日本地図を見ると、北海道の東側にサロマ湖という湖があるのに気づく。オホーツク海と繋がるか繋がらないかという薄い陸地を隔てた湖。特異なカタチをしている。小学生の頃から気になっていた地形だ。サロマ湖は、果たして海に繋がっているのか、いないのか。ちょっと大きな波が来れば、細長い陸地を越えて湖に海水が入り込んでしまうのではないか。そんな疑問を持っていた湖である。
そんなサロマ湖を有する佐呂間町で、まちづくりのワークショップが行われている。そのワークショップに参加してコメントして欲しいという依頼があったので、冬の佐呂間町へ行くことになった。北海道の東側の冬である。想像を絶する寒さであったことは言うまでもない。
サロマ湖は、想像していたよりも大きな湖だった。関西の琵琶湖、関東の霞ヶ浦に続いて日本で3番目に大きな湖だということも初めて知った。さらに驚いたのは、細長く続く陸地が人の手によって切られていて、そこから湖に海水が入り込んでいるということ。昭和20年代に、サロマ湖でホタテの養殖ができるように海水を入れたのだという。ホタテを養殖するためとはいえ、細長い陸地を人の手で掘削し、海水を湖に流し込んだのは思い切った決断だ。今なら環境アセスメントのプロセスで必ず問題になる行為だろう。
佐呂間町のワークショップは商工会の青年部によって行われている。まちづくりと言っても、まずは何をするのか考えようという段階だった。僕が伝えたかったのは、「誰かのためのまちづくり」ではなく「自分達が楽しいと思えるまちづくり」にしないと長続きしないということ。まずは「楽しいと思うこと」を「楽しそうに実施してみること」が大切で、その姿を見たまちの人達が参加したくなるような活動を展開することがまちづくりのきっかけになる。そんなことをお話した。
印象的だったのは、ワークショップが終わった後にメンバー全員と一緒にした食事のこと。オホーツク海に面した街ならではの豪快な海の幸は、これまでに目にしたことに無いような豪華さだった。ウニやイクラやホタテやカニというのは、きっとこんなふうに食べるべきものではないんだろうと思いながら、僕はどんぶりいっぱいの海産物を食べ続けた。いずれも佐呂間町で採れたものばかりなので値段はそれほど高くない、という話だったが、逆にそれほど贅沢な話は無いと僕は唸った。
佐呂間町には「おもてなし」の精神が息づいている。来客が食べきれないほどの料理を出してもてなすこと。その行為が自分達の尊厳に結びついていること。しばらく体験したことのない「もてなしの精神」を存分に感じることができた。東京や大阪では感じることのない種類の気持ちを味わうことができた。僕は佐呂間町が大好きになった。商工会青年部の人達もいい人ばかりだった。今度は夏に訪れてみたい。きっと風景も好きになることだろう。
山崎
2005年11月29日火曜日
2005年8月16日火曜日
「OSOTO始動」
ランドスケープエクスプローラーの忽那氏から連絡があった。(財)大阪府公園協会に企画書を出していたOSOTOの編集を手伝うことになったという。
大阪府の外郭団体としては画期的な決断をしたんじゃないか。僕はそんな風に感じた。大阪府公園協会が出す雑誌なのに、ほかの公園に比べておもしろくなければ大阪府営公園は紹介しないことにする。そんな企画書を読んで「よし、やろう!」と決断したのである。すごいことだと思う。
OSOTOを使いこなす人を紹介することによって、自分なりにOSOTOを使いこなす人が増えたとする。そんな風景を生み出すことができれば、それもランドスケープデザイナーの仕事だといえるのではないか。そう考えると、ぜひともOSOTOの編集に携わるべきだと思えてきた。
さっそくグラフィックデザイナーやライターを集めて編集会議を実施しなければ。。。編集会議ってどんな風に進めるんだろう。。。
山崎
大阪府の外郭団体としては画期的な決断をしたんじゃないか。僕はそんな風に感じた。大阪府公園協会が出す雑誌なのに、ほかの公園に比べておもしろくなければ大阪府営公園は紹介しないことにする。そんな企画書を読んで「よし、やろう!」と決断したのである。すごいことだと思う。
