2004年11月30日火曜日

「ツールと能力」

「マスマティカ」というソフトについて話し合う機会があった。僕は詳しく知らなかったのだが、このソフトは結構優れモノで、既にいろんな業界で使われ始めているらしい。

名前のとおり、基本は数学ソフトである。数式とコマンドによっていろんな操作ができるようになっている。だから物理学や生物学でも利用するし、マーケティングや人口予測にも活用できる。もちろん、建築やランドスケープや土木にも応用できる。

建築やランドスケープに応用した場合、敷地のレイアウトや意匠の検討、3Dモデリングによる構成の検討、多様な素材間に見られる相同性の検討など、さまざまなシーンで活躍する。

しかし、このソフトが優れている点はそれだけではない。マスマティカはいろんな業界で使われている。だからこそ、異業種同士のコラボレーションにおける共通言語として機能するのである。医療、福祉、教育、建設、経済、政治、文学、歴史、アート。異なる分野とコラボレーションする際、もっとも体力を使うのがコミュニケーションの問題だろう。それぞれの分野が独自の用語を使うため、その特定の意味が把握できないことが多い。建築を学ぶものにとって経済の本が読みにくいのと同様に、他の分野の人にとって建築の本は非常に読みにくいのである。ここに、異業種間における共通言語の必要性が見出される。

マスマティカの基本的な考え方を理解すれば、その応用方法は無限に広がる。各業界がマスマティカを使うことになれば、異なる業界でも同じ言語を使って作業を進めることになる。これによって、旧来の異業種間コラボレーションが全く新しいステージへと移行するかもしれない。だからこそ、少し大変だがこの「共通言語」を覚えようとする人が増えているのだろう。

ここで注意したいのは「コミュニケーション能力」と「コミュニケーションツール」の関係である。人は往々にしてコミュニケーションがうまくいかないことを「ツール」の問題として了解したがる。

英語という言語はコミュニケーションのためのツールである。外国人とのコミュニケーションがうまくいかないのは「英語」というツールのレベルが足りないからだと考え、あわてて英会話教室へ通う人がいる。海外で生活していたとき、日本からの留学生が語彙力を高めるために英単語をたくさん暗記しているのを目にした。そこには「英語というコミュニケーションツールのレベルを上げれば自動的にコミュニケーションがスムーズになるだろう」という楽観が漂っている。

しかし、英語は単なるツールである。英会話に求められるのはツールばかりではない。コミュニケーションの能力も重要な側面である。人と接するときの表情、言葉の選び方、会話のテンポ、話題の豊富さ、相づちの入れ方、話の速度や抑揚、身振り、自分の信念や意見など、全人的なコミュニケーション能力が相手に評価される。実際、使う英単語の数は驚くほど少ないにもかかわらず、いつも楽しそうに外国人と会話する人がいる。重要なことは、コミュニケーションに関わる能力とツールのバランスなのである。

自分のコミュニケーション能力の低さをツールでカバーしようとするのは間違いだ。マスマティカは単なるツールである。マスマティカをマスターすれば誰とでも快適にコラボレーションできると思わないほうがいい。どれだけツールの取り扱いに優れていても、コラボレーションしたいと思える相手でなければコミュニケーションは発生しないのだから。

共通言語が無くても、卓越したコミュニケーション能力でそれを乗り越えてしまう人がいる。僕はむしろ、そういう人の能力にあこがれる。

山崎

2004年11月29日月曜日

「St. Georges」

フィリップ・スタルクがボトルをデザインしたミネラルウォーターがある。コルシカ島の泉源水を封入したサン・ジョルジュ(St. Georges)のミネラルウォーターである。ボトルのデザインはシンプルで、黒いキャップが印象的だ。

このボトル、日本で手に入るかどうかはわからない。でも目下ペットボトルマニアな僕としては、なんとかしてこのボトルを手に入れたいと思っている。どうやら通販でフランスから取り寄せることができるようだが、時間がかかるし手続きもめんどくさそうなので別の方法を検討している。

ボトルのサイズは、1.5/0.5/0.33リットルの3サイズ。通常のスーパーマーケットでは扱っていないことが多く、高級食品スーパーやウォーター・バーなどで販売されているミネラルウォーターなのだという。

フランスでデザインされたものでも、その気になれば日本でそれを手にすることができる。所有することができる。これは嬉しいことだ。工業デザインと空間デザインの違いを感じる。


スタルクデザインのサン・ジョルジュ

山崎

2004年11月28日日曜日

「雑誌の編集」

雑誌の編集に携わるかもしれない。ランドスケープに関する雑誌の編集を担当しないか、という打診を受けている。でも僕は、雑誌がどうやって出来上がるのかを知らないし、広告をどうやって取ってくるのかもわからない。わからないけれど、新しい雑誌のディレクションを頼まれているからそれに応えたいと思っている。僕が編集した本が書店のランドスケープを変えるのなら、それも僕の仕事だと思い込むようにしている。

だから最近は雑誌が気になってしょうがない。ふと「pen」という雑誌が目に留まった。今回の特集が面白そうだったからだ。テーマは「美しいブックデザイン」。ついつい立ち読みしたくなるテーマだ。

立ち読みをし始めてすぐ、僕は内容の濃さに驚嘆した。今まで僕は、編集者という視点から雑誌を分析したことなんて無かった。改めて作る側から雑誌を眺めると、雑誌が持つとてつもない情報量に唖然としてしまう。

まずは広告がすごい。最初のページがベンツの見開き広告。次のページはソニー。さらにケント、バーバリー、フジフィルム、マイクロソフト、グッチ、アルマーニと続く。どうすればこういう企業の広告契約を獲得できるのだろうか。

アルマーニの次のページまで進むと、やっと目次が登場する。コンテンツがまたすごい。まずは立て続けに世界のニュースが並ぶ。ニューヨークから3つのニュース。パリからも3つ、ロンドン、ローマ、ベルリン、ストックホルム、北京、サンパウロ、それぞれ3つずつのニュースが掲載されている。文章と写真は現地在住のライターが担当しているのだろう。執筆者や撮影者の名前を調べると、どうやら各都市に2~3人の契約ライターがいるようだ。

