2006年11月29日水曜日

「ランドスケープデザインの政治的側面」

京都にある無隣庵を見学する。山県有朋がデザインし、小川治兵衛が施工したという近代の庭園である。山県有朋は軍人系の政治家である。琵琶湖疏水を京都に導いた立役者であり、時の総理大臣だった。その疎水を自分の庭に引き込んで庭をつくっている。

山県有朋はランドスケープデザイナーか。本気で美しいランドスケープを創造したいと願うのであれば、ランドスケープデザインを志すものは政治家になるべきなのかもしれない。議員立法で景観法を提案すべきなのである。京都に疎水を引き込むべきなのである。そして、自分の庭を自分でデザインすべきなのである。

風景をデザインするためのスキルを携えて、声がかかるのを待つという態度。これが本気でランドスケープをデザインしようとするものの態度だろうか。デザインしようとしている対象が「風景」という広がりを持ったものである場合、その作業はきわめて政治的な手腕を要することになるだろう。風景をデザインする枠組みをデザインすること。それは政治家の仕事であり、同時にランドスケープアーキテクトの仕事だと言えるのではないだろうか。

そういえば、オルムステッドはきわめて政治的な駆け引きがうまい人だったと聞く。ランドスケープアーキテクトという言葉が生まれたときから、その職能は既に政治的な要素を内在していたようだ。政治的なスキルを持たないランドスケープデザイナーは、「ランドスケープデコレーター」と名乗ったほうが適切なのかもしれない。

あなたがデザインしようとしている対象は風景なのである。

山崎

2006年6月18日日曜日

「計画された偶然性」

その先の目標」という文章を書いたら、その記事を読んだ知人が心理学者のクランボルツ教授が提唱している「計画された偶然理論」という考え方を紹介してくれた。クランボルツ教授は「その幸運は偶然ではないんです!」という本を出している。さっそくアマゾンで取り寄せて読んでみた。

この本の主張はきわめてシンプルだ。人生のキャリアは、自分がデザインしたとおり実現するものではない。キャリアデザインに固執しすぎて、突然目の前に現れたチャンスを掴み損ねるのはもったいないのではないか。むしろ、常にオープンマインドな状態を維持し、新たなチャンスに遭遇する機会を計画的に作り出し、チャンスに遭遇した際にはすぐそれに飛び乗れる準備をしておくこと。これこそが、偶然性をうまく利用したキャリアデザインだといえるのではないか。。。

多くの人の職業選びに関する実例を挙げて、生き方がどれだけ「偶然性」に左右されているのかを分かりやすく示してくれる本だった。最近、僕が考えていたこととぴったり一致する内容である。

自分が何に満足するか。その内容は常に変化し続けるだろう。たまたま僕らは22歳くらいで職業を選択することになっている。あるいは高校を卒業した18歳か、専門学校や短大を卒業した20歳か、大学院を修了した24歳で職業を選択する。そのとき、たまたま興味を持っていたことが基準となって、僕らは職業を選択することになる。

たまたまデザインに興味があったから、デザイナーを目指してアトリエ事務所に就職したとしよう。その情熱は、一体何歳まで持続するものだろうか。就職した後も、僕らはいろんな刺激を受け続ける。僕らを取り巻く環境だって変化する。そんななかで、50歳、60歳になってもまだデザインが好きでいられるだろうか。

ある調査によると、18歳のときに考えていた職業に就いているという人は全体の約2%しかいないのだという。「将来の職業をいま決める」というのは無駄なことではないか、と疑問に感じる数字である。将来、僕らにどんなチャンスやアクシデントが訪れるか予測することはできない。それなら、常に新たなチャンスや新たな興味の対象にアプローチできるような準備をしながら、現在の興味に基づいて仕事を続けるのが得策だといえよう。キャリアデザインはオープンスコアにしておくべきなのかもしれない。

