2008年12月29日月曜日

雑記

午前10時から建築家の吉永氏とスタジオにて打合せ。団地を環境資産としてうまく活かしたソフトツーリズムについて議論した。団地はすでに「懐かしい」存在になりつつある。また、平成生まれの若者にとっては住んだことのない珍しい住居となりつつある。こうした「懐かしさ」と「希少性」をうまく活用した団地エコツーリズムを実験的に展開してみたいと思う。

午後2時からは東京のランドスケープデザイン事務所に勤務する小竹さんと打合せ。病院のランドスケープデザインについて検討した。入院者やスタッフが一緒になって森をつくりつづけるランドスケープデザインについて提案した。また、こうしたコンセプトを説明するための段階的なダイアグラムの表現方法について、具体的な事例を用いて説明した。

午後4時からはOCTの卒制ゼミ。3人のゼミ生がそれぞれ提案内容を固めたので、それらをパネルでうまく表現するための方法などについて検討した。自殺問題、森林管理の問題、食料自給率の問題と、3人が3人とも社会的な課題を解決するきっかけとなる建築のデザインを提案している。単に目新しい建築の形態を追い求めるだけではない、興味深い卒業制作になることだろう。

午後7時から、NPO法人パブリックスタイル研究所の忘年会へ。理事長である忽那裕樹氏の自宅を忘年会会場にしていただくことができたため、そこで夜中まで「パブリックスタイル」について議論した。いずれ「パブリックスタイル」に関する本を出版しようという話から、パブリックスタイルアワードなるものを設定して、勝手に良好なオープンスペースや活動を表彰してしまおうという話まで、僕たちのNPOができることについて語り合った。

2008年12月28日日曜日

教科書ミーティング

ランドスケープデザインの教科書を作成するというプロジェクトのミーティングを行う。今回は1980年代から2010年まで。バブル時代の建築におけるヴォイドの設計などをランドスケープデザインの歴史にどう位置づけるのか、などが議論になった。また、2000年以降のプロジェクトを誰のどういう系譜に位置づけるのかということについてもいくつかの議論があった。とても面白い教科書になりそうだと実感。メンバー4人がそれぞれ3章ずつ執筆することになる。僕は1850年から1900年と、1900年から1910年と、1960年代を担当することになった。概ねの執筆内容は固まっているので、詳細な内容と適切な図版、正確な年号や人名や地名を拾い集める作業を進める必要がある。

2008年12月27日土曜日

大掃除+忘年会

朝からスタジオの大掃除。普段プロジェクトに関わってくれている学生たちとスタジオメンバーとで掃除した。学生たちは主にスタジオ内部の掃除を、スタジオメンバーはサーバーやウェブ上の情報を整理した。来年からはさらに積極的にスタジオの取組みを発信しよということになった。そのためにも、まずはウェブに僕たちが取り組んでいる仕事をちゃんとアップする必要がある。また、年賀状として僕たちが今年取り組んできた仕事をまとめたファイルを送付することにした。スタジオはどんな仕事をしているのかよくわからない、という声をよく聞く。僕たちにも説明する責任があるように思う。少しでもスタジオの仕事を理解して、一緒に意義のあるプロジェクトを楽しく進めてくれるメンバーが増えるよう、適切な情報を発信することにつとめたい。

午後2時からは、エクスナレッジという出版社の編集者さんから2時間に渡る電話取材を受ける。ここでも、スタジオの仕事は説明が難しいことを実感。編集者の方がどう整理してくれるのか、毎回のことだが楽しみである。

午後6時からは、大掃除を手伝ってくれた学生とスタジオメンバーだけで小さな忘年会を開催。北海道から送られてきたカニを煮たり焼いたり、お腹一杯食べる。毎年の恒例になりつつあるが、やっぱり北の大地は食の宝庫だと感じる。

2008年12月26日金曜日

i+d 神戸

九州大学でのプレゼンテーションを記録し、同じ内容を神戸にて被災体験者に説明した。審査員は阪神淡路大震災の被災経験者6名。学生たちの提案が実際に被災を経験した人たちにとって役立つ提案になっているのかをチェックしていただいた。被災経験者の方々から大変評価される提案と、被災地の状況をうまく理解できていない提案とが明確に分かれ、それぞれについて的確な指摘をいただくことができた。被災時というのは、あとから文献で追いかけるだけでは理解できないくらい多様な課題が同時多発的に生じているということを実感した。その状況に対して役立つものを、デザイナー的想像力を持ってうまく提案できている提案が多かったことは、デザインが社会に対してできることがあるということを端的に示してくれたように思う。