特集の内容もすごい。ムナーリの絵本、CBSのブックデザイン、原弘の装丁、バーゼル派のグラフィック、60年代のチェコデザイン、オッレ・エクセルのデザインを立て続けに紹介。さらに、現在の人気グラフィックデザイナー5人に「自分にとって重要なブック・デザイン」を聞いている。その人選も冴えている。一昔前のブルース・マウ路線ではなく、まさに今が旬のイルマ・ボームを筆頭に、マルコ・ストリーナ、フリードリッヒ・フォスマン、原研哉、チップ・キッドという顔ぶれ。半年前、かなりがんばって原研哉さんとの対談を実現させたことを思い出す。「pen」は、その原さんを含めた世界のグラフィックデザイナー5人に「重要だと思うブックデザインを挙げよ」と問いかけているのである。これはとてもかなわない。素直にそう思った。

その後のページでも、日本の個性派グラフィックデザイナー4人、世界の人気出版社3社、5人の書店店長が進める本15冊などが紹介されている。ここまでくると、何をどうすればこういう特集を実現できるのかがまったくわからない。僕の知っている世界とはまったく違うロジックで、雑誌という1冊の作品が組み立てられている。そう感じた。

特集のほかに11本のコラムが連載されている。さらに第2特集として「銀塩のような味が出せるデジタルカメラ」が紹介されている。すでに記事の内容はほとんど頭に入っていない。総ページ数は215ページ。これだけの情報量を毎月編集している人がいる。そのことを考えたとき、僕が取り組もうとしていることの重大さを改めて思い知った。

いや、もっと正確に表現すると、その重大さを思い知ったのはもう少し後のことだった。そう、この雑誌が「毎月」ではなく「月2回」発行されているのを知ったときだ。そのとき僕は、編集者の能力と作業量の甚大さを思い知ったのである。

僕はきっと違う路線を探すことになるだろう。情報収集の方法、執筆依頼の方法、写真撮影の方法、どれをとってもこんなに大規模で高速度な編集はできない。販売も同じだ。一般の書店に並ぶような流通経路とは別のルートを探すことになるだろう。定期購読から始めるべきなのかもしれない。考えるべきことは山ほどある。そのことに気づいただけでも相当有意義な立ち読みだった。

いや、立ち読みしている場合ではない。さっそく購入して内容を粒さに研究しなければ。。。

レジで雑誌を購入する僕は、そのとき更なる驚愕を経験することになる。かくも多くの人に協力させて作った雑誌が、なんとたったの500円で売られているのである。僕が新しい雑誌に対して漠然と考えていた定価の3分の1の値段である。発行部数と広告数のうまい連動があるからこそ実現できる定価だということはわかっているつもりだ。わかっているつもりだが、500円はあまりにもお買い得すぎると思うのである。

雑誌の編集を引き受けるのであれば、相当本気で編集の方向性を検討しなければならない。しごく当たり前の決意を再確認した夜だった。



山崎

「価値の相対化」

京都建築フォーラムで井上章一さんの話を聞く。

井上さんはゆっくりと正確にしゃべる人だった。ニコニコ笑いながら講演する。昨日の隈さんも物腰の柔らかい人だと思ったが、井上さんはさらに柔らかい。威圧感のないさわやかさが会場に漂っていた。

「愛の空間」を読んで以来、僕は井上さんの考え方に興味を持っている。この日の講演タイトルは「スケベ建築」。井上さんは講演タイトルの「ひどさ」を謝りながら話を始めた。

講演の主題は「建築表現が持つ力」について。井上さんは、建築の表現が人々を魅了するだけの力を持ち得るのか、ということを疑う。この点については僕も懐疑的で、建築を見て涙を流したと言う人の話はどうしても素直に聞くことができない。

井上さんは、ブルーノ・タウトというドイツの建築家が日本の桂離宮を絶賛したことを例にとって「建築が持つ力」を相対化する。ブルーノ・タウトが愛人であるエリカさんと日本へ訪れたのは1933年のこと。その際、訪問した桂離宮を褒めちぎったという。桂離宮は世界的な建築家タウトをして絶賛させるほどの建築である、というのが通説のようだが、果たして本当にそうなのだろうか。

井上さんは、タウトが日本へ来た経路に着目する。ドイツからトルコ、ソビエトへと渡り、シベリア鉄道でウラジオストックへ。さらにウラジオストックから船で敦賀へ。タウトとエリカは、極北の地を60日間も旅して京都へたどり着いた。そして、この長旅の翌日にタウトは桂離宮を見学することになる。

シベリア鉄道の旅や日本海の船旅を経てたどり着いた新天地で、愛人のエリカと2人で眺める桂離宮。旅の経緯を考えれば、そこが桂離宮でなくてもタウトは感動したのではないか、というのが井上さんの意見である。ドイツでナチスに命を狙われ、離婚裁判は泥沼化し、シベリア鉄道と船で長旅を敢行した先で出会った桂離宮。隣には愛人のエリカがいる。タウトが感動したのも無理はない。

この話は桂離宮の評価を低めるものではない。そうではなくて、建築を鑑賞する主体の心理状況、気温、気象、同伴者の有無等が、鑑賞される建築の評価に大きく影響するのではないか、ということを指摘しているのだ。さらには、建築よりも人間のほうが人に影響を与えるのではないか、ということを指摘しているのである。タウトの場合、エリカと2人だったことが桂離宮の評価に大きく影響しているのではないか。

事実、井上さんは都市や建築を調査しても、通りがかる女性に魅力を感じることのほうが多いという。

・パリを巡った後で脳裏に焼きついていることを丁寧に思い起こしてみると、建築や街並みよりも、風で偶然めくれたスカートの中に見たパリジェンヌの下着のほうが鮮明に思い出されるという。
・建築学会賞を受賞した建物を見学しても、建築の空間ではなく受付のお姉さんがきれいだったことのほうが印象に残る。
・つまり、建築は生モノ(女性)の魅力に勝つことができないのではないだろうか。

