2004年12月31日金曜日

「キャリーケース」

キャリーケースというのだそうだが、キャスターの付いたカバンを引いて歩く人が最近増えている。大晦日の今日は帰省客が多いので、それが当たり前の風景なのかもしれない。でも、少し前までの帰省客というのはみんな大きなカバンを抱えていたように思う。スーツケースを引いて歩く人はほとんどが海外へ行く人だった。

ところが、最近は盆や正月の帰省客が小型のスーツケースやキャリーケースを引いているのである。国内の出張へ出かける人もキャリーケースを引いていることが多い。新大阪から東京へ向かう乗客のほとんどがキャリーケースや小型のスーツケースを携えている。多い人になると2つのキャリーケースを引いて歩く。

なぜ、最近になってキャリーケースが人気を集め始めたのだろうか。

ひとつの理由は、その性能が向上したことにあるのだろう。軽量で丈夫な素材を使ったキャリーケースが増えているし、デザインも年々進化している。価格も手頃なものが多くなった。

キャリーケースを使いこなす人のイメージが一般に浸透しつつあることも理由のひとつだろう。ゼロハリバートン社やスチュワーデスといったイメージが、キャリーケースを引く人のイメージを作り上げているのである。

ノートパソコンという「重いけど固い容器に入れて持ち運びたいもの」が普及したことも、キャリーケースの増加に影響しているだろう。

それだけではない。実は、都市空間に段差が少なくなったこともキャリーケースの増加に影響している。バリアフリーやユニバーサルデザインが常識になりつつある昨今、車椅子利用者やベビーカー利用者のみならず、キャリーケース使用者にとっても「移動しやすい都市空間」が各所に出現し始めているのである。

試しにキャリーケースを引いてみた。手に舗装面の凹凸が伝わってくる。アスファルトよりも平板のほうが引きやすい。タイルの目地でケースがわずかにバウンドする。排水勾配に引きずられる。点字タイルに乗り上げる。。。地表面の変化が直接手のひらに伝わってくる。どうやら、キャリーケースは都市のペーヴメントを体感するための装置としても機能するようだ。

都市の表面を体感する装置=キャリーケース。より多くの人がキャリーケースを使用するようになれば、都市空間のバリアフリーについて発言をする人が増えるかもしれない。体感に基づいたバリアフリーへの提言。車椅子利用者とキャリーケース使用者が都市空間のペーヴメントについて語り合う日が来たら、都市はさらにアクセスしやすくなるだろう。





山崎

2004年12月29日水曜日

「ALE」

午前10時から、グラフィックデザイナーとユニセフパークプロジェクトのパンフレットについて打合せする。来年の早い時期にイラストレーターを交えた3者で打合せする必要があることを再確認した。

午後2時から、ランドスケープエクスプローラーの出版会議に出席。本のタイトルや目次構成について話し合う。

午後6時から、都市機構の武田重昭氏とALEのオフ忘年会を開催。ALEはメール上で都市/ランドスケープについて議論するユニットで、1998年から続くプロジェクトだ。

最近のALEにおける話題は、「僕らが思い描く将来の活動フィールド」に関するものが多い。今日の議論もこの延長にあった。

僕らはすでに「形を作るだけ」のデザイン志向でワクワクする未来像を描くことができなくなっている。建築やランドスケープのデザインについて、まどろっこしいくらい説明し尽くす態度もあまり感心しない。もっと素直なものづくりがあっていいし、ものづくりだけですべてを解決しようと無理する必要も無いはずだ。社会に横たわる問題を解決するためには、プログラム+人材+財源+空間形態など複数の側面からアプローチする必要がある。空間形態の操作だけで社会の問題が解決できると考えるのは短絡的過ぎる。

以上より、僕らの興味は以下の3種類に向かうことになる。

①デザインやプランニングをハード以外の側面と同時に考えること。
 →現在の仕事の延長線上。
②プロジェクトを企画したり、組織をマネジメントしたり、人材を育成すること。
 →ユニセフパークプロジェクトなど。
③個別のプロジェクトで解決できない問題に取り組むこと。
 →個別のプロジェクトに生きられる都市計画の研究。

そこで僕らはどう生きるのか。上記の道筋を既存の職能で表現すると以下のとおり。

①デザイナー/プランナー。
②ディレクター/マネージャー。
③都市計画家/研究者。

既存の職能枠に捕らわれる必要は無いが、それらを基軸として考えると便利なこともある。基軸からどれだけ飛距離を伸ばすことができるか。何と何をどう融合させればいいのか。自分の進むべき道筋が少し明確になった夜だった。

山崎

2004年12月25日土曜日

「質問力」

中島孝志さんの「巧みな質問ができる人できない人」を読む。

中島さんは「質問力」という言葉を使う。質問力とは「質問と回答の両者を通じて新たな価値を生み出すコミュニケーション」だという。いい質問といい回答が結びつくと、そこに新しい価値が生まれる。新しい価値を生み出す力として「質問力」に注目しているのである。

本書は、質問の回答についても言及している。良い回答というのは、第1に相手の質問に対して全力で応じていること、第2に相手のレベルに立って答えていること、第3に相手が理解しているか確認しながら答えていること、という3点に集約されている。第1、第2はともかく、第3に挙げられた「相手の理解度を確認する作業」は忘れがちである。ついつい質問に答えなければという焦りとともにしゃべり続けてしまうことが多いので、この点は個人的に注意したい。

その後、質問の話は議論の話へと展開する。議論は「私が正しい。あなたは間違っている」という話をするものではない。「私」も「あなた」も気づかなかった「第3の価値」を見つけ出す作業が議論なのだという。「私」も「あなた」もどちらも正解ではない、という点から議論をスタートさせるべきなのだろう。

本書はその他に、質問力をセールストーク、人間関係、人生論、組織のマネジメントへと応用する話が続く。印象に残った点は以下のとおり。

・質問は好奇心の赴くままに投げかけること。それが問題を解決するきっかけになる。

・いいアウトプットを出すためには、その10~100倍のインプットが必要である。インプットのきっかけになるのが質問である。

・人間は質問力によってどこまでも変わる。

・質問は自分の考えを積極的にアピールする絶好の機会である。

・講演会の講師は、鋭い質問をした人のことを忘れないものである。

・講演会で質問を受け付けたとき、3秒の間に手が挙がらなかった場合は退席することにしている。5秒以上待つと「質問のための質問」をする人が現れてしまうためである。

・質問することで相手がその人のことを馬鹿にしたり、軽蔑したり、軽んじたりすることは無い。むしろ質問することで話ができた、聞いてもらえた、喜んでくれたと愛される。

・わからないのにわかったような顔をする人は物事を複雑怪奇にしてしまう。わからなければ質問すればいい。質問は恥ずかしいことではない。質問を省略する態度が失敗を招く。

