エリアや木材切り出しエリアの現場を確認した。いずれも荒廃した里山で林床に光の入らないような暗い場所だった。整備の際、必要に応じて樹木の伐採が必要になるだろう。

ユニセフパークの平面図は、通常と違った表現になりそうだ。荒廃した里山は樹木間の距離が詰まりすぎている。そんな場所に木漏れ日の広場を作ろうとすれば、2本に1本の割合で樹木を伐採しなければならない。森の作業エリアでは、3本に1本の割合で樹木を伐採して各人の作業スペースを確保しなければならない。木材の切り出しエリアは、森へ立ち入ることができるように4本に1本の割合で樹木を伐採する必要がある。

残す樹木の密度を指定することによって、それぞれの空間を作り上げる。樹木を「間引く」ことによる空間のデザイン。平面図は残す樹木の密度を示した模式図のようなものになるだろう。ちょうど、木片から仏像を掘り出すように、荒廃した里山から公園を掘り出すような作業になるはずだ。

間引いた樹木は一ヶ所に集めて、子ども達が遊具を作る際の材料とする。竹材は宿泊棟のルーバーとして使う。緑色から黄色、そして茶色へと変化するルーバー。宿泊棟は季節によってその表情を変えることになるだろう。そして1年に1度、茅葺屋根の葺き替えのごとく宿泊棟のルーバー交換が行われる。

敷地の要素を間引くこと。周辺にある材料を組み替えること。不必要な施設を作らないこと。ユニセフパークの設計を通じて、「マイナスデザイン」の可能性と限界性を探ってみたいと思う。


ユニセフパークハウスのボリュームスタディ


宿泊棟のボリュームスタディ

山崎

2005年1月15日土曜日

「空間のリサイクル」

塚本さんの「トーキョーリサイクル計画」を読む。

2001年8月に出版されたメイド・イン・トーキョー(ホームページはこちら)における観察を通じて、塚本さんは東京という都市に何をどの程度意味あるものとして定着していくべきかを考えるようになったと言う。いまさら新たに巨大な建物を作るとか、理想的な都市をつくりあげるなんていう定着の方法は考えられない。それなら、すでに身の回りにあるものをうまく使いこなせないだろうか。そんなことを考えていたら「リサイクル」という言葉が思い浮かんだのだと言う。

こうした塚本さんの発想は、単独の建築物に注目するのではなく、建築と周りの状況をセットで考える「環境ユニット」や「都市の生態学」という概念に通じるものがある。環境ユニットという視点で考えれば、すでにそこにあるものの配列を替えたり、繋げ方を変えることで生産的な別の状態ができるのである。

例えば棚田の開墾について考えてみる。棚田を開墾する際、土の中からたくさんの石が出てくることだろう。この石を田んぼの周りに積むことで棚田を作り上げる百姓さんのように、何も足さず何も引かずに新しい状況を生み出すのがカッコイイんだ、と塚本さんは言う。

都市を丸ごと作り変えるということではなくて、いまあるものを受け止めた上で、それらを組替えたり繋げ変えたりする「リサイクル」という方法。そういう都市の更新/再生方法があるんじゃないか、というのが塚本さんの意見だ。

僕も同じ意見だ。「都市に原っぱなんて要らない」に記したとおり、僕は「作らないこと、壊すこと、間引くこと」で豊かな空間を作りたいと思っている。これらの方法に加えて「組替えること、繋げ変えること」によって豊かな空間を作ってみたいと思う。

山崎

2005年1月14日金曜日

「観察と定着」

塚本さんは、いろいろな言葉を生み出す。しかし、その言葉も少しずつ変化している。あるいは、スケールによって使い分けている。

例えば、2000年5月の美術手帖に登場する「取材と定着」という言葉は、その年の12月に出版された「住宅という場所で」のなかで「観察と定着」という表現に変化している。別の場所では「注目と定着」と表現したこともある。

塚本さんはこう言う。建築の問題は、何を観察してそれをどうかたちに定着させていくかという問題なのだ、と。そのうえで、観察と定着との間に時間差はなく、それらは同時に起こるものだと言う。決して観察が先で定着が後だというわけではない。観察の仕方は定着の仕方に依存しているのだから、どちらの思考も同時にお互いを必要としているのである。

「観察と定着」という視点に立つとき、デザイナーは対象の善悪を評価しなくてもよくなる。塚本さんは、善悪の評価を外したところから設計を進めたいと言う。諸々の判断を自分で決めていけるということはとても自由になれることであり、ものごとをフラットに見ることができる視点を手に入れることである。そういう立場から設計に取り組みたいということなのだろう。