僕も同じ意見だ。建築の作品性を強調したり、建築の表現を神聖化しないほうがいいと思う。一般的には、建築に感動を求める人なんてほとんどいないのである。実際、彫刻を見る目と建築を見る目は違うのである。彫刻に感動する人はいるとしても、それが設置されている美術館という建築に感動する人は少ない。ランドスケープも同じだろう。「風景を見て涙を流す」というシチュエーションは、むしろ特殊な精神状況にある人の経験だと考えたほうが自然なのである。

人が感動するような風景を作りたい。ランドスケープデザインに携わる人なら一度は掲げる目標だろう。しかし、この目標を無批判的に輸入すべきではない。「美しい女性」と「美しい風景」のどちらに目が行くのか。そして、どちらが脳裏に焼きつくのか。建築やランドスケープにどれほどの力があるのか。それを冷静に判断しなければならない。

風景(ランドスケープ)の美しさを盲目的に信じたり、それを過大評価するようなメンタリティーに出会うと、僕はいつもげんなりしてしまう。僕らは風景の価値を一度相対化しておくべきなのである。

山崎

2004年11月27日土曜日

「サディスティックな負け方」

INAX大阪で開催されたアーキフォーラムにコーディネーターとして参加する。ゲストは隈研吾さん。

隈さんからは、亀老山展望台、運河交流館、森舞台、水/ガラス、石の美術館、陽の楽家、広重美術館、バンブーハウス、グレイト(バンブー)ウォール、ONE表参道、東京農業大学「食と農」の博物館、東雲キャナルコート、阿弥陀如来坐像収蔵施設、福崎立体広場に関するプレゼンテーションがあった。

ディスカッションで一番聞きたかったことは単純だ。「負ける建築」を標榜する隈さんの建築も、僕たちランドスケープ側から見ると「ぜんぜん負けてないじゃん」と思えるような強さを持っている。だから「どこが負けているんですか?」という率直な質問がしたかった。

隈さんの回答は以下の通り。建築はそもそも強いものである。この強さを少しでも和らげる必要がある。周囲を威圧するような建築は作りたくない。しかし逆に強さを覆い隠してしまうような偽物の弱さを捏造するのも嫌だ。つまり、建築を弱くしたいけど、建築が持つ強さを隠蔽したくはない。この相反する理想を実現するために「どう負けるべきか」を模索しているところなのだという。

隈さんは、今後さらに大きな建築物の設計を依頼されることになるだろう。「負ける」を標榜する者としては、さらに不利な状況に立たされることになるだろう。単純なことだが「負ける」の難しさは建物の大きさに比例する。小さい建物ほど「負け」やすい。建物のスケールによって「負け方のバリエーション」が必要になるかもしれない。

その他、ディスカッションでは隈さんから以下のような話が出た。

・ルーバーなど壁面の取り扱いに固執しているように見えるかもしれないが、一番こだわっているのは床面の取り扱いである。
・ルーバーのピッチは素材によって変えている。木材とアルミ材では、同じピッチでも印象がまったく違う。
・最初から面白い仕事を依頼されることはほとんど無い。条件の厳しいものばかりである。それをどこまで面白いものにすることができるか。隈さんの作品はほとんどが「面白くした」仕事の結果。
・亀老山のビデオ画面が灰皿として使われたり、広重美術館の庭に石や松を配されそうになったりする。このように市民が勝手に空間を改変するような力については、あまりポジティブに捉えていない。
・原広司研究室での修士論文は「住居集合と植生」。集落の家と周辺の植生との関係性を定量的に捉えたかった。結果は、明確な相関関係が出ずに大失敗。
・建築とランドスケープとでは取り扱っている素材の粒子が違う。両者の「きめ細かさ」や「硬さ」をなじませるよう努力することが多い。
・目指しているのは、建築が周辺環境に「負ける」という状況なのかもしれない。

隈さんが考えていることは驚くほどランドスケープ的だった。しかし、僕たちが考えているようなマゾヒスティックなアプローチではなかった。隈さんの『負け方』はサディスティックである。このことが実感できたのは大きな収穫だった。


隈研吾さん 


たくさんのご来場ありがとうございました。

山崎

2004年11月26日金曜日

「建築の愛し方」

隈研吾さんの「建築の危機を超えて」を読む。

本書は、隈さんが1977~87年(23~33歳)までに発表した文章をまとめたもの。冒頭から、「建築は悪である」ことが繰り返し述べられている。隈さんによれば、建築における悪は以下のとおり。

・建築自体があらゆる環境破壊の元凶であること。
・建築の施工から設計、そして評論に至るまでの広い領域で前近代的な談合体質が健在であること。
・建築産業全体が技術とも合理性とも遠い前近代的な斜陽産業であること。

さらに建築家に対する指摘は続く。痛快なものを以下に挙げる。

・建築家だけが空間をつくっているわけではない。建築家のつくるものだけが空間だと考えるのは建築家の思い上がりである。
・建築にあまり本気で取り組まないほうがいい。あまりむきになっていると、自分はこんなにむきになってやっているのにどうして金も女にも縁がなくて、一方高校のときの友達はくそつまらない保険会社なんかに勤めながらもなぜあんなに優雅にやっているのかと、醜い嫉妬に取り付かれる。
・いかにしたら建築批評独特のもったいぶって深刻で、そのくせ退屈で知的レベルの低いディスコースを解体できるか。

それでも隈さんは建築を愛している。

山崎

「カッコいい負け方」

「隈研吾読本」を読む。

1999年に出版されたこの本は、2004年に発行されることになる「負ける建築」に繋がる議論が多い。インタビュアーである二川さんのファシリテーションがうまいからだろうか、発展的な議論が展開されている。

この本のなかで隈さんは負けることの魅力について語っている。プロレスの話題にヒントを得て、建築にも「負ける」というワザがあることに気づいたという。「カッコ良く負けるのは勝つよりもよっぽどいいことかもしれない」。