・質問力の次は回答力、提案力が必要になる。即座に回答や提案ができる準備をしておくことが重要である。

・タフなネゴシエーターは相手に嫌がられるが、その実「強敵だ」という畏敬の念を持って煙たがられているのである。

・セールスは議論ではない。顧客に議論で買っても話にならない。

・仕事は契約と納品だけで成立するものではない。一番重要なのは代金を回収することである。

・会議はいろいろな可能性を秘めたイベント。主宰者のワンマンショーでは意味が無い。

・会議の人数は少なければ少ないほどいい。最低でも10人以下に抑えること。

・情報は自分が体験した1次情報でなければ意味が無い。

・「知っていること」と「理解できること」は違う。「できること」と「実践していること」も違う。

・激しい摩擦を伴う議論の末に、相手との強固な信頼関係が築かれる。

・親鸞と弟子の唯円との会話をまとめた「歎異抄」。その会話は上下関係ではなく並列関係であり、対面関係ではなく同じ方向を向いている関係である。→コラボレーション。

・宮城谷昌光さんの言葉。「歴史上の偉人は多くの苦難を克服している。偉人になりたいと望むことは、天に死ぬほどの苦難をくださいとねだることである。」

・イスラエルのソロモン王の言葉。「賢者は聞き、愚者は語る」

・道元の言葉。「いま、おまえは山を見ているけれども、山もおまえを見ているんだ。」

・GEのCEO、ジャック・ウェルチの言葉。「組織力はエナジャイザー(力を与える人)の存在が左右する。」

・山本五十六の言葉。「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ。」→原典は上杉鷹山の言葉。

古本屋で見つけて105円で購入したのが申し訳なく思えるくらい面白い本だった。

山崎

2004年12月23日木曜日

「排他性」

国立京都国際会館を見に行く。

国立京都国際会館は、ウルトラマンセブンのなかで地球防衛センターとして活躍していた建築である。確かに地球全体を守っているかのように堂々たる外観の建物だ。いや、外観だけではない。この建物の中で話し合われていることもまた、まさに地球を守るために必要な議論である場合が多い。有名な「京都議定書」を採択した地球温暖化防止京都会議(COP3)も、この会議場で執り行われている。

写真で見ていた時の印象と違って、実物の国立京都国際会館は思いのほか巨大な建築だった。建築というよりはむしろ戦艦、あるいは都市といった巨大さである。竣工は1966年。設計は大谷幸夫が担当している。

とにかく「斜め」が多い、というのが全体的な印象である。大谷の師匠である丹下健三は、垂直と水平で「日本的なるもの」を捜し求めた。これに対して大谷は、傾斜と水平を用いることによって「日本的なるもの」を表現しているようだ。斜めの手すり。斜めの照明。斜めの柱。斜めの壁。斜めの刈り込み。外観や庭園だけを見ても、「斜め」の要素が多用されていることに気づく。

建築内部にも「斜め」がたくさん見られるだろう。そう思ってロビーに入ったとき、受付の女性に呼び止められた。一般人は建築内部の見学ができないのだという。

「国立」京都国際会館。国の税金を使って建てた建物とはいえ、その内観を僕らが自由に見学することはできない。重要な会議を行う場所である。自由な見学を認めて、万が一誰かに危険物を設置されたりすると大変なことになる。だから一般人の見学は不可だということなのだろう。わからない話でもない。

そういえば、冒頭に挙げた「ウルトラマンセブン」の撮影クルーも国立京都国際会館の内部での撮影を断られている。そのため、地球防衛センターの外観は国立京都国際会館を使ったが、内観は芦屋市役所を使うことになった。実際、室内ロケのほとんどは芦屋市役所で行われていたようだ。

仮に地球防衛センターというものが実在していたとしても、一般の見学者という立場からいえば現在の国立京都国際会館と似たような排他性を持つことになっていただろう。地球防衛センターの一般見学を可能にしてしまったら、それこそ地球の未来が危なくなる危険性があるのだから。

斜めの柱や斜めの壁で構成される逆台形型の建築形態は、それを見る人に対する排他性を強調している。威圧感がある。ウルトラマンセブンのプロデューサーが地球防衛センターに求めた特徴は、この威圧感であり一般市民が近寄り難い雰囲気だったのだろう。


斜めの柱や壁


斜めの刈り込み


斜めの柱


斜めの低柵

山崎

2004年12月22日水曜日

「オープンスペースのマネジメント」

ユニセフパークプロジェクトのメンバー数人に誘われて、京都大原温泉の旅に出かけた。大原と言えば「味噌鍋」と「しば漬け」が有名だ。比較的標高の高い盆地に位置する大原は、寒暖の差が激しいことから味噌づくりやシソの栽培に適した土地だという。そのことから「味噌鍋」や「しば漬け」が大原の名産になっている。

「味噌鍋」や「しば漬け」以上に大原で有名なのは三千院である。ところが、三千院の歴史は思いのほか浅い。中世の頃からその場所にはいくつかの寺があったというが、正式に三千院という名称で取りまとめられたのは明治維新以後のことだという。だからだろうか。通常、自慢げに語られる寺の由来や故事来歴は影を潜め、代わりに説教を引用した張り紙やポスターが多く貼られていた。

2600平方メートルという広大な敷地ではあるものの、庭の管理は驚くほど行き届いている。寺風情を壊すような要素(雨水桝や塩ビ管など)は執拗に木皮で覆われ、樋や出水口には竹が用いられている。膨大な管理費が必要なやり方である。

この管理費を捻出できているのが三千院の運営が優れている点だろう。「大原三千院」という名前をここまで知らしめることになったテレビCM。付近の旅館や参道の店舗と協力したPR活動。親切なホームページの作成。JRと協力したポスターの作成。マスメディアを通じた広告に余念が無い。

マスメディアだけに頼っているわけではない。院内にもさまざまな仕掛けがある。山門を抜けるとすぐに拝観料を徴収する窓口がある。拝観料は600円。妥当な値段である。室内に入ってしばらく歩くと、まず最初に書籍や土産物を売る部屋にたどり着く。三千院第1の土産物売り場である。次に写経のための部屋へと繋がる。続く客殿の大広間は、片隅に庭を眺めながらお茶の飲める茶席が設置されている。


客殿の大広間


片隅の茶席

客殿前の聚碧園(作庭:金森宗和)を通り抜けると、大正期に建立された宸殿にたどり着く。ここでは献金や献香を受け付けている。もちろん賽銭箱も設置されている。

宸殿の前、コケに覆われた有清園を通り抜けると紫陽花園が広がる。ここには、たくさんの桜が献木されている。個人から法人まで日本全国から桜の木が収められており、各々に献木者の氏名が明記されている。1本いくらの献木なのかは分からないが、その数はかなりのものである。

紫陽花園を抜けると、平成元年に建立された金色不動堂が見える。堂前の広場ではお茶が振舞われている。年配の女性3人が盛んに勧めるお茶を飲むと、即座にお茶の販売が始まる。金粉入りのシソ茶。ここでシソが大原の気候に合った植物であること、それゆえ大原では「しば漬け」が名産になったことなどを聞かされることになる。もちろん、お茶を振舞う横には土産物売り場がある。三千院第2の土産物売り場である。お守り、線香、書籍、朱印帳、絵葉書、ボールペン、クリアファイルなど、三千院グッズが勢ぞろいだ。

その先、三千院の最も奥に位置する観音堂でも三千院グッズが売られている。三千院第3の土産物売り場である。観音堂には、例によって説法らしき文章が壁に貼られている。ここに一例を挙げておこう。

■■■■■■

観音さまは私達をどんなふうに救って下さるのでしょうか?」
 あなたの苦しみや悲しみを大きな慈しみの心で受け止め悩みを聞いて下さいます。そしてあなたに届く率直なことばで真実をあかされ、最善で納得のいく解決を与えて下さいます。
 そして常に寄りそい、生涯にわたりあなたを助けようと誓われた菩薩が観音さまです。どうか今、お力添えをして頂いて願いをかなえて下さる為、ご祈願や観音像奉納をお進めします。
祈願:3000円、観音像奉納:10000円より