その後、2001年の11月に出版された「MUTATIONS」のなかで塚本さんは、「観察と定着」について以下のように述べている。

観察は対象に対する愛情であり、定着はその観察に力をあたえることである。

力強い表現だと思う。この言葉、僕は結構気に入っている。

山崎

2005年1月13日木曜日

「環境ユニットから都市の生態へ」

昨日に引き続き塚本さんの発言を追跡する。

塚本さんと曽我部さんの対談「スーパーフラットはダメなものへ接近する方法論」を読む。美術手帖の2000年5月号に掲載されたもの。前回引用したとおり、この対談のなかで塚本さんは「環境ユニットは建ち方に関するフィジカルなことに問題が限定されている」と発言しており、環境ユニットに変わる言葉を捜し始めたことが窺える。

建築文化の2000年11号(ランドスケープ特集)に掲載された対談のなかで、塚本さんは「隣接性」という言葉を用いている。隣接性というのは、建物が何と隣り合っているかということを示す言葉。2000年12月に出版された「住宅という場所で」の中では、「敷地境界なんて無視して、その外側までどんどん触手を広げていって、建物の輪郭を超えたまとまりを作りたい」、「隣にあるものをどれだけ利用するかということを常に考えている」と発言している。この頃、塚本さんは「環境ユニット」を別の言葉で表現しようと模索していたのかもしれない。

2001年の8月に出版された「メイド・イン・トーキョー」のなかで塚本さんは、「我々が問題にしているのは、都市環境における多様な『まとまり』のつくられ方と、『まとまり』の中に見出される使われ方、すなわち都市の生態である」と述べている。この『まとまり』こそ、環境ユニットの別名なのかもしれない。

さらにここで注目すべき言葉が登場している。「都市の生態」という言葉。「都市の生態」とは、複数の異なる建物が「形態」からではなく「行為系」からひとつにまとめられたものである。生活空間というのはひとつの建物だけで成立するのではなく、複数の建物及びそこに隣接する様々な環境の結びつきによって成立している。逆に生活者から見れば、ひとつの活動はいくらでも複数の構造物にまたがって成立しうる。「都市の生態」という概念を用いることによって、空間のフィジカルな側面に特化していた「環境ユニット」という考え方へ「生活」や「使い方」という指標が組み込まれることになる。

2000年9月に出版された「10+1:トーキョーリサイクル計画」のなかでも、塚本さんは生活と空間のまとまりについて言及している。トーキョーリサイクル計画の説明に「環境ユニット」や「都市の生態」と同様の考え方が示されているのである。例えば、東京という街は外見上は非常に混乱していて図像としての統一感はないけれど、そこで毎日結構楽しく生きている自分がいる。これはいったいどういうことなのか。塚本さんはそんな疑問を僕らに投げかける。そして答える。そこには「生活する」というところからの秩序が組み立てられているんじゃないか、と。人々は各人各様に生きるための環境を自由に編集することによって、意味のある環境のまとまりを形成しているのかもしれない。だとすれば、住宅をデザインする際にも各人にとって「意味のある環境のまとまり」を考えておく必要があるだろう。だからこそ「環境ユニット」や「都市の生態」という視点が重要になるのである。

山崎

2005年1月12日水曜日

「集のデザイン」

これは読書ではないのかもしれない。本ではなくホームページを読んだのだから。ただし、ホームページにアップロードされた「書き物」を読んだのである。これは読書だろうか。

乃村工藝社のホームページに「集のデザイン①:住居空間」という対談が載っている。青木淳さんと塚本由晴さんと山家京子さんが住居空間について語ったもので、これがなかなか興味深い。1998年のものなので7年前の記事である。当時の青木さんや塚本さんの発言には、最近の発言に通じるものと、ニュアンスが変わってきているものとがある。この7年間で変化した思考と変わらなかった思考。青木さんや塚本さんの言説における賞味期限を読み取ることができる。

試しに、その後の塚本さんの発言を追ってみることにした。まずは前提となる対談から整理しよう。

件の対談で塚本さんは「マスターデザイン」という概念について触れている。住宅をデザインする前からその場所には何らかのデザインがある。例えば、区画造成デザイン、独特の周辺環境デザイン、施主による敷地選定デザインなど。住宅のデザインに先行するこれらのデザインのことを、塚本さんはマスターデザインと呼ぶ。そしてマスターデザインに住宅のデザインをつなげることを目指していると言う。同じことは、2000年に出版された「住宅論」の中でも述べられている。「自分が最初のデザイナーだと思いたいところだけれども、いつも敷地へ行って感じるのは、自分達は後から来たということです。結局は周辺環境に増築しているということになる」。