2008年12月23日火曜日

i+d 九州

九州大学にてi+d workshopを開催。11グループ22人によるプレゼンテーションが繰り広げられた。ゲスト審査員として、九州大学の先生方と福岡市役所の部長、九州デザインリーグを実行する地元のデザイナー、雑誌SOTOKOTOを出版する木楽舎の社長、博報堂の永井さんにお越しいただいた。ゲスト審査員のみなさんには、2時間に渡る学生たちのプレゼンテーションを真剣に聞いていただき、審査していただいた。今後、事務局側の審査結果と、26日に行われる被災経験者6名による審査を経て、最終プレゼンテーションへ進む3チームを決定することになる。

2008年12月20日土曜日

京都幕末ツアー

お昼12時に阪急大宮駅に集合して、京都幕末ツアーを実施。かねてより計画していたツアーなのだが、実行が遅れに遅れて年末になってしまった。

遅れていた計画を実行に移してくれたのは、ひょうご震災記念21世紀研究機構(HEM)の同僚である越智さん。かつての同僚である京都大学の入江さんと外務省の村上さんと僕の3人が企画していた京都幕末ツアーだったが、「それぞれ忙しいよね」という話の中で延期を重ねていたものを、越智さんが「実行しなきゃ!」と言って日程調整や宿泊先の予約などを担当してくれたので実現した。同じくHEMの同僚である酒井さんも誘って、5人で冬の京都を歩くことになった。

大宮駅から壬生へ向かう途中で山南敬介の墓を拝み、壬生の前川邸、八木邸を見学。新撰組が活躍した土地を満喫した。移動途中に普通の民家をそのまま使った「新撰組資料館」を発見。かなり面白いオーナーからいろんな話を聞くことができた。第一勧銀に勤めていたとき、創始者である渋沢栄一という人に興味が出てきて調べた結果、徐々に幕末まで興味が出てきて、退職後も幕末研究を続けているという人。家の中には手書きのパネルが何枚も何枚も置いてあり、各種資料が山のように積まれている。先を急いでいたので途中で話をさえぎって出てきたが、時間があればこのオーナーとずっとしゃべっていたかった。

その後、島原地区の輪ちがい屋や角屋を見た後、二条城を通り抜けて油小路へ。伊東甲子太郎が新撰組隊士に襲われた場所などを見学。近くの床屋の主人が出てきて、これまた丁寧に資料などをくれて当時の話を聞かせてくれた。この人、観光都市京都のボランティア解説員として市長から感謝状を送られているほど。さすがに説明が分かりやすいし面白い。京都にはさまざまな歴史と、その歴史について語ることのできる市民がいるということを実感した。奥が深いぜ、京都。

夕食は山縣有朋の第二無隣庵にて。現在は「がんこ」チェーンが借りているそうで、夜の庭園を見ながら食事ができた。その後、佐久間象山や大村益次郎受難の地や、料亭「幾松」などを見学しながら、タクシーで伏見の寺田屋まで移動。寺田屋は資料館なのだが、夜は宿泊することができる。部屋には昼間と同じく各種資料やパネルが掲示してあるのだが、その床に布団を敷いて寝ることができる。すでに資料館としては閉館した時間なので、館内は僕たちだけの貸しきり状態。思う存分資料を見ることができるし、周りの部屋を気にせずにみんなで話をすることもできる。寺田屋が宿泊可能であるということはあまり知られていないようだが、貸切状態になるという意味でとてもいい宿である。坂本竜馬が襲われた部屋、おりょうが駆け上がった階段、薩摩の有馬新七が背中から刺された場所など、幕末の大事件がそこかしこで起きていたことが分かる面白い宿である。

その宿で、現在の志士5人がこれからの生き方について熱弁ふるって議論する予定だったのだが、昼間に歩きすぎて疲れたのかすぐに寝てしまった。ただし、これからも毎年こういう会合を持って、HEMの卒業生がどんな仕事をしていて、今後何をしようとしているのかを語り合う時間をつくろう、ということだけは決まった。ということになると、現在福岡で研究員をしている山本さんや、来年から明石で教員になる石田さんにも参戦してもらう必要があるだろう。京大の入江さんも外務省の村上さんも、HEMの越智さんも酒井さんも、このまま同じ職業を続けるような人ではないように思う。きっとさらに別のことをはじめるだろう。こういう人たちと毎年情報交換し続けることは、僕にとって毎年新しい情報や刺激を受けることができる貴重な機会である。僕もこの人たちに少しでも刺激を与えることができるような生き方をしたいものである。