クランボルツ教授はこう書いている。「『大きくなったら何になりたいの?』たいていの人は、子どもの頃にこの質問をされた経験があるでしょう。(中略)この質問は、トレーニングを受けた大人(エコノミスト、証券のディーラー、気象学者、政治アナリストなど)でさえ、将来を正しく予測することは難しいという現実を無視して、子どもが将来を予測できると想定した質問です。毎日たくさんの想定外の出来事や偶発の事態が起こり、将来を正確に予測することは不可能です。」

さらにこう続けている。「高校生や大学生になると、将来の職業を宣言しなければならないというプレッシャーはさらに増します。分別を持ち、素直に、ひとつの職業に決めてしまうことを拒否する生徒もいます。そうすると、彼らの先生や両親は大いに失望し、彼らに『優柔不断』、さらに悪く言うと『決断力が無い』というレッテルを張ります。やってみたこともないのに職業を決めることを彼らは期待されているのです。」

どの職業が楽しいのか。どの職場が自分に合っているのか。それは、実際に働いてみなければわからないことだろう。だから僕は、声をかけてもらった仕事は何でも試してみようと思っている。どんな仕事でも、考えようによっては面白いことになると信じている。実際にやってみてから、それが「今の自分」に合っているのかどうかを判断したいと考えている。だからこそ、「その先の目標」を設定しないまま、いろんなことに関わり続けているのである。

僕は職人になれるタイプではない。時代の変化に伴って、いろんな誘惑が僕をそそのかす。自分の知らなかった世界が目の前に現れる。そういうものどもを、僕はひとつずつ体感しながら生きていきたいと思っている。

山崎

2006年6月4日日曜日

「その先の目標」

建築家の青木淳さんが、建築文化の特集号でこんな文章を書いている。「ぼくのちょっと上の世代はどういうわけか『やりたいこと』がいっぱい詰まっているように見えて、こどものとき、ぼくはずっと劣等感を持っていた。いま君がいちばんやりたいのは何か。よくそう聞かれたものだ。ぼくはそのたびごとに、え、そうなんだ、皆はそういうことをしっかり持っているんだと、自分が情けなくなったものだった。でもいつ頃からだったか、その劣等感が薄れて、そのかわりに、最初から『やりたいこと』があるという言い方の方が嘘っぽく聞こえるようになってきた。」

青木さんはこう書いた上で、設計も同じだ、と続ける。「設計はそもそも、与条件に先立って『やりたいこと』があってもぜんぜんしようのない作業である。内部空間と外部空間の融合という『コンセプト』をいくらたててみたところで、厳寒の北海道では凍死するのがオチだ。いつも設計者を離れて受け入れざるを得ない事柄がある。それを前提として何をどうすればいいのか。それに臨機応変に答えていくのが設計である。設計をしていると自分が透明になるのを感じる。与条件が、透明になった自分を通り過ぎて、かたちをつくっていく。それが面白い。そこに発見がある。思わぬことが起きる。最初からある『やりたいこと』を目指すのではこうはいかない。」

設計にも人生にも言えることだが、そこには2つの態度があるように思う。ひとつは最初から「やりたいこと」が決まっていて、それに向かって邁進する態度。もうひとつは「やりたいこと」が与条件によって変化し、その時々によって方向性を変える態度。僕はどちらかといえば、設計も人生も後者のほうが好きなタイプだ。そのほうが面白い空間ができあがるような気がするし、面白い人生になるような気がするのである。

ところが、周りの人にとっては僕の態度が前者、つまり「やりたいこと」に向かって突き進んでいるように見えるらしい。「何を目指しているんですか?」と問われることが多い。

その問いには答えようが無い。むしろ僕が知りたいくらいだ。この先がどうなるのかは特に考えないまま、いま「楽しそうだ」「やりがいがありそうだ」と感じる方向へ進んでいるだけなのだから。結果的に「こうなりました」という説明はできるのだが、「こうなりたいから今これに取り組むのです」とはいえない。いま僕がしていることは、何かになるために取り組んでいるわけではないのである。