OSOTOを使いこなす人を紹介することによって、自分なりにOSOTOを使いこなす人が増えたとする。そんな風景を生み出すことができれば、それもランドスケープデザイナーの仕事だといえるのではないか。そう考えると、ぜひともOSOTOの編集に携わるべきだと思えてきた。
さっそくグラフィックデザイナーやライターを集めて編集会議を実施しなければ。。。編集会議ってどんな風に進めるんだろう。。。
山崎
2005年8月3日水曜日
「OSOTO」
大阪府の外郭団体に(財)大阪府公園協会という団体がある。大阪府営公園の管理を任されている団体だ。
その公園協会が「現代の公園」という冊子を年1回発行している。大阪府の役人や外郭団体の職員、大学の先生などが論考を掲載する冊子で、一般の書店などでは手に入らない。「すっげー、おもしろい!」という本でもない。
この本を廃刊にしよう、という話が持ち上がったらしい。公園協会の若手職員に優秀な人がいて、廃刊にするくらいなら一般の書店でも売れるような「すっげー、おもしろい!」という雑誌にリニューアルしようじゃないか、と言い出した。
言い出したのはいいが、具体的にどうすればそんな雑誌ができるのかわからない。ということで、僕たちランドスケープエクスプローラーに相談が来た。
僕らだってよく分からない。でも、僕はこう思う。公園協会が発刊する雑誌だからといって公園のことばかり、特に府営公園のことばかり掲載するのはよくない。読者が固定されてしまうし、そんな雑誌は一般の人が読みたいとは思えない。公園に来てください!という前に、まずは家から外へ出てください!と呼びかけるべきではないか。オソトをこんな風に使いこなすとオシャレですよ。海外ではこんなオソトの使い方が普通なんですよ。既にこんなことをオソトで愉しんでいる人達がいますよ。そんなことを紹介する雑誌はつくれないか。オソトを使いこなすライフスタイルマガジン。そんな雑誌をつくってみたいと思った。
ランドスケープエクスプローラーの代表である忽那氏とそんな話をしていたら、「それなら雑誌のタイトルはOSOTOでどう?」ということになった。
まずはオソトに出ること。オープンカフェでもストリートダンスでもいいからオソトで活動すること。そのなかに何割かが公園を使ってくれるんじゃないか。さらにそのうちの何割かが府営公園を使ってくれるんじゃないか。そんな期待をこめながら、OSOTOの企画書を書くことにした。
大阪府公園協会の雑誌にも関わらず、府営公園が1ページも紹介されないことになるかもしれない。大阪府の職員に記事を書いてもらうページがなくなるかもしれない。大阪府の公園の批判する記事が掲載されるかもしれない。それでも作らせてくれるのであれば、OSOTOの編集をお手伝いさせてもらいたいと思う。
山崎
その公園協会が「現代の公園」という冊子を年1回発行している。大阪府の役人や外郭団体の職員、大学の先生などが論考を掲載する冊子で、一般の書店などでは手に入らない。「すっげー、おもしろい!」という本でもない。
この本を廃刊にしよう、という話が持ち上がったらしい。公園協会の若手職員に優秀な人がいて、廃刊にするくらいなら一般の書店でも売れるような「すっげー、おもしろい!」という雑誌にリニューアルしようじゃないか、と言い出した。
言い出したのはいいが、具体的にどうすればそんな雑誌ができるのかわからない。ということで、僕たちランドスケープエクスプローラーに相談が来た。
僕らだってよく分からない。でも、僕はこう思う。公園協会が発刊する雑誌だからといって公園のことばかり、特に府営公園のことばかり掲載するのはよくない。読者が固定されてしまうし、そんな雑誌は一般の人が読みたいとは思えない。公園に来てください!という前に、まずは家から外へ出てください!と呼びかけるべきではないか。オソトをこんな風に使いこなすとオシャレですよ。海外ではこんなオソトの使い方が普通なんですよ。既にこんなことをオソトで愉しんでいる人達がいますよ。そんなことを紹介する雑誌はつくれないか。オソトを使いこなすライフスタイルマガジン。そんな雑誌をつくってみたいと思った。