2008年12月19日金曜日

協働のきっかけとしての忘年会

午前中は山口県から京都府へ移動。午後から京都造形芸術大学のこども芸術学科で講義。年明けに小学校で開催するワークショップの企画を練る。学生たちは数人ずつのチームに分かれ、それぞれの企画案について検討する。検討内容がある程度固まった段階で、教室の前に集まってプレゼンテーション。プログラムの詳細、時間配分、役割分担、予算計画など、詰め切れていない部分を指摘し、さらに企画内容を検討させる。これを繰り返した。

夕方には大阪へ戻り、スキッスジャポンの川崎社長、ピューパの渡邊社長、ミネルヴァ・ホールディングスの及川副社長とで忘年会。川崎社長が展開している「山の家」プロジェクトは、地方自治体がつくった宿泊施設を指定管理者として管理運営するもので、そのための人材として京都造形芸術大学の山崎ゼミの学生だった小椋くんが就職している。山の家の管理運営に携わるなかで、小椋くんもいろいろと学んでいるようだ。忘年会に集まった人たちで、山の家をどう盛り立てていくかを議論した。

また、アウトドアでまちづくりを!を合言葉に活動を展開するピューパの渡邊さんからは、本当のアウトドアプログラムとはどういうものか、まちづくりにアウトドアを持ち込むことの重要性とは何か、についてお話を伺った。渡邊さんが実施しているアウトドアプログラムには、浜野安宏さんも興味を示しているとか。浜野安宏さんと言えば、最初はファッション界で活躍し、その後商品企画や複合型ショッピングセンターの企画などに携わり、アウトドアライフスタイルを実践している人。この人と一緒に会社を切り盛りして、その後独立した人のひとりが北山孝雄さん。北山創造研究所の代表で、建築家安藤忠雄さんの双子の弟である。

ミネルヴァホールディングスの及川さんは、ネットを使ったEコマースについてかなり詳しい人。その分野では先駆け的な事業をいくつも立ち上げている。僕たちが考えるプロジェクトであれば、ほとんどどんなことでもインターネットでできるという自信に満ち溢れている。

こういう人たちと話をしていると、専門分野が違うだけにお互いが競争することなく協働できるような気がしてワクワクする。僕にできることと、川崎さんにできること、渡邊さんにできること、及川さんにできることはまったく違っている。こうしたメンバーで、社会の課題をひとつでも解決できるようなプロジェクトを立ち上げたいものだ。今後は定期的に集まって、各人が興味を持っていることについて語り合い、協働できそうなことが見つかればプロジェクトを立ち上げてみようということになった。当面は川崎さんの「山の家」について、新しいビジネスモデルを創り出せないか検討してみようということになった。僕も及ばずながら、集落問題の解決策、周辺住民との協働方法、大学との協力、行政や財団から支援を受ける方法などについて検討してみようと思う。

2008年12月18日木曜日

僕の出身地は西宮である、としてみると。

午前中は武庫川女子大学にて生活環境学部長の瀬口和義先生と打合せ。E-DESIGNの忽那裕樹さんの紹介(感謝!)で来年度から「造園学演習」という講義を担当させてもらうことになったので、その詳細について打合せさせてもらった。どうやら僕は辻本智子さんの後任だということ。辻本さんは大学の大先輩である。

僕は小学校時代を兵庫県の西宮市で過ごした。武庫川女子大学のすぐ近くに住んでいたこともあって、同大学は小さな頃から親しみのある大学だった。まさか自分がその大学でランドスケープデザインについて教えることになるとは思っていなかったが。。。

25年ぶりに西宮市立小松小学校区を歩いてとても懐かしい気持ちになった。西宮はとても楽しい時間を過ごした場所である。親が転勤を繰り返す仕事だったので、僕には出身と呼べそうな場所がいくつかある。「出身は?」と聞かれるたびにいくつかの地名を出すのはややこしいので、あるとき「どこかひとつに決めてしまおう」と思った。そのとき真っ先に思い浮かんだのが「西宮」である。僕にとって最も愛着のある居住地なのだろう。そんな場所に勤務することができるのがとても嬉しい。

午後から山口県へ移動。集会所建設のためのワークショップで進行を担当する。街の開発者である積水ハウスさんと、山口大学の鵤(いかるが)心治先生と研究室の学生さんたちと一緒にワークショップを実施。地域の魅力と課題を出してもらったところ、課題以上に魅力がたくさん飛び出した。積水ハウスさんのまちづくりの威力を実感。居住者からこれだけ良好な反応を引き出すまちづくりはとても難しい。今後が楽しみである。

