2005年11月29日火曜日

「もてなしの精神」

日本地図を見ると、北海道の東側にサロマ湖という湖があるのに気づく。オホーツク海と繋がるか繋がらないかという薄い陸地を隔てた湖。特異なカタチをしている。小学生の頃から気になっていた地形だ。サロマ湖は、果たして海に繋がっているのか、いないのか。ちょっと大きな波が来れば、細長い陸地を越えて湖に海水が入り込んでしまうのではないか。そんな疑問を持っていた湖である。

そんなサロマ湖を有する佐呂間町で、まちづくりのワークショップが行われている。そのワークショップに参加してコメントして欲しいという依頼があったので、冬の佐呂間町へ行くことになった。北海道の東側の冬である。想像を絶する寒さであったことは言うまでもない。

サロマ湖は、想像していたよりも大きな湖だった。関西の琵琶湖、関東の霞ヶ浦に続いて日本で3番目に大きな湖だということも初めて知った。さらに驚いたのは、細長く続く陸地が人の手によって切られていて、そこから湖に海水が入り込んでいるということ。昭和20年代に、サロマ湖でホタテの養殖ができるように海水を入れたのだという。ホタテを養殖するためとはいえ、細長い陸地を人の手で掘削し、海水を湖に流し込んだのは思い切った決断だ。今なら環境アセスメントのプロセスで必ず問題になる行為だろう。

佐呂間町のワークショップは商工会の青年部によって行われている。まちづくりと言っても、まずは何をするのか考えようという段階だった。僕が伝えたかったのは、「誰かのためのまちづくり」ではなく「自分達が楽しいと思えるまちづくり」にしないと長続きしないということ。まずは「楽しいと思うこと」を「楽しそうに実施してみること」が大切で、その姿を見たまちの人達が参加したくなるような活動を展開することがまちづくりのきっかけになる。そんなことをお話した。

印象的だったのは、ワークショップが終わった後にメンバー全員と一緒にした食事のこと。オホーツク海に面した街ならではの豪快な海の幸は、これまでに目にしたことに無いような豪華さだった。ウニやイクラやホタテやカニというのは、きっとこんなふうに食べるべきものではないんだろうと思いながら、僕はどんぶりいっぱいの海産物を食べ続けた。いずれも佐呂間町で採れたものばかりなので値段はそれほど高くない、という話だったが、逆にそれほど贅沢な話は無いと僕は唸った。

佐呂間町には「おもてなし」の精神が息づいている。来客が食べきれないほどの料理を出してもてなすこと。その行為が自分達の尊厳に結びついていること。しばらく体験したことのない「もてなしの精神」を存分に感じることができた。東京や大阪では感じることのない種類の気持ちを味わうことができた。僕は佐呂間町が大好きになった。商工会青年部の人達もいい人ばかりだった。今度は夏に訪れてみたい。きっと風景も好きになることだろう。

山崎

2005年8月16日火曜日

「OSOTO始動」

ランドスケープエクスプローラーの忽那氏から連絡があった。(財)大阪府公園協会に企画書を出していたOSOTOの編集を手伝うことになったという。

大阪府の外郭団体としては画期的な決断をしたんじゃないか。僕はそんな風に感じた。大阪府公園協会が出す雑誌なのに、ほかの公園に比べておもしろくなければ大阪府営公園は紹介しないことにする。そんな企画書を読んで「よし、やろう!」と決断したのである。すごいことだと思う。

OSOTOを使いこなす人を紹介することによって、自分なりにOSOTOを使いこなす人が増えたとする。そんな風景を生み出すことができれば、それもランドスケープデザイナーの仕事だといえるのではないか。そう考えると、ぜひともOSOTOの編集に携わるべきだと思えてきた。

さっそくグラフィックデザイナーやライターを集めて編集会議を実施しなければ。。。編集会議ってどんな風に進めるんだろう。。。

山崎

2005年8月3日水曜日

「OSOTO」

大阪府の外郭団体に(財)大阪府公園協会という団体がある。大阪府営公園の管理を任されている団体だ。

その公園協会が「現代の公園」という冊子を年1回発行している。大阪府の役人や外郭団体の職員、大学の先生などが論考を掲載する冊子で、一般の書店などでは手に入らない。「すっげー、おもしろい!」という本でもない。

この本を廃刊にしよう、という話が持ち上がったらしい。公園協会の若手職員に優秀な人がいて、廃刊にするくらいなら一般の書店でも売れるような「すっげー、おもしろい!」という雑誌にリニューアルしようじゃないか、と言い出した。

言い出したのはいいが、具体的にどうすればそんな雑誌ができるのかわからない。ということで、僕たちランドスケープエクスプローラーに相談が来た。

僕らだってよく分からない。でも、僕はこう思う。公園協会が発刊する雑誌だからといって公園のことばかり、特に府営公園のことばかり掲載するのはよくない。読者が固定されてしまうし、そんな雑誌は一般の人が読みたいとは思えない。公園に来てください!という前に、まずは家から外へ出てください!と呼びかけるべきではないか。オソトをこんな風に使いこなすとオシャレですよ。海外ではこんなオソトの使い方が普通なんですよ。既にこんなことをオソトで愉しんでいる人達がいますよ。そんなことを紹介する雑誌はつくれないか。オソトを使いこなすライフスタイルマガジン。そんな雑誌をつくってみたいと思った。

ランドスケープエクスプローラーの代表である忽那氏とそんな話をしていたら、「それなら雑誌のタイトルはOSOTOでどう?」ということになった。

まずはオソトに出ること。オープンカフェでもストリートダンスでもいいからオソトで活動すること。そのなかに何割かが公園を使ってくれるんじゃないか。さらにそのうちの何割かが府営公園を使ってくれるんじゃないか。そんな期待をこめながら、OSOTOの企画書を書くことにした。

大阪府公園協会の雑誌にも関わらず、府営公園が1ページも紹介されないことになるかもしれない。大阪府の職員に記事を書いてもらうページがなくなるかもしれない。大阪府の公園の批判する記事が掲載されるかもしれない。それでも作らせてくれるのであれば、OSOTOの編集をお手伝いさせてもらいたいと思う。

山崎

2005年7月2日土曜日

「どこでも同じやり方で。」

土木、建築、造園、都市計画の諸分野におけるコラボレーションを考える研究会「コラボ研」に出席する。

前回のコラボ研で訪れた「友ヶ島」という島について、仮説のプロジェクトを提案した。インターネット上で友ヶ島に関する噂を流しまくるというプロジェクトである。害の無い噂であればなんでもいいから、関係者やその友人を通じて噂をばら撒く。「友ヶ島って一体どんな島なんだろう」と気になるくらい多様な噂がサイバー空間を漂えば、それらを見た人のうち何人かは実際に友ヶ島を訪れてみたいと思うのではないか。

実際に友ヶ島へ訪れれば、国防遺跡が有する強烈な印象に圧倒されることになるだろう。それだけの力を友ヶ島は持っている、と思う。「友ヶ島は面白い場所だ」といくら声高に叫んでも、実際に友ヶ島へ訪れてくれる人は限られている。その方法で人が集まるのであれば、既に観光地として繁盛しているはずだろう。新たな来訪者を呼び寄せたいのであれば、これまでとは違う方法が求められるはずである。

インターネット上で噂をばら撒くという方法について、コラボ研メンバーから「友ヶ島じゃ無くてもできる方法ではないか。日本全国、どこでも同じ手法でいいのか」という指摘があった。重要な指摘である。でも僕は、日本全国どこでも同じ手法でいいと思っている。

インターナショナルスタイルからの反省か、近代主義への罪悪感か、あるいは新地域主義の誤読なのか、最近では過度に地域主義が叫ばれることが多い。「その場所らしさを表現しなくちゃ」という強迫観念が漂っている。

しかし、僕は「その場所らしさを表現すること」自体が捏造だと感じている。「その場所らしさ」なんて幻想である。《正義》や《市場経済》と同じように、「あればいいな」とみんなが思っている幻想である。幻想の「その場所らしさ」をわざとらしく抽出して見せて、「だからこんなカタチです」とか「この場所にはこの方法が合います」なんて言うのは怪しい人間のやることである。その怪しさには下心がある。「だから僕に仕事をください」という下心である。

「場所性」は誰かが創り上げるものではない。出来上がってしまうものだし、日々変化するものである。日本全国、どこにでも同じ噂をばら撒くがいい。定着する噂と定着しない噂があるだろう。どんな噂が定着するのかによって、その場所の「場所性」が顕在化するのである。僕らが「この場所には、この噂がふさわしいのだ」なんて判断すること自体、おこがましいことなのである。

「日本全国、どこでも同じ方法です」という言い方に罪悪感を感じる必要は無い。コルビュジエは世界中のどこにでも建てられる住宅や美術館を提案した。あれはカタチが限定されている。「このカタチで建てなさい」ということになるから問題なのである。噂は違う。世界中に噂をばら撒いたって、地域によって定着するものと定着しないものがあるだろう。そこに働く力学こそが地域性なのである。

単純に言おう。日本語でばら撒いた噂は、アフガニスタンに定着するはずがないのである。その地域にそぐわない言語、内容、ニュアンス、表現を持つ噂は、決してその地域に定着しない。逆に言えば、世界中に同じ噂をばら撒くことによって、地域性を顕在化させることができるのである。

「どこでも同じやり方」をうまく利用すれば、地域ごとの特色を浮き彫りにすることができるはずである。

山崎

2005年6月29日水曜日

「子どもは勝手に育つ」

兵庫県立人と自然の博物館が変わろうとしている。改革のための委員会が実施されるというので、そのお手伝いをさせてもらうことにした。

委員会には、著述家の三浦朱門さん、総合地球環境学研究所の日高敏隆さんをはじめ、人と自然の博物館の岩槻先生、神戸大学の野上先生、大阪大学の鳴海先生、武庫川女子大学の角野先生、兵庫県立大学の岡田先生など、いずれも興味深い話をされる先生方が出席していた。

なかでも興味深い話をしたのが日高さん。子どもの教育という話になったとき、「子どもは本来自分で育つものである、という認識に立たなければならない。」と言われた。その通りだと思う。「先生方のなかには、教育しなければ子どもは育たないと考えている人が非常に多い。そういう考え方では、あるところで成長が止まってしまう。子どもたちは自分たちで育つものだということを基本にして、それをどう支えるのかが教育の考えるべきことだろう。」という日高さんの発言は、ユニセフパークプロジェクトが目指すところと一致している。