さらにその後の議論で、負けをどう見せるのかが重要だという結論にたどり着く。ただ負けるだけではなく効果的な「負け方」を模索する必要がある。たとえば「何も作らない」という負け方がある。これはランドスケープにも大きく関係することだ。何も作らなかったということをどう表現するのか。このことをわかってもらわなければ、うまく「負けた」ことにはならない。

公園なんか作らなくても、ただ原っぱがあればいいんだ、という意見がある。言葉どおり原っぱのまま放っておけば、いずれ開発業者の手によって何かが建設されてしまうだろう。なぜ原っぱのままがいいのか。その理由を明確にして、その土地を確保する必要がある。何かを作ろうとするメンタリティを取り除くためには、それを上回るほどの「作らない理由」が必要なのである。

明日のアーキフォーラムでは、「負け方」のバリエーションについて隈さんとディスカッションしてみたい。

山崎

2004年11月25日木曜日

「建築的欲望」

隈研吾さんの「建築的欲望の終焉」を読む。

1920年代と1980年代のアメリカは、同様に好景気だった。それは、建築的欲望が最大限に膨れ上がっていた時代だったとも言える。しかしその後、両時代とも好景気の終焉を経験することになる。同時にそれは建築的欲望の終焉でもあった。本書は、2つの時代を照らし合わせることによって建築的欲望の特徴を探っている。

建築的欲望とは何か。建築はたくさんの欲望が集積することによって立ち現れる。隈さんは、建築を出現させるために必要な欲望のことを「建築的欲望」と呼んでいる。

建築は多くのお金を要する。大きな空間を要する。建設に長い時間を要する。完成したら簡単に取り壊すことができない。これほどやっかいなものを作ろうとすれば、よほど多くの欲望が集まらない限り建築をスタートさせることはできないはずだ。建築的欲望とは「建築を成立させるくらい大きな欲望」ということなのである。逆に言えば、欲望が無いところに建築が現れることはないわけだ。

ランドスケープが設計の対象とする公共空間について考えてみよう。かつて、公共空間に人々が求めたものはモニュメントだった。明確なモニュメントがあれば人が集まった。為政者の欲望も同じだった。公共空間に記念碑を作りたがった。つまり、ここでは市民と為政者の欲望が一致しており、それゆえ多くのモニュメント空間が出現した。

しかし現在、人々は公共空間にモニュメントを求めていない。むしろ、自分達が関わることのできる公共空間を欲している。自分の家が狭いからなのか、あるいは暇な時間が増えたからなのか、もしくはコミュニティの大切さを刷り込まれているからなのか、とにかく人々は公共空間で活動したいと思っている。

為政者は、こうした市民の欲望をうまく絡み取る。市民の欲望はモニュメントを作るための言い訳として利用される。その結果、街には「市民参加型モニュメント空間」が増殖する。モニュメント空間が作り出されるのプロセスに立ち会わなかった人にとって、かつてのモニュメント空間と市民参加型モニュメント空間は見分けがつかない。建築的欲望の悪用とも呼べる行為である。

市民の欲望を素直に発露させることができる公共空間をデザインすることはできないのか。市民が欲望を吐露したくなるような公共空間。そのデザインにサディスティックなアプローチは馴染まない。作家の好みを押し付けるようなストライプやグリッドは到底機能しない。

市民の欲望を引き出し、受けとめる公共空間。空間が市民によって改変されることをも厭わないくらいマゾヒスティックなデザインアプローチ。

「建築的欲望の終焉」のなかで隈さんはこう述べている。『建築という行為を通じてあらゆる矛盾を解消し隠蔽しようとしてきた人類の文明の基本構造が問われている』と。そして『建築というエサを目の前にぶら下げることによって人々の欲望を喚起、誘導し、そのエサを与えることによってその欲望が充足されたという幻想を人々に与え続けてきた、この文明の本質が問われている』のだと言う。

そして最後をこう締めくくる。『もし今後も建築というものが世の中に建て続けられるとするならば、それは建築に対する苦い自己否定のなかからのみ、かろうじて搾り出されるべきものであろう』。

なんともマゾヒスティックな結論である。

山崎

2004年11月24日水曜日

「アンチ建築」

隈研吾さんの「10宅論」「グッドバイ・ポストモダン」を読む。

建築家は、住宅の設計が全ての建築の基本だと考えている。住宅は小さなものだが、新たな「建築的発明」をすれば世界中の住宅に影響を与えることができる。だから住宅の設計は大切なものだし、建築の世界をひっくり返す可能性を秘めた設計対象だというわけだ。

10宅論は、そんな『住宅に対する過度な思い入れ、住宅の神聖視、思わせぶり、建築家の自己宣伝―そういったものをすべて排除して、今日の日本人が実際にどういう住宅にどんな気持ちで住んでいるかをできる限り正確に記述』した本である。つまり、建築家がじっくり設計する「肩の力の入った住宅」だって、他のタイプの住宅と本質的な差異は無いんだ、ということを示した本である。

隈さんはこの本の中で、住宅を10種類に分けてそれぞれのタイプを分析している。もちろん、建築家が設計する住宅もそのうちのひとつであり、ワンルームマンションやペンション風住宅より上等でも下等でもない。住まい手にとっての住宅は、自分の世界を存分に表現できる空間であることに変わり無いのである。

そんな建築家の中でも、他の建築との差異を反復し続けたのがポストモダンの建築家達だろう。隈さんは「グッドバイ・ポストモダン」のなかで11人の建築家にインタビューしている。いずれもポストモダンの旗手と呼ばれていた建築家だ。

建築家へのインタビューは1985~86年にかけて実施された。その結果をまとめた「グッドバイ・ポストモダン」は1989年に出版されている。既に日本でもポストモダンの建築に翳りが見え始めた頃だ。ポストモダンにサヨナラするには絶好のタイミングだったのだろう。1989年の7月に初版が発行された「グッドバイ・ポストモダン」は、4ヶ月後に増刷されている。

ところで、隈さんの作品のなかでもっともポストモダンな建築「M2」は、1989年に設計されて1991年に完成している。1989年といえば、すでに隈さんがその著書でポストモダンに別れを告げた年である。にも関わらず、自作「M2」がこれほどポストモダン的なのはどういうことか。