ワークショップ終了後、積水ハウスの関係者や山口大学の方々と食事へ。鵤研究室の学生さんたちはとても気さくで素直で付き合いやすい。これだけのコミュニケーション能力があれば、どんな種類の社会へ出ても対応できるだろう。

食事会のなかで、積水ハウスの綿崎さんと出身地の話をした。さっそく出身地の話だということで、かねてから用意していた「西宮」という地名を出した。すると綿崎さんも西宮だという。僕が武庫川女子大学の近くに住んでいたことを話すと、綿崎さんは小松小学校出身だという。同窓生である。25年ぶりに小学校区を歩いた日の夜に、偶然同窓生に会うことになるというのはすごい!!と驚くやら喜ぶやら。同席したほかの人たちにとっては、どうでもいい話だっただろうが。。。

2008年12月17日水曜日

ややこしい人間

午前中はメビックの堂野さん、狩野さん、浪本さんがスタジオへ来て僕たちの活動を取材してくれる。自分がどんなことをしてきたのか、どんなことをしようとおもっているのか、ということを2時間ほど思うままにお話させてもらった。

こういう話をするとき、僕にはうまく説明できないことが3つある。ひとつは自分の出身。2つ目は自分の専門。そして3つ目は自分の所属。

取材を受けると出身地を聞かれることが多い。しかし、僕の場合は親が転勤族だったこともあって大学入学までに住んだことのある場所がかなり多い。生まれたのは愛知県の東海市。幼稚園は大阪府の枚方市。小学校は兵庫県の西宮市と愛知県の名古屋市。中学校は名古屋市と愛知県の長久手町。高校は名古屋市。大学は大阪府の堺市。働き始めてからは大阪市内。今は兵庫県の芦屋市。本籍はいまだに東京都杉並区のまま。

こういう話は分かりにくいので、きっとどこか1箇所を出身だということにしてしまったほうがいいのだろう。ということで、僕は一番愛着のある西宮市を出身地にしようと思う。当面はこれで出身地問題に対処したい。

自分の専門分野も説明しにくい。ランドスケープのデザインなのか、プランニングなのか、コンサルティングなのか、マネジメントなのか。まちづくりなのか、政策づくりなのか。企画や計画もするけど、設計も現場監理もするし、コンサルティングもするし、運営もする。NPO支援もするし、調査も研究もする。「これが必要だ」と思ったことを求められたときにやれるだけやっていたら、「あなたの専門は何ですか?」と問われても答えられないようになってしまった。時代が変わろうとするとき、既存の職業体系では説明できない新たなニーズや仕事がポツポツと生まれてくる。そんな小さな仕事を見つけては喜んで取り組んでしまう、というのが僕の性格なのかもしれない。

自分の所属もややこしい。これは専門分野がややこしいことと関係しているのかもしれない。株式会社studio-Lが本務であることは間違いないのだが、兵庫県の研究所で研究員をしていたり、大学の講師をしていたり、大学院の博士課程に在籍したりする。研究所関係の知り合いは、僕が設計事務所を経営しているということを知らない人も多い。

そんなややこしい話を、さほど整理できずに話し続けたのだから、取材してくれた堂野さんや狩野さんはまとめるのが大変だろうなぁ、と思う。いつもながらにご迷惑をおかけします。。。

午後からは大阪工業技術専門学校の卒業制作ゼミ。卒業制作の提出日が近づいてきた。学校への提出より1週間前にゼミの提出日を設定。これを厳守させることにした。1週間前に最終提出すれば、「あと少し改善したかった」という思い残し部分を最後の1週間でブラッシュアップすることができる。ゼミ生の制作はいずれも社会の課題を的確に捉え、提案性の高いものになりつつある。あとはそれをうまくまとめることができるか、というのが問題、いや大問題である。

2008年12月16日火曜日

多自然居住地域における安全安心の実現方策

夕方から(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構にて「多自然居住地域における安全安心の実現方策」の研究会を開催。最終報告書をまとめるにあたって、最後の政策提言部分をどうするのかについて話し合ってもらった。座長の中瀬先生(兵庫県立大)、委員の角野先生(関西学院大)、澤田先生(長岡造形大)に加えて、兵庫県立人と自然の博物館、兵庫県立丹波の森協会、NPO法人地域再生研究センターの研究員の方々、兵庫県庁のビジョン策定担当者にも出席していただいた。また、総合地球環境学研究所の林直樹さんと齋藤晋さんもオブザーバーとして出席してくれた。