ところが、子どもが勝手に育つのであれば教育や学校が必要なくなってしまう。だから日高さんは「あまりそういう発言をしないで欲しい」と教育委員会に怒られたことがあるそうだ。もちろん、かなり昔の話だろうけど。

山崎

2005年6月25日土曜日

「非過防備都市」

夕方から、コーディネーターとしてarchiforumに出席する。ゲストは五十嵐太郎さん。テーマは「過防備都市」。

いつごろからだろうか、熱中症という病気が声高に語られるようになった。僕が小学生のころ、日射病に注意するという話はあっても、熱中症に注意するという話はなかった。熱中症とは、暑いところで長く活動することによって体力が奪われてしまうことである。クーラーの効いた部屋で生活する子どもが多くなったために、最近では多くの子どもが熱中症にかかるようになっているという。快適な室内と過酷な屋外。このギャップが熱中症を引き起こす原因なのである。

どうすればいいか。公園にも道路にも駐車場にも運動場にも、都市のすべての場所に屋根をかけてクーラーを設置すればいい。いや、最近では中山間地域でも熱中症が問題になりつつあるのだから、里山にも畦道にも田畑にも屋根とクーラーを設置すべきである。都市のセキュリティに関する議論は、そんなことを主張しているように感じる。

学校の内部を安全にすればするほど、学校の外部おける危険に対応できない子どもを育成することになるだろう。住居の内部を安全にすればするほど、都市における危険に対応できない人たちが生み出されるだろう。ゲーテッドコミュニティで育った子どもは、都市の危険に対応できる大人になるのだろうか。都市の隅々まで防犯カメラを設置し、安全で安心なまちづくりを物理的に進めるべきなのだろうか。

都市の自由な活動を制限し、人々の活動を監視する。物理的な安全を追求すると、僕たちの自由はかなり制限されてしまう。安全か自由かという問いの立て方ではなく、安全で自由であるべきなのが都市なのである。都市の活力を十分に高めることによって、安心で安全な生活を確保することはできないだろうか。

安全だから安心なのではなく、活力が高まって相互に安心して暮らすことができるから安全な街が実現するのである。自由で安全なまちづくりとは、都市で生活する人々の活力に支えられたまちづくりなのだろう。

外部空間の隅々にまでクーラーが効いている都市ではなく、暑さを吹き飛ばすくらいの活力を持った人々が闊歩する都市に住みたい、と僕は思う。


五十嵐太郎さん

山崎

2005年5月28日土曜日

「奇抜なカタチと選択的な利用」

夕方から、コーディネーターとしてarchiforumに出席する。ゲストは遠藤秀平さん。

遠藤さんがつくる建築は奇抜なカタチが特徴的である。そして、奇抜なカタチをユーザーがどう使いこなすかという点がよく考えられている。しかし、そのことはあまり多くの人に知られていない。そのため、カタチの奇抜さだけを問題にされることが多いようだ。今日のディスカッションでも、遠藤さんはカタチの奇抜さについてほとんど触れないように話を進めていた。奇抜なカタチが可能にする利用の多様性について議論しようとしても、慎重にカタチの話を避けて話を進めているように感じられた。

たぶん、遠藤さんはこれまでカタチについてかなり多くの議論を交わしてきたのだろう。あれだけ個性的なカタチである。いろいろな場所で議論のネタになったはずだ。その経験から、不用意な「カタチ議論」からは距離をとる習慣が出来上がっているのだろう。そう考えてしまうほどに、遠藤さんはカタチの話に寄り付かなかったのである。

「わからないことの位置づけをもう一度考えなければならない」と遠藤さんは言う。「ある種の正当性や妥当性、そういうわかりやすさの要求が防衛本能を優先させる状態を生み出している」というのだ。ランドスケープデザインにも同じことが言える。無駄の利をどう説くのか。機能がないことが全体にどう機能するのか。遠藤さんの考え方、そして出来上がる建築のカタチには、無駄や不可解や無機能といった空間的特長が多く見られる。それが大切だと遠藤さんは言うし、僕もそう思うのである。

帯状の連続した空間に、閉鎖した部分と開放した部分があって、利用者が場所を選んで使うことができる建築。遠藤さんの建築は、そんな建築だと思う。つまりそれは選択的に利用できる建築であり、家族構成や利用者層の変化に対応できる建築である。

遠藤さんとのディスカッションで面白かったのは以下の点。

・パブリックスペースを設計する際、個人をどう介入させるかが難しい。

・建築は場所によって変わるが、土木は場所性を消していく。景観法を作っても、土木構造物をつくるシステムが変わらなければ景観は全国一律にならざるを得ない。

・公園を住宅のように作れないか。プライベートな空間構成を有するパブリックスペース。住宅のような居心地で公園を使うこと。30年後、その場所に公園が要らないということになった場合、ガラスをはめ込めば住宅になるような公園。

・逆に、ガラスを取り外せば公園になるような住宅は設計できないか。人口減少時代に対応した住宅のあり方とは。

・扉や窓や階段など、建築のスケールを屋外へ持ち出すことによって、人々が「使いこなす外部空間」を作り出すことはできないだろうか。

・人々の関与のきっかけを与える建築をつくりたい。人々が環境に関与し始めるきっかけとなる空間とはどんなものか。

マゾヒスティックランドスケープとしても、郊外の安楽死プロジェクトとしても、興味深いディスカッションだった。


遠藤秀平さん

山崎

2005年5月24日火曜日

「ワークショップの名称」

夕方から大阪府堺市の南海堺東駅前を対象にしたまちづくりワークショップに出かける。ワークショップに参加するのは、地元の商店街組合、南海電鉄や高島屋、専門店街組合、ヤマハなど、駅前で商売している人たちだ。

堺市にはどうも縁があるらしく、いろんなことに関わらせてもらっている。「Studio:L」というグループで活動していた2000年には毎週のように堺市の旧環濠地区へ通っていたし、その成果としてまとめた本を読んでくれた山之口商店街の人が「一緒に面白いことをやろう」と声をかけてくれている。僕にとって親しみのある街なのである。

そして今回、旧環濠地区の東側に位置する堺東駅前のまちづくりに関わることになった。30名ほどのワークショップ参加者は地元で商売している人が多く、堺東駅前の将来を本気で考えようとしていることが伺える。7回ほどワークショップを担当することになったので、少しずつ参加者と知り合いながら街の面白いネタを探してみたいと思う。

参加者は面白そうな人たちが揃っているものの、1つだけ気がかりなことがある。このワークショップの名称である。

『せや堺、ええ街つくり隊』。

気取って横文字を使うことを是とするわけではないが、ことさら関西を強調する必要も無いんじゃないか、と考え込んでしまう。誰が決めたのかは知る由も無いが、この名称がすでに僕らの与条件となっている。

なるべく楽しい会にしたいと思う。

山崎

2005年5月23日月曜日

「ブリコラージュ」

昼から国立民俗学博物館の「ブリコラージュ・アート・ナウ」展を見に行く。以前見た「ソウルスタイル」展が衝撃的だったので、同じく佐藤浩司さんが企画した今回の展覧会を見に行くことにしたのである。正直に言えば、僕は佐藤さんの企画展を見る以外にみんぱくへ行こうと思ったことがない。佐藤さんの企画展以外に興味を惹かれるみんぱくの企画展に出会ったことがないのである。

ブリコラージュ展も前回のソウルスタイル展と同じく「これはまずいんじゃないだろうか」と思える仕掛けがいっぱいだった。大切な収蔵品が惜しげもなくブリコラージュアートとして利用されている。収蔵品が持つ文脈を無視したかのような取り扱いが、逆にその収蔵品に新しい魅力を与えている。そう感じた。

博物館に勤める人なら誰もが一度はやってみたいと思う企画かもしれない。偉い先生がアフリカの奥地で見つけた仮面に、子どもの体をひっつけてヘヴィメタを演奏させること。アジアの偏狭で見つけてきた像に、吹田市のリサイクルショップで買ってきた釣具と魚のおもちゃを組み合わせて「釣り人」にすること。苦労して収集した先生たちが見たら激怒するような収蔵品の扱いである。

しかし、釣具と組み合わされることによって初めて、僕はその仏像の穏やかな顔をじっくりと眺めたくなったのである。魚が釣り糸にかかるのをじっと待つその表情。背筋を伸ばして座禅しながら釣具を構える無駄のない構え。他の多くの仏像と共に「アジアの仏像」として展示されるよりもずっと親しみが湧く展示だといえよう。

パンフレットには次のように書かれている。「目的に合わせて材料や道具をそろえる近代科学的なアプローチに対して、ブリコラージュはありあわせの素材を利用して何かを成し遂げようとします。カレーライスをつくろうとして材料を買い揃えるのではなく、冷蔵庫のなかのありあわせの材料でつくるお惣菜のようなもの、といえばわかりやすいでしょうか。」

僕らの身の回りにあるものは、ほとんどが単一の目的のための作られたものだ。その目的を一度無視してみると、その他の使い方が思い浮かぶだろう。そんな風に生活を見直してみると、僕らの生き方はずっと楽しいものになる可能性を秘めていることに気づく。

「ビールの缶はビールを容れるためにあるのです。だから、中身のビールがなくなれば、空き缶は用済みになって捨てられてしまいます。ところが、ブリコラージュの仕事人は、空き缶から帽子やカバンや子どもの玩具を作り上げます。私たちは意表をつかれ、そこにビールの缶の可能性と作り手の想像力とを垣間見るのです。」

道路を道路として捉えるのではなく、単に細長い空間が繋がっていると考えてみると、道路空間の用途外利用をたくさん考えることができる。河川や港湾についても同じだ。「こう使うべき」と考えるのではなく「こうも使える」という発想で都市を見るとき、都市はまだまだ楽しめる場所だということに気づく。

道路際に設置された「パーキングメーター」に600円入れることによって、その前面の道路空間で60分間バーベキューをしてみよう。パーキングメーターの利用対象が車両等に限られるのであれば、キャスターを取り付けたボードの上に七輪を置いて焼肉をしてみよう。都市を使いこなす人が増えると、僕らの街はもっとワクワクする場所になると思う。

