2005年7月2日土曜日

「どこでも同じやり方で。」

土木、建築、造園、都市計画の諸分野におけるコラボレーションを考える研究会「コラボ研」に出席する。

前回のコラボ研で訪れた「友ヶ島」という島について、仮説のプロジェクトを提案した。インターネット上で友ヶ島に関する噂を流しまくるというプロジェクトである。害の無い噂であればなんでもいいから、関係者やその友人を通じて噂をばら撒く。「友ヶ島って一体どんな島なんだろう」と気になるくらい多様な噂がサイバー空間を漂えば、それらを見た人のうち何人かは実際に友ヶ島を訪れてみたいと思うのではないか。

実際に友ヶ島へ訪れれば、国防遺跡が有する強烈な印象に圧倒されることになるだろう。それだけの力を友ヶ島は持っている、と思う。「友ヶ島は面白い場所だ」といくら声高に叫んでも、実際に友ヶ島へ訪れてくれる人は限られている。その方法で人が集まるのであれば、既に観光地として繁盛しているはずだろう。新たな来訪者を呼び寄せたいのであれば、これまでとは違う方法が求められるはずである。

インターネット上で噂をばら撒くという方法について、コラボ研メンバーから「友ヶ島じゃ無くてもできる方法ではないか。日本全国、どこでも同じ手法でいいのか」という指摘があった。重要な指摘である。でも僕は、日本全国どこでも同じ手法でいいと思っている。

インターナショナルスタイルからの反省か、近代主義への罪悪感か、あるいは新地域主義の誤読なのか、最近では過度に地域主義が叫ばれることが多い。「その場所らしさを表現しなくちゃ」という強迫観念が漂っている。

しかし、僕は「その場所らしさを表現すること」自体が捏造だと感じている。「その場所らしさ」なんて幻想である。《正義》や《市場経済》と同じように、「あればいいな」とみんなが思っている幻想である。幻想の「その場所らしさ」をわざとらしく抽出して見せて、「だからこんなカタチです」とか「この場所にはこの方法が合います」なんて言うのは怪しい人間のやることである。その怪しさには下心がある。「だから僕に仕事をください」という下心である。

「場所性」は誰かが創り上げるものではない。出来上がってしまうものだし、日々変化するものである。日本全国、どこにでも同じ噂をばら撒くがいい。定着する噂と定着しない噂があるだろう。どんな噂が定着するのかによって、その場所の「場所性」が顕在化するのである。僕らが「この場所には、この噂がふさわしいのだ」なんて判断すること自体、おこがましいことなのである。

「日本全国、どこでも同じ方法です」という言い方に罪悪感を感じる必要は無い。コルビュジエは世界中のどこにでも建てられる住宅や美術館を提案した。あれはカタチが限定されている。「このカタチで建てなさい」ということになるから問題なのである。噂は違う。世界中に噂をばら撒いたって、地域によって定着するものと定着しないものがあるだろう。そこに働く力学こそが地域性なのである。

単純に言おう。日本語でばら撒いた噂は、アフガニスタンに定着するはずがないのである。その地域にそぐわない言語、内容、ニュアンス、表現を持つ噂は、決してその地域に定着しない。逆に言えば、世界中に同じ噂をばら撒くことによって、地域性を顕在化させることができるのである。

「どこでも同じやり方」をうまく利用すれば、地域ごとの特色を浮き彫りにすることができるはずである。

山崎