2004年11月20日土曜日

「シチュアシオニスト」

午前中は三宮でUPPの会合に出席。先週のキャンプに参加した人たちがどれくらい来てくれるのか楽しみにしていたが、あいにく新しい参加者が集合するより前に三宮を出発しなければならなかった。そのまま四ツ橋のINAX大阪へ移動。

少し遅れてアーキレヴューの会場に到着。すでにゲストの木下誠さんが持っきたビデオを上映していた。今回のテーマはシチュアシオニスト(状況主義者)。ギー・ドゥボールの手による独特な映像を観ながら、数年前にシチュアシオニストの思想を基礎にまとめた「環濠生活」のことを思い出していた。

ドゥボールの映画は、一般的な映画とは違う手法で作られている。既存のフィルムをつなぎ合わせた「転用」という手法で作られているのである。ニュース番組、バラエティ番組、連ドラ、身分証明書の写真など、動画の一部や静止画像等を繋ぎ合わせる。そのうえで、それらを批評するテキストやドゥボール自身の声が映像の随所に挟み込まれる。無批判的な映像を再編集することによって、批評的な映画を作り出していると言えるだろう。

ドゥボールの映画や社会についての認識はこうだ。映画館で映画を観ることは楽しいことだと思い込まされている。しかし現実には、お金を支払って2時間も身動きが取れない状況を強いられているだけである。ほかに楽しいことができるかもしれないのに、椅子に縛り付けられて無駄に時間を浪費させられてしまっている。

「豊かな人生のために映画を観よう!」というスローガンを信じて映画を観に行く人にとって、映画も人生も同様に単なるスペクタクルでしかない。主体的に取り組むことのない観客としての人生。そんな人が多くなっているし、そういう人をどんどん生産しているのが「スペクタクルの社会」なのである。

だからドゥボールは「実生活の中で何かアクションを起こしてみろ」と言う。消費社会に支配されるのではなく自分なりの行動を起こすとき、社会構造はその体制を変化させなければならなくなるだろう。この考え方は、都市計画批判にも繋がる。都市計画は、知らないうちに人々の日常生活の隅々にまで入り込んでいるコカコーラのようなものだと言う。僕たちの生活は、見えない枠組みに飼いならされているというのである。

この見えない枠組みを打ち壊すような「状況の構築」が求められる。ドゥボール率いるシチュアシオニスト達は、都市に思いも寄らない状況を作り出す。数日間、あるいは数ヶ月間、都市を漂流して感じるままにアクションを起こす。誰からも援助を受けられずに、漂流の途中で病院へ運ばれることによって都市の無関心や冷血さを浮き彫りにする者もいる。

木下さんからは、現在のフランスで活動する「ネオ・シチュアシオニスト」的な団体が紹介された。「Stopub」という落書き集団である。「広告やめろ」と名乗るこの集団は、公共空間を私有化する広告に対して徹底的な攻撃を仕掛ける。「Stopub」は、自社の製品ばかりを宣伝する広告が公共空間に何の貢献もしていないこと、人々の生活を商品化していること等を指摘し、屋外空間に皮肉っぽい落書きを書きまくる「ペインティングツアー」を主催した。パリの地下鉄駅構内に貼られた広告が次々と餌食になった。

一連の落書きをドゥボール的な視点から分析すると、合格点を与えることができるものと落第するものを分けることができる。例えば、マニキュアの広告。女性の手が大きく掲載された広告に対して「気をつけろ!資本の手に捕まれるぞ!」と書くものは合格だろう。既存の広告にテキストを組み合わせることによって、ちゃんと別の意味を発生させている。一方、広告の内容に関わらず「やめろ!」とか「×」とか「金を使う代わりに頭を使え!」等を書き込んだものも散見される。これらはおよそ知的な落書きとはいえない。うまい「転用」が図られていない。

「転用」は「模倣」と区別されるべきだろう。ヒップホップにおけるサンプリングは「転用」に近い。過去の曲を部分的に利用したり、ほかの曲と重ね合わせたりして違う曲を作り出している。あるいは正反対の歌詞(ライム)を乗っけることによって、新しい曲のイメージを作り出す。そこには、既存の素材を組み合わせることによって新しい関係性を表出させようとする意図が見える。

シチュアシオニストは、既存の素材をアレンジする「転用」という手法を用いることによって、消費社会に取り込まれないような芸術のあり方を模索していたんだろう。僕たちは、無駄にオリジナルな図面を捏造すべきではないのかもしれない。長い時間をかけて真摯に検討する空間のオリジナリティこそが、消費される空間の生産を助長しているのだから。

僕も「転用」によるランドスケープデザインを模索してみよう。

山崎

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