1998年の塚本さんは、もうひとつ言葉を提示している。「環境ユニット」という言葉。住宅の敷地をはみ出した生活のあり方を考えるとき、環境ユニットという概念が必要になるという。環境ユニットとは、建物、緑、前面道路、庭、電柱、隣の家の壁、土木構築物など、その辺にあるものを組み合わせて成立する有意義な環境のまとまりのことである。僕らの生活は住宅の敷地内だけで簡潔しているのではなく、敷地を飛び出したさまざまな空間や要素と結びついて成立している。住宅を設計するときは、単体で考えるのではなく周辺環境との結びつきを考慮しながら利用できるものは利用しながらデザインするという。住宅が周辺環境にプラスに働けば都市が良くなるし、都市がよくなると住宅も良くなるという論理だ。ただし、2000年5月の「美術手帖」に収められている「スーパーフラットはダメなものへ接近する方法論」という対談では、「環境ユニットは建ち方に関するフィジカルなことに問題が限定されている」として、別の概念に置き換える可能性を示唆している。

塚本さんが提示している3つ目の言葉は「ものの取り扱い」である。「たとえば、僕は机の上に食事やお酒があったほうが親とうまく会えるような気がする(笑)。要するに別のものを入れておけば集まれるんだけれども、それをはずしちゃうと集まれなくなるということはあると思うんです」。ものの取り扱いを通じて人とのコミュニケーションを楽しむ。この考え方は塚本さんの最近の言説にもよく登場する。

以上、1998年の塚本さんが発した言葉をスタート地点にして、明日以降2000年から2004年までの塚本さんを研究してみたいと思う。

山崎

2005年1月10日月曜日

「都市に原っぱなんて要らない」

京都造形芸術大学にランドスケープデザインのコースがある。このコースの演習発表会に批評者として呼ばれたので、午後から京都へ行った。発表者は17名。デザインの全体的な傾向として、与えられた敷地を「デザインし尽くす」という態度が弱まっているように感じた。

僕が学生の頃は、与えられた敷地を隅から隅まで思う存分デザインし尽した覚えがある。理想的な空間を作りこむこと。見たことも無いような空間を作り上げること。そんな気負いがあった。図面に空白があることを恐れるかのごとく、与えられた敷地のすべてをデザインし尽くしたものだ。

ところが今回の発表では、多くの学生が「住民が作る場所」や「利用者が改変する余地」をデザインの中に組み込んでいた。つまり、敷地に空白をプランニングしている人が多かったのである。

ランドスケープデザインが変化を前提としている以上、デザイナーがすべてを作り上げるという理想像に嘘っぽさを感じる学生が多くなったのかもしれない。植物は成長するし、人々はその管理に参加する。樹木は枯れるかもしれないし、人々は好き勝手な花を植えるかもしれない。そんなオープンスペースの設計に対して、デザイナーが頑なに「完璧なランドスケープを作るんだ」という意思を持つこと自体に無理がある。学生たちはそのことを感じ取っているのかもしれない。

その視点を批判するつもりはない。そういう見方があっていいと思うし、図面に色が塗られていない部分に可能性を感じることもできる。ただ、なかには無責任に投げ出しただけの余白も見受けられる。誰かが何かを作ってくれるはずだから、僕はここをデザインしないんだという態度。

それは少し無責任だろうと思う。図面に空白を残すのであれば、その空白に色を塗る以上の説明が必要になるはずだ。誰がそこで活動するのか。それはどんな組織なのか。活動の財源はどこから得るのか。材料はどうやって手に入れるのか。空白のデザインを展開するのなら、こうした諸条件についても同時に検討しておくべきである。空白が空白としてしっかり機能するために。

誰かが何かをしてくれるだろう、と放り出すのであれば、最初からデザイナーなんて必要ない。中途半端にデザインしておきながら、都合よく余白を放り投げる態度にはリアリティが感じられない。なぜ空白なのか。誰が関わるのか。関わるきっかけをどう設定するのか。そういうことを考え抜いたとき「空白」は力を持ち始めるのである。

「都市に原っぱを」という言説を耳にすることがある。同じ論理だ。都市に原っぱなんて作っても意味が無い。かつて原っぱで展開された遊びが多様だったという理由から、半ばノスタルジックな感傷も含めて原っぱの復権を唱える人がいる。でも、その頃「プレステ」は存在しなかった。子ども部屋を持つ家も少なかった。そもそも家が狭かった。屋外で遊ばざるを得なかったのだ。だから、原っぱに行けば同じように家から飛び出してきた友達がいた。こうした背景が重なり合って原っぱが機能していたのである。そんな背景を無視して「現代の都市に原っぱを」と叫ぶのは、深く考えることなく図面に余白を残すのと同じ無責任さを内包している。