僕にそういうことを尋ねる人達だって、僕の将来を心配してくれているわけではないだろう。僕の活動が、自分の想定する人生観の内側にあるかどうかを確認してみたいんだと思う。そこで僕が明確に「これを目指しています!」って言い切れればいいのだが、残念ながら僕は特に目指しているものがないので、その期待に応えられない。

1年ほど前から独立した立場で仕事をするようになった。特に自分の城を築きたかったわけではない。いろんな事務所の人と面白いプロジェクトをたくさんやりたかったからだ。「独立した立場になったら一緒に仕事をしよう」と言ってくれた人がいたことが大きな理由だろう。今年の4月から社会人ドクターとして研究にも携わるようになった。僕が取り組んでいたプロジェクトのひとつが、たまたま研究室の研究テーマに合っていたことがきっかけだった。博士課程で研究することを薦めてくれた人がいたからやる気になったのである。

特任講師として京都の芸術系大学へ勤務することになった。それまで非常勤講師として関わっていた僕を、専任講師として関わることができるよう大学側に推薦してくれた人がいたから実現した。芸術系大学の学生と接することは僕にとっても大きな刺激になりそうだ、ということでお引き受けした。

非常勤講師として大阪の専門学校で授業を担当することになった。建築設計事務所に勤める先輩が紹介してくれたのでお引き受けした。建築系の専門学校で環境デザインを教えるという立場が気に入っている。

兵庫県が持っている研究所の非常勤研究員として、安心・安全のまちづくりなどについて研究することになった。以前仕事でご一緒した先生が誘ってくれたことがきっかけである。その先生は経済学が専門で、僕たちとは違った視点から鋭い指摘をしてくれる。そんな先生が所長を務める研究所で研究ができるということなので、喜んで非常勤研究員をお引き受けした。

ここ1年の間に起きた変化を思い出しても、すべて「その先がどうなるのか」を想定していないことがわかる。誘ってくれたり紹介してくれたりする人がいて、それが面白そうだと感じたから引き受けた、というのがほとんどである。その結果どうなるのかというのは何も想定していない。というか、僕には想定しようがない。どうなるのかがわからないのである。僕にできることは、変化のきっかけを与えてくれた人達の期待に応えられるよう努力することだけだ。この人達には本当に感謝しているから。

人生の目標を設定して、それを達成するために計画的な生き方をすることができない僕の場合、せめて「面白そうだと感じたことに躊躇せずに飛び込む」という態度くらいは大切にしたいと考えている。

もちろん、「楽しいと思ったことをやるだけさ」という態度もいずれ変わるかもしれない。数年後には「やっぱり計画的な人生さ」と言っている可能性だってある。計画的な人生について語ることが楽しいと思えば、僕はきっとそうするだろう。適当な人生の目標を仮設定して。


山崎

2006年4月22日土曜日

「いわゆる京都らしさ」

夕方から「けんちくの手帖」にコーディネーターとして出席する。ゲストは「京都げのむ」編集部のおふたり。

「京都げのむ」は「京都コミュニティデザインリーグ(CDL)」の機関誌としてスタートした雑誌。豊富なデータベースと独特な特集記事で構成されている。編集は学生が中心に行っていて、9ヶ月程度で1冊の編集を終える。これまでに5冊の「京都げのむ」を発刊しており、5月末には6冊目を発刊する予定である。

「京都げのむ」および「京都CDL」のメインテーマは、いわゆる「京都らしさ」の解体。ことあるごとに持ち出される「京都らしさ」に対して、京都の学生たちはかなり懐疑的な気持ちを持っているようだ。特に、新しい空間や都市を作り出そうとする建築系の学生にとって、自分の提案に「京都らしさ」を持ち出されるのはやっかい極まりないことなのだろう。「あなたの設計案は斬新だが、ちっとも京都らしくない」「そんな提案が実現したら、京都らしい風景が台無しになる」などなど。平時からそんな言葉を浴びせかけられ続けたフラストレーションが、「京都らしさ」の解体を目指す京都CDLの活動へと結びついているように思う。