パンフレットの最後にこんな文章が載っている。「展示の背景にはひとつの社会イメージがあります。それは、社会の理想にあわせて個人が無理をしなければならなかったり、リストラをしたりするのではなく、生きる目的を持った個人の、あるがままの個性の集合を前提にした社会。つまり、ブリコラージュな社会への夢です。」

山崎

2005年5月21日土曜日

「学習の循環」

朝から神戸市北区の藍那にある国営明石海峡公園神戸地区(予定地)へ出かける。ユニセフパークプロジェクトのファシリテーター研修キャンプに参加するためだ。

久しぶりに電車で藍那へ向かう。神戸電鉄に乗り換えるあたりから、バックパックを背負った学生さんを見かけるようになる。明らかにユニセフパークプロジェクトのファシリテーターキャンプに参加する人たちだ。藍那駅で電車から降りると、多くの学生さんも一緒に下車する。彼らと一緒にバックパックを背負って改札を出る。

駅の改札からキャンプの現場までは30分ほどの道のりだ。参加者たちは、初対面にもかかわらずすぐに仲良くなる。歩きながらいろんな話をしているのが聞こえる。「UPPに関わるようになって長いんですか?」と僕も聞かれる。微妙な質問だが「ええ。6年ほどになります。」と答える。プロジェクトを企画した頃から数えれば今年で6年。早いものだ。

ファシリテーター研修キャンプは、既存のファシリテーターたちが自ら企画し、参加者を募集し、準備し、プログラムを実施する。したがって、僕がやらなければならないことはほとんどない。お客さんのように、ただキャンプへ参加していればいいだけなのである。

ファシリテーター研修キャンプは1泊2日。ユニセフの活動について、里山の仕組みについて、遊び場づくりについて、戦争について、水について、食料について、健康についてなど、それぞれアクティビティプログラムを通じて学ぶ。また、プログラムの間に食事の用意やテントの設営などを行い、グループ内部の結束力を高める。このとき、既存のファシリテーターと新規参加者がどれだけ仲良くなれるかが重要だ。キャンプが成功すると、多くの新規ファシリテーターがユニセフパークプロジェクトに登録する。その定着率の高さは、キャンプの完成度に左右される。キャンプの完成度は、そのキャンプを企画・準備・運営した既存のファシリテーターたちのがんばりに左右される。

レベルの高いキャンプを経験して入ってくる新規ファシリテーターは、次のファシリテーター研修キャンプをさらにレベルの高いものへと昇華させてくれる。「サステイナブル・エデュケーション」とでも呼ぶべき「学習の循環」が発生すると、プロジェクトにおける人材育成はどんどんレベルが上がる。

今回のファシリテーターキャンプの結果、どれだけの人がUPPに定着するだろうか。既存のファシリテーターたちがキャンプの準備に追われているのを眺めながら、僕はどの参加者がUPPのファシリテーターとしてプロジェクトに定着しそうかを観察していた。


グループに分かれてUPPについて学ぶ

新しいUPPのメンバーたち

山崎

2005年5月20日金曜日

「安心だから安全」

夕方から「安全・安心のまちづくり」に関する研究会に出席する。今回のゲストスピーカーは、北海道大学の棟居快行教授。

憲法学者である棟居さんの話で面白かったのは以下の点。

前回のゲストスピーカーである水田さんは「安全だから安心なのである」といわれた。この自明な答えを若干かき混ぜてみたい。

・経済的自由の規制目的としての「安全」=例えばBSEの牛肉を自由に輸入させないことは、国民や消費者の安全を守るための究極的な規制である。

・経済的自由に関する憲法の言及は2箇所ある。22条1項は営業の自由(フローの自由)。29条2項は財産権の自由(ストックの自由)。フローとストックの双方に自由が認められてこそ経済の自由が担保されていることになる。この両者に「公共の福祉」という言葉が見られる。

・日本国憲法が認めている経済的自由は、公共の福祉による広範な制約に服する。

・安全確保という観点からの経済活動の規制は「消極規制」であり、それは必要最小限の手段でなければならない。経済に対する国の介入は最小限であるべきである(判例・通説)。

・国民に代わって国が安全を確保するのは正しいことなのか。危険な食材を国が輸入規制したり抜き打ち検査したりし続けるのが正しいことなのか。逆に、十分な情報開示の元に個人の自己決定で安全を確保することもできるのではないか。例えば、80歳のおばあさんが輸入牛肉を使った牛丼を食べたいとする。10年後に発病するかもしれないというBSEというのは、本人にとって問題ではないかもしれないだろう。

・子どもも大人も高齢者も、すべて行政が一律に安全を確保するのではなく、十分な情報開示を前提にして「安全」すらも自己決定で選んで生きるという方法もあるのではないか。「安全」に関する選択の自由を我々は奪うべきではないだろう。

・「安全か自由か」という問い自体があまりいい問いではない。

・経済的自由が乱用されると個人の安全とか健康が害される。そうなると、必要最低限の安全確保が求められる。そのとき国家は情報を十分に公開して、個人の自己責任によってそれを判断する必要がある。

・物理的な「安全」というものが本当に可能なのか。それを無理やり実現させてしまうと、都市の潤いや自由というものが水に流れてしまうのではないか。「過密性」「匿名性」という都市のリスクを少しひねって考えれば、「人間の稠密度が高い」とか、「コミュニケーションが活発である」とか、匿名性を活かした都市固有の「安心」に気づくのではないだろうか。アドホックな関係に基づくジャズのセッションのように、通勤電車の中でたまたま居合わせたの人たち同士の連携に見られるような安心というものがあるのではないか。

・安全・安心とは何か。まちづくりとは何か。安全と安心の両者の関係について、私は「安全だから安心なのである」という立場をとらない。完全な安全というのは、逆に人間を孤立させてしまい、活力を削いでしまうことになる。むしろ、「活力」が「安心」につながるのではないか。あるいは、安心だから安全であるという方向もあるのではないか。

・ユートピアの幻想を追い求めて、庭付き一戸建ての家を買ってあらゆるリスクから逃れようとしたのがこれまでの風潮だった。しかし、それで本当の安心を得ることができたのだろうか。三田の山奥で息子はどこで何をやっているのだろうか、と心配するよりも、三宮で賃貸マンションに住んで、どうせ息子は近所にいるだろうと思うほうがよっぽど安心なのではないか。郊外に住宅を持って都心まで通勤して、息子や娘は遠い学校へ通学する。手を広げすぎて熟睡できない生活をしているのが郊外住宅地の生活なのであり、そこにあるのは「不安」である。郊外住宅地に感じていた安心な生活は幻想の中にしか無くて、実際は三宮に住むほうがよっぽど安心だということになる。都心回帰現象は、今後必ず神戸でも起きるだろう。都心で精神的に豊かな生活をするというのが「安心」そのものなのである。

・これまでハードを担っていた行政が、ソフトを分かりやすく提供することを仕事にするべきなのではないだろうか。ただし、そこで危惧していることがひとつある。「安全」が新しい公共事業化してしまうのではないか、ということ。形骸化した安全を行政が押し付けるだけになってしまうと、そこでの安全は「安心」と何の関係もない安全になってしまい、結局それは安全でもなんでもないことになってしまうだろう。

山崎

2005年5月19日木曜日

「仕事を関係付ける」

午後からタケオペーパーショーを見に行く。毎年恒例の「紙の展覧会」である。アーティストやデザイナーが、紙をテーマにした作品を作り出す。今年のデザイナーのなかには、建築家の塚本由晴さんの名前があった。

塚本さんの作品は、今回のテーマカラーであるオレンジの紙でアーチを折るというもの。その大きさが尋常じゃない。直径10mほどあるような紙のアーチなのである。幅は1m程度。このアーチを何個も作ってつなげると、半円柱形のシェルターができる。紙の防水性を高めれば、折り紙による建築が作れるかもしれない。そんな提案だった。

このアーチ、実は別のワークショップで集まった学生たちと作ったものだという。神戸のアートセンターが主催したワークショップで講師を務めた塚本さんは、タケオペーパーショーのための折り紙アーチをみんなで作ってみたそうだ。アートセンターのワークショップをペーパーショーに出品する作品づくりに活かす。これはうまい連携である。何かの講師を頼まれたとき、別の案件のための作業を効果的に実施する。そういうことができれば、極端な話、頼まれた仕事の半分の仕事量ですべての依頼に応じることができる。

「忙しい、忙しい」とつぶやく前に、塚本さんのような「仕事の連鎖」を考え出すべきだ、と自省の念に駆られた1日だった。

山崎

2005年5月10日火曜日

「五蘊無我」

夕方から21世紀文明研究委員会に出席する。ゲストスピーカーは兵庫県立大学の岡田先生。岡田先生の専門は環境哲学。今日は特に「日本的哲学」の話をしてもらった。

仏教には「五蘊無我」という言葉があるそうだ。五蘊とは、すべての物体を構成している最小単位。今風に言えば原子のようなものだろう。この世に存在するものは、すべて原子から成り立っている。したがって、人間も死ねば原子がばらばらになって、それらの一部はいずれほかの生命体を形作ることになる。つまり、五蘊(原子)は環境世界に存在するすべてのものが共有している「要素」であると考えられる。

そう考えると、原子の集合体である生命体や物体に、固定的で普遍的な「我」というものはないということも理解しやすくなる。そのことを「無我」と呼ぶ。五蘊無我という言葉は、「原子の集合体にはそもそも絶対的な我など無いのだ」ということを意味しているのだろう。

中学生のころ、すべての物体が原子から構成されているということを知った。空気さえも原子が集まってできているのだということに驚いた。そして思った。どんな存在だっていずれは原子に戻ってしまう運命なのだ。だとすると「本当に大切なもの」なんて実はどこにも無いんじゃないか。。。

しかし、中学生にとって「本当に大切なものなんて何も無い」というのは夢が無さすぎる結論だし、少々息苦しいことでもあった。だから、自分なりに大切なもの(つまり原子に還元されないもの)を探してみた。そのとき思いついたのが、詩や音楽といった無形文化財的なもの。物質として残るのではなく、語り継がれることによって残るもの。そんなものが、本当はすごく大切なんじゃないかと思った。