僕らはまだ「作らないほうがいい」ということを説明する論理を確立していない。「作らないほうがいい」という提案で商売を成り立たせるシステムも確立していない。オープンスペースのデザインが過剰になってしまうのは、作ることのコストに設計料が含まれているからである。作らないこと、壊すこと、間引くこと等で豊かな空間を作り出すことができれば、僕らはカタチを捏造する職能から開放されるだろう。

設計図面に残した空白が成立するような論理を展開する学生が増えたら、ランドスケープデザインは新たなフェーズを迎えることになるはずだ。

山崎

2005年1月8日土曜日

「多面的な関わり」

パンフレットをデザインしている。「あそびの王国」という公園のパンフレットである。公園の開園予定日は2005年4月23日(土)。当日はオープニングイベントを開催する予定だ。オープニングまでにパンフレットを印刷して配布しなければならない。

「あそびの王国」の設計は2000年に始まった。東京ドーム2個分の広さを持つ公園。子どもの遊び場としてはかなり広い部類に属する。この広さの遊び場はどうあるべきか。この広さの遊び場を子どもはどのように使うのだろうか。当時、設計の参考になるような遊び場の事例はあまり見つからなかった。

そこで、周辺に住む小学3年生から5年生を集めてワークショップを2回実施した。ダンボールを使って仮設の遊び場を作り、子どもたちがどんな空間を好むのか、どんなことをしているときに目を輝かせているのかなどを観察した。子どもの遊びを促進するプレイリーダーも投入し、子どもたちが精一杯遊べる環境を整えた。

2回のワークショップを通じて子どもの遊び特性を把握し、そのデータに基づいて遊び場の基本計画を進めた。2001年に実施設計を終え、2002年に土地の造成、2003年から2004年までは遊具や施設の工事が行われた。

その間、2002年には遊び場の運営計画を策定した。かつてのガキ大将的な役割を担う子どもがいないため、最近の子どもは同年代ばかりで集まって遊んでしまう。ガキ大将をトップとする「子どもの縦社会」に身をおくことが無いということは、子どもたちが人間関係について学べない危険性もある。

そこで「あそびの王国」では、かつてのガキ大将に相当する「ガキリーダー」を育成することにした。小学校高学年から中学生程度の子どもを集めて、ガキリーダーとしての心得を学ぶキャンプを実施する。このキャンプに参加した子どもたちを「ガキリーダー」として登録し、「あそびの王国」で遊びを促進する子どもになってもらう。チーム名は「ガキクラ」。

2003年には、実際にガキクラに参加する子どもを募集した。集まった子どもとキャンプを実施しガキリーダーとして登録した。また、ガキクラをサポートする高校生や大学生、保護者の組織を発足させ、ガキクラサポートチームを編成した。

そして2004年。あそびの王国オープンに向けて、オープニングイベントの企画、開園後に配布するパンフレットのデザイン、ガキクラの運営補助などを担当している。

ワークショップから設計、人材育成、運営組織の立ち上げ、パンフレットデザイン。自分が設計した公園にいろんな側面から付き合うことができたのは幸せなことだ。ただ唯一、「あそびの王国」という公園名称だけは変えることができなかった。未だにあまりいい公園名称だとは思えないのだが。

今日はガキクラの新年会だった。久しぶりにガキクラのメンバーと飲みに出かける。初めて見る人も多かった。順調にメンバーが増えている証拠だ。発足当初に比べるとかなり賑やかなチームになったように感じる。今後もガキクラの変化を見守りたいと思う。

山崎

2005年1月1日土曜日

「初詣の列」

元旦なので、地元の人が集まりそうな神社へ行く。

神社の入口よりもはるかに長く、初詣客の列が続いている。本殿への階段に列を作ってお参りの順番を待つ地元の人たち。いったいどれくらいの時間をかけてお参りするつもりだろうか。そんなに信仰心の強い人たちが多いのだろうか。寒空の下、遅々として進まない行列に文句も言わず並ぶ地元住民。不思議な光景だった。

しばらく列を観察していると、彼らは並ぶことを楽しんでいるということが分かってきた。彼らは、参拝の途中ですれ違う知人に新年の挨拶ができることを楽しんでいたのである。参拝を待つ人と、参拝を済ませて帰る人。本殿に続く長い階段では、両者がすれ違うことになる。地元住民が集まる神社だから、並んでいると頻繁に知人とすれ違うことになる。つまり、列に並んで参拝を待っている間に、多くの知人と新年の挨拶ができてしまうのである。おのずと各家への挨拶回りは少なくて済むことになる。

多くの知人が集まる場所に長居すること。非合理的に見えた初詣の列が、実は合理的な新年挨拶の場だったということに感心した2005年の幕開け。

みなさん、今年もよろしくお願いします。


本殿まで続く参拝の列


階段の途中で新年の挨拶

山崎