「京都盆地の断面調査」や「名所買い取りの金額調査」などさまざまな活動を通じて、「京都げのむ」はいわゆる「京都らしさ」が現在の京都市域における一部分を象徴したものでしかないことを明らかにする。全国的に有名な「京都らしさ」は、現在の京都市域の一部だけを増殖させた結果でしかなく、その他ほとんどのエリアはもっと多様な様相を帯びている。ところが、京都を訪れる人々はそうした京都の多様性を直視しようとせず、ひたすら「京都らしい」場所やものや人に触れようとする。こんな風に「京都らしさ」を消費し続けると、その「京都らしさ」さえも早晩消費しつくされてしまい、将来の京都はアイデンティティを喪失してしまうのではないか。そんな問題意識が「京都げのむ」の編集部のあいだで共有されているように感じた。

問題設定としては妥当なものだと思う。ただし1点だけ気になることがある。それは、京都の学生が感じている「京都らしさ」の暑苦しさを、果たして外部の人々は共有できるのだろうか、という点である。

少なくとも大阪に住む僕にとって、それが陳腐な「京都らしさ」であったとしても、いわゆる「京都らしさ」が存在することに何の問題も感じないのである。僕らが望む京都というのは、まぎれもなくステレオタイプな京都らしい街。京都の街中に斬新な現代建築が建つことよりは、町屋が建ち並ぶことのほうが望ましい。

「そりゃ、観光客の勝手なイメージだよ。そこに住む人の立場に立てば、いつまでも古臭い町屋に住まわせておくわけにはいかないんだ」という意見があるかもしれない。確かに上記イメージは、大阪に住む僕の勝手なイメージだろう。一方的だといわれても仕方が無い。しかし、斬新な現代建築を建てて、古都の街並みとの対比で自分の作品を売り出そうとする立場も、同じように一方的なものである。現に「京都らしくない」建築物を建てようとする建築家がいると、その一方的な意図に対して京都人はいつも反対しているのである。

「京都タワーだって京都ホテルだって、当初はみんなに反対されていたんだよ。でも今じゃ誰も騒がない」という論理は、「だから京都の街に斬新な建物を建ててもいい」という結論には結びつかない。そもそも京都タワーや京都ホテルなんて、みんなに反対されてまで建てるようなものではないのだから。

それがいわゆる「京都らしさ」であったとしても、その枠内で新しいことにチャレンジすること。僕はそういう態度に憧れるし、そうした漸進的な努力こそがこれまでの京都らしさを作り上げてきたように思う。建築家の「建てたい論理」だけで斬新さを正当化するのではなく、「陳腐な京都らしさ」の内側から徐々に「イカした京都らしさ」へと変えていくような活動を続ける態度が好ましい。

「京都は昔から新しいものを受け入れてきたんだ」。京都の建築家がよく使う論法である。「だから私も京都に新しい文化を吹き込む」なんて言いながら、京都に奇抜な建築物を設計する。いわゆる「京都らしさ」を否定するその建築家が持ち込むものは、いわゆる「レイトモダン」だったり、いわゆる「ポストモダン」だったりするんだろう。

京都CDLの活動が、そんな輩と同調してしまわないことを願う。「京都げのむ」のデータベースが、そんな輩に利用されてしまわないことを願う。

山崎

2006年4月21日金曜日

「もてなしの精神2」

デザインノートの2006年6号に登場する「MASAMI DESIGN」の高橋正実さんに会う。

高橋さんのオフィスは墨田区の向島にある。自宅兼オフィスの広々とした空間で、1歳になるお子さんと旦那さん、そして神戸出身のスタッフと一緒に仕事をしている。とりたてて強調することでもないが、女性が働く環境としては考え得るレパートリーの中で最高のものだと感じた。