■■■■■■

赤い文字は張り紙に朱色で書かれていた文字である。文法や漢字の使い方に疑問が残る文章だが、それはともかくこの類の張り紙が院内のあちこちに貼られているのである。説法に始まり営業に終わる張り紙。ありがたいような迷惑なような張り紙である。

そもそも3000円もする祈願をお願いする参拝客はどれくらいいるのだろうか。ましてや10000円もする観音像奉納にいたっては、年間にどれくらいの申し込みがあるのか定かではない。そんなことを考えながらふと観音堂の右手に目をやると、実に下のような風景が広がっているのである。





驚きである。観音さまが21世紀の日本でもこれほどの力を持っているとは思わなかった。さらに観音像が並ぶ枠木の前には、またしても張り紙が。

■■■■■■

「今日のご縁に、ぜひ観音像の奉納を。終生お祀りします。一体:10000円」

■■■■■■

さすがである。これだけの運営能力があるからこそ施設の高密度管理が可能なのであり、平成の時代に金色堂を建てるだけの資本を回収することができているのだ。オープンスペースが持つ「永続性」をうまく利用した運営費の徴収。公園の運営が寺に学ぶことは多いのではないか。三千院の運営を垣間見ながら、僕は今後のユニセフパークプロジェクトにおけるマネジメントについて考えていた。

同行したユニセフパークプロジェクトのメンバーは、三千院に何を見ていたのだろうか。メンバーの一人は、そのあと出現した第4の土産物売り場で「交通安全ステッカー」を購入していた。




三千院聚碧園

山崎

2004年12月20日月曜日

「ページ紹介」

■ OKD Landscape Gallery「コラボ研」「Landscape Explorer」「けんちくの手帖」と多方面でお世話になっている岡田昌彰さんのギャラリー。産業遺産の写真がたっぷり。

■ ウズラボ一級建築士事務所
「archireview」で知り合った竹内正明さんの建築設計事務所。

■ WEBマガジン「インク・ライン」
同じく竹内さんが書いているWEBマガジンのサイト。竹内さんは「座れる名作:京都椅子探訪」と「建築<論争>の歴史」を担当。

■ アラウンド・藤白台
千里ニュータウンで知り合った奥居さんが運営するサイト。千里の「藤白台」(ふじしろだい)周辺で起きた出来事などを紹介。

山崎

2004年12月18日土曜日

「質問と回答」

夕方からアーキレヴューに参加する。今回のテーマはアーキグラム。ゲストコメンテーターは「アーキグラム」の訳者、浜田邦裕さん。プレゼンテーションは、二宮章さん、竹内正明さん、北川文太さんの3人が担当。コーディネーターは住本欣洋さん。

二宮さん、竹内さん、北川さんの3人が繰り広げるプレゼンテーションの流れは非常に刺激的だった。まずは二宮さんがアーキグラムの時代にどんなグラフィックデザインのムーブメントがあったのか(スペースエイジ/フラワーチルドレン/ポップアート/カウンターカルチャー)を整理する。続く竹内さんがその時代の世界と日本における建築のムーブメント(CIAM/チームⅩ/坂倉・前川・吉阪/丹下健三/磯崎新/メタボリズム)を整理する。そして北川さんが生活者の視点からアーキグラムの描く世界の実態(都市空間に対する記憶の喪失/個人のアイデンティティの喪失)を批評する。

二宮さんのプレゼンテーションによってアーキグラムが活躍した時代の背景を把握することができた。建築分野のみならず、関連分野におけるムーブメントを把握しておくことは重要である。特にアーキグラムのようなグループをテーマにするときはなおさらだ。二宮さんは、グラフィックデザイン、エディトリアルデザイン、映画、アートの世界で起こったムーブメントを時系列に整理し、アーキグラムの時代的な位置づけを明確にしてくれた。

竹内さんのプレゼンテーションは、アーキグラムの基礎を学ぶ教科書的な役割を果たした。今までのアーキレヴューに抜けていた種類のプレゼンテーションである。このプロセスが抜けていたため、時に来場者から「発表内容が独りよがりだ/ディスカッションの文脈が理解しにくい」などという批判を受けてきた。その部分をしっかりフォローしてくれたのが竹内さんの懇切丁寧な説明である。おかげで来場者がアーキグラムについての共通認識を持つことができた。すでにアーキグラムや近代建築ムーブメントについてしっかり勉強している人にとっては少々退屈な時間だったかもしれない。しかし、この退屈な時間が大切だったのである。この時間を我慢したからこそ、続く北川さんのプレゼンテーションで多くの発言が飛び出したのだから。

北川さんのプレゼンテーションは、一生活者という視点からアーキグラムが描く都市を疑似体験するとどうなるかについて語るものだった。独自の視点である。プラグ・イン・シティやインスタント・シティが生み出す都市は、生活空間として豊かなものになるだろうか。人々の記憶に残る街になるだろうか。都市のアイデンティティは、そこで生活する人のアイデンティティを蓄積したものである。そして個人のアイデンティティを支えているのは都市空間の記憶である。都市の記憶を消し去りながら発展しようとするアーキグラムの都市像は、発展の原動力である生活者のアイデンティティを崩壊させ続ける。この自己矛盾を解決しない限り、アーキグラムの掲げる都市が実現する可能性は低いままだろう。北川さんの論旨は以上のようなものだった。

本人の思惑通り、北川さんの発表に対しては多くの議論が巻き起こった。特に浜田さんの指摘の中で興味深かった点は以下の通り。

・アーキグラムは郊外主義者。無機質で面白くない郊外住宅地の生活をどう面白くするのかを真剣に考えていた。インスタント・シティの舞台が郊外ばかりなのもその理由。

・郊外住宅地にインスタント・シティがやってきて、イベント的な刺激を与えて、次の郊外都市へ移動する。刺激を与えられた郊外都市は、他の郊外都市と連携しながら独自の都市へと変貌する。

・プラグ・イン・シティは、メタボリズムなど海外の情報に触発されて考えた後期のアイデア。アーキグラム本来のアイデアはインスタント・シティに凝縮されている。

・メタボリズムの背後には丹下健三がいたのではないか。あの時代の資料を読み込むと、丹下が言いたいことを若いメタボリズムのメンバーに言わせていたという構図が浮かび上がる。

・メタボリズムは丹下を意識していて、丹下はコルビュジエを意識している。つまり、メタボリズムもコルビュジエ以降のモダニズムという枠の内側に留まっていたことになる。

・メタボリズムと丹下の関係については、かつてピーター・クックが指摘していた。その上で、アーキグラムはそのような師弟関係にある組織ではないとしている。

・アーキグラムのコンセプトメーカーはデヴィッド・グリーン。ドローイングはピーター・クックとロン・ヘロンが担当。デニス・クロンプトンはほとんど何もしていなかったのではないか。

・最近の建築シーンを見ていると、ムーブメントの消費が早すぎるように感じる。特に最近の日本の建築家は、世界の流行を消費し尽くしてしまうのが早過ぎるのではないか。

3人のプレゼンテーションにおける「流れ」が絶妙だったおかげで、浜田さんやアーキレヴューの米正太郎さんを巻き込む活発な意見交換がなされた。ただし、議論する各人がシナリオを作りすぎていたことは少し残念だったといえよう。自分がしゃべりたいと思っていることを固定しすぎているため、対話が十分に機能していなかったのである。