ひょっとしたら、隈さんは1989年の時点でもなお、ポストモダンに可能性を感じていたのかもしれない。改めて「グッドバイ・ポストモダン」を読み直してみる。インタビュアーである隈さんの発言には、ポストモダンへの批判的な発言が見当たらない。インタビューを受ける11人のポストモダン建築家の発言にも迷いはない。つまり「グッドバイ・ポストモダン」は、全編を通じてポストモダンに肯定的な内容なのである。

「建築的欲望の終焉」「建築の危機を超えて」「反オブジェクト」「負ける建築」。隈さんの著作のタイトルはアンチ建築的なものが多い。ところが内容はやはり建築について論じている。批判的な文章も肯定的な文章も、建築についてのものなのである。1989年当時の隈さんは、徹底的にポストモダンを語りたかったのだろう。アンチポストモダンな態度を示しているものの、当時の隈さんはポストモダンを愛していたのである。

いま、隈さんは建築に批判的な態度を示している。建築を作ることが恥ずかしいのだと言う。でも隈さんは建築を愛しているはずだ。「グッドバイ・建築」というそぶりを見せながら、実は「アイ・スティル・ラブ・建築」なのである。

週末のアーキフォーラムでは、隈さんの建築批判に安易な同調を示すべきではない。一緒になって建築を批判した瞬間に足元を掬われることになるだろう。批判的な態度を示していても、彼は建築を愛しているのだから。


M2

山崎

2004年11月23日火曜日

「思考の変遷」

アーキフォーラムが週末に迫ってきた。第1回のゲストは隈研吾さん。今週は隈さんの著作を読み進むことによって、週末の論点を整理したいと思う。

隈さんの著作は1986年から2004年までに8冊出版されている(図面集などは除く)。

10宅論(1986)
住宅を10種類のパターンに分けて特徴を明確にしたもの。10種類をフラットに扱うことによって、建築家が設計する住宅だけが特別偉いわけではないことを示している。

グッドバイ・ポストモダン(1989)
1985~86年に滞在したコロンビア大学で、ポストモダンの建築家11人にインタビューした結果をまとめたもの。ポストモダンのムーブメントを冷めた目で分析している。

新・建築入門(1994)
「建築の歴史」を独自の視点でまとめたもの。旧石器時代から現代までの建築を眺めることによって、建築が内在せざるを得ない「構築」という手法を批評している。

建築的欲望の終焉(1994)
1986年にアメリカから日本へ帰ってきた後で発表した文章をまとめたもの。コロンビア大学時代に思考した1920年代の終焉と1980年代の終焉に見られるアナロジーについて検討している。

建築の危機を越えて(1995)
1977~87年(23~33歳)までに発表した文章をまとめたもの。本文は、建築に対する懐疑的な視点に始まり、建築がもたらす罪悪を認識することで終わっている。

隈研吾読本(1999)
二川さんのインタビューに答えるなかで、自作の考え方や「建築」との距離感を語ったもの。磯崎新さん、廣瀬通孝さん、中沢新一さんとの対談も収められている。

反オブジェクト(2000)
自己中心的で威圧的な建築(オブジェクト)を批判しながら、自作を解説したもの。オブジェクトにならない建築の作り方を模索している。

負ける建築(2004)
1995年以降に書いた文章をまとめたもの。建築は環境を破壊する。建築はお金やエネルギーを浪費する。勝ち続けようとする建築に対して、負けることで成立する建築のあり方を模索している。

以上の著作を読み進むことで、隈さんの思考の変遷を辿ってみたい。27日のアーキフォーラムまで、あと5日。隈さんの思考の変遷に僕の読書時間が追いつくかどうかが不安である。

山崎

2004年11月20日土曜日

「シチュアシオニスト」

午前中は三宮でUPPの会合に出席。先週のキャンプに参加した人たちがどれくらい来てくれるのか楽しみにしていたが、あいにく新しい参加者が集合するより前に三宮を出発しなければならなかった。そのまま四ツ橋のINAX大阪へ移動。

少し遅れてアーキレヴューの会場に到着。すでにゲストの木下誠さんが持っきたビデオを上映していた。今回のテーマはシチュアシオニスト(状況主義者)。ギー・ドゥボールの手による独特な映像を観ながら、数年前にシチュアシオニストの思想を基礎にまとめた「環濠生活」のことを思い出していた。

ドゥボールの映画は、一般的な映画とは違う手法で作られている。既存のフィルムをつなぎ合わせた「転用」という手法で作られているのである。ニュース番組、バラエティ番組、連ドラ、身分証明書の写真など、動画の一部や静止画像等を繋ぎ合わせる。そのうえで、それらを批評するテキストやドゥボール自身の声が映像の随所に挟み込まれる。無批判的な映像を再編集することによって、批評的な映画を作り出していると言えるだろう。

ドゥボールの映画や社会についての認識はこうだ。映画館で映画を観ることは楽しいことだと思い込まされている。しかし現実には、お金を支払って2時間も身動きが取れない状況を強いられているだけである。ほかに楽しいことができるかもしれないのに、椅子に縛り付けられて無駄に時間を浪費させられてしまっている。

「豊かな人生のために映画を観よう!」というスローガンを信じて映画を観に行く人にとって、映画も人生も同様に単なるスペクタクルでしかない。主体的に取り組むことのない観客としての人生。そんな人が多くなっているし、そういう人をどんどん生産しているのが「スペクタクルの社会」なのである。

だからドゥボールは「実生活の中で何かアクションを起こしてみろ」と言う。消費社会に支配されるのではなく自分なりの行動を起こすとき、社会構造はその体制を変化させなければならなくなるだろう。この考え方は、都市計画批判にも繋がる。都市計画は、知らないうちに人々の日常生活の隅々にまで入り込んでいるコカコーラのようなものだと言う。僕たちの生活は、見えない枠組みに飼いならされているというのである。