有形になると原子に還元されてしまう。だから、無形で語り継がれるものにあこがれた。書面に残せないもの。絵や図面に表現できないもの。原子が主な構成単位ではないもの。そういうものこそ、原子の集合体である「人間」が生み出したものとして、胸を張って主張できる成果物なのではないか。そんなことを、原子の集合体である脳を使って考えたことがある。

そのころの僕の脳と今の僕の脳は、ほとんどすべての細胞が入れ替わってしまっているがゆえにまったく別物だともいえるだろう。今の僕の脳を構成している原子は、中学生のころの僕の脳を構成していた原子とまったく違うはずだ。それでも、僕が当時考えたことは今でも思い出せる。これはすごいことである。

もちろん、脳という原子の集合体があるからこそ記憶が保存されるのだが、僕は「原子の集合体」よりも「原子の集合体が生み出して語り継いできたもの」のほうに魅力を感じてしまう。

改めて考え直してみると、この関係は建築やランドスケープにおけるハードとソフトの関係に似ているような気がする。空間のカタチとナカミとシクミについて、一度「日本的生命観」という視点から捉えなおしてみたいと思う。

山崎

2005年5月7日土曜日

「負の遺産」

クルマで愛知万博長久手会場の前を通る。

万博のための道路、万博のための駐車場、万博のための鉄道、万博のためのバス。行政はいずれも「万博のためだけではありません」と説明しているそうだが、どう考えてもあれだけの道路や駐車場や鉄道やバスを必要とするような郊外住宅地が万博会場付近にできるとは思えない。いや、物理的に無理やり作り上げたとしても、あの場所に住みたいと思う人がそれほど多いとは思えない。

すでに長久手町の古いニュータウンでは人口減少が顕著になりつつある。空き地や空き家も徐々に目立っている。20年ほど前、愛知万博の会場近くに開発された「長久手ニュータウン」には今も売れ残っている空き地が続いている。その一方で、同じニュータウン内に転居して空き家になった家も点在している。買い手を待つ土地と住み手に捨てられた家が共存する古いニュータウン。


空き地が続く「長久手ニュータウン」

すでに空き家と化している住宅

そんな長久手町に、巨額の税金を投入した新しい郊外住宅地を開発して、道路や駐車場や鉄道やバスの定常的な利用者が確保できると信じ込むのはあまりに楽天的過ぎる。

新たに作られた「名古屋瀬戸道路(900億円)」や「東部丘陵線リニモ(1100億円)」を眺めながら、成長時代の思考が未来の社会に負の遺産を残してしまったことを実感した。同時に、少しでも早く「人口減少時代の計画論」を構築するべきだという気持ちになった。


低速リニアモーターカーの「リニモ」

鉄道のチケット売り場は10ブース用意されているが客は見当たらない。

山崎

2005年5月3日火曜日

「虚飾の愛知万博」

週末に愛知万博のそばを通ることになったので、前田栄作さんの「虚飾の愛知万博」を読む。

前田さんは、愛知万博を「土建国家の最後の祭典」と位置づけている。今後、こんなに無駄なお金を使うお祭りは行われないだろうというのだ。実際、前田さんが調べた「万博に関わる無駄なお金」を見ると確かにバカらしくなる。社会に祭りが必要だとしても、国民に国家的祭典が必要だとは思えない。特に今回の愛知万博のように、経済と環境の双方に負荷をかけるお祭りなんて必要ないのではないかと思ってしまう。経済と環境という2つの「エコ」に対して、愛知万博はいずれも取り返しのつかないほどの赤字と破壊を与えてしまうようだ。そのことが決まってしまった以上、それらの負債を無駄にするのではなく、それがどれほどのものかをしっかりと体験しておく必要があるだろう。無意味な万博だとしても、そこから意味を見出すのは自分次第なのである。

万博の入場者数は、予想通り芳しくないそうだ。さんざんお金をつぎ込んだ万博だったが、予想の半数にも満たない来場者数なのだという。この万博で生じる借金は、当然ながら僕たちの税金で補填されることになる。

それで済めば傷は浅いのだが、万博協会は入場者数を増やすために更なる借金を作ろうとしているようだ。見かけ上の入場者数を増やすため、愛知県内の小中学生を入場無料にするというのである。無料といっても、学校から児童や生徒の入場料を徴収するという仕組みであり、つまるところこれは文部科学省、教育委員会から学校に流れる税金の一部である。

今後も万博協会は入場者数を増やすためにいろいろな工作を目論むだろう。そのたびに税金が使われることになる。そう考えると、万博に何らかの意味を見出して、少なくとも自分にとっては無駄な万博にならないような努力をすべきだと思う。

ちなみに、1989年に名古屋市で「世界デザイン博覧会」という博覧会が開催された。デザイン業界ではわりと有名な博覧会である。僕はデザイン関係の本でこの博覧会のことを知ったのだが、有名なデザイナーが多く関わって盛大に開催された博覧会だったようだ。当時、僕がデザインに興味を持っていれば確実の足を運んだだろうと思える博覧会だ。ところが前田さんの本によると、この博覧会も8億円の赤字だったという。「デザイン」をテーマにしたところで、市民は会場に足を運ばなかったということなのだろう。結局、有名なデザイナーが自分のデザインを実現させるために多くのお金を使っただけだった。困った事務局は、博覧会で使った備品や舞台やパビリオンを中古物品として名古屋市に売りつけたそうだ。その額10億円。その結果、デザイン博の終始は2億円の黒字に転換。デザイナーの欲望の捌け口が、中古物品となって粉飾決算のネタになってしまった。この件については、当然オンブズマンに指摘されて、現在も裁判が続いているという。

デザイナーというのは、「万博的なるモノ」に加担してしまう危険性を内在している職業だ。そんな僕たちが愛知万博に無批判的であるのはあまりにのんきすぎるといえよう。

山崎

2005年4月29日金曜日

「友ヶ島」

コラボ研のフィールドワークで和歌山県の友ヶ島へ行く。

友ヶ島は戦争遺産(国防遺産)で有名な島。日清戦争の頃から船や潜水艦を狙って攻撃できるような設備が整備され始め、第2次世界大戦頃にすべてが完成したという。ところが、アメリカ軍は船じゃなくて飛行機でやってきたため、結局友ヶ島の砲台は使われること無く終戦を迎えたそうだ。

そんな少し間抜けな歴史が、戦争遺産を純粋に土木構造物の廃墟としてみることに役立っている。この島の廃墟を見ると、石の廃墟、レンガの廃墟、鉄の廃墟、コンクリートの廃墟、木の廃墟がそれぞれどんなものかを体感することができる。やはり、一番美しいのは「石の廃墟」であり、もっとも醜い(あるいは跡形も無い)のが「木の廃墟」であろう。

ただし、木造の廃墟は天井が落ちて日光や雨が室内に入り込むため、すぐに樹木が廃墟を覆い始める。つまり、木造の廃墟はその醜さを露呈する期間が短くて済むのである。そう考えると、もっとも問題なのはコンクリートの廃墟だといえるかもしれない。消えうせないくせに美しくない廃墟。

鉄筋コンクリート造が多い日本の郊外住宅地は、果たして美しい廃墟になれるのだろうか。友ヶ島を見ながら50年後の郊外住宅地について夢想してみた。


石の廃墟

レンガの廃墟

鉄の廃墟

コンクリートの廃墟

木造の廃墟(屋根が落ちて室内に樹木が生えている)

山崎

2005年4月27日水曜日

「素材に触発されるデザイン」

机の上の1本の棒が置いてある。紡績工場で使われていたという古びた棒だ。なんとなく愛嬌のあるカタチなので、机の上のペン立てに挿してある。



この棒を僕にくれたのは「refs」を主宰する太田順孝さん。偶然、紡績工場に眠っていた使い古しの糸巻軸に出会った太田さんは、そのカタチや手触りに魅せられたそうだ。そしてすぐにその棒を大量に貰い受けて家具をデザインし始めたという。

家具といってもシンプルなものである。太田さんが施したデザインのオペレーションは、合板に無数の穴を空けること。その穴に件の棒をランダムに差し込む。棒の配置によっていろいろ活用できる家具ができあがる。




太田さんがデザインした家具

使わなくなった紡績の糸巻棒を素材として活用すること。合板に穴を空けただけのデザインに留めること。このシンプルな操作によって生まれた家具は実に好感が持てる仕上がりとなっている。もちろん、この家具は使う人が自由に棒の位置を組み替えることができる。

この家具の場合、紡績工場で糸巻棒を見つけ、それを家具に活用しようと思った時点でデザインの70%は完成しているといえよう。いかに魅力的な素材に出会うか。そしてその素材を活かす方法を思いつくか。僕はそんな単純なデザインプロセスに魅力を感じる。

ふと世界を見渡してみると、そんなデザインプロセスを展開しているデザイナーが台頭しつつあることが分かる。例えばオランダのピート・ヘイン・イーク。彼が手がけるスクラップウッド家具は、最近日本でも注目され始めている。彼は、建築の解体現場や粗大ゴミ置き場で拾ってきたスクラップウッドを切り刻んで、それらを再構成することによって家具を作り上げる。



ピート・ヘイン・イークの家具

スペインのリリアナ・アンドラデとマルセラ・マンリケの2人は、バルセロナ市の街頭に設置されるバナー広告を活用してバッグや帽子をデザインしている。バルセロナのバナー広告は一流のデザイナーが手がけることで有名だ。しかし、それらバナーは広告期間を過ぎると廃棄されてしまう。そこで、リリアナとマルセラは廃棄されたバナーをバルセロナ市から貰い受けてバッグを製作し始めたという。




リリアナ+マルセラのバッグ

デザイナーの中には、いかに素晴らしい素材を別注で作ってもらったかを自慢げに語る人がいる。どれだけ素材にこだわったか、どれだけ思い通りのデザインになったか、どんな珍しい素材を開発したか、などを強調する人がいる。そうしたメンタリティも悪くは無いが、僕らが生活する街にはまだまだいろんな素材が溢れかえっている。廃棄されたり放置されたりしている。そんな素材に出会い、触発され、少し手を加えてデザインするという方法もあるのではないだろうか。