ランドスケープエクスプローラーの代表である忽那氏とそんな話をしていたら、「それなら雑誌のタイトルはOSOTOでどう?」ということになった。
まずはオソトに出ること。オープンカフェでもストリートダンスでもいいからオソトで活動すること。そのなかに何割かが公園を使ってくれるんじゃないか。さらにそのうちの何割かが府営公園を使ってくれるんじゃないか。そんな期待をこめながら、OSOTOの企画書を書くことにした。
大阪府公園協会の雑誌にも関わらず、府営公園が1ページも紹介されないことになるかもしれない。大阪府の職員に記事を書いてもらうページがなくなるかもしれない。大阪府の公園の批判する記事が掲載されるかもしれない。それでも作らせてくれるのであれば、OSOTOの編集をお手伝いさせてもらいたいと思う。
山崎
2005年7月2日土曜日
「どこでも同じやり方で。」
土木、建築、造園、都市計画の諸分野におけるコラボレーションを考える研究会「コラボ研」に出席する。
前回のコラボ研で訪れた「友ヶ島」という島について、仮説のプロジェクトを提案した。インターネット上で友ヶ島に関する噂を流しまくるというプロジェクトである。害の無い噂であればなんでもいいから、関係者やその友人を通じて噂をばら撒く。「友ヶ島って一体どんな島なんだろう」と気になるくらい多様な噂がサイバー空間を漂えば、それらを見た人のうち何人かは実際に友ヶ島を訪れてみたいと思うのではないか。
実際に友ヶ島へ訪れれば、国防遺跡が有する強烈な印象に圧倒されることになるだろう。それだけの力を友ヶ島は持っている、と思う。「友ヶ島は面白い場所だ」といくら声高に叫んでも、実際に友ヶ島へ訪れてくれる人は限られている。その方法で人が集まるのであれば、既に観光地として繁盛しているはずだろう。新たな来訪者を呼び寄せたいのであれば、これまでとは違う方法が求められるはずである。
インターネット上で噂をばら撒くという方法について、コラボ研メンバーから「友ヶ島じゃ無くてもできる方法ではないか。日本全国、どこでも同じ手法でいいのか」という指摘があった。重要な指摘である。でも僕は、日本全国どこでも同じ手法でいいと思っている。
インターナショナルスタイルからの反省か、近代主義への罪悪感か、あるいは新地域主義の誤読なのか、最近では過度に地域主義が叫ばれることが多い。「その場所らしさを表現しなくちゃ」という強迫観念が漂っている。
しかし、僕は「その場所らしさを表現すること」自体が捏造だと感じている。「その場所らしさ」なんて幻想である。《正義》や《市場経済》と同じように、「あればいいな」とみんなが思っている幻想である。幻想の「その場所らしさ」をわざとらしく抽出して見せて、「だからこんなカタチです」とか「この場所にはこの方法が合います」なんて言うのは怪しい人間のやることである。その怪しさには下心がある。「だから僕に仕事をください」という下心である。
「場所性」は誰かが創り上げるものではない。出来上がってしまうものだし、日々変化するものである。日本全国、どこにでも同じ噂をばら撒くがいい。定着する噂と定着しない噂があるだろう。どんな噂が定着するのかによって、その場所の「場所性」が顕在化するのである。僕らが「この場所には、この噂がふさわしいのだ」なんて判断すること自体、おこがましいことなのである。
「日本全国、どこでも同じ方法です」という言い方に罪悪感を感じる必要は無い。コルビュジエは世界中のどこにでも建てられる住宅や美術館を提案した。あれはカタチが限定されている。「このカタチで建てなさい」ということになるから問題なのである。噂は違う。世界中に噂をばら撒いたって、地域によって定着するものと定着しないものがあるだろう。そこに働く力学こそが地域性なのである。