この見えない枠組みを打ち壊すような「状況の構築」が求められる。ドゥボール率いるシチュアシオニスト達は、都市に思いも寄らない状況を作り出す。数日間、あるいは数ヶ月間、都市を漂流して感じるままにアクションを起こす。誰からも援助を受けられずに、漂流の途中で病院へ運ばれることによって都市の無関心や冷血さを浮き彫りにする者もいる。

木下さんからは、現在のフランスで活動する「ネオ・シチュアシオニスト」的な団体が紹介された。「Stopub」という落書き集団である。「広告やめろ」と名乗るこの集団は、公共空間を私有化する広告に対して徹底的な攻撃を仕掛ける。「Stopub」は、自社の製品ばかりを宣伝する広告が公共空間に何の貢献もしていないこと、人々の生活を商品化していること等を指摘し、屋外空間に皮肉っぽい落書きを書きまくる「ペインティングツアー」を主催した。パリの地下鉄駅構内に貼られた広告が次々と餌食になった。

一連の落書きをドゥボール的な視点から分析すると、合格点を与えることができるものと落第するものを分けることができる。例えば、マニキュアの広告。女性の手が大きく掲載された広告に対して「気をつけろ!資本の手に捕まれるぞ!」と書くものは合格だろう。既存の広告にテキストを組み合わせることによって、ちゃんと別の意味を発生させている。一方、広告の内容に関わらず「やめろ!」とか「×」とか「金を使う代わりに頭を使え!」等を書き込んだものも散見される。これらはおよそ知的な落書きとはいえない。うまい「転用」が図られていない。

「転用」は「模倣」と区別されるべきだろう。ヒップホップにおけるサンプリングは「転用」に近い。過去の曲を部分的に利用したり、ほかの曲と重ね合わせたりして違う曲を作り出している。あるいは正反対の歌詞(ライム)を乗っけることによって、新しい曲のイメージを作り出す。そこには、既存の素材を組み合わせることによって新しい関係性を表出させようとする意図が見える。

シチュアシオニストは、既存の素材をアレンジする「転用」という手法を用いることによって、消費社会に取り込まれないような芸術のあり方を模索していたんだろう。僕たちは、無駄にオリジナルな図面を捏造すべきではないのかもしれない。長い時間をかけて真摯に検討する空間のオリジナリティこそが、消費される空間の生産を助長しているのだから。

僕も「転用」によるランドスケープデザインを模索してみよう。

山崎

2004年11月8日月曜日

「100年後の都市」

地域開発の11月号に原稿が掲載された。郊外住宅地の現在に関するレポートである。タイトルは「夏草やウワモノどもが夢の跡:死にゆく郊外について」。かつての夢の都市《ユートピア》が、いまや夏草に覆われつつある状況を報告した。

100年かけて増加した人口は、今後100年かけて減少する。100年後、日本の人口は6000万人になるという予測がある。1億3000万人から6000万人。急激な人口減少である。出産奨励策や移民受入れ策などの政策も、常識の範囲内で施行する限りは人口を増加させるに至らない。おのずと都市規模も縮小せざるを得ないだろう。都市の高度利用やインフラの効率的配置を考えると、都市域は明治期の広がりと同じくらいまでコンパクトになる可能性がある。大阪で言えば、ほぼ環状線の内側に建築物が集積する。つまり、天王寺が郊外になるわけだ。

コンパクトシティに関するスタディが盛んなのは、こうした気分を反映してのことなのかもしれない。しかし問題がある。昨今の議論では、コンパクトになった都市のあり方ばかりが強調され、残された郊外住宅地の環境についてはほとんど検討されていないのだ。素敵なコンパクトシティが完成したとして、その外側をドーナツのように廃墟が取り巻く風景をどう考えているのか。

2100年、休日に山登りへ。家を出て山へ向かう。途中50kmは廃墟の町。楽しかった山登りから帰ってくるときも同じ。どの方角から都心へ戻ろうと、必ず50kmの廃墟の帯を通り抜けなければならない。魅力的な未来とは程遠い状態である。

廃墟は、たまにあるから貴重なのであり、それを楽しむことができるのである。自分の住む都市の周囲50kmを廃墟が取り囲むことになると、僕らの廃墟に対する考え方は一気に変わってしまうだろう。もはや廃墟は珍しいモノでもなければ、ワクワクする対象でもない。消し去るべき対象になるのである。

小さくなる都市について考えるのと同時に、小さくなった後の環境について考えておく必要がある。それはまさに、今後50年は生きるであろう僕らの世代が考えておくべき問題なのである。

山崎

2004年11月7日日曜日

「病院の庭」

尼崎にある関西労災病院が新しくなった。長い建て替え工事を終えてのリニューアルオープン。前庭の設計をうちの事務所が担当した。

病院側との協議の結果、「使える庭」を作ろうということになった。単にきれいな花を植えて眺めるだけの前庭ではなく、病院利用者や地域住民が自由に使える庭を作る計画とした。

まず考えたことは、入院患者とその家族が利用できる庭。お見舞いに来た家族が、相部屋で他の患者に遠慮しながら会話するというのは辛い。庭に出てのんびり話をするほうが気持ちいいだろう。語り合える空間が必要である。

病院は病名を告知される場所でもある。告知の内容によっては、一人になりたいときもあるだろう。患者自身が一人になりたいときもあれば、患者の家族や恋人が一人になりたいときもあるはずだ。一人で泣くことのできる空間も必要である。

リハビリのために庭を利用する人も多いだろう。庭全体を安易にバリアフリー化するのではなく、あえてバリアフルな場所を作っておく。退院してから自力で生活できるように、庭の一部に一般的な道路と同じような排水勾配や縦断勾配を設ける。それは、車椅子初心者が走行練習できるような場所である。

庭を介して入院患者が地域住民と接することも重要だろう。庭の維持管理や患者の利用サポートを担うボランティアを募集したところ、定員の4倍を上回る応募があった。800字の論文審査を経て30名のボランティアを登録した。庭の近くには専属の園芸療法士が1名常駐している。ボランティアたちは、この園芸療法士を中心にして庭のマネジメントにあたっている。