例えば、米正さんが浜田さんに対して投げかけた「アーキグラムは自分たちの計画案をどの程度実現させるつもりだったのか」という質問に対して、浜田さんは明確な回答を示すことなく「建築を設計しない人が建築を批評すること(例えば浅田彰さんの一連の発言)」の弊害について語った。また、浜田さんの「アーキグラムの持つガッツから僕らは学ぶ必要があるのではないか」という発言に対して、北川さんは「アーキグラムのガッツ以外から僕らが学ぶこと」を主題に語り続けた。いずれも質問と回答がうまくかみ合っていない。

あらかじめ準備したシナリオに沿って話を展開する場面が多かったため、個々の発言は興味深かったものの、全体としてはどこかすれ違ったディスカッションに終始してしまった感がある。「質問力」の重要性を実感した夜だった。

「質問力」を高めるため、家に帰ってすぐに中島孝志さんの「巧みな質問ができる人/できない人」を読んだ。アーキレヴューの運営から学ぶことは多い。

山崎

2004年12月17日金曜日

「活動の隙間」

夕方からコモンカフェで開催された「第2回けんちくの手帖」にナビゲーターとして参加する(そういえばコモンカフェも地下にあるので電波の届かない「異空間」だ)。ゲストは「あまけん」の若狭健作さんと綱本武雄さん。

「あまけん」が発行している「南部再生」というフリーペーパーの話を中心に、運河クルージング、イモコレ、メイド・イン・アマガサキなどのプロジェクトに関する話を聞いた。印象的だったのは以下の点。

・事業の資金は尼崎公害訴訟の保証金。その他、各種助成金を使って「メイド・イン・アマガサキ」という別冊を作っている。

・メイド・イン・アマガサキ・ショップというイベントを開催したところ、2日間で5000人の来店者があった。

・「南部再生」で取材させてもらった店や家の人から、次の取材先を紹介されることが多い。

・「南部再生」に掲載されている文章は原稿料無料で書いてもらったものばかり。有名な人も学生さんも同じく原稿料は無料。取材費も本人負担。それでも持ち込み企画や連載が後を絶たない。

・紙媒体の持つ力はインターネットのホームページとは違うように思う。紙媒体で印刷して配布してしまうと、誤字脱字にいたるまで編集者が責任を持たなければならない。WEBのように途中で更新/訂正することができない。それだけに紙媒体はWEBよりも読者に訴える力を持っているのではないか。

・冊子を発行することによってネットワークがどんどん広がっている。

・会費(年会費1000円)によって、現在では印刷費を賄えるようになっている。

「あまけん」はイベントやWEBや冊子をうまく使いこなしながら、尼崎市の南部地域に緩やかなムーブメントを作りつつある。フリーペーパーも第16号を数えるに至った。知名度も徐々に上がってきている。フリーペーパーもかなり質の高いものになっている。学ぶべき点は多い。

その上で考えておかなければならないことがある。このプロジェクトが当初から活動資金を持っていたということだ。同種のプロジェクトの多くは自費でフリーペーパーを作成、印刷、配布している。活動資金を手に入れるまでに消え去るフリーペーパーも多い。「あまけん」と同じスタートラインへたどり着く前に、実は多くの試練が待っているのだ。

活動資金が手に入るようになってからの方向性については「あまけん」が優れた手本になることだろう。問題はその手前にある。自費でのフリーペーパー発行から、継続的な活動資金の確保まで。巷にあふれるフリーペーパーと「あまけん」の活動をつなぐ部分。今後の「けんちくの手帖」は、その隙間部分に着目した議論を展開したいと思う。

山崎

2004年12月14日火曜日

「異空間」

兵庫県立大学の赤澤宏樹さんが結婚したので、友人5人でささやかなお祝いをしようという話になった。もちろんこの時期なので忘年会も兼ねたお祝い会である。「お祝い忘年会」の会場は心斎橋の「恋のしずく」という居酒屋。地下2層分を使って、路地や小橋や縁側など「和の異空間」が作り込まれた店だった。

最近オープンする店は地下空間を活かしたものが多い。事務所の周辺にも数件の地下居酒屋がオープンした。先日、精神科のドクターと食事したのも地下の店だった。なぜ地下の店が人気なのだろうか。

地下空間が「日常の喧騒から逃れたい」という客の心理をうまく掬い上げているからだ、という説明も可能だろう。地下へ潜るという行為そのものが現世から距離を取る行為であり、だからこそ地下はレクリエーションのための異空間になりやすいのだ、という意見。これはいかにも正しそうだ。でも、異空間に浸りたいというだけであれば、商業ビルの中にもそれなりの店が存在する。必ずしも地下である必要は無い。

たぶんこういうことなんだろう。地下の店は「携帯電話の電波が届かない」という点において地上の店よりも「異空間」になりやすい。最近では、携帯電話が繋がらないことの言い訳が「地下」以外に見当たらないほど街中に電波が飛び交っている。携帯電話の電源を切るという行為には本人の意図が感じられる。でも、地下へ潜るという行為からは携帯電話の電波を逃れるという意図が感じられない。だから、電波が届かなかったことを咎められる心配も無い。僕らが誰からも束縛されずに楽しい時間を過ごそうと思えば、もはや地下へ潜るほか無いのである。

店の客がそのことを意識しているのかどうかはわからない。単に「落ち着く店だなぁ」と感じているだけかもしれない。友人との会話に集中できて満足しているだけかもしれない。しかし、その心地よさや満足感は「外部から電話がかかってこない」という状況に支えられているのである。この点においては、東京ディズニーランドとて「異空間」になりきれていないのである。

友人の1人が「お祝い忘年会」の集合時間に遅れた。店の場所がわからなかった彼は僕らに何度も電話したそうだ。彼からの電波が「異空間」に届かなかったのは言うまでも無い。

山崎

2004年12月12日日曜日

「アウトレットモール」

アウトレットモールへ行く。特に買いたいものがあるわけではない。休日のレクリエーションとしてアウトレットモールという方法があるのではないか、と思ったからだ。

僕たちはレクリエーションというと公園を思い浮かべる。公園を設計している者の悲しい性だ。市民の健全なレクリエーションのために僕たちは公園を設計している。建前はそういうことになっている。ところが、世の中には公園のほかにもレクリエーション施設がたくさんある。いや、むしろ他のレクリエーション施設のほうが公園よりも人気がある。

ディズニーランドはその典型だ。公園よりもよっぽどレクリエーション機能を備えている。日常とは違う世界を味わうことによって、再生産のための鋭気を養うことができる。「ディズニーランドなんて消費社会にどっぷり浸かったレクリエーション施設じゃないか」という批判は意味が無い。ディズニーランドに代わる「健全な」レクリエーション施設が存在するとしても、それは所詮レクリエーションのための施設なのだから。

そもそもレクリエーションという概念自体が消費社会の産物なのである。レクリエーションとは「Re-Creation」であり、日々の仕事の効率を上げるために行う再生産行為である。つまりレクリエーションの目的は「日々の仕事」という消費社会を加速させるための行為なのだ。そんなレクリエーションのための施設に対して、それが「消費社会に迎合するものであるかどうか」を問うことはナンセンスなのである。