単純に言おう。日本語でばら撒いた噂は、アフガニスタンに定着するはずがないのである。その地域にそぐわない言語、内容、ニュアンス、表現を持つ噂は、決してその地域に定着しない。逆に言えば、世界中に同じ噂をばら撒くことによって、地域性を顕在化させることができるのである。
「どこでも同じやり方」をうまく利用すれば、地域ごとの特色を浮き彫りにすることができるはずである。
山崎
前回のコラボ研で訪れた「友ヶ島」という島について、仮説のプロジェクトを提案した。インターネット上で友ヶ島に関する噂を流しまくるというプロジェクトである。害の無い噂であればなんでもいいから、関係者やその友人を通じて噂をばら撒く。「友ヶ島って一体どんな島なんだろう」と気になるくらい多様な噂がサイバー空間を漂えば、それらを見た人のうち何人かは実際に友ヶ島を訪れてみたいと思うのではないか。
実際に友ヶ島へ訪れれば、国防遺跡が有する強烈な印象に圧倒されることになるだろう。それだけの力を友ヶ島は持っている、と思う。「友ヶ島は面白い場所だ」といくら声高に叫んでも、実際に友ヶ島へ訪れてくれる人は限られている。その方法で人が集まるのであれば、既に観光地として繁盛しているはずだろう。新たな来訪者を呼び寄せたいのであれば、これまでとは違う方法が求められるはずである。
インターネット上で噂をばら撒くという方法について、コラボ研メンバーから「友ヶ島じゃ無くてもできる方法ではないか。日本全国、どこでも同じ手法でいいのか」という指摘があった。重要な指摘である。でも僕は、日本全国どこでも同じ手法でいいと思っている。
インターナショナルスタイルからの反省か、近代主義への罪悪感か、あるいは新地域主義の誤読なのか、最近では過度に地域主義が叫ばれることが多い。「その場所らしさを表現しなくちゃ」という強迫観念が漂っている。
しかし、僕は「その場所らしさを表現すること」自体が捏造だと感じている。「その場所らしさ」なんて幻想である。《正義》や《市場経済》と同じように、「あればいいな」とみんなが思っている幻想である。幻想の「その場所らしさ」をわざとらしく抽出して見せて、「だからこんなカタチです」とか「この場所にはこの方法が合います」なんて言うのは怪しい人間のやることである。その怪しさには下心がある。「だから僕に仕事をください」という下心である。
「場所性」は誰かが創り上げるものではない。出来上がってしまうものだし、日々変化するものである。日本全国、どこにでも同じ噂をばら撒くがいい。定着する噂と定着しない噂があるだろう。どんな噂が定着するのかによって、その場所の「場所性」が顕在化するのである。僕らが「この場所には、この噂がふさわしいのだ」なんて判断すること自体、おこがましいことなのである。
「日本全国、どこでも同じ方法です」という言い方に罪悪感を感じる必要は無い。コルビュジエは世界中のどこにでも建てられる住宅や美術館を提案した。あれはカタチが限定されている。「このカタチで建てなさい」ということになるから問題なのである。噂は違う。世界中に噂をばら撒いたって、地域によって定着するものと定着しないものがあるだろう。そこに働く力学こそが地域性なのである。
単純に言おう。日本語でばら撒いた噂は、アフガニスタンに定着するはずがないのである。その地域にそぐわない言語、内容、ニュアンス、表現を持つ噂は、決してその地域に定着しない。逆に言えば、世界中に同じ噂をばら撒くことによって、地域性を顕在化させることができるのである。
「どこでも同じやり方」をうまく利用すれば、地域ごとの特色を浮き彫りにすることができるはずである。
山崎
2005年6月29日水曜日
「子どもは勝手に育つ」
兵庫県立人と自然の博物館が変わろうとしている。改革のための委員会が実施されるというので、そのお手伝いをさせてもらうことにした。
委員会には、著述家の三浦朱門さん、総合地球環境学研究所の日高敏隆さんをはじめ、人と自然の博物館の岩槻先生、神戸大学の野上先生、大阪大学の鳴海先生、武庫川女子大学の角野先生、兵庫県立大学の岡田先生など、いずれも興味深い話をされる先生方が出席していた。
