2006年2月8日水曜日

「騒がない街」

大阪府堺市。大阪市の南側に隣接する人口80万人の都市である。最近、この堺がにわかに騒ぎ始めている。政令指定都市になるというのである。相当嬉しいのだろう。千利休や与謝野晶子まで持ち出して「いよいよですね」などというポスターをあちこちに掲げている。

しかし、よく考えてみれば不思議な騒ぎ方だ。明治時代には、現在の奈良県にまで渡る広大な土地を取りまとめる「堺県」だった堺。そんな堺が、政令指定都市になるということぐらいで騒いでいるのだ。けなげである。過去の威光を顧みず、県だった時代のことなど持ち出さず、単純に政令指定都市への昇格を喜んでいるのである。

思えば堺は昔から「過去にすがらない街」だった。茶の湯の大家、千利休が庵を結んだ場所は、いまやどこにでもあるメッシュフェンスで囲われた単なる空き地として野ざらしになっている。かの与謝野晶子が生まれた生家跡は、道路脇の植栽帯に埋もれるような碑によって示されるのみである。千利休にすがらない。与謝野晶子を担ぎ出さない。過去の偉人を褒め称え、博物館や記念館を作ってしまう自治体がある。油断すれば堺だって「千利休博物館」や「与謝野晶子資料館」を作ってしまう危険性があったはずだ。しかし、堺には確固たる意思が存在した。過去の偉人は過去のもの。我々はこれからも過去を凌ぐ偉人を輩出する自信がある。千利休の庵跡や与謝野晶子の生家跡を過度に祀り上げる必要なんて無い。むしろ、今まさに育ちつつある現代の利休や与謝野に投資すべきである。そんな気概を感じるほど、千利休庵跡や与謝野晶子生家跡はみすぼらしい。

かつて百万石の城下町だったことをウリにする街がある。利休がお茶会を開いた場所に記念碑を建てる街がある。与謝野晶子が歩いた階段に彼女の詩を刻む街がある。しかし堺は騒がない。表千家、裏千家ともに聖地とあがめる千利休庵跡を放置する。世の歌人が一度は訪れたいと思う与謝野晶子生家跡を道路の植栽帯に埋没させる。そんなものを担ぎ出してもしょうがないのである。「騒がない街」堺。僕らはそんな堂々とした堺に惚れ込んでいるのである。

ところが上述の事態である。政令指定都市になるからといって、堺は千利休や与謝野晶子を担ぎ出してしまっている。過去にすがろうとしている。僕らは声を大にして伝えたい。「堺よ、騒ぐな」と。過去の偉人を担ぎ出せば出すほど、現在の堺に自信が持てないことを吐露していることになる。現在の市民には大した人間がいないということを示すことになる。千利休は偉い。与謝野晶子もすごい。でも、それはそれだ。今の堺にもっと自信を持って、未来の偉人達に想いを馳せるべきではないか。

そんな気持ちを込めて、僕らはここに「騒がない街」プロジェクトを発足する。このプロジェクトでは、これまで堺がいかに「騒がなかった」のかを示すことにしたい。日本最大の古墳「仁徳天皇陵」や日本最古の木製灯台「旧堺港灯台」を有していても、ゆかりのまんじゅうを作ったりしない。沢口靖子や野茂英雄やコブクロといった有名人を輩出しても、彼らはテレビでほとんどお国自慢をしない(むしろ堺出身であることを隠すかのようだ)。東京の銀座がネーミングを真似したほど活況を極めた「堺銀座」も、東京の銀座とは違って「騒がない」路線を突き進む。そんな堂々とした「騒がない街」の片鱗を探し出して記録するとともに、ほかの街が「歴史上の人物」で、「有名人」で、「特産物」で、「歴史的建造物」で、いかに騒いでいるのかを対比的に記録しておきたい。

無駄に騒がないけど一目置かれている街。堺はいつでもそんな街であってほしい。

山崎