お話していて驚いたのは、高橋さんの口から飛び出す言葉の一つ一つが、これまで僕の考えていたことときわめて一致していたことである。「奇抜なデザインを生み出したいのではなく、目の前の課題を解決するためのデザインがたまたま目立つものになるのである」「課題を解決するためであれば、グラフィックデザインとは違った方法を用いる場合もある」「何が何でもデザインしたいという気持ちはない」「古本屋をめぐるのが好き」「日本の農業を変えてみたいと思っている」「何を目指しているのか問われることが多いが、目標や狙いがあらかじめあるわけではない」。いずれも僕が考えていることとほとんど同じだ。「グラフィックデザイン」を「空間のデザイン」という言葉に置き換えてみれば、僕と高橋さんはほとんど同じことを考えているといえる。

もう1つ驚いたのは、東京にも「もてなしの精神」があったということである。かつて僕は、東京や大阪ではもてなしの精神に出会うことがほとんどなくなったと書いた。ところが、東京の下町である墨田区には、まだそのもてなしの精神が残っていることを知った。高橋さん自身が教えてくれたのである。初めてオフィスを訪れた僕を暖かく迎え入れてくれるだけでなく、自分達が気に入っているお寿司屋さんの寿司を用意して待っていてくれた。ベランダに置かれた水鉢の上にはローソクが浮かんでいて、室内には適度な音量の音楽が流れていた。その空間におけるすべての気遣いが、なんだかとても嬉しいものだった。

家に鍵をかけずに出かけるほどの下町である墨田区向島。この街にある高橋さんの家で、僕は「東京には無いだろう」と思っていた「もてなしの精神」を存分に味わうこととなったのである。


山崎

2006年3月20日月曜日

「マゾヒスティック・ランドスケープ」

数年前から「ランドスケープエクスプローラー」という活動に関わっている。ランドスケープに関わる計画者、設計者、研究者が集まるグループで、関西を中心に活動している。

ランドスケープエクスプローラーの活動から生まれた本が出版されることになった。タイトルは「マゾヒスティック・ランドスケープ」。マゾなランドスケープを目指そう、という本である。

グリッドとストライプで美しい風景を作り出そうというランドスケープのアプローチがあることは否定しない。そうやって作り出された美しい広場があることも知っている。しかし、僕らがそういう広場を使うとき、その美しさがゆえにどうもよそよそしく振舞わなければならないことが多いのも事実だ。「風景が人を美しくする」という言葉はきれいだが、美しく振舞わなければならない空間ばかりだと肩がこる。毎日オシャレなカフェでランチを食べなければならないことになると疲れるのと同じで、都市空間は緊張感を強いるようなオシャレ空間ばかりじゃ落ち着かない。

むしろ、自分達で改変できたり、使いこなすことができたり、別の使い方ができたり、作り出したりできるようなランドスケープがあってもいいんじゃないか。行く度に風景が変わっていて、誰かが使いこなした跡が残っているような空間があってもいいんじゃないか。そんなことを考えた。

グリッドとストライプで美しくつくった風景は、設計者によって「これが美しい風景である」と押し付けられた風景だと考えられないか。そう考えて、それらを「サディスティック・ランドスケープ」と呼んだ。いや、ランドスケープエクスプローラーのメンバー全員がそう呼んだわけではない。僕の心の中だけでそう呼んだのである。そう呼ぶと、僕らが目指したい風景が少し明確になる。デザイナーやプランナーが「美しい風景」をサディスティックに押し付けるのではなく、ユーザーが風景を使いこなして改変してしまうような「マゾヒスティック・ランドスケープ」。そんな被虐的な風景の成立を模索してみたいと思う。

そんなことを考えたのは、当時の僕が澁澤龍彦さんの本を読み漁っていたからだろう。「貢献するエゴイズム」とか「民営化」とか「ほとんど誰もが賛成」などという斜に構えたキーワードを出したのも、澁澤さんの影響だったように思う。

書店で「マゾヒスティック・ランドスケープ」を見かけたら、ぜひ手にとってナカミをご覧いただきたい。で、もし気に入ったらご自身のライブラリーに加えていただきたい。最もお願いしたいことは、同書を読んで感じたことをコメントしていただきたいということ。ぜひとも忌憚のないご意見をお聞かせ願いたい。