なかでも興味深い話をしたのが日高さん。子どもの教育という話になったとき、「子どもは本来自分で育つものである、という認識に立たなければならない。」と言われた。その通りだと思う。「先生方のなかには、教育しなければ子どもは育たないと考えている人が非常に多い。そういう考え方では、あるところで成長が止まってしまう。子どもたちは自分たちで育つものだということを基本にして、それをどう支えるのかが教育の考えるべきことだろう。」という日高さんの発言は、ユニセフパークプロジェクトが目指すところと一致している。
ところが、子どもが勝手に育つのであれば教育や学校が必要なくなってしまう。だから日高さんは「あまりそういう発言をしないで欲しい」と教育委員会に怒られたことがあるそうだ。もちろん、かなり昔の話だろうけど。
山崎
委員会には、著述家の三浦朱門さん、総合地球環境学研究所の日高敏隆さんをはじめ、人と自然の博物館の岩槻先生、神戸大学の野上先生、大阪大学の鳴海先生、武庫川女子大学の角野先生、兵庫県立大学の岡田先生など、いずれも興味深い話をされる先生方が出席していた。
なかでも興味深い話をしたのが日高さん。子どもの教育という話になったとき、「子どもは本来自分で育つものである、という認識に立たなければならない。」と言われた。その通りだと思う。「先生方のなかには、教育しなければ子どもは育たないと考えている人が非常に多い。そういう考え方では、あるところで成長が止まってしまう。子どもたちは自分たちで育つものだということを基本にして、それをどう支えるのかが教育の考えるべきことだろう。」という日高さんの発言は、ユニセフパークプロジェクトが目指すところと一致している。
ところが、子どもが勝手に育つのであれば教育や学校が必要なくなってしまう。だから日高さんは「あまりそういう発言をしないで欲しい」と教育委員会に怒られたことがあるそうだ。もちろん、かなり昔の話だろうけど。
山崎
2005年6月25日土曜日
「非過防備都市」
夕方から、コーディネーターとしてarchiforumに出席する。ゲストは五十嵐太郎さん。テーマは「過防備都市」。
いつごろからだろうか、熱中症という病気が声高に語られるようになった。僕が小学生のころ、日射病に注意するという話はあっても、熱中症に注意するという話はなかった。熱中症とは、暑いところで長く活動することによって体力が奪われてしまうことである。クーラーの効いた部屋で生活する子どもが多くなったために、最近では多くの子どもが熱中症にかかるようになっているという。快適な室内と過酷な屋外。このギャップが熱中症を引き起こす原因なのである。
どうすればいいか。公園にも道路にも駐車場にも運動場にも、都市のすべての場所に屋根をかけてクーラーを設置すればいい。いや、最近では中山間地域でも熱中症が問題になりつつあるのだから、里山にも畦道にも田畑にも屋根とクーラーを設置すべきである。都市のセキュリティに関する議論は、そんなことを主張しているように感じる。
学校の内部を安全にすればするほど、学校の外部おける危険に対応できない子どもを育成することになるだろう。住居の内部を安全にすればするほど、都市における危険に対応できない人たちが生み出されるだろう。ゲーテッドコミュニティで育った子どもは、都市の危険に対応できる大人になるのだろうか。都市の隅々まで防犯カメラを設置し、安全で安心なまちづくりを物理的に進めるべきなのだろうか。
都市の自由な活動を制限し、人々の活動を監視する。物理的な安全を追求すると、僕たちの自由はかなり制限されてしまう。安全か自由かという問いの立て方ではなく、安全で自由であるべきなのが都市なのである。都市の活力を十分に高めることによって、安心で安全な生活を確保することはできないだろうか。
安全だから安心なのではなく、活力が高まって相互に安心して暮らすことができるから安全な街が実現するのである。自由で安全なまちづくりとは、都市で生活する人々の活力に支えられたまちづくりなのだろう。
外部空間の隅々にまでクーラーが効いている都市ではなく、暑さを吹き飛ばすくらいの活力を持った人々が闊歩する都市に住みたい、と僕は思う。