素材に触発されるデザイン。特にエコを意識しているわけではない。そんな太田さんやピート・ヘイン・イークやリリアナ+マルセラのデザインに僕は共感を覚える。

山崎

2005年4月24日日曜日

「金棒を使いこなす」

昨日オープンした「あそびの王国」で撮った写真を眺めていて気づいたことがある。子どもが金棒のパンフレットを活用していることだ。思惑どおりである。

オープニングイベントで配布する資料が入った封筒から飛び出す金棒のパンフレット。細長すぎて封筒に収まりきらないカタチである。子どもはすぐにそのパンフレットを抜き取る。





パンフレットを手にした子どもは、まず内容を読もうとする。年長の子どもは内容を把握することができるようだ。年少の子どもは保護者に内容を読んでもらっている。









一通り内容を読んだ子どもたちは、金棒パンフレットで友達や保護者を攻撃し始める。読む前から攻撃を仕掛ける子どももいる。背後からの攻撃。正面からの攻撃。攻撃された子どもは、自分の金棒パンフレットで反撃する。









金棒のパンフレットを持って走り回る子どもたち。面白い風景が出現したと思う。

イベントが終わった後で聞いた話だが、兵庫県知事も金棒のパンフレットをかなり気に入っていたという。嬉しい話だ。



山崎

2005年4月23日土曜日

「多様な利用」

午前10時から「あそびの王国」のオープニングイベントに出席する。

5年前に子ども150人を集めて行ったワークショップに始まり、基本計画、基本設計、実施設計を経て2年の工事期間の後に完成した遊び場である。工事期間中の2年間は、この遊び場で活躍するプレイリーダーグループ「ガキクラ」を育成・組織化した。ガキクラの主要メンバーが確定した去年からは、兵庫県とガキクラが共催で実施するオープニングイベントのプログラムについて検討した。さらに、公園内のサイン計画や「あそびの王国ものがたり」という紙芝居の作成、そしてパンフレットのデザイン等を担当した。いろいろな側面から関わることのできた公園である。

オープニングイベントには、ガキクラのメンバーや5年前のワークショップに参加してくれた子どもたち、ガキクラのイベントに参加してくれた子どもたち、地元三田の中学生(吹奏楽部)、有馬富士公園の協議会委員、兵庫県知事や三田市長や地元の議員などが参加した。

通常の開園式なら、知事や市長の挨拶、地元議員の祝辞などが長々と続く。僕も何度かそんな「形式的な開園式」を運営したことがある。運営している僕自身が面白くないと思ってしまう開園式の形式である。今回は子どもの遊び場がオープンするということで、いろいろな批判があったものの市長や議員の挨拶は省略した。代わりに、子どもたちやガキクラメンバーと兵庫県知事との対話からオープニングイベントを始めた。

イベントの演奏は地元三田市の藍中学校の吹奏楽部が担当してくれた。全日本マーチングフェスティバルで日本一になった吹奏楽部だけあって、その音はかなり良質だった。「あそびの王国」の入口付近に、屋外用の楽器を配した「カミナリの砦」という場所がある。その砦内で藍中学校の吹奏楽部に演奏してもらった。周囲の壁が音を反響することによって、思ったとおりの音響効果が得られた。

午前中のイベントは、ガキクラが子どもたちと遊ぶ姿を関係者に見てもらう(たまに体験してもらう)というものだった。あらかじめ準備した遊びを展開するガキクラは、2年前に比べてかなりアクティビティマネジメントの力を上げていた。開園後は、月1回「あそびの王国」で活動するという。十分にその力を持っているといえるだろう。


藍中学校の吹奏楽部

オープニングイベントの全体写真

午後からは一般の来園者に向けた開園。想像していた以上の人が押し寄せた。一面に広げられたレジャーシートと錯綜する動線。走り回る子どもたち。少しおかしな光景だった。


遊び場にしては人が多すぎる。

「カミナリの砦」内部も人が多すぎる。

午後1時から「OPUS PRESS」というフリーペーパーのインタビューに応じる。僕の活動を紹介するだけでなく、OPUSの活動についていろいろ聞いてみた。今まで知らなかったのだが、このOPUSという組織はかなり面白いことをやっていることがわかった。特に、僕が関わっているユニセフパークプロジェクト(UPP)に近いコンセプトを持っているということがわかった。組織運営という点で、UPPがOPUSに学ぶところは多いはずだ。さらに詳しくOPUSを研究してみたいと思う。

OPUSのインタビューを終えて大阪へ戻り、午後5時からINAX大阪で行われるアーキフォーラムにコーディネーターとして出席する。ゲストは長坂大さん。

長坂さんのプレゼンテーションは、ネパールのカトマンズで撮った写真から始まった。スラムの広場で活き活きと遊ぶ子どもたちの写真。舗装は部分的に剥がれ、壁が崩れ落ちている個所もある。それでも子どもたちは楽しそうに遊んでいる。完成された遊び場と壊れかけた遊び場。子どもたちにとってどちらがワクワクするのだろうか。完成した「あそびの王国」のオープニングを終えて会場に駆けつけた僕を考え込ませるのに十分な写真だった(写真の精度もかなり高かった)。

壊れかけた遊び場で何ができるかを読み取りながら、子どもたちは活き活きと遊ぶ。実は大人も同じなのかもしれない。「至れり尽くせり」の空間を使わされる生活よりも、空間を読み取って自分で使い方を決める生活のほうが魅力的ではないか。だとすれば、多様な読み取りが可能になる住居はどうあるべきか。長坂さんは、自身の作品でそういうことに取り組んでいるという。

授産施設の腰壁が多様に使われたり、階段の手すりに洗濯物が干されたりする。設計者が意図したことであれ意図しなかったことであれ、使い手が空間を読み取ってその場所を使いこなしている風景はほほえましい。長坂さんがデザインする空間には、そうした風景が多く登場する。しかし、本人は使われ方の多様度をデザインしようとは思っていないようだ。自分自身が持つ美学に基づいて「美しい」と思えるカタチを作り出すことが、それを読み取る人に多様な利用方法を想起させる。長坂さんはそう考えていると言う。

「多様な利用を生み出すためのデザイン」というのは、きっと多様な利用を生み出さないだろう。一方、「利用方法を明示しすぎるデザイン」というのも多様な利用には繋がらない。強いキャラクターを持つ空間ではあるものの、それが利用を規定するような種類ではない場合に限って多様な利用が発生する。どうやって使うのか分からないけれど美しいと思える空間や面白いと思える空間。そんな空間に多様な利用が発生するのだろう。

これは機能主義批判ではない。多様な利用が発生する空間が機能するためには、その周囲には機能的な空間が配されている必要がある。トイレや風呂や寝室が確保されているからこそ、リビングルームの多様度が担保されるのである。住宅や商業や学校が整備されているからこそ、公園や広場に多様な利用が発生するのである。

長坂さんは言う。建築というのは、人間のための空間を作りつくす職能である。柱、梁、屋根、窓、扉、サッシや空調設備。建築家は、人間が快適に暮らすことのできる空間を細かく設計する。これさえできれば、庭や公園や道路や河川といった人間のための空間も設計できるだろう。だから、土木でもランドスケープでもなく、まずは建築の設計をやりたいと思ったのだ、と長坂さんは言う。実際、建築家として公園の設計を提案している。

長坂さんが提案した水戸市の公園は、細長い堀跡を「緑のダム」と呼ばれるマウンドでいくつかの空間に区切って、各空間に屋外彫刻を置くという「屋外彫刻美術館」である。なぜ公園を「公園」としてそのまま提案できなかったのか、と尋ねてみた。長坂さんの回答は「コンペの審査員に美術関係者が多かったから」というものだった。それももちろん理由のひとつだろう。しかしそれだけではないだろう。建築家として、プログラムの見えない空間をデザインすることができなかったというのも理由のひとつなのではないだろうか。

堀跡の細長い空間を「緑のダム」で区切っただけの空間。各空間の植生や地形を少しずつ変化させるだけで、建築家はその場所を「デザインした」と言い切れるだろうか。ランドスケープデザイナーはそれをやる。そこがどう使われるのかは規定しない。屋外彫刻も置かない。細長い空間の周辺には機能が確定した都市が広がっている。その「機能空間」が細長い「無機能空間」を機能させてくれるポテンシャルを持っている。そう考えれば、細長い堀跡に最低限の操作を加えるだけで十分だと考えられるだろう。

建築家は人間のための空間を作りこむ職能である。このことに異論は無い。しかし、だからこそ「至れり尽くせり」の空間を作ってしまう危険性を孕んでいる職能なのである。住宅の細部では「至れり尽くせり」を解消することができたとしても、都市的スケールで敷地を俯瞰しながら「敷地全体を無機能にする」という決断ができるかどうか。住宅のリビングルームに多様な利用を生み出すことのできる長坂さんが、公園の利用に屋外彫刻の鑑賞しか想起できなかったことは、その典型だと言えよう。ここに、「建築がデザインできれば公園もデザインできる」という考え方に潜む落とし穴が見え隠れしているのである。


長坂大さん

山崎

2005年4月22日金曜日

「風景の価値」

夕方から「けんちくの手帖」にコーディネーターとして出席する。ゲストはテクノスケープを研究する岡田昌彰さん。

岡田さんは、なぜ自分がテクノスケープに興味を持つようになったのか、テクノスケープとはどういうものなのか、工業風景や東京タワーに対する市民の評価がどう変遷したのか、などについて分かりやすく説明してくれた。

続くディスカッションでは、工場の風景に価値を見出したとして、それをどう保存・活用するのかについて話し合った。アメリカのシアトル市にある「ガスワークス・パーク」は、当初工場敷地を市に寄贈したエドワード氏の名前を取って「エドワードパーク」という名前にしようとしていた。しかし、工場をそのまま残した公園にするという計画案を嫌ったエドワード氏の家族が「エドワードパーク」という名前を使わないで欲しいと申し出たことから「ガスワークス・パーク」という名前になったという。

工場風景は必ずしもポジティブに評価されるばかりではないため、その価値をどのように人々へ伝え、理解してもらい、ファンになってもらうかが重要である。「ガスワークス・パーク」を計画・設計するにあたって、ワシントン大学のリチャード・ハーグ氏は工場の価値を説くシンポジウムを何度も開催したという。僕らが工場を公園として活用するときも、同じような価値の啓発が必要になるだろう。