山崎

2006年3月15日水曜日

「歩いて暮らす街」

かつて、我々studio-Lが「環濠生活」という冊子を通じて堺市の旧環濠地区に対して行った提案は「歩いて生活する街」だった。旧環濠地区に暮らす人の「生活時間」を調べ、街を歩きまわれる時間がどれだけあるのかを明らかにした。また「生活領域」を調べ、日常生活で歩いている距離がどれだけ狭いのかを明らかにした。

その上で、歩くきっかけとして「環濠動物園」というテーマを設定し、旧環濠地区内で見ることができる動物の置き物をすべてプロットした。家の前庭や出窓、ショップの入口や遊具広場など、旧環濠地区内のあらゆる場所にある動物の置き物をすべて地図上のプロットし、それを生活者に紹介することによって少し寄り道する経路を増やそうというのが狙いだった。

こうしたテーマに基づいて、旧環濠地区内に歩行者用の空間を増やすことを提案した。なかには生活者が沿道の合意を形成してアスファルトを勝手にはがしてしまえばいい、という提案もあった。ヒートアイランド現象の軽減と水源涵養機能の復活を意図したアスファルト剥がしプロジェクトだった。

旧環濠地区内に歩行者空間が広がれば、現存する駐車場は少しずつ必要なくなるだろう。必要なくなった駐車場を広場に変えていくことも提案した。コインパーキングのアスファルトを剥がして市民農園に変える「コインファーム」。コインファームに供給する堆肥を集約的に作り出す「コンポストパーク」。環濠の水質を浄化するための「汐入公園」。各地で剥がされたアスファルトを蓄積して小高い丘を作る「ガラ公園」。駐車場が減ることによって、個性豊かな広場や公園が増えることを夢みた提案だった。

そんな夢のような提案を、しかしゆっくりと実現している都市があることを知った。デンマークのコペンハーゲン。40年かけて中心市街地から自動車を排除し、歩行者空間を増やし、駐車場を広場に変えている。300円程度で借りられるレンタル自転車の駐輪場を増やし、歩行者や自転車利用者を中心とした市街地形成を目指している。

コペンハーゲンも堺も、かつては世界レベルの貿易港を抱える港町だった。いま、コペンハーゲンはアーバンデザイナーであるヤン・ゲールの助言のもと、新しい街に生まれ変わりつつある。政令指定都市になる堺はどうか。世界的な自転車メーカーであるシマノを有する堺市が中心市街地でできることは、まだまだあるように思う。

山崎

2006年2月8日水曜日

「騒がない街」

大阪府堺市。大阪市の南側に隣接する人口80万人の都市である。最近、この堺がにわかに騒ぎ始めている。政令指定都市になるというのである。相当嬉しいのだろう。千利休や与謝野晶子まで持ち出して「いよいよですね」などというポスターをあちこちに掲げている。

しかし、よく考えてみれば不思議な騒ぎ方だ。明治時代には、現在の奈良県にまで渡る広大な土地を取りまとめる「堺県」だった堺。そんな堺が、政令指定都市になるということぐらいで騒いでいるのだ。けなげである。過去の威光を顧みず、県だった時代のことなど持ち出さず、単純に政令指定都市への昇格を喜んでいるのである。

思えば堺は昔から「過去にすがらない街」だった。茶の湯の大家、千利休が庵を結んだ場所は、いまやどこにでもあるメッシュフェンスで囲われた単なる空き地として野ざらしになっている。かの与謝野晶子が生まれた生家跡は、道路脇の植栽帯に埋もれるような碑によって示されるのみである。千利休にすがらない。与謝野晶子を担ぎ出さない。過去の偉人を褒め称え、博物館や記念館を作ってしまう自治体がある。油断すれば堺だって「千利休博物館」や「与謝野晶子資料館」を作ってしまう危険性があったはずだ。しかし、堺には確固たる意思が存在した。過去の偉人は過去のもの。我々はこれからも過去を凌ぐ偉人を輩出する自信がある。千利休の庵跡や与謝野晶子の生家跡を過度に祀り上げる必要なんて無い。むしろ、今まさに育ちつつある現代の利休や与謝野に投資すべきである。そんな気概を感じるほど、千利休庵跡や与謝野晶子生家跡はみすぼらしい。

