2005年5月20日金曜日

「安心だから安全」

夕方から「安全・安心のまちづくり」に関する研究会に出席する。今回のゲストスピーカーは、北海道大学の棟居快行教授。

憲法学者である棟居さんの話で面白かったのは以下の点。

前回のゲストスピーカーである水田さんは「安全だから安心なのである」といわれた。この自明な答えを若干かき混ぜてみたい。

・経済的自由の規制目的としての「安全」=例えばBSEの牛肉を自由に輸入させないことは、国民や消費者の安全を守るための究極的な規制である。

・経済的自由に関する憲法の言及は2箇所ある。22条1項は営業の自由(フローの自由)。29条2項は財産権の自由(ストックの自由)。フローとストックの双方に自由が認められてこそ経済の自由が担保されていることになる。この両者に「公共の福祉」という言葉が見られる。

・日本国憲法が認めている経済的自由は、公共の福祉による広範な制約に服する。

・安全確保という観点からの経済活動の規制は「消極規制」であり、それは必要最小限の手段でなければならない。経済に対する国の介入は最小限であるべきである(判例・通説)。

・国民に代わって国が安全を確保するのは正しいことなのか。危険な食材を国が輸入規制したり抜き打ち検査したりし続けるのが正しいことなのか。逆に、十分な情報開示の元に個人の自己決定で安全を確保することもできるのではないか。例えば、80歳のおばあさんが輸入牛肉を使った牛丼を食べたいとする。10年後に発病するかもしれないというBSEというのは、本人にとって問題ではないかもしれないだろう。

・子どもも大人も高齢者も、すべて行政が一律に安全を確保するのではなく、十分な情報開示を前提にして「安全」すらも自己決定で選んで生きるという方法もあるのではないか。「安全」に関する選択の自由を我々は奪うべきではないだろう。

・「安全か自由か」という問い自体があまりいい問いではない。

・経済的自由が乱用されると個人の安全とか健康が害される。そうなると、必要最低限の安全確保が求められる。そのとき国家は情報を十分に公開して、個人の自己責任によってそれを判断する必要がある。

・物理的な「安全」というものが本当に可能なのか。それを無理やり実現させてしまうと、都市の潤いや自由というものが水に流れてしまうのではないか。「過密性」「匿名性」という都市のリスクを少しひねって考えれば、「人間の稠密度が高い」とか、「コミュニケーションが活発である」とか、匿名性を活かした都市固有の「安心」に気づくのではないだろうか。アドホックな関係に基づくジャズのセッションのように、通勤電車の中でたまたま居合わせたの人たち同士の連携に見られるような安心というものがあるのではないか。

・安全・安心とは何か。まちづくりとは何か。安全と安心の両者の関係について、私は「安全だから安心なのである」という立場をとらない。完全な安全というのは、逆に人間を孤立させてしまい、活力を削いでしまうことになる。むしろ、「活力」が「安心」につながるのではないか。あるいは、安心だから安全であるという方向もあるのではないか。

・ユートピアの幻想を追い求めて、庭付き一戸建ての家を買ってあらゆるリスクから逃れようとしたのがこれまでの風潮だった。しかし、それで本当の安心を得ることができたのだろうか。三田の山奥で息子はどこで何をやっているのだろうか、と心配するよりも、三宮で賃貸マンションに住んで、どうせ息子は近所にいるだろうと思うほうがよっぽど安心なのではないか。郊外に住宅を持って都心まで通勤して、息子や娘は遠い学校へ通学する。手を広げすぎて熟睡できない生活をしているのが郊外住宅地の生活なのであり、そこにあるのは「不安」である。郊外住宅地に感じていた安心な生活は幻想の中にしか無くて、実際は三宮に住むほうがよっぽど安心だということになる。都心回帰現象は、今後必ず神戸でも起きるだろう。都心で精神的に豊かな生活をするというのが「安心」そのものなのである。

・これまでハードを担っていた行政が、ソフトを分かりやすく提供することを仕事にするべきなのではないだろうか。ただし、そこで危惧していることがひとつある。「安全」が新しい公共事業化してしまうのではないか、ということ。形骸化した安全を行政が押し付けるだけになってしまうと、そこでの安全は「安心」と何の関係もない安全になってしまい、結局それは安全でもなんでもないことになってしまうだろう。

山崎

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