そんなことを考えながら、消費社会が生んだレクリエーション施設であるアウトレットモールを見に行った。日曜日のアウトレットモールは大変な賑わいである。人々は、アトラクションに乗る代わりにショップの品を眺める。「ビッグサンダー・マウンテン」に乗る代わりに「ナイキ」の新作シューズを試着する。「カリブの海賊」を見る代わりに「ユナイテッドアローズ」の商品の値段に驚く。

こうした体験も日常生活からの逸脱である。日常生活における商品の値段は固定されている。「ボーズ」のスピーカーの値段は決まっている。「レゴ」のブロックの値段も決まっている。定価、つまり定められた価格で売られる。ところが、アウトレットモールには定価とは違う値段が並ぶ。日常とは違う値段の世界がそこに広がる。その世界に身を浸すことは、十分にレクリエーション機能を持つ。

もちろん、値段が安いからといってすべての商品を買うことはできない。ほとんどの商品は「安い」という状況を体験するだけの対象となる。それだけで気持ちがいいのである。「グッチ」「プラダ」「アルマーニ」。日常世界で慣れ親しんだブランドの商品が、日常世界とは違う値段で売られている。それだけで非日常的なのである。ディズニーランドと同じく「異世界」を味わうことができる場所なのである。

アウトレットモールの外観がディズニーランドと同じくコロニアルスタイルなのも偶然ではないだろう。植民地時代の建築様式は、現代人が異世界へ浸るための記号になっている。ディズニーランドもアウトレットモールも、和風であってはならないのである。茅葺民家が立ち並ぶ集落を再現したアウトレットモールは、必ず失敗することになるだろう。異世界は、「時間」と「空間」の両側面において日常世界から遠く離れていなければならないのである。

アウトレットモールがディズニーランドに似ているのは、帰る人たちを眺めていてもわかる。アトラクションを楽しむための施設であるディズニーランドには、出口付近に多くのお土産屋さんが立ち並ぶ。夢の世界の思い出を日常世界に持ち帰りたい人々は、そこでいくつかのお土産を買って帰る。持ちきれないほどのディズニーグッズを買って帰る人を見かけることもあるが、多くの人は片手で持てるくらいのお土産を買って帰る。

アウトレットモールから帰る人も同じくらいのお土産しか持っていない。ショッピングを楽しむはずのアウトレットモールから帰る人が、ディズニーランドの客と同じ量の商品しか買わないというのは不思議なことかもしれない。しかし、異世界に身を浸すという機能から考えると、ディズニーランドもアウトレットモールも同じなのである。どちらもアトラクションを楽しむ空間であり、どちらもショッピングを楽しむ空間なのである。

その意味で、アウトレットモールの売り上げはそれほど大きくないのではないかと心配してしまう。人々は安い値段を楽しんでいるだけで、ショッピングを楽しんでいるわけではない。帰る人が手にしているお土産の量もディズニーランドのそれと変わらない。だとすれば、個々の店舗の売り上げは伸び悩んでいるはずである。入園料を取らないアウトレットモールはどうやって生き延びるのか。興味深いテーマである。

同じく入園料を取らない公園がどう生き延びるのか。これまた興味深いテーマである。


アウトレットモールの賑わい

山崎

2004年12月11日土曜日

「焼肉」

大阪で焼肉と言えば鶴橋駅周辺が有名である。電車を降りると焼肉の匂いがするほど焼肉屋が多い。その鶴橋でも有名なのが「鶴一」という店。夕食時には店の前に列ができることが多い。

本店と支店がすぐ近くにあるのも特徴的だ。本店は七輪を使っているため店内に煙が充満している。一方、支店は無縁ロースターを使っているため煙は少ない。鶴一の客は、まず店を選ぶことによって肉の焼き方を決めることになる。

どちらの店を選ぼうとも、夕食時には相当時間並ぶことを覚悟しなければならない。支店には待合室があるが、本店の場合は店の外に列を作って待つことになる。冬の寒空の下、列を作って焼肉屋に入るのを待つというのは過酷な作業である。並ぶ人が体を小刻みに揺らしているのも無理はない。

店内へ案内されるまでの時間は永遠にも感じる。ただし、店に入ってしまえば外に並んでいる人がいることを忘れてじっくり焼肉を味わってしまう。「満腹になって店を出る人」と「震えながら店の前で並ぶ人」とがすれ違う入口付近。そこには微妙な空気が流れている。店から出てくる人の満足げな顔に対する羨望と嫉妬とが入り混じった眼差し。一方で、またひとつ座席が空いたことに対する期待感。そんな感情を相殺しながら、店員が自分の名前を呼ぶその時をひたすら待ち続けるのである。

本店の場合、店に入ると炭火の入った七輪がテーブルの上に置かれる。支店では、無縁ロースターに残っている前の客の炭火の上に新しい炭が足される。送り込まれる風の強さを調節することによって、火を新しい炭に移すことができる。風の強さを調整して火力を調整するのは客の仕事だ。肉を焼き始めると油が滴り落ちて炭が燃え上がる。風量を調整することによって肉の焼き具合を制御しなければならない。

好みの肉を注文する。カルビ、ロース、ハラミ。いろいろな肉が大きな皿に盛られて配膳される。実際、素人の僕たちにはどの肉がカルビでどの肉がハラミなのか区別がつかない。仮に区別できたとしても、どの肉から焼き始めればいいのか判断できない。結局、皿の右側に盛られた肉から順に焼いていくことになる。

考えてみれば、焼肉とは不思議な食べ物である。自分が注文した料理を自分で調理して食べる。店が用意するのは薄くスライスした肉と炭火と調味料。火力は自分で調整する。肉の焼き具合も自分で調整する。焼けた肉の味付けも漬けダレを使って自分で調整するのだ。そんな食べ物のために、店の前で長い時間待ち続けているのである。僕たちはそこにどんな魅力を感じているのだろうか。

他の料理なら、すぐに食べられる状態まで調理してから配膳される。焼き加減や味付けは料理人に任せる。出てきたものがおいしければ料理人を褒め称え、出来が悪ければ料理人の文句を言う。料理が出てくるタイミングや順序も批評の対象となる。

料理する者と食べる者。通常のレストランでは客と店の役割が明快に分かれる。しかし焼肉屋の場合はこの構図が成り立たない。料理人が途中までしか料理しないからだ。焼き加減や味付けは客に任される。店と客のコラボレーションによって料理が完成する。そこに焼肉の魅力がある。焼き加減や味付けを自分用にカスタマイズできること。自分が焼いた肉を仲間に薦めることができること。料理の味に関する賞賛の一部を自分に向けることができること。

料理のプロセスをオープンにすることによって、食事を通して「できること」が広がる。レストランのコース料理には無い魅力である。これは、建築やランドスケープの設計にも通じる魅力だろう。

「作ることをどこで止めるか」。建築やランドスケープの設計プロセスをオープンにすることによって、たくさんの「できること」が出現する。可能性が広がる。コンクリートの打ち放しで完璧に作られた住宅もいいだろう。しかし、壁に絵を飾ろうと思っても金具ひとつ取り付けられないのは寂しい。設計者に相談しても「この空間にその絵は似合わない」と言われるのがオチである。

