2004年10月27日水曜日

「佐原鞠塢」

川添登さんの「東京の原風景」と飯島二郎さんの「日本文化としての公園」を読む。大正期の井下清さんに続いて、江戸期にも気になる人がいた。佐原鞠塢(さはらきくう)さんという人。東京の向島にある「百花園」という公園を作った人だ。

佐原さんは1766年に仙台で生まれた。成人してから江戸へ出てきて、芝居茶屋で10年ほど働いた。その間にお金を貯めて、日本橋に骨董屋を開いたところ大ヒットしたという。お金持ちになったので、新しく3000坪の土地を買って花を育て始めたのが「百花園」の始まり。友達に有名な作家や詩人がたくさんいたので、その人たちに庭に対する意見を聞いたり、梅の木を寄付してもらったりしながら百花園を作る。関わった文化人は、加藤千蔭、村田春海、亀田鵬斎、太田南畝、大久保詩仏、抱一上人、川上不白、大柳菊旦、市川白猿など。佐原さんはなかなか顔の広い人だったようだ。

こんな有名人たちを庭園づくりに参加させるというのは驚きだ。現代で言えばどんな感じだろう。大江健三郎、村上春樹、筒井康隆、辻仁成、江國香織、花村萬月、中沢新一、養老孟司、宮崎駿といった顔ぶれを集めて庭園を作るようなものか。

百花園には茶屋があって、そこで梅干や煎茶を味わうことができたという。梅干は寄付してもらった梅の木になる実を使い、お茶の葉は園内の茶畑で採れたものを使い、お茶碗やお皿は隅田川の土を使って園内の窯で焼いた「角田川焼き」だった。

この庭園には一般人もたくさん遊びに来たようだ。これも佐原さんのPRがうまかったから。佐原さんは、百花園の周辺にある寺や名所6ヶ所と百花園を合わせて7ヶ所選び、それらを結んで「七福神参り」というコースを作った。この周遊コースを人々に知らせるとたちまち流行り、百花園への来園者が急増したそうだ。江戸時代の人にしてはなかなか冴えている。

さらに、人気が出てきた角田川焼きの器を土産物として売るだけではなく、来園者みずからが「マイ湯呑み」を焼ける陶芸教室を開いたという。恐ろしいプロデューサーだ。

平成のランドスケープアーキテクトはいったい何をしているんだ!と自省の念が起きた夜だった。僕らはまだまだ面白いことができる。。。はず。


佐原鞠塢

山崎

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