その他、「工場を公園として利用する際の安全面について」「郊外の住宅地の風景が今後価値を持ちうるか」「工場や住宅を壊していくプロセス自体を公園のプログラムとして活用できないか」などといった議論がなされた。

来場者は60人。狭いカフェには多すぎるほどの人数である。岡田さんの人柄が多数の来場者を惹きつけたのは間違いないが、テクノスケープという言葉が「気になる言葉」になりつつあるのもまた確かなようだ。

工場はすでに懐かしい対象になりつつある。今後、郊外の何気ない集合住宅が多くの郊外居住経験者の原風景としてノスタルジーを呼び起こす対象となるのかどうか。人口減少社会の郊外住宅地に興味を持つ僕としては、公団スタイルの住宅の景観的価値をどう取り扱うか(そもそもそこに価値を見出せるか)が気になっている。




郊外住宅地の風景




僕は懐かしい風景だと思うのだが、これは果たして僕ら世代に一般的な感覚なのだろうか。

山崎

2005年4月21日木曜日

「須磨がアツイ」

午前中は国営明石海峡公園事務所との打合せ。ユニセフパークの基本計画図面を提出した。子どもたちが里山に入って遊び場づくりを展開するための計画図はどうあるべきか。そんなことを議論した。基本的には「引き算」に徹するべきだろう。今あるものを撤去する際に、その密度を調整することによって子どもたちが介入できる空間を作り出す。子どもたちは、密度の違う森の中で自分たちが関われそうな場所を発見する。そんな空間を活動の下地として創出したいと思う。

午後から須磨区役所で打合せ。熱意のある行政マン2人と議論することができ、非常に有意義な時間を過ごすことができた。1人はまちづくりの専門家で、もう1人は土木の専門家である。まちづくりと土木とランドスケープがコラボして、郊外住宅地の将来について考える。とてもワクワクするプロジェクトが始まった。このプロジェクトにサバケンとユニセフパークプロジェクトがリンクすれば、ちょっとしたムーブメントを作り出すことができるのではないか、と考えている。

須磨区役所からの帰り、坂茂さんが設計した紙の教会「鷹取コミュニティセンター」を見に行く。近く解体されることが決まっている坂さんの名作だ。解体後は、当初のコンセプトどおり別の場所へ運ばれて、再度組み立てられる予定だという。実は1年ほど前、この教会をユニセフパークプロジェクトの事務局として使わないかという打診があった。紙の教会をユニセフパーク内へ移築して、UPPの事務局として活用する。これはなかなかワクワクすることだった。実際にはいろいろな制約があって実現しなかったのだが、紙の教会というのはその意味で少し思い入れのある建物なのである。移築先でも大切に使って欲しいと思う。








紙の建築「鷹取コミュニティーセンター」

山崎

2005年4月19日火曜日

「パンフレット」

夕方から兵庫県庁の公園緑地課へ打合せに行く。打合せが終わった後、雑談の中でパンフレットの話になった。来週オープンする兵庫県立有馬富士公園の「あそびの王国」を紹介したパンフレット。「あそびの王国」の設計を担当した関係で、パンフレットも僕がデザインした。先日、50000部の印刷が完了したので関係各所に送付したばかりである。

少し特殊な形のパンフレットである。通常のパンフレットの比べて少し細長い。地域の民話にちなんで「オニの金棒」を模したデザインとなっている。このパンフレットをデザインするにあたって、多くのパンフレットを集めて分析した。ついつい手に取りたくなるパンフレットの形とはどんなものか。子どもの目を引くパンフレットとはどんなものか。子どもが手に取ったパンフレットを親が預かった際に読みたくなるようなコンテンツとはどんなものか。行政関連の施設だけでなく、スーパーやカフェに置いてもらえるパンフレットとはどんなものか。そんなことを考えながらデザインしたパンフレットである。

スーパーやカフェに置いてもらうためには、設置面積が狭くて済むパンフレットであることが求められる。細長いパンフレットを立てて置くのであれば、お店から借りる場所の面積は少なくて済む。その割に、立ち上がった金棒のパンフレットは目を引く。子どもならつい手に取りたくなるだろう。手に取れば、子どもはこのパンフレットで近くに居る人を攻撃したくなるはずだ。紙でできた金棒のパンフレットは、ついつい近くに居る人を叩きたくなる形なのである。スーパーで子どもの近くに居るのは保護者だろう。叩かれた保護者は、子どもが手にしている金棒のパンフレットを取り上げるか預かることになる。そこで「あそびの王国」の存在を知ることになる。三田市に子どもの遊び場がオープンすることを知る。「じゃ、来週の日曜日にでも行ってみようか」ということになる。

そんな筋書き通りにことが運ぶかどうかはわからない。わからないが、子どもも大人も手にとってみたくなるパンフレットを目指したつもりだ。「おしゃれでかっこいいパンフレット」ではないが、子どもや大人にとって「なんとなく気になるパンフレット」になればいいなぁと思っている。


「あそびの王国」のパンフレット

山崎

2005年4月13日水曜日

「権利と義務」

確かにそのとき、僕は猛スピードで自転車を運転していた。事務所から地下鉄の駅までは走り慣れた道。終電の5分前。いつものペースで走れば、ぎりぎり終電に間に合うはずなのだ。

事務所の自転車は前輪にも後輪にも鍵がついていない。ワイヤー錠を使っているため、外した錠は前かごに入れて運転するのが常だ。だから、見る人が見れば鍵のついていない自転車を猛スピードで運転しているように見えるのだろう。オマケに運転しているのは坊主頭でヒゲ面だ。警察官が僕を停止させたくなる気持ちは分からないでもない。

しかし、こっちは終電ぎりぎりだから猛スピードなのだ。止まる予定の無い場所で止まることは、終電を逃す危険性を孕んでいる。警察官の停止を無視して振り切りたいところだが、それではますます怪しい輩になってしまう。

わき目も振らず運転する僕の横に、パトカーが寄ってきて「ちょっと止まりなさい」と声をかけた。警察官が市民を止めて職務質問する権利を有していることは認めよう。いや、それはむしろ権力だと言ってもいいだろう。しかし、権利や権力には義務が伴うはずだ。急いでいる僕を停止させるからには、それだけの義務感を持って職務を全うしてもらいたいものである。

警察官の指示に従って急停止した僕は、振り向きざまにこう言った。「僕は終電に乗らなければならないので急いでいます。職務質問を受けていると終電に間に合わなくなるのですが、それでも僕を止めますか?」

「ああ、お急ぎでしたか。それではそのまま行ってください」、なんてことになろうはずがない。何しろ僕は怪しい輩なのである。それを承知の上でこう続けた。「僕の家は平野駅の近くです。ここからタクシーに乗ったら5000円はかかる。職務質問に協力したせいでタクシー代を支払わなければならなくなった、なんてことになるのはご免だ。僕をいま足止めするのであれば、あなたたちはそれなりの義務を負うことになる。そのことをしっかり認識しているのであれば、僕は喜んで職務質問に応じましょう。」

偉そうなことを言ったって、僕は怪しいのである。彼らが僕を見逃すわけが無い。警察官は僕を自転車から降ろし、防犯登録を確認し、警察署に問い合わせた。当然、終電の時刻には間に合わない。

10分後、僕が乗っていた自転車が盗難車でないことが確認できると、彼らはそのまま立ち去ろうとした。権利だけ主張して義務を果たさない輩がこんなところにもいる。ユニセフパークプロジェクトのファシリテーターだって、権利と義務が表裏一体だってことくらいしっかり認識できているだろう。今度は僕が職務質問する番だ。

「方法は2つしか思い浮かびません。パトカーで僕のタクシー役をするか、必要なタクシー代を僕に支払うか。終電が無くなる事は事前に伝えたはずです。そのことを知った上であなたたちは僕を止めたわけです。仕事はまだ終わっていない。権利を主張するだけで仕事を終えようとするのは間違いだ。そのとき同時に発生した義務も果たすべきなのです。」

路上で坊主頭が警察官を説教する。これも怪しい風景である。警察官2人は困ってうつむいている。なかなか答えが出ない。「そうやって悩んでいる時間がもったいない。すぐにパトカーで送ってくれたほうがお互い仕事に戻れるんじゃないですか?」

しばらく悩んでいた2人だったが、小さな声でこそこそ相談してからこう言った。「わかりました。ご自宅までお送りしましょう。」

走るパトカーに乗ったのは初めてだ。一般的なメーターのほかに、大きなオレンジ色のデジタルメーターがついている。スピード違反を取り締まるため、運転席と助手席の双方から見やすい位置についている。よく見ると、走っている速度より10km/h低い値が表示されている。スピード違反の取締りを確実にするため、わざと10km/h低い値を表示しているのだろう。そのメーターに表示された速度が法定速度を超えるとすれば、前を走る車は間違いなくスピード違反なのである。

ナビゲーションシステムも少し変わっていた。パトカーの走った軌跡がすべて記録されている。大阪府警の本部がどこにどのパトカーがいるのかが把握できるようになっているのだろう。また、走り出す前に「何の任務でパトカーを運転するのか」をナビゲーションシステムの画面で登録する決まりがあるようだ。「追跡」「警邏」「犯罪」「取締」などという項目が見える。今回の運転は「特命」という任務のようだ。「タクシー」という項目が無いのだから仕方ない。

阪神高速を走る。早く任務に戻りたいのだろう。明らかに警察官は急いでいる。制限速度が60km/hの阪神高速を100km/hで走る。が、すぐに速度が落ちる。前を走るすべての車が、急に速度を落とすからだ。前の車に追いついてしまうと、その車は急に60km/hまで速度を落とす。その車を追い越そうとして斜線を変えると、追い越し車線を走っていた車も60km/hまで速度を落とす。パトカーとは実に厄介な乗り物である。

自宅前に横付けしてもらったパトカーから降りた僕は、しかしお礼を言う話でもないと思ったので、こう言い添えた。「ややこしいことを言ったので嫌な気分になったかもしれませんね。その点については謝ります。これからも権利と義務について考えながら仕事に励んでくださいね。」