五十嵐太郎さん
山崎
いつごろからだろうか、熱中症という病気が声高に語られるようになった。僕が小学生のころ、日射病に注意するという話はあっても、熱中症に注意するという話はなかった。熱中症とは、暑いところで長く活動することによって体力が奪われてしまうことである。クーラーの効いた部屋で生活する子どもが多くなったために、最近では多くの子どもが熱中症にかかるようになっているという。快適な室内と過酷な屋外。このギャップが熱中症を引き起こす原因なのである。
どうすればいいか。公園にも道路にも駐車場にも運動場にも、都市のすべての場所に屋根をかけてクーラーを設置すればいい。いや、最近では中山間地域でも熱中症が問題になりつつあるのだから、里山にも畦道にも田畑にも屋根とクーラーを設置すべきである。都市のセキュリティに関する議論は、そんなことを主張しているように感じる。
学校の内部を安全にすればするほど、学校の外部おける危険に対応できない子どもを育成することになるだろう。住居の内部を安全にすればするほど、都市における危険に対応できない人たちが生み出されるだろう。ゲーテッドコミュニティで育った子どもは、都市の危険に対応できる大人になるのだろうか。都市の隅々まで防犯カメラを設置し、安全で安心なまちづくりを物理的に進めるべきなのだろうか。
都市の自由な活動を制限し、人々の活動を監視する。物理的な安全を追求すると、僕たちの自由はかなり制限されてしまう。安全か自由かという問いの立て方ではなく、安全で自由であるべきなのが都市なのである。都市の活力を十分に高めることによって、安心で安全な生活を確保することはできないだろうか。
安全だから安心なのではなく、活力が高まって相互に安心して暮らすことができるから安全な街が実現するのである。自由で安全なまちづくりとは、都市で生活する人々の活力に支えられたまちづくりなのだろう。
外部空間の隅々にまでクーラーが効いている都市ではなく、暑さを吹き飛ばすくらいの活力を持った人々が闊歩する都市に住みたい、と僕は思う。
五十嵐太郎さん
山崎
2005年5月28日土曜日
「奇抜なカタチと選択的な利用」
夕方から、コーディネーターとしてarchiforumに出席する。ゲストは遠藤秀平さん。
遠藤さんがつくる建築は奇抜なカタチが特徴的である。そして、奇抜なカタチをユーザーがどう使いこなすかという点がよく考えられている。しかし、そのことはあまり多くの人に知られていない。そのため、カタチの奇抜さだけを問題にされることが多いようだ。今日のディスカッションでも、遠藤さんはカタチの奇抜さについてほとんど触れないように話を進めていた。奇抜なカタチが可能にする利用の多様性について議論しようとしても、慎重にカタチの話を避けて話を進めているように感じられた。
たぶん、遠藤さんはこれまでカタチについてかなり多くの議論を交わしてきたのだろう。あれだけ個性的なカタチである。いろいろな場所で議論のネタになったはずだ。その経験から、不用意な「カタチ議論」からは距離をとる習慣が出来上がっているのだろう。そう考えてしまうほどに、遠藤さんはカタチの話に寄り付かなかったのである。
「わからないことの位置づけをもう一度考えなければならない」と遠藤さんは言う。「ある種の正当性や妥当性、そういうわかりやすさの要求が防衛本能を優先させる状態を生み出している」というのだ。ランドスケープデザインにも同じことが言える。無駄の利をどう説くのか。機能がないことが全体にどう機能するのか。遠藤さんの考え方、そして出来上がる建築のカタチには、無駄や不可解や無機能といった空間的特長が多く見られる。それが大切だと遠藤さんは言うし、僕もそう思うのである。
帯状の連続した空間に、閉鎖した部分と開放した部分があって、利用者が場所を選んで使うことができる建築。遠藤さんの建築は、そんな建築だと思う。つまりそれは選択的に利用できる建築であり、家族構成や利用者層の変化に対応できる建築である。
遠藤さんとのディスカッションで面白かったのは以下の点。
