2008年10月7日火曜日

幸せの政策

海士町の総合計画について考えている。
「幸せ」あるいは「幸福」というのは総合計画が目指すべき方向性にならないだろうか。

・ブータン国王はついにGNH(国民総幸福)に関する考え方を憲法に入れ込んだらしい。

・東京都荒川区はGAH(荒川区民総幸福)を総合計画に取り込んでいるらしい。
 →海士で考えていた「幸福実感」という言葉は、すでに荒川区で使われていたようだ(幸福実感都市あらかわ)。平成19年からスタートした新しい総合計画であり、「幸福実感」や「GAH」という考え方を入れ込んでいるあたりが先進的な感覚を有している点である。人口や所得の増加ではなく「荒川区民総幸福」を向上することを目標としている。

・イギリス保守党のデヴィッド・キャメロン党首は「幸せの政治」を提唱。①家族との安らかな時間、②地域の自然環境の豊かさ、③各人がコミュニティで果たす役割の3点を明確にして幸せな政治を目指すという。

・ケネディ大統領は選挙時にGNPを批判したらしい。アメリカのGNPのなかには、タバコ、酒、ドラッグ、離婚や交通事故犯罪や環境破壊に関わる仕事の売り上げが含まれている。戦争のための武器、核兵器なども含まれている。一方、GNPに含まれないものとして、子どもたちの健康、教育の質の高さ、遊びの楽しさ、詩の美しさ、市民の智恵、勇気、誠実さ、慈悲深さが挙げられる。つまり、国の豊かさを測るはずのGNPからは、私たちの生きがいのすべてがすっぽり抜け落ちている。

こういう演説で大統領になった人がいるということは、幸せについて本気で考えてみることが海士町の総合計画を検討する上でも大切なことだということの証左ではないだろうか。

2008年10月6日月曜日

メモ

『幸福の政治経済学(ダイヤモンド社)』を読んでいて思ったこと。

・経済学の目的は人々を幸せにすることだという。建築学の目的も、ランドスケープデザインの目的も同様に人々を幸せにすることではないか。にも関わらず、経済学の文脈に「幸福」という言葉がほとんど登場しない。同様に、「建築の形態」と「利用者の幸福」に関する研究はほとんど見られない。オープンスペースにおける活動と、利用者の幸福に関する研究も進んでいない。

・本書の主張は、人々の幸福は政治的な意思決定に参加できているかどうかによって変化する、というものである。いわゆる「住民参加」を幸福の視点から検討した研究というのは類を見ない。公園における参加型管理運営ということを考える際にも、そこに参加する個人の主観的な幸福度合いを合わせて考慮すべきである。まちづくりについても同様に、参加によって個人の満足度や幸福感が上昇しているのかどうかが重要である。総合計画を参加型で策定するという仕事についても同様だろう。

・海士町の総合計画を参加型で策定している。このプロセスで、総合計画を実行に移す究極の目的は、より多くの人が「幸せ」になることだろうという議論があった。確かに総合計画を策定して、その結果としてのアクションが多くの人を幸せにすることは大切なのだが、実はそこに参加している人たち自身が、自分たちの意見を計画に反映させることや、実際にアクションを起こすプロセスを通じて「満足感」や「幸福度」を上昇させているんだ、と考えることもできる。

・こうした「参加」による満足感や幸福度について研究を進める必要がある。人口減少時代の都市を考える場合にも、縮退する市街地に不可避的に生じるオープンスペースをどう処理するかという客観的な話だけでなく、こうしたオープンスペースにおける活動に参加する人たちの満足度をどう高めるのか、といった視点からも今後の都市のあり方を検討すべきだと感じる。

・シビックプライドに代表されるような都市の公共空間における活動は、これに参加する市民の満足度を高める上でとても重要な「仕掛け」であると捉えることができる。市民の幸福は政治的意思決定への参加度合いに左右されるとするのであれば、都市活動への参加も市民の生活を充実したものにし、満足感や幸福感を高めることにつながるものと考えられる。