現在、日本人が5人いれば1人は65歳以上である。この割合は今後もどんどん高まる傾向にある。政府は、関連施設による治療や介護に加えて、地域での予防や介護を推奨している。これを受けて福祉に関わる協議会やNPOが地域で様々な活動を展開している。

これからの病院とこれからの地域。どちらも福祉的視点を持ってダイナミックに変化していくだろう。どちらの変化も大切である。その上で気になるのが、両者の境界部分である。病院と地域が接する部分。そこは病院利用者と地域住民が出会う場所になる。

関西労災病院の前庭は、福祉型社会における「境界部分」の取り扱いについて考えるきっかけを与えてくれた。


一人の庭


ガーデンボランティア

山崎

2004年11月6日土曜日

「Maggie's Highlands」

「Maggie's Highlands」の計画案を見る。前述のマギーズ・センターが現在建設中の施設である。建築の設計はスコットランドの建築家デイビッド・ベイジ。ランドスケープの設計はチャールズ・ジェンクスが担当している。

マギーズ・センターは癌患者のケアを目的とした施設である。この種の施設では、建築のみならずランドスケープのあり方が重要になる。建築内部でできることの限界をランドスケープが広げるのである。

植物が育つことを利用したセッション。太陽の下で軽く作業することによる作用。季節や時間を意識できる環境。プログラムの質を担保するためにランドスケープはどうあるべきか。チャールズ・ジェンクスの出す解答が楽しみである。

「Maggie's Highlands」は来月オープンする予定。


Maggie's Highlands の計画案

山崎

2004年11月5日金曜日

「Maggie's Centre」

イギリスにマギーズ・センターという施設がある。癌の告知を受けた人をケアする施設である。創始者はマギー・ケスウィック・ジェンクスという女性。自身が癌患者だった。病院建築の侘しさや心のケアの貧しさに憤慨して、1995年に設立したのがこのセンターだ。

第1号はイギリス北部の街「Edinburgh」にオープン。以降「Glasgow」に第2号がオープン、そして先日第3号が「Dundee」にオープンした。いずれもイギリス北部の街である。

すでにマギーは癌で亡くなっている。その意思を引き継いでセンターの建設を進めているのは、マギーの夫で建築批評家のチャールズ・ジェンクス。先日オープンした「Maggie's Centre Dundee」の設計は、ジェンクスの友人であるフランク・ゲーリーが担当。ゲーリーは施設の趣旨に賛同し、無償で設計を引き受けている。

メタリックな外観と木材を多用した内装。コンパクトな規模にまとめられた建築は「家」のような暖かさと親しみやすさを持っている。患者やその家族が情報を収集したり交換したりするためのスペースが用意されている。各種セラピーやエクササイズも行われている。

マギーが問題にしたのは建築のカタチだけではない。建築のカタチに加えて「心のケア」というナカミを問題にしている。換言すれば、それはプログラムや人材における質の問題である。建築の形態だけを突き詰める議論で見落としがちな「ナカミの質」という問題。僕らはカタチとナカミの質をバランスよく考える必要がある。至極当然のことだが、これが意外と難しいことなのである。

今後、マギーズ・センターは英国中に13の関連施設をオープンさせる予定。すでにダニエル・リベスキンド、ザハ・ハディッド、リチャード・ロジャースなどが設計を引き受けている。




Maggie's Centre Dundee

山崎

2004年11月4日木曜日

「Auroville」

インド南部の都市、マドラスのさらに南にオーロヴィルという都市が建設されている。この都市は1968年から作り続けられており、未だ全体計画の半分しか完成していない。「作り続けるプロジェクト」のなかでも息の長い部類に属するプロジェクトだ。

この都市の基本的な考え方は、インドの哲学者スリ・オーロビンドが唱えた「人類は、自己中心的な存在から共生主義的な存在へと進化しなければならない」というコンセプトに基づいている。具体的な都市の建設は、オーロビンドの弟子だったフランス人芸術家ミラ・アルファッサによって進められた。

現在の人口は1500人。インド政府によるロ護法やユネスコによる支援によって、オーロヴィルは着実に安定した都市へと近づいている。オーロヴィルでの生活に規則はなく、良心に基づいた行動が尊重されている。また、明確な指導者の存在を否定していることも特徴的である。

都市の作り方にしても、基本的なマスタープランはあるものの、細部は住民の興味に任せて作られている。新たな試みや実験を繰り返しながら同時多発的に都市建設が進んでいる。ゴールが設定されていないため、急激な開発も起きずゆっくりと都市建設が進められている。

1500人もの人が暮らし、基本的なマスタープランを軸にゆっくり都市建設が進められているオーロヴィル。そこには規則も指導者も存在しない。確かに宗教っぽい匂いのする側面も多い。しかし細かな教義が明文化されているわけではない。緩やかな信条のようなものが住民の間で共有されているだけだ。

オーロヴィルの建設が始まったのは1968年。この都市が60-70年代のヒッピー文化を引き継いでいることは確かだろう。ほかのヒッピーコミュニティと同様、オーロヴィルも熱心な環境保全主義コミュニティである。

程度の差こそあれ、「作り続けるプロジェクト」は思想や宗教の力を借りなければ持続させられないのだろうか。特にカタチに関する宗教的な側面を抑えることはできないのだろうか。オーロヴィルの中心部には、いかにも宗教的なモニュメントが建っている。




オーロヴィルの中心部

山崎

2004年11月3日水曜日

「水面利用」

9日間だけ中ノ島の東に川のターミナルを作るという「天満埠頭」へ行く。天満埠頭は、僕が主宰する「けんちくの手帖」のイベントに来てくれた中谷ノボルさんや岩田雅希さんが関わっている「水都OSAKA」のプロジェクトだ。アトリエ・ワンの塚本由晴さんが大阪に来たときボートに乗せてくれた吉崎かおりさんもこのプロジェクトに関わっている。各人から話を聞いていたので、ぜひ期間中に現場へ行きたいと思っていた。

大川に浮かべられた桟橋の上に臨時のカフェが設営されており、その西側には船の発着所が設けられている。水に浮いた床面の上で食事をするのは不思議な気分だ。微妙な揺れが気分を落ち着けてくれる。隣の発着所から出て行く船や戻ってくる船を見ているだけでも飽きない。ついつい長居してしまった。

