2004年12月11日土曜日

「焼肉」

大阪で焼肉と言えば鶴橋駅周辺が有名である。電車を降りると焼肉の匂いがするほど焼肉屋が多い。その鶴橋でも有名なのが「鶴一」という店。夕食時には店の前に列ができることが多い。

本店と支店がすぐ近くにあるのも特徴的だ。本店は七輪を使っているため店内に煙が充満している。一方、支店は無縁ロースターを使っているため煙は少ない。鶴一の客は、まず店を選ぶことによって肉の焼き方を決めることになる。

どちらの店を選ぼうとも、夕食時には相当時間並ぶことを覚悟しなければならない。支店には待合室があるが、本店の場合は店の外に列を作って待つことになる。冬の寒空の下、列を作って焼肉屋に入るのを待つというのは過酷な作業である。並ぶ人が体を小刻みに揺らしているのも無理はない。

店内へ案内されるまでの時間は永遠にも感じる。ただし、店に入ってしまえば外に並んでいる人がいることを忘れてじっくり焼肉を味わってしまう。「満腹になって店を出る人」と「震えながら店の前で並ぶ人」とがすれ違う入口付近。そこには微妙な空気が流れている。店から出てくる人の満足げな顔に対する羨望と嫉妬とが入り混じった眼差し。一方で、またひとつ座席が空いたことに対する期待感。そんな感情を相殺しながら、店員が自分の名前を呼ぶその時をひたすら待ち続けるのである。

本店の場合、店に入ると炭火の入った七輪がテーブルの上に置かれる。支店では、無縁ロースターに残っている前の客の炭火の上に新しい炭が足される。送り込まれる風の強さを調節することによって、火を新しい炭に移すことができる。風の強さを調整して火力を調整するのは客の仕事だ。肉を焼き始めると油が滴り落ちて炭が燃え上がる。風量を調整することによって肉の焼き具合を制御しなければならない。

好みの肉を注文する。カルビ、ロース、ハラミ。いろいろな肉が大きな皿に盛られて配膳される。実際、素人の僕たちにはどの肉がカルビでどの肉がハラミなのか区別がつかない。仮に区別できたとしても、どの肉から焼き始めればいいのか判断できない。結局、皿の右側に盛られた肉から順に焼いていくことになる。

考えてみれば、焼肉とは不思議な食べ物である。自分が注文した料理を自分で調理して食べる。店が用意するのは薄くスライスした肉と炭火と調味料。火力は自分で調整する。肉の焼き具合も自分で調整する。焼けた肉の味付けも漬けダレを使って自分で調整するのだ。そんな食べ物のために、店の前で長い時間待ち続けているのである。僕たちはそこにどんな魅力を感じているのだろうか。

他の料理なら、すぐに食べられる状態まで調理してから配膳される。焼き加減や味付けは料理人に任せる。出てきたものがおいしければ料理人を褒め称え、出来が悪ければ料理人の文句を言う。料理が出てくるタイミングや順序も批評の対象となる。

料理する者と食べる者。通常のレストランでは客と店の役割が明快に分かれる。しかし焼肉屋の場合はこの構図が成り立たない。料理人が途中までしか料理しないからだ。焼き加減や味付けは客に任される。店と客のコラボレーションによって料理が完成する。そこに焼肉の魅力がある。焼き加減や味付けを自分用にカスタマイズできること。自分が焼いた肉を仲間に薦めることができること。料理の味に関する賞賛の一部を自分に向けることができること。

料理のプロセスをオープンにすることによって、食事を通して「できること」が広がる。レストランのコース料理には無い魅力である。これは、建築やランドスケープの設計にも通じる魅力だろう。

「作ることをどこで止めるか」。建築やランドスケープの設計プロセスをオープンにすることによって、たくさんの「できること」が出現する。可能性が広がる。コンクリートの打ち放しで完璧に作られた住宅もいいだろう。しかし、壁に絵を飾ろうと思っても金具ひとつ取り付けられないのは寂しい。設計者に相談しても「この空間にその絵は似合わない」と言われるのがオチである。

僕たちは「焼肉型」の空間を経験したいのか、それとも「コース型」の空間を経験したいのか。そんなことを考えながら、僕は自分で焼いた厚切りのカルビをたらふく食べた。

山崎

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