・集落における生活も同様に捉えることができるかもしれない。集落の自治にどれほどコミットできているのか。集落の将来に関する重大な政治的な決定に自分たちの意見を反映することができているかどうか。このあたりが、農業従事者の所得増減とは別に、生活における幸福感を上下させる要因になっていると考えることもできるだろう。自分たちのあずかり知らぬところで農業施策が勝手に決められていたり、作付けの制限が決められていたりすることが、中山間地域における生活の満足度を下げていると考えることもできよう。

・海士町の総合計画が幸福をテーマとするのであれば、今後10年間は毎年町民の「幸福度」調査を実施するという事業を入れておくべきなのかもしれない。いろいろ政策や施策や事業を展開することになる10年間の間に、人々の幸福度合いは上昇したのか下降したのか。結果としての幸福感こそが重要だと考えるのであれば、こうした事業をアクションプランに組み込んでおく必要があるだろう。

2008年10月5日日曜日

政治家とは大変な職業である

移動中に楽しんでいたDVD版『翔ぶが如く』を見終わった。

政治を志すということは、多かれ少なかれ賛同者と批判者を生み出すということであり、その栄光と非難を同時に受け止めるということなのだということを実感する。それは現代でも変わらないのだろう。

町長になって新規職員の採用を見送ると決断すれば、財政負担に嘆く人は賛成するだろうけど役場職員になりたがっていた人たちからは非難される。職員の給与を30%カットすると決断すれば、役場職員の高所得を批判していた民間人たちからは賛同されるだろうけど当事者たちからは非難される。

こうした非難が度重なり、その規模が国家レベルになると、その指導者たちは暗殺されたり戦争で殺されたりしてしまうことになる。現在の政治家も、かなりの批判を浴びせられながら政治活動を行っている。ネットで気軽に政治家の悪口を書けるような環境が整った現在、政治家は油断すればどこでも自分の悪口を目にすることになる。自律神経を自ら麻痺させ、誰の意見にも耳を貸さないという精神力で突っ走らなければ気が変になってしまうことだろう。こうした環境に生きることは、本人の性格を変えてしまうことにもなりかねない。国民の意見を聞くことが大切だと考えていても、耳を傾けていると自分に対する膨大な批判も入ってきてしまう。結果的に、耳をふさいで「己の信念のみを信じる」という態度になってしまうのもわかる。

ところが、国民は政治的意思決定に参加したがっている。そのほうが幸せになれるという研究もある。にも関わらず、政治家は国民の意見に耳を貸さない。貸せば国民に喜ばれることも分かっているのだが、同時に自分に対する悪質なほどの批判が耳に入ってくることも知っているから。

国民が政治的意思決定に参加して幸福になることができる社会を築くためには、何よりも国民自身が懸命になって無意味な政治家批判を避けることが肝要なのかもしれない。国民と政治家との良好な関係こそが、両者を幸せな人生へと導くための基盤なのだろう。

2008年10月4日土曜日

益田市長(福原慎太郎さん)

先日訪れた匹見は、益田市に合併された地域である。この益田市の市長は僕と同じ年の1973年生まれである。

35歳で市長になるというのは若いようにも感じるし、明治維新の頃を考えると妥当な年齢であるような気もする。その所信表明を読むと若い世代の新しい時代感覚をうかがうことができる。これまでのやり方が成立しない時代であること、答えを先進国や先進事例に求めることができない時代であること、高度経済成長期につくってきたシステムを作り直さなければ対応を誤る危険性がある時代であることなど、共感できる部分が多い。国の補助金や交付税を当てにしないという態度も共感できる。市民「一人ひとりが考え、行動し、責任を取る、そうした自主独立の気概を持つこと」が大切だとする考え方も重要であり、これからの市政における基本的な考え方になるだろう。

こうした若い世代の首長がどんな人なのか、一度直接会って話をしてみたいと思う。市政について一緒にできることがあれば取り組んでみたいものだ。