・パブリックスペースを設計する際、個人をどう介入させるかが難しい。
・建築は場所によって変わるが、土木は場所性を消していく。景観法を作っても、土木構造物をつくるシステムが変わらなければ景観は全国一律にならざるを得ない。
・公園を住宅のように作れないか。プライベートな空間構成を有するパブリックスペース。住宅のような居心地で公園を使うこと。30年後、その場所に公園が要らないということになった場合、ガラスをはめ込めば住宅になるような公園。
・逆に、ガラスを取り外せば公園になるような住宅は設計できないか。人口減少時代に対応した住宅のあり方とは。
・扉や窓や階段など、建築のスケールを屋外へ持ち出すことによって、人々が「使いこなす外部空間」を作り出すことはできないだろうか。
・人々の関与のきっかけを与える建築をつくりたい。人々が環境に関与し始めるきっかけとなる空間とはどんなものか。
マゾヒスティックランドスケープとしても、郊外の安楽死プロジェクトとしても、興味深いディスカッションだった。

遠藤秀平さん
山崎
遠藤さんがつくる建築は奇抜なカタチが特徴的である。そして、奇抜なカタチをユーザーがどう使いこなすかという点がよく考えられている。しかし、そのことはあまり多くの人に知られていない。そのため、カタチの奇抜さだけを問題にされることが多いようだ。今日のディスカッションでも、遠藤さんはカタチの奇抜さについてほとんど触れないように話を進めていた。奇抜なカタチが可能にする利用の多様性について議論しようとしても、慎重にカタチの話を避けて話を進めているように感じられた。
たぶん、遠藤さんはこれまでカタチについてかなり多くの議論を交わしてきたのだろう。あれだけ個性的なカタチである。いろいろな場所で議論のネタになったはずだ。その経験から、不用意な「カタチ議論」からは距離をとる習慣が出来上がっているのだろう。そう考えてしまうほどに、遠藤さんはカタチの話に寄り付かなかったのである。
「わからないことの位置づけをもう一度考えなければならない」と遠藤さんは言う。「ある種の正当性や妥当性、そういうわかりやすさの要求が防衛本能を優先させる状態を生み出している」というのだ。ランドスケープデザインにも同じことが言える。無駄の利をどう説くのか。機能がないことが全体にどう機能するのか。遠藤さんの考え方、そして出来上がる建築のカタチには、無駄や不可解や無機能といった空間的特長が多く見られる。それが大切だと遠藤さんは言うし、僕もそう思うのである。
帯状の連続した空間に、閉鎖した部分と開放した部分があって、利用者が場所を選んで使うことができる建築。遠藤さんの建築は、そんな建築だと思う。つまりそれは選択的に利用できる建築であり、家族構成や利用者層の変化に対応できる建築である。
遠藤さんとのディスカッションで面白かったのは以下の点。
・パブリックスペースを設計する際、個人をどう介入させるかが難しい。
・建築は場所によって変わるが、土木は場所性を消していく。景観法を作っても、土木構造物をつくるシステムが変わらなければ景観は全国一律にならざるを得ない。
・公園を住宅のように作れないか。プライベートな空間構成を有するパブリックスペース。住宅のような居心地で公園を使うこと。30年後、その場所に公園が要らないということになった場合、ガラスをはめ込めば住宅になるような公園。
・逆に、ガラスを取り外せば公園になるような住宅は設計できないか。人口減少時代に対応した住宅のあり方とは。
・扉や窓や階段など、建築のスケールを屋外へ持ち出すことによって、人々が「使いこなす外部空間」を作り出すことはできないだろうか。
・人々の関与のきっかけを与える建築をつくりたい。人々が環境に関与し始めるきっかけとなる空間とはどんなものか。
マゾヒスティックランドスケープとしても、郊外の安楽死プロジェクトとしても、興味深いディスカッションだった。
遠藤秀平さん
山崎
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