僕たちは「焼肉型」の空間を経験したいのか、それとも「コース型」の空間を経験したいのか。そんなことを考えながら、僕は自分で焼いた厚切りのカルビをたらふく食べた。

山崎

2004年12月10日金曜日

「研究者と設計者」

午前中は、兵庫県立淡路景観園芸学校の学生から修士論文の相談を受ける。子どもの遊び場や利用者が参加する公園づくりについて研究したいと言う。仙田満さんの公園や世田谷のプレイパーク、そしてユニセフパークプロジェクトなどを紹介しながら、論文の構成について議論した。

午後7時から兵庫県家島町の振興計画に関するブレーン会議に出席する。この計画には2年前から関わっている。通常の振興計画とは違って、計画の内容について住民が話し合い、その結果を計画本文に盛り込んでいる。家島町役場が考える「町の方向性」と、住民が考える「自分たちがやりたいこと」を重ね合わせた振興計画。この計画書の完成は、新しい振興計画のカタチを示すことになるだろう。

ブレーンの一人である清水郁郎さんはラオスでの調査を終えて帰国したばかりだった。来年3月には再度ラオスへ調査に行くという。話を聞くうちに研究者という生き方が羨ましく思えた。もちろん僕が想像するほど楽しいことばかりではないはずだが、自分の一生をどこでどのように過ごすかという点において研究者は幸せだと感じたのである。

午後10時から病院の庭の設計に関する打ち合わせに出席する。このプロジェクトには、異なる3つの設計事務所の設計者が関わっている。ランドスケープの設計プロセスとしては特殊な進め方である。3つの事務所が協働しているというよりは、たまたま3つの事務所に所属する個人が集まって新しいユニットを作った、というほうが正確な表現だろう。普段は別の事務所で仕事をしている3人だけに、集まって議論すると新鮮なアイデアが生まれる。朝まで続いたこの打ち合わせは非常に刺激的なものだった。こういうコラボレーションこそ、僕たちの世代が選び得る仕事のスタイルだということを実感した。

研究者にもこの種のコラボレーションはあるだろう。学際領域の研究には多く見られる研究スタイルである。設計者か研究者か。どちらも魅力的な生き方である。

山崎

2004年12月5日日曜日

「もうひとつの側面」

東京学芸大学の学生4人と話をする機会があった。サッカー部に所属する彼らは試合のために大阪を訪れていた。

礼儀正しく、周囲に気を配り、話題が豊富で、楽しい会話を次々と展開する4人だった。偏見かもしれないが、この特徴は僕が考える典型的な「体育会系の学生」である。個人差はあるものの、彼らは総じて外向的な性格の持ち主だった。初対面の僕もすっかり昔からの知り合いだったかのように夜中まで話し込んだ。

彼らは外交的であると同時に柔軟である。話題の変化にも即座に対応する。ひとつの考え方に固執しない。これは、変化への対応を即座に迫られるスポーツをしている人の特徴なのかもしれない。僕が考える外向的で柔軟な人(外/柔タイプ)の特徴は以下のとおりである。

・礼儀正しい。
・ノリがいい。
・場の雰囲気を即座に理解する。
・声が大きい。
・話のテンポを大切にする。
・話題が豊富である。
・盛り上がるとどこまでも調子に乗れる。
・話の切り替えが早い。
・諦めが早い。

一方、最近の僕は文化系の人とプロジェクトを進めることが多い。これまた偏見かもしれないが、文化系の人は内向的な性格の持ち主が多い。内向的で頑固な人が多いような気がするが、なかには内向的だけど柔軟な人もいる。僕がいま一番気に入っているのは、この「内向的で柔軟な人」である。鉄道マニアやコンピュータマニア。このフィールドに、実はかなり魅力的な人たちがいることに気がついたのである。

内向的で柔軟な人(内/柔タイプ)は以下のような特徴を持つ。

・じんわりと面白い話をする。
・少人数だとかなり面白い話をする。
・ひとつの話題を長く語り合う。
・物事を整理して考える。
・コツコツと作業を進める。
・緻密な作業を得意とする。
・完璧を目指す。
・簡単に諦めない。
・約束したことをちゃんと覚えている。
・友達を無駄に増やさない。
・ひとつのことにじっくりと取り組む。

ここ数年、僕は上記のような「内/柔タイプ」の人間になりたいと思って努力してきた。鉄道マニアやコンピュータマニアの友人から多くのことを学んだ。まだ完全な「内/柔タイプ」になれたわけではないが、それでも少しずつ理想像に近づいていると自惚れている。いずれ僕は憧れの「内/柔タイプ」の人間になるはずなのだ。

そういう状態で、体育会系「外/柔タイプ」の学生と接したのである。それはとても新鮮な体験だった。東京学芸大学サッカー部の学生4人との会話は、自分が持つもう一つの本質を呼び戻してくれた。かつてラグビー部に所属していた体育会系「外/柔タイプ」の人間だということを、僕に思い出させてくれたのである。

今でこそ自分が「内/柔タイプ」の人間であるかのようにすました顔をしているものの、僕はもともと体育会系「外/柔タイプ」の人間なのである。長い間「内/柔タイプ」の人たちと一緒にいたから、自分もそれに近づいたのではないかと勘違いしていただけなのだ。

文化系の生活を送っている人も、たまには体育会系の人と接するべきである。そうすれば、自分が本当はどちらのタイプに属する人間だったのかを見極めることができるからだ。

文化系/体育会系という2項対立はケシカラン、という意見もあるだろう。僕もそう思う。人間にはどちらの側面も宿っているのだから。でも、だからこそひとつの側面だけをアクティブにし続けないほうがいいと思うのである。もう一方の側面を顕在化させるような状況に身を置くことを薦めるのである。

そんなことを考えながら、僕は体育会系の学生4人とスポーツの話や体臭の話、女の話や金の話などを楽しんだ。

山崎

2004年12月4日土曜日

「やり方とあり方」

INAX大阪で開催されたアーキフォーラムにコーディネーターとして参加する。ゲストは塚本由晴さん。

あらかじめ1つのお願いを伝えておいた。塚本さんは過去のアーキフォーラムに何度も出演している。自作であるアニハウスやミニハウスやガエハウスについては、既に何度もプレゼンテーションしているのだ。一方、今回のテーマはランドスケープである。今回もいままでと同じように自分が設計した住宅を中心に話すのであれば、テーマがランドスケープである意味はないだろう。だから今回は、塚本さんが普段撮っている風景や建築の写真を通じて、ランドスケープをどう見ているのか、建築をどう体感しているのかを語って欲しいとお願いした。

簡単に言えば、自分の建築作品を使わずにプレゼンテーションして欲しい、というわけだ。塚本さんはこの条件を快諾してくれた。新しいプレゼンテーションに挑戦するつもりだという。アニもミニもガエも使わずに建築やランドスケープを語ってくれるというのだ。

講演のタイトルは「建築の経験」。建築の「あり方」とそこでの「やり方」とが一致しているとき、そこに豊かな建築の経験が育まれるというのが塚本さんの論旨だ。建築の形態と、その建築におけるマネジメントの整合性と言えば整理しすぎだろうか。塚本さんは以下のような例を挙げて「やり方」と「あり方」が一致した建築の体験について語った。

コスタリカのポルトビエホにあるホテルでの経験。このホテルは、熱帯雨林に生える樹木のうち、幹の直径が20cm以下のモノだけを伐採して確保したランダムな敷地に建てられている。ホテルといっても小さなコテージが熱帯雨林の中に分散しているだけの設え。コテージは屋根とデッキと蚊帳で構成される簡単なものである。