かつて百万石の城下町だったことをウリにする街がある。利休がお茶会を開いた場所に記念碑を建てる街がある。与謝野晶子が歩いた階段に彼女の詩を刻む街がある。しかし堺は騒がない。表千家、裏千家ともに聖地とあがめる千利休庵跡を放置する。世の歌人が一度は訪れたいと思う与謝野晶子生家跡を道路の植栽帯に埋没させる。そんなものを担ぎ出してもしょうがないのである。「騒がない街」堺。僕らはそんな堂々とした堺に惚れ込んでいるのである。

ところが上述の事態である。政令指定都市になるからといって、堺は千利休や与謝野晶子を担ぎ出してしまっている。過去にすがろうとしている。僕らは声を大にして伝えたい。「堺よ、騒ぐな」と。過去の偉人を担ぎ出せば出すほど、現在の堺に自信が持てないことを吐露していることになる。現在の市民には大した人間がいないということを示すことになる。千利休は偉い。与謝野晶子もすごい。でも、それはそれだ。今の堺にもっと自信を持って、未来の偉人達に想いを馳せるべきではないか。

そんな気持ちを込めて、僕らはここに「騒がない街」プロジェクトを発足する。このプロジェクトでは、これまで堺がいかに「騒がなかった」のかを示すことにしたい。日本最大の古墳「仁徳天皇陵」や日本最古の木製灯台「旧堺港灯台」を有していても、ゆかりのまんじゅうを作ったりしない。沢口靖子や野茂英雄やコブクロといった有名人を輩出しても、彼らはテレビでほとんどお国自慢をしない(むしろ堺出身であることを隠すかのようだ)。東京の銀座がネーミングを真似したほど活況を極めた「堺銀座」も、東京の銀座とは違って「騒がない」路線を突き進む。そんな堂々とした「騒がない街」の片鱗を探し出して記録するとともに、ほかの街が「歴史上の人物」で、「有名人」で、「特産物」で、「歴史的建造物」で、いかに騒いでいるのかを対比的に記録しておきたい。

無駄に騒がないけど一目置かれている街。堺はいつでもそんな街であってほしい。

山崎

2006年1月25日水曜日

「アーバンデザインとランドスケープデザイン」

書評を書いた関係で、訳者である日本都市総合研究所の加藤源さんに会う。加藤さんから、アーバンデザインの仕事についていろいろ教えていただいた。

ランドスケープデザインが描ける風景は、アーバンデザインによって規定されている。話を聞いていて、ふとそんなことを考えた。いろいろな事業メニューを組み合わせて、都市空間のなかで扱える公共空間を増やしたり連続させたりするのがアーバンデザインだとすれば、ランドスケープデザインはそうやって増やしたり連続したりしてもらった公共空間に風景を作り出す仕事だといえよう。つまり、アーバンデザインが風景を作り出す枠組みを作り出し、ランドスケープデザインはその枠組みの中に風景らしきものを作り出しているだけだといえよう。

もちろん、ランドスケープデザインが敷地外へ繋がる風景を描ききってしまうからこそ、アーバンデザインがそれを実行するために事業メニューを組み合わせるという手順もあるだろう。いずれにしても優れたアーバンデザインが無ければランドスケープデザインは絵に描いた餅だということがよく分かった。

問題は、これから都市が小さくなっていくときにアーバンデザインは何をすべきか、ということである。加藤さんにも明確な答えはないらしい。人口減少時代の都市におけるシュリンクポリシーをどう設定するのか。これはランドスケープデザインにも関係する問題である。またもやアーバンデザインが都市の縮小事業メニューを構築し、そのメニューの規定に沿ってランドスケープデザインは緑を増やすことだけに専念するのか。あるいは、その事業メニューを確立する場にランドスケープデザインが介入するのか。それによって、縮小される都市の風景はまったく違ったものになるだろう。

山崎