まちづくりはひとづくりである。警察官も「市民」たるべきである。僕はこれからも地域住民の市民意識向上に日々精進したいと思う。

山崎

2005年4月6日水曜日

「静かな空間と騒々しい内装」

午後8時から大阪市立大学の瀬田史彦さんと食事をする。都市計画が専門の瀬田さんと、郊外住宅地の将来について話し合った。

食事をしたのは、阪急梅田駅の茶屋町口近くにある「りゅうぼん」というお店。従来の居酒屋とは違って個室が多く、静かなのでゆっくり話ができる。特に時間制限もないため、食事中に急かされることもない。新しいタイプの居酒屋だと言えるだろう。

この店を出てから気づいたのだが、隣の店も向かいの店も、向かいの店の隣の店も、あたり一体に同じ系列の居酒屋が建ち並んでいる。「あほぼん寺」「恋のしずく」「エレファントカフェ」「りゅうぼん」と変わった名前が多く、内装や外装も驚くほどキッチュなものが多い。その道路の並びに建設中のビルがあったが、そこにも同じ系列の居酒屋が入ることになるだろう。仮囲いの隙間から、すでにそのキッチュな外観が垣間見られた。

この系列のお店には、従来の居酒屋のような騒がしさはない。とはいえ、高級料亭のような敷居の高さもない。カッシーナの家具が並ぶモダンなカフェのような緊張感もない。リノベーション系のお店のような手作り感もない。そこにあるのは、過度にキッチュな空間だけである。そんなお店に多くの客が集まり、ゆっくりと食事や会話を楽しんでいるのだ。

居酒屋が持っている「気取らない雰囲気」を「騒がしさ」ではなく「キッチュさ」で担保している店、と表現すれば的確だろうか。あの静けさに洗練された空間が組み合わさってしまうと、僕らはちょっとした緊張感と格好良さを求められることになる。静かだけど気取らない雰囲気が担保されているのは、内装があまりにも騒々しかったからなのかもしれない。

山崎

2005年4月4日月曜日

「FA宣言」

本来なら4月1日にすべき宣言なのかもしれない。が、ダラダラと残務を続けているうちに4日になってしまった。

4月から、これまで所属していた設計事務所を離れて一人で仕事をすることにした。フリーエージェントになったわけである。とはいえ、人口統計上は失業中の身。ワクワクする反面、いろいろな不安もある。ぜひ、諸先輩方に経験談をお聞かせ願いたい。

いままでの事務所と協働する仕事も続けるものの、他の事務所と一緒に仕事ができるようになったのが何よりも嬉しい。「やりたいと思ったこと」を「やりたいと思ったとき」に「やりたいと思った場所」でできるようになったことも嬉しいことだ。そして、自分の仕事に対する責任を自分で取れるようになったというのも、少し怖いけど嬉しいことだ。仕事と自分が直接繋がっているような気がする。「この仕事、山崎にやらせてみようかな」と思うプロジェクトがあったら、ぜひ声をかけていただきたい。

みなさま、今後ともよろしくお願いします。

山崎

2005年3月30日水曜日

「自然に戻す理由」

夕方から「自然・環境概念の系譜」に関する研究会に出席する。兵庫県立大学の中瀬勲さんが座長を務める研究会である。今回のゲストスピーカーは、武庫川女子大学の角野幸博さん。


■ 角野さんの話で面白かったのは以下の点。

・都市や集落の形態を見ると、その時代/地域の環境観がどんなものだったのかを読み取ることができる。

・アフリカの集落、城壁都市、バロックの都市、日本の城下町、中国の都市、バリ島の集落、植民都市など、それぞれの都市や集落には独特の環境観があった。

・クラッセンのアーバンサイクル仮説では、都市はどのようなものであっても「都市化」→「郊外化」→「逆都市化」→「再都市化」というサイクル経て成長と衰退を繰り返すとされている。

・アーバンサイクル仮説の各段階において、自然・環境概念がどう変化してきたのかを調べてみると面白いだろう。

・かつては都市の「全体」性について論じる人がいたが、最近では「部分」についての言説しか見あたらない。しかし、都市の全体性を語る必要がなくなったわけではないだろう。

・丹保憲仁さんは、日本の人口は4000万人が限界ではないかと言っている。現在の人口をいかに減らしていくのかを考えるべきである。

・人口が減少するとき、自然に戻さなければならない集落や都市が出てくるかもしれない。そのときに、周辺の人はどんな負担を強いられるのか、それに対して我々は何を補償できるのか。

・受益者負担に関わる仕組みは成立しているが、損失者負担に関わる仕組みはまだ出来上がっていない。

・人口減少の都市計画について言えば、今のところ土地を再配置して「自然に戻す場所」と「人が住む場所」を整理していく考え方が主流である。

・人口が減って空き家や空き地が増えるとすれば、放っておいても緑は増えるのではないか。自然に戻すために労力や税金を使う必要はあるのだろうか。


ここでも人口減少が話題に上った。郊外都市を安楽死させる方法については、まだまだ検討の余地があるように思う。空いた場所を自然へ戻すのに税金を投入すべきかについても議論の予定があるだろう。自然を公共財産として位置付けられれば、それを復元するのに税金を使うのは妥当なことだと言えるかもしれない。しかし、まだ「自然は公共財産である」という世論が高まっていないとすれば、他に税金を使って自然を回復させる理由は見あたらない。

放っておくのか、自然に戻すのか。そのことを考えるとき、次の2点を整理する必要があるだろう。放っておくとどんなまずいことが起きるのか。そして自然に戻すとどんなメリットが得られるのか。

郊外住宅地の現状を把握するのと同時に、空き家や空き地を自然に戻す理由を明確にしておく必要がありそうだ。

山崎

2005年3月28日月曜日

「人口減少時代の安心・安全」

夕方から「安心・安全のまちづくり」に関する研究会に出席する。放送大学の林敏彦さんが座長を務める研究会である。今回のゲストスピーカーは、兵庫県警察本部の水田均さんと大阪大学の小浦久子さん。


■ 水田さんの話で面白かったのは以下の点。

・日本には犯罪学を教える大学がない。

・単に治安を良くするというだけではなく、国民の体感治安を高めるべきだろう。

・警察が関わる「安全」は、防犯と防災と事故防止の3点。防災と事故防止は他の機関と連携できるが、防犯だけは警察単独の仕事である。

・防犯については民間と協力し始めている。ヤクルトや牛乳や新聞を配達している人と協力したり、コンビニやガソリンスタンドと協力して地域の防犯に努めている。

・少年犯罪の数は増えていない。しかし少子化で子どもの人数が減っているので犯罪率は上がっていることになる。

・「振り込め詐欺」ブームは長く続かないだろう。早晩減り始めるはずだ。

・リスクを全て回避しようとするリスクマネジメントから、最悪の事態を回避するクライシスマネジメントへと移行する時代がきている。

・犯罪と商売は同じ原則に従っている。つまり「リスク」と「リターン」である。ハイリスク/ハイリターンを選ぶか(現金輸送車強奪)、ローリスク/ローリターンを選ぶか(ひったくり)は、犯人の追い詰められ度合いによって変わる。

・従って、防犯の原則はリスクを高めてリターンを低めることにある。コンビニに5万円以上の現金を置かないように指導しているのも同じ原理である。


■ 小浦さんの話で面白かったのは以下の点。

・震災後の空き地や低未利用地、ニュータウンに見られる空き家や空き地など、空いた場所をどうマネジメントしていくのかはかなり重要な課題である。

・空いた土地のマネジメント如何によって、都市の安全や安心は大きく左右される。

・人口減少社会では、ダイナミックな人口移動が起きる。

・既成市街地で土地が流動化し、超高層マンションなどが建設される可能性が高い。

・オールドニュータウンでは、居住者の高齢化が進むとともに空き家や空き地が増加する。

・人口は郊外から既成市街地へと移動することになる。

・今後は人口が減少するので、床需要や土地利用需要も減少する。

・オールドニュータウンや埋立地などについては、居住者をどのように集約化してその他の土地を山や海に戻すか、という議論が始まっている。


今回の研究会でも人口減少が話題に上った。人口減少時代の空き地や空き家の問題を、安心・安全のまちづくりへどうつなげるのか。この研究会を通してそのことを考えていきたいと思う。

山崎

2005年3月26日土曜日

「何が可能か」

ユニセフパークプロジェクトの2日目。昨日に比べるとかなり暖かい1日だった。子どもたちは、昨日に引き続き遊び場を作った。

「暖かい場所」を作る子どもたち

子どもにインタビューするユニセフ本部のクリス氏

午後からユニセフパークプロジェクトの現場を抜け出して大阪の四ツ橋へ向かう。アーキフォーラムにコーディネーターとして出席するため。

今日のゲストはみかんぐみの曽我部昌史さん。曽我部さんの話は大きく2つに分類できる。ひとつは「建築家に何が可能か」という話。もうひとつは「使い倒される建築は可能か」という話。僕たちの問題意識に引き寄せて捉えなおすと、前者はランドスケープデザイナーという職能の問題に、後者はマゾヒスティックなデザインアプローチの問題にそれぞれ対応している。

■ 建築家に何が可能か

曽我部さんは、原広司さんの「建築に何が可能か(1974年:学芸書林)」を引用して自身の考えを説明した。原さんは「建築に何が可能か」の中でこう述べている。

『建築とは何か』という問いは、『人間とは何か』という問いが不毛であると同様に、行動の指標とはなりえない。もし私たちが人間について問うなら、『人間に何ができるか』を問うべきである。同様に建築についても、『建築に何ができるか』と問うべきであろう。

曽我部さんは、この問いをさらに推し進める。「建築に何ができるか」という問いは、社会との関係性の中に建築を位置づけるための問いである。その問いも重要だが、一方で社会の状況を読み取って自分のやるべきことを考えるという態度もあるだろう。このときに必要な問いは、建築全般を対象としたものではなく「建築家に何ができるか」という主体的な視点を携えたものになるはずである。

この問いは「目の前の状況にどう取り組むか」という少々場当たり的な建築家像について考えることでもある。そして、必要なら従来の建築家が見向きもしなかったようなプロジェクトに取り組もうという意思の表れでもある。事実そんな若手建築家が台頭しつつある、というのが曽我部さんの意見だ。

アトリエ・ワンは、積極的にアートプロジェクトへ参加したり、リサーチの結果をまとめて本を出版したりしている。阿部仁史さんは、倉庫を改装して設計事務所とイベントスペースを作り、設計活動の傍らイベントをプロデュースしている。クラインダイサムアーキテクツは、イベントスペースを買い取ってオーナーになり、「ぺちゃくちゃナイト」というイベントを主催している。