熱帯雨林では、室内と屋外を仕切る壁が要らない。虫の侵入を防ぐために蚊帳を吊るだけでいい。スコールに備えて簡素な屋根があり、地面を踏み固めないようにデッキがあれば、そこに蚊帳を設置して寝泊りできる。屋根は猿がいたずらして椰子の実を落とすため、弾力性のあるテント地で作られている。

熱帯雨林でのアクティビティはインストラクターが教えてくれる。高い木々の間を空中移動するアクティビティは専門のインストラクターの指導が不可欠だ。ところがこのインストラクター、夜になると厨房で料理を作っているという。1人が何役もこなすことで簡素なホテルの経営が成り立っているようだ。そのせいだろうか、無駄な設備はほとんど見当たらなかったという。

ホテルの「やり方」と「あり方」とが一致している。だからこそ豊かな建築の経験を味わうことができたのだ、と塚本さんは言う。その他、印象に残った建築の経験は以下のとおり。

・福岡県の「元祖長浜屋」。店に入ることがラーメンを1杯注文することを意味する。残された言葉は「麺の固さ」と「スープの濃さ」の指定だけ。作る人と食べる人の協働が見られる。

・ボストンのボールパーク。野球場の中にいろいろなお店や広場があって、凝縮された都市のように感じる。「野球好き」という共同性があるため、ボールパークのランドスケープは楽しげに見える。

・ストックホルムの湖水浴施設。北欧の短い夏を楽しむための施設。水に飛び込んだり日光浴をしたりするための建築で、自己責任による利用が前提となっている。管理は受付のおじさん2人が掃除をする程度。

・ストックホルムの水上カフェ。河川沿いを歩く人も水上に船を浮かべる人も立ち寄るカフェで、陸上と水上の人の間にちょっとしたコミュニケーションが発生する。

・シアトルの図書館。コールハースが設計した巨大な図書館には、随所にパブリックスペースが設けられている。そこでは職種や人種に関係なくいろいろな人が時間を過ごすしている。また、司書のサポートもレベルが高い。

一方、日本のパブリックスペースはほとんどが商業化してしまっている、と塚本さんは指摘する。お金を払わずに「ただ居られる場所」というのがますます減っているのではないか。渋谷の街や六本木ヒルズや難波パークスは、自分が責任を持たなくても誰かが掃除をしてくれる都合のいい「擬似公共空間」である。この種の公共空間に飼いならされると、人々は自分からアクションを起こそうという気持ちを忘れてしまう。そんな問題意識から、塚本さんは都市空間の実践を取り戻すべくさまざまなインスタレーションを行う。ホワイトリムジン屋台やファーニサイクル、コタツパビリオンなどは、参加者に空間の実践を楽しんでもらうための「きっかけ」なのである。

僕たちが考えている「自己責任の風景」や「獲得される場所」も同じ考え方だ。利用者が自分で獲得したと思える場所が都市に増えれば、無責任で無関心な風景が少しは改善されるのではないか。そのためには、デザイナーがサディスティックに空間を規定し続けるのではなく、ユーザーが空間を使いこなすためのきっかけを設定するようなアプローチが求められる。ユーザーに改変されてしまう空間を提供すること。改変されることを喜ぶ風景。僕たちは、そんな風景のことを「マゾヒスティックランドスケープ」と呼んでいる。

ところが塚本さんは「マゾヒスティックランドスケープ」という言葉から違う印象を受けたという。郊外や中山間に見られるようなケバケバしい看板や無機質な団地が並ぶ風景。痛めつけられて壊れてしまった風景。マゾヒスティックランドスケープという言葉からは、そんなイメージが立ち現れるような気がする、という。

代わりに塚本さんが提案したのは「セレブレーションランドスケープ」という言葉。祝福するランドスケープである。利用者を祝福し、迎え入れ、仲間になるようなランドスケープが、利用者の主体性を引き出すきっかけになるのではないか。塚本さんがストックホルムを訪れたとき、自分が街全体から祝福されているように感じたことが印象深かったという。

「マゾヒスティック」か「セレブレーション」か。正反対とも思える2つの言葉が共有しておかなければならないのは、そこでの「やり方」と「あり方」の一致だろう。往々にしてこれまでの建築は「あり方」だけで問題を解決しようと苦心してきた。そんな「力技の建築」を超えて、建築の「あり方」をそこでの「やり方」に一致させるべきだと思う。

アニハウスやミニハウスなどの自作を使わないプレゼンテーションは、塚本さんにとって初めての経験だったそうだ。だから過去に使ったプレゼンテーションのデータを転用することができない。画像と言葉を1つずつ選びながら、ゆっくりとプレゼンテーションが進められた。新しい画像のサイズを変更させたり回転させたりしながら、建築の経験について語る塚本さん。段取りが悪いという指摘もあった。でも僕は、そういう塚本さんの「やり方」を通して、塚本さんの「あり方」が以前よりも理解できたような気がした。その意味でなかなか興味深いプレゼンテーションだったと思う。

塚本さんがますます身近な存在に感じられた1日だった。そのせいだろうか。この後、夜中の3時まで塚本さんと飲みに歩くことになる。


塚本由晴さん

山崎

2004年12月3日金曜日

「2番手を維持する方法」

学生時代から付き合いがある精神科のドクターが大阪へ遊びに来た。2年ぶりの再会である。この2年の間に彼は職場を変わっていた。以前と同じく東京で働いているのだが、同時に学生として研究にも勤しんでいるという。

彼によると、医療や研究の現場では1番手よりも2番手のほうが面白い発想を生み出しやすいという。1番手はどうしてもトップを走り続けるという気負いを感じてしまうため、知らず知らずのうちに無難で汎用な手法に落ち込んでしまう。ところが2番手は1番手を追うことに徹するため、自由な発想を駆使して新たな世界を切り開こうとする。往々にして革新的な発想は2番手の思考から生まれることが多いのだ、と彼は言う。

デザインの世界でも同じことが言える。1番手を走るデザイナーは、俗に「守りに入った」と言われるようなデザインを展開し始めることが多い。一方、1番手を追う2番手はさまざまな手法で先頭を走るデザイナーを追撃する。その手法は多様でありユニークである。

仮に2番手が1番手を駆逐することができたとする。すると今度はその2番手が1番手になる。自分が1番手になった瞬間、彼は2番手の追撃がどれだけ激しいものなのかを思い知ることになるだろう。そして、社会が自分に期待している「無難さ」を思い知ることになるだろう。かくして、新たな1番手もかつての1番手と同じような無難さと汎用さを以てデザインの世界から姿を消すことになる。

それを回避する方法はいくつかあるだろう。そのひとつに「枠組みの拡大」という方法がある。ある枠組みで1番手になると同時に、上位の枠組みの最下位としてスタートすること。これによって、評価のフィールドは一気に広がる。隈研吾さんに代表される方法だといえよう。

アンチポストモダンという姿勢によって日本のポストモダンの1番手になるや否や、枠組みを建築全体に広げて「アンチ建築」を主張し始めた隈さん。その後、建築の世界で1番手になりつつあれば、さらに枠組みを広げて「アンチ資本主義社会」を唱えることになる。隈さんは「アンチテーゼ」を用いることによって、常に既存の枠組みを広げてきたのである。

