2005年5月10日火曜日

「五蘊無我」

夕方から21世紀文明研究委員会に出席する。ゲストスピーカーは兵庫県立大学の岡田先生。岡田先生の専門は環境哲学。今日は特に「日本的哲学」の話をしてもらった。

仏教には「五蘊無我」という言葉があるそうだ。五蘊とは、すべての物体を構成している最小単位。今風に言えば原子のようなものだろう。この世に存在するものは、すべて原子から成り立っている。したがって、人間も死ねば原子がばらばらになって、それらの一部はいずれほかの生命体を形作ることになる。つまり、五蘊(原子)は環境世界に存在するすべてのものが共有している「要素」であると考えられる。

そう考えると、原子の集合体である生命体や物体に、固定的で普遍的な「我」というものはないということも理解しやすくなる。そのことを「無我」と呼ぶ。五蘊無我という言葉は、「原子の集合体にはそもそも絶対的な我など無いのだ」ということを意味しているのだろう。

中学生のころ、すべての物体が原子から構成されているということを知った。空気さえも原子が集まってできているのだということに驚いた。そして思った。どんな存在だっていずれは原子に戻ってしまう運命なのだ。だとすると「本当に大切なもの」なんて実はどこにも無いんじゃないか。。。

しかし、中学生にとって「本当に大切なものなんて何も無い」というのは夢が無さすぎる結論だし、少々息苦しいことでもあった。だから、自分なりに大切なもの(つまり原子に還元されないもの)を探してみた。そのとき思いついたのが、詩や音楽といった無形文化財的なもの。物質として残るのではなく、語り継がれることによって残るもの。そんなものが、本当はすごく大切なんじゃないかと思った。

有形になると原子に還元されてしまう。だから、無形で語り継がれるものにあこがれた。書面に残せないもの。絵や図面に表現できないもの。原子が主な構成単位ではないもの。そういうものこそ、原子の集合体である「人間」が生み出したものとして、胸を張って主張できる成果物なのではないか。そんなことを、原子の集合体である脳を使って考えたことがある。

そのころの僕の脳と今の僕の脳は、ほとんどすべての細胞が入れ替わってしまっているがゆえにまったく別物だともいえるだろう。今の僕の脳を構成している原子は、中学生のころの僕の脳を構成していた原子とまったく違うはずだ。それでも、僕が当時考えたことは今でも思い出せる。これはすごいことである。

もちろん、脳という原子の集合体があるからこそ記憶が保存されるのだが、僕は「原子の集合体」よりも「原子の集合体が生み出して語り継いできたもの」のほうに魅力を感じてしまう。

改めて考え直してみると、この関係は建築やランドスケープにおけるハードとソフトの関係に似ているような気がする。空間のカタチとナカミとシクミについて、一度「日本的生命観」という視点から捉えなおしてみたいと思う。

山崎

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