いよいよ最終報告書のとりまとめ。年内に政策提言以外の報告書をとりまとめ、年明けに政策提言案をとりまとめて各委員と打合せし、最終の研究会を開催したい。

2008年12月1日月曜日

島の幸福論

いま、島根県の隠岐にある海士町という町の総合計画策定を手伝っている。住民と行政が一緒になって検討している総合計画で、合宿して2日間ずっと議論し続けたり、毎晩のように集まって計画の内容を検討したりしている。先日、この総合計画の全体テーマが「島の幸福論」ということに決まった。とてもいいテーマになったと感じている。

「東京に追いつけ、追い越せ」というベクトルで地域開発を行っても、東京には到底勝てないし、追いつけないし、エコじゃないし、何よりちょっとダサい。そうじゃなくて、島ならではの幸福を見つけ出して、東京や大阪などの大都市では実現不可能な生活像をしっかりと確立して、大都市とは全然違ったベクトルで、違った方向へ突き進んでいくのが離島ならではの戦略になるんじゃないかと思っている。

一般的に、東京や大阪に住む人は地方に比べて所得と学歴が高いと言われている。所得と学歴。この2つは密接に関係している。高い所得を得るために高い学歴が必要になるのだから。じゃ、高い所得を得て何を手に入れたいと思っているのか。たとえば広い家。あるいは豊かな環境。または新鮮で安全な食材。そして、できれば殺伐とした人間関係ではなく、暖かい人間関係にはぐくまれたコミュニティもほしい(これは都市部でなかなか手に入らないのだが)。

そのために、都市部に生きる人たちはかなりのお金を使っている。東京で広い家がほしい。庭もほしいということになればかなりのお金が必要になる。自分の家や庭だけでなく、周辺にも豊かな自然環境がほしいと思えば、さらに住む場所が限定されるし、そういうところは地価が高い。ますますお金が必要になる。有機野菜など新鮮で安全な食材を手に入れようと思えば、普通の野菜の3倍くらいのお金が必要になる。豊かな人間関係に至っては、お金を出して手に入れられるものではないことが多い。周囲を高い塀で囲まれて安全に暮らせるゲーテッドコミュニティで良好な人間関係がはぐくまれるかどうかは分からないが、そういう場所に住もうと思えばまた、お金が必要になる。

以上のような生活を都市部で実現しようと思えば、当然お金がたくさん必要になる。だから、お金がたくさんもらえるような仕事を選ばなければならない。当然、自分が好きなことをして生きていくというのは難しい。自分が好きなことじゃないけどお金をたくさんもらえる仕事を選ばなければ、広い家、豊かな自然環境、有機野菜、コミュニティなどは手に入らない。

さらに、自分が好きじゃない仕事に就くとしても、高学歴でないと高収入にならないのが都市の論理。自分も高学歴でなければならないし、将来自分の面倒を見てくれる(はずの)子どもたちにも高学歴であってもらわなければ困る。結果的に、子どもにもたっぷり教育費をかけなければならなくなる。私立の学校、学習塾、家庭教師、各種稽古、補助教材。これにも相当なお金がかかる。

広い家と庭、豊かな自然環境、新鮮で安全な食材、良好なコミュニティ、ハイレベルな教育費。こうしたことにお金をたくさん使うから、都市部では月給がいくら高くてもほとんどお金は残らない。

一方、地方はすでに広い家、豊かな自然環境、新鮮で安全な食材、良好なコミュニティを手に入れている。そのためにたくさんのお金を用意する必要がない。だから、とりたてて高学歴になる必要もない。都市部で高学歴・高所得になっても、そのお金をつぎ込んで家や自然や食材やコミュニティや高等教育を手に入れようとすれば手元にお金は残らないし、そもそもすべてを手に入れるのは相当難しい。そうであれば、お金をかけずにそれらが手に入る場所で好きな仕事をしながら生きていくほうがいいぜ、っていう価値を打ち出すこともできるだろう。それこそが、今回の「島の幸福論」のベースにある考え方だといえよう。

それでもやっぱり東京がいいという人は東京で生活すればいい。いやいや、アホらしいと思う人は自分の好きな場所で暮らせばいい。そういう価値が少しずつ多くの人に共有されつつあるのが21世紀の日本であり、北欧やドイツが20世紀に見つけた幸福論なんだと思う。海士町がいま、その幸福論を見つけつつあるのがとてもうれしい。