現在自分が戦っているトーナメントは、もうひとつ大きなトーナメントの予選なんだと考えること。そんな考え方がトーナメント優勝をもたらすのかもしれない。

自分を包囲する枠組みをうまく操作することによって、僕は「攻める2番手」であり続けたいと思う。

山崎

2004年12月2日木曜日

「庭園の運営」

奈良の紅葉が見頃だよ、という話を聞いた。さっそく奈良へ行ってみた。

京都に比べて奈良は開放的な印象がある。特に、奈良市の中心部ではあまり「境界」を意識することがない。奈良公園、東大寺、興福寺、春日大社。どこまでもずるずると入っていける場所が続く。24時間、鹿も人間も自由に出入りできる。これは日本でも珍しい都市のあり方だと思う。

逆にいえば、優れた庭園が成立しにくい都市だということもできる。「園」は、その文字の形のとおり四方を囲まれた場所に作りこむ理想郷である。つまり、境界を必要とするものである。その意味で京都は有利である。境界や結界が張り巡らされた都市だからだ。

では、奈良に優れた庭園が無いのかというとそうでもない。実は奈良公園のすぐ近くに魅力的な庭園が2つ並んでいる。依水園吉城園である。奈良公園や県庁方面からはその入り口を見つけにくいが、それゆえひっそりとした落ち着きのある空間を保ち続けている庭園である。奈良の紅葉がきれいだというのであれば、見に行くべきはこの2つの庭園だろう。

吉城園は、依水園に比べると小さな庭だが、地形の起伏に富んだ風景は魅力的だ。特に、地形や植物が建物と相互干渉している様は興味深い。「池の庭」へ突き出た縁側と庭木の関係や、手打ちガラスに映りこむ紅葉の見え方などは、どうがんばっても僕には作り出せないような空間の質を担保している。

依水園は前園と後園から構成される庭園で、吉城園に比べると平坦な敷地である。前園はもともと興福寺の一部だった場所で、1670年頃から既に庭園として利用されていたという。一方、後園は明治32年に奈良の富豪が作った庭園であり、これら2つの庭園をあわせて依水園と呼ぶ。前園は閉鎖的で繊細な作りこみが多く見られる庭園だが、後園に至ると春日山、若草山、東大寺南大門を借景とする開放的な風景が広がる。庭園の特徴である「閉鎖」と奈良の特徴である「開放」をうまく組み合わせたシークエンスが楽しめる空間だ。

ただし残念なのは、後園の一番奥まで行くと突然観光バスの駐車場に出くわすことだ。依水園の名前の由来とされる杜甫の詩には「緑の水と竹林が美しい庭園」という一文がある。明治時代には後園の奥にちゃんと竹林があったそうだ。ところがその場所は東大寺の南大門に近かったため、奈良県が土地を買収して東大寺へ来る観光バスの駐車場にしてしまったという。依水園の経営者は、どうして竹林を奈良県に売ってしまったのだろうか。

気になることがある。吉城園と依水園は、隣り合う2つの庭園にもかかわらず、入園料に大きな差があるのだ。吉城園の入園料が250円なのに対し、依水園の入園料は650円。さらに依水園の入り口には、園内施設の改修などにかかる費用が足りないため寄付を募っている旨が示されている。

250円と650円。どうやら、奈良県が運営する吉城園に比べて、財団法人が運営する依水園は財源を確保しにくいようだ。明治期の富豪に依拠したこの財団法人は、入園料や寄付金によって施設維持に努めている。見た目は同質の管理が施されている2つの庭園だが、その運営体制においては大きな努力の差があるのだ。

民間組織で庭園の運営を持続させるのは難しいだろう。特に高度成長を終えた国において財団法人が運営資金を捻出するのは至難の業である。依水園の経営者には頭が下がる思いだ。県営と財団経営。ひょっとしたら、依水園の奥にあった竹林を奈良県に売らなければならなかった原因は、こうした「経営母体の体力差」にあったのかもしれない。

そうだとすれば、庭園名の由来にまでなっている「依水の竹林」を買い取った奈良県は、それを駐車場にしてしまうのではなく竹林のまま保存すべきだったのではないだろうか。経営難に陥っている財団法人に対する側面支援として竹林を買い取ること。その竹林を奈良県が保全すること。このことよって、依水園という公共財を適正な状態に保つことができるのだから。

開放的な東大寺の駐車場には、今日も多くの観光バスが並んでいた。


吉城園の庭と縁側のせめぎ合い


依水園の紅葉

山崎

2004年12月1日水曜日

「都市の縮図」

OPUSというフリーペーパーの編集部から「仕事のモットーは何ですか?」と問われた。改めて考えると、答えはいろいろ沸いてくる。

楽しいことをやりたいと思っているのは確かだ。しかし楽しいだけじゃダメだってこともわかっているつもり。最低でもクライアントに満足してもらえるような仕事をしたいと思っている。その上で、クライアントだけでなく社会に対してもプラスに働くようなオプションを狙っている。そして僕自身は、そんな仕事を楽しみながら続けたいと考えている。だから、仕事を持続していけるだけの儲けも必要になる。

以上の考えを「仕事のモットー4段階説」としてまとめると、以下のような優先順位が浮き彫りになる。

第1段階:クライアントの満足
第2段階:社会への貢献
第3段階:自分の楽しみ
第4段階:若干の儲け

しかし、こんな答えはいかにも教科書的だ。「いい人」だと思われかねない。もっと単純で根源的で汎用なモットーがあるはずだ。そんなことを考えながら、一言だけOPUS編集部に返答した。

その一言を含め、100人のデザイナーに聞いた「仕事のモットー」がフリーペーパーとして配布された。ライター、グラフィックデザイナー、プロダクトデザイナー、シェフ、アーティスト、編集者、アートディレクター、家具職人、カフェ店主、建築家、ランドスケープアーキテクトなどなど。「仕事のモットー」の百花繚乱である。

各人の「仕事のモットー」に共通しているのは「仕事を楽しむ」という態度。何らかの形で仕事を楽しんでいる人が多いようだ。でも、僕が気になったのはその表現。「仕事を楽しんでいる」という表現が、職種によって微妙に違っている。

面白い表現はグラフィックデザイナーやアーティストに多く見られる。一方、まじめな表現は建築家やランドスケープアーキテクトに多く見られる。大雑把に分けてしまえば、プライベートセクターの仕事に携わる人は比較的柔軟な表現で読む人を楽しませてくれるが、パブリックセクターの仕事に携わる人はまじめで硬い表現しか持ち合わせていない。

建築家やランドスケープアーキテクトはパブリックセクターの仕事に携わることが多い。社会的責任を意識する機会も多い。勢い、公的な発言に対しては慎重になる。フリーペーパーとはいえ、彼らにとってそれは立派な「パブリック」なのである。そこでは、読み手を楽しませることよりも政治的に正しいことが優先される。その結果、読み手に何の楽しみも与えない「まじめなモットー」が出現することになる。100人の「仕事のモットー」には、ところどころにこうした「まじめで面白くも無いモットー」が混在している。

この構図はちょうど日本の都市に似ている。刺激的で面白い空間の中に、まじめで正しいだけの施設が点在する。そしてそんなまじめな空間をデザインしているのが、ほかでもない建築家やランドスケープアーキテクトなのである。OPUSのフリーペーパーは都市の縮図だと言えよう。


オプスプレス特別号

山崎