天満埠頭は、大阪の水辺を活用するための社会実験なのだという。こんな楽しい社会実験なら、ぜひ何度も繰り返して水面を気楽に利用できる世の中にして欲しいと思う。

前回僕らを船に乗せてくれた吉崎さんも現場に来ていた。彼女は自動車の運転免許を持っていない。当然、車も持っていない。しかし船舶の運転免許は持っていて、自分の船も持っている。中古船は、中古車を買うような値段で買うことができるそうだ。

彼女は船で大阪を移動している。どんなに道路が混んでいても、水路はいつもすいている。快適なドライブを楽しむことができる。ゆっくりできるときは、エンジンを止めて船の上でのんびり読書をするという。

普段は意識しないけれど、実は僕の知らないところで気持ちよく移動している人がいる。僕の目の前の道路がどれだけ渋滞していても、水路をのんびり移動している人がいる。水路を利用してみて、そのことを初めてリアルに感じた。

この感じ、かつてメーリングリストの存在を知ったときのようだ。僕の知らないところで大量の情報が移動しているという事実。このことを知ったとき、僕は新しい世界に出会った喜びと、そのことを今まで知らなかった悔しさを同時に感じた。すぐにいくつかのメーリングリストに登録したのを覚えている。今回も同じだ。さっそく僕は船舶の免許が欲しくなってきている。




天満埠頭

山崎

2004年11月2日火曜日

「ゆっくり作り続ける」

ゆっくり作り続けるプロジェクトに興味がある。例えばバルセロナのサグラダファミリア。技術的には20年で完成するようだが、資金集めを考えると今後200年ほど続くプロジェクトなのだという。

サグラダファミリアのプロジェクトにおいて、設計図はどういう役割を果たしているのだろうか。財源はどうやって確保しているのだろうか。人材はどのように育てているのだろうか。「ゆっくり作り続ける」ということは、カタチの問題だけではない苦労が付きまとう。そういった諸々のことを僕は知りたいと思っている。

インドの南部に位置するオーロヴィル。ここは環境実験都市と呼ばれている。哲学者スリ・オールビンドの考えに従って、弟子のミラ・アルファッサが作り始めた都市だ。環境都市の建設に対しては、インド政府だけでなく国連のユネスコもたびたび援助している。

アメリカのアリゾナに位置するアーコサンティ。パオロ・ソレリという建築家が先導する自力建設都市。当然、環境にも配慮している。ソレリの造形哲学は「アーコロジー」というもの。建築とエコロジーを組合わせた彼の造語である。

日本では、代官山のヒルサイドテラス(槇文彦氏)や八王子の大学セミナーハウス(吉阪隆正氏)のプロジェクトが「ゆっくりつくり続ける」という側面を持っている。特に吉阪氏の「不連続統一体」というコンセプトは、それ自体に「ゆっくり作る」という考え方が含まれているようで興味深い。

ただし、どのプロジェクトにも「作り続ける」ための方向性を示す人が存在している。それはガウディであり、アルファッサであり、ソレリであり、槇であり、吉阪である。「作り続ける」ためには、作る側の強烈な牽引者が必要なのだろうか。参加者が主体的に作り続けることによって空間が自己組織化されていくようなプロセスは望めないのだろうか。

クリストファー・アレグザンダーは、具体的な図面を示さず「作り続けるプロセス」に方向性を示そうと努力した人だといえる。建設に携わる人たちが相談して空間のあり方を決める。その際に使われる「パタンランゲージ」というルールブックは、空間を生み出すときに留意すべき項目だけを示している。

ただし、パタンランゲージにはアレグザンダーの好みが大いに反映されている。全編を通して歴史回顧主義的な空間を勧める記述が目立つのである。

あと1歩、何かが足りない。「作り続ける」プロセスに参加する人すべてが主体的に関わることのできるプロジェクト。そんなプロジェクトは理想的過ぎるのだろうか。カリスマ設計者が描いた空間の実現を手伝うだけではなく、かといって「様式」を強要するルールブックに従って作るわけでもない方法。

そこにこそ、ユニセフパークプロジェクトが作り続けるプロジェクトになるための答えが隠されているような気がする。

山崎

2004年11月1日月曜日

「Unicef Park Project」

前回ここに書いた「子どもと遊び場を作る計画」の名称は「ユニセフパークプロジェクト」。国連のユニセフと日本の国土交通省がタイアップして進める事業である。

このプロジェクトでは、参加する子どもだけでなく子どもの活動をサポートする大学生や社会人がとても重要な役割を担っている。総勢70人のファシリテーターと呼ばれる大学生や社会人。彼らを募集するのに「ユニセフ」という看板が必要だった。

「子どもと遊び場を作るプロジェクトに参加しませんか?」という呼びかけに応募する人の属性は想像通りである。子どもが好き、自然が好き、遊びが好き。そういうボランティアが集まることになるだろう。プレイパークや公園づくりのワークショップを何度か主催して、集まるボランティアの属性が固定化していることに気づいた。

5年前このプロジェクトを始めるとき僕は、多様な属性の大学生や社会人を公園づくりに巻き込みたかった。少なくとも、子どもや自然や遊びが好きな人だけで群れ固まるのはやめたかった。多様な属性の人にアピールする言葉は無いか。そのとき思い浮かんだのが「ユニセフ」だった。

「ユニセフ」という言葉からイメージされるものはさまざまだろう。「ユニセフ+パーク」からイメージされるものはさらに多様だろう。案の定、このプロジェクトのボランティアに応募した人たちの属性は多様だった。国際交流、福祉、子ども、自然、公園、教育、世界平和、遊び環境。さまざまな専門分野を持つ人たちが集まった。

それから5年。来年の3月には、世界10ヶ国の子どもたちがユニセフパークプロジェクトに参加する。多様な国の子どもたちと多様な専門分野を持つボランティアたちは、いつもどおりじっくりと公園づくりを楽しむことだろう。


Unicef Park Project 2003

山崎