「建築家は建物を建てるだけの職能ではない」。以上の同時代的な動向を加味した上で、曽我部さんは自身のプロジェクトを説明した。例えば「十日町×十日町プロジェクト」。このプロジェクトで曽我部さんは、割り箸の箸袋をデザインしている。さらにその割り箸を使ってもらうために商店街の各店を回っている。箸袋には、その町に存在する面白いネタが印刷されている。箸袋から町のネタを仕入れた人が改めて町を眺めたとき、その風景が違って見えるとしたらそれも建築家の仕事だろう、と曽我部さんは言う。同感である。

その他、100円ショップで買った大量の「まな板」を使ったインテリアデザインやハンガーで作ったトンネル、チラシやフライヤーを挟み込むための透明な壁、アスファルトに丸い穴を穿って緑を育てる「音符ロード」など、曽我部さんの取り組みは多彩だ。

実は「建築家に何ができるか」という問いは、今に始まったものではない。1998年12月の新建築住宅特集に「建築家にできること」という特集記事が掲載されている。執筆者は安部良さん。安部さんは、バングラディッシュの村で清潔な水を確保するために、現地で簡単に作ることのできる雨水貯留設備を開発している。安部さんは雨水利用の専門家ではない。必要な情報を集めて、それを現場で建築的に展開しているのだ。安部さんは言う。「職能に縄張りは必要ない。われわれが活躍できるフィールドに垣根は無いと確信しながら、少なからずそれを実践していきたいと考えている」と。新しいタイプの「建築家」だといえよう。

新しいタイプの建築家といえば、ニューヨークに本拠地を置く「architecture for humanity」というNPOの代表、キャメロン・シンクレアさんを思い出す。シンクレアさんは毎年コンペを主催している。世界各地で問題となっている地域に対するアイデアコンペだ。コソボの難民、アフリカのエイズ患者、スリランカの津波被害などに対して、キャンプや移動診療所や学校などを提供するためのアイデアを募集しているのである。コソボの難民キャンプに対するコンペでは、日本の坂茂さんが1等を取って実際に現地でキャンプサイトが設営されている。

余談だがシンクレアさんは1972年生まれの33歳。同年代の彼の活躍を耳にするたびに僕は大変な刺激を受けている。僕がユニセフパークプロジェクトに取り組むモティベーションのひとつに、シンクレアさんの活動に対する敬意があることは確かである。

世界を見渡せば、建築家やランドスケープアーキテクトを必要としている地域はたくさんある。日本国内でも同じだ。社会の状況に合わせて建築家やランドスケープアーキテクトが携わるプロジェクトも変化していくべきなのだろう。

「建築に何が可能か」の中で原広司さんは以下のように述べている。

『何ができるか』なる問いにたいする解答の一般形は、ありそうもないことの記述であろう。『建築に何ができるか』を問われれば、いままで建築にできなかったことどもを答えればよい。技術はまさにできそうも無いことを可能にしてきた。建築や芸術も技術と同様に発見的でありたい。

この考え方は、「自分の仕事を社会の状況に合わせたい」というよりも、「とにかく今までに見たことも無いようなものを作り出したい」というメンタリティに支えられている。でも僕にとって「建築に何ができるか」はどうでもいいことである。むしろ、社会の要望に対して「建築家はどこまで応えることができるのか」という問題のほうが、少なくとも僕にとっては重要なのである。その意味で、僕は1974年当時の原さんの思考よりも、最近の曽我部さんや安部さんやシンクレアさんの活動に親和性を感じる。

■ 使い倒される建築は可能か

もうひとつは、ユーザーに使い倒される建築をどう作るか、というものである。ユーザーが自分の空間だと感じて使い倒す建築の作り方。これは僕らが「獲得される場所を目指して」という言葉で表現していることに通じる悩みである。市民が自分たちの場所だと感じるような場所をどう作るか。そのヒントに「獲得」という言葉があるように思う。

少なくとも、デザイナーが押し付けるサディスティックなアプローチで「使い倒される空間」が実現するとは思えない。この点に関しては、前述の原さんが「建築に何が可能か」の中で以下のように述べている。

デザインあるいはデザイナーという言葉には、どこかうさんくさい感じがある。憧れをもってみれば、デザインは美しいものを作るようであり、秩序を生む行為にうつる。けれども一方、皮肉に見ればデザイン行為は、ひどく独断的でおしつけがましい振舞であると見えるにちがいない。事実デザイン行為にはこうした両面がある。

この視点は僕も共感するところだ。原さんや僕だけではなく、建築空間のユーザーも、きっと同じように感じているだろう。「押し付けがましい空間」から「使い倒したいと思える空間」へ。曽我部さんは、使い倒される空間の作り方として以下の3点を挙げた。

・ゆるいカタチを作ること。不完全だと思われるくらい緩い形態がいい。ユーザーが自分で何か手を施そうと思えるような形態が、空間を使いこなそうというユーザーの意思を喚起する。形態の緩さが関わりの多様度を上げることになる。

・情報を提供すること。いろいろな使い方があるということを知らせるべきである。その情報がきっかけになって、新たな使い方が生まれることも多い。設計者の意図通りに使わなくてもいいということをユーザーに理解してもらうことが大切である。

・作るプロセスに関わってもらうこと。ユーザーが空間づくりに参加すると、その場所を使い倒しやすくなる。自分たちの空間として認識するのだろう。空間が完成した後も、使い方をいろいろ工夫することになる。

ただし、上記3点にも問題点が残っている。時間の経過である。これが曲者だ。例えば、設計者がユーザーに伝える情報はいつまで継承してもらえるのか定かではない。曽我部さんが設計した幼稚園でも、園長や先生や園児が入れ替わっていく過程で、当初の使い方の多様度が失われていったという。当初の設計意図や使い方をどう伝承していくのかが課題である。曽我部さんは、情報をまとめた本を作って保存しておくシステムを考えたいと言っていた。

参加も同じ問題を孕んでいる。参加した当時のユーザーは問題ない。問題はその後に場所を使うユーザーである。ある時代の人が参加して作った空間というのは、ある意味でその人たちの刻印が押されていることになる。遅れてきたユーザーはその刻印を随所に見て、他人の空間であると認識してしまう。空間を獲得して使い倒そうという気持ちにはなれない。ある一時期の参加が可能にすることと、後から来る人にとっての弊害をバランスよくマネジメントする必要がある。

いずれにしても、「使い倒されるデザイン」についての模索がどのあたりまで進んでいるのかを共有することができたのはありがたかった。曽我部さんが取り組んでいること、ランドスケープエクスプローラーが取り組んでいること、ユニセフパークプロジェクトが取り組んでいること。それぞれの取り組みの先端で悩んでいることに共通点があることは確かなようだ。

アーキフォーラムのディスカッションで確かな手ごたえを得た後、僕は終電でユニセフパークプロジェクトの現場へと戻った。


曽我部昌史さん

山崎

2005年3月25日金曜日

「UPPの新展開」

ユニセフパークプロジェクトの1日目。とても寒い1日だった。途中で雪も降った。セネガルの子どもたちは初めて雪を見たという。

そのセネガルの子どもたちがサンダルで里山へ来たことや、当初3人だと伝えられていたイランの子どもが空港で9人に増えていたことなど、いろいろなハプニングがあったものの何とか事故なく1日目を終えることができた。

夜、ユニセフ本部からUPPの視察に来ていたケン・マスカル氏に呼ばれて、これからのユニセフパークプロジェクトについて話し合った。彼は、里山で遊び場を作るというプログラムの中に、もっとユニセフの特徴を出したほうがいいのではないかと主張した。国連本部がバックアップするから、UPPはもっとユニセフを前面に押し出したプログラムを展開すべきだという。彼の意見に僕は少し違和感を覚えた。

ユニセフが提供してくれる情報はかなり精度が高い。写真も深く考えさせられるものが多い。データも衝撃的である。キャッチコピーも効果的だ。ただ、あまりにも広報が上手すぎるため、時として僕らは映画か何かを見ているような気分になる。こことは違う場所で起きている状況を見ているような気分。先進国で生活しながら途上国の現状を知ることの難しさはこのあたりにあると思う。

先進国のユニセフができることのひとつに、そのスペクタクル(見世物性)を解体する作業というのがあるんじゃないか。僕はそんな風に考えている。これまでユニセフが行ってきたキャンペーンをもってしても、未だに100円で何人の子どもを失明から救えるか知らない日本人は多い。自分の使っている100円が、世界でどんな価値を持つものなのかを知らない人も多い。なぜか。きっと、途上国の現状を見たり聞いたりしても、無意識のうちに「ここではないどこかで起きている別世界の出来事」だと感じてしまっているからだろう。

ゴミの山で鉄くずを集めながら生活している少年。毎日水瓶を運ばされている少女。銃を持たされて戦争に狩り出される少年。途上国の子どもたちが強いられている悲惨な状況を、ユニセフは繰り返し世界に訴える。でも僕は、そういう子どもたちだって少しの時間を見つけて遊んでいるはずだと思う。遊ばない子どもはいない。どんな状況でも、きっと子どもはちょっとした隙間を見つけて遊んでいるだろう。

だからこそ、ユニセフパークプロジェクトでは「途上国の子どもも僕らと同じように遊ぶんだよ」ということを伝えたい。僕らと何も違わない子どもがそこにいることを伝えておきたい。そのことが実感できたとき、ユニセフが発信する悲惨な写真が急にリアルなものとして立ち上がるのである。僕らと同じように遊びたいと思っている子どもが、銃を持たされていること。重い水瓶を運ばされていること。鉄くずを集めさせられていること。そういうことを、同じ子どもとしてUPPの参加者に感じ取って欲しいのである。途上国の子どもがどんな風に遊んでいるのかを調べて日本に紹介すること。これもユニセフパークプロジェクトとして取り組むべき大切な活動だと僕は思っている。

そんなことをケン・マスカル氏と話し合った。彼は僕の話をじっくり聞いた後で、「UPPの基本的な考え方が整理できた」と言った。そして、世界の遊びやおもちゃを日本へ紹介するプロジェクトに協力することを約束してくれた。UPPが新たな方向に進み始めた夜だった。






世界の子どもたち


ケン・マスカル氏

山崎