2004年12月31日金曜日

「キャリーケース」

キャリーケースというのだそうだが、キャスターの付いたカバンを引いて歩く人が最近増えている。大晦日の今日は帰省客が多いので、それが当たり前の風景なのかもしれない。でも、少し前までの帰省客というのはみんな大きなカバンを抱えていたように思う。スーツケースを引いて歩く人はほとんどが海外へ行く人だった。

ところが、最近は盆や正月の帰省客が小型のスーツケースやキャリーケースを引いているのである。国内の出張へ出かける人もキャリーケースを引いていることが多い。新大阪から東京へ向かう乗客のほとんどがキャリーケースや小型のスーツケースを携えている。多い人になると2つのキャリーケースを引いて歩く。

なぜ、最近になってキャリーケースが人気を集め始めたのだろうか。

ひとつの理由は、その性能が向上したことにあるのだろう。軽量で丈夫な素材を使ったキャリーケースが増えているし、デザインも年々進化している。価格も手頃なものが多くなった。

キャリーケースを使いこなす人のイメージが一般に浸透しつつあることも理由のひとつだろう。ゼロハリバートン社やスチュワーデスといったイメージが、キャリーケースを引く人のイメージを作り上げているのである。

ノートパソコンという「重いけど固い容器に入れて持ち運びたいもの」が普及したことも、キャリーケースの増加に影響しているだろう。

それだけではない。実は、都市空間に段差が少なくなったこともキャリーケースの増加に影響している。バリアフリーやユニバーサルデザインが常識になりつつある昨今、車椅子利用者やベビーカー利用者のみならず、キャリーケース使用者にとっても「移動しやすい都市空間」が各所に出現し始めているのである。

試しにキャリーケースを引いてみた。手に舗装面の凹凸が伝わってくる。アスファルトよりも平板のほうが引きやすい。タイルの目地でケースがわずかにバウンドする。排水勾配に引きずられる。点字タイルに乗り上げる。。。地表面の変化が直接手のひらに伝わってくる。どうやら、キャリーケースは都市のペーヴメントを体感するための装置としても機能するようだ。

都市の表面を体感する装置=キャリーケース。より多くの人がキャリーケースを使用するようになれば、都市空間のバリアフリーについて発言をする人が増えるかもしれない。体感に基づいたバリアフリーへの提言。車椅子利用者とキャリーケース使用者が都市空間のペーヴメントについて語り合う日が来たら、都市はさらにアクセスしやすくなるだろう。





山崎

2004年12月29日水曜日

「ALE」

午前10時から、グラフィックデザイナーとユニセフパークプロジェクトのパンフレットについて打合せする。来年の早い時期にイラストレーターを交えた3者で打合せする必要があることを再確認した。

午後2時から、ランドスケープエクスプローラーの出版会議に出席。本のタイトルや目次構成について話し合う。

午後6時から、都市機構の武田重昭氏とALEのオフ忘年会を開催。ALEはメール上で都市/ランドスケープについて議論するユニットで、1998年から続くプロジェクトだ。

最近のALEにおける話題は、「僕らが思い描く将来の活動フィールド」に関するものが多い。今日の議論もこの延長にあった。

僕らはすでに「形を作るだけ」のデザイン志向でワクワクする未来像を描くことができなくなっている。建築やランドスケープのデザインについて、まどろっこしいくらい説明し尽くす態度もあまり感心しない。もっと素直なものづくりがあっていいし、ものづくりだけですべてを解決しようと無理する必要も無いはずだ。社会に横たわる問題を解決するためには、プログラム+人材+財源+空間形態など複数の側面からアプローチする必要がある。空間形態の操作だけで社会の問題が解決できると考えるのは短絡的過ぎる。

以上より、僕らの興味は以下の3種類に向かうことになる。

①デザインやプランニングをハード以外の側面と同時に考えること。
 →現在の仕事の延長線上。
②プロジェクトを企画したり、組織をマネジメントしたり、人材を育成すること。
 →ユニセフパークプロジェクトなど。
③個別のプロジェクトで解決できない問題に取り組むこと。
 →個別のプロジェクトに生きられる都市計画の研究。

そこで僕らはどう生きるのか。上記の道筋を既存の職能で表現すると以下のとおり。

①デザイナー/プランナー。
②ディレクター/マネージャー。
③都市計画家/研究者。

既存の職能枠に捕らわれる必要は無いが、それらを基軸として考えると便利なこともある。基軸からどれだけ飛距離を伸ばすことができるか。何と何をどう融合させればいいのか。自分の進むべき道筋が少し明確になった夜だった。

山崎

2004年12月25日土曜日

「質問力」

中島孝志さんの「巧みな質問ができる人できない人」を読む。

中島さんは「質問力」という言葉を使う。質問力とは「質問と回答の両者を通じて新たな価値を生み出すコミュニケーション」だという。いい質問といい回答が結びつくと、そこに新しい価値が生まれる。新しい価値を生み出す力として「質問力」に注目しているのである。

本書は、質問の回答についても言及している。良い回答というのは、第1に相手の質問に対して全力で応じていること、第2に相手のレベルに立って答えていること、第3に相手が理解しているか確認しながら答えていること、という3点に集約されている。第1、第2はともかく、第3に挙げられた「相手の理解度を確認する作業」は忘れがちである。ついつい質問に答えなければという焦りとともにしゃべり続けてしまうことが多いので、この点は個人的に注意したい。

その後、質問の話は議論の話へと展開する。議論は「私が正しい。あなたは間違っている」という話をするものではない。「私」も「あなた」も気づかなかった「第3の価値」を見つけ出す作業が議論なのだという。「私」も「あなた」もどちらも正解ではない、という点から議論をスタートさせるべきなのだろう。

本書はその他に、質問力をセールストーク、人間関係、人生論、組織のマネジメントへと応用する話が続く。印象に残った点は以下のとおり。

・質問は好奇心の赴くままに投げかけること。それが問題を解決するきっかけになる。

・いいアウトプットを出すためには、その10~100倍のインプットが必要である。インプットのきっかけになるのが質問である。

・人間は質問力によってどこまでも変わる。

・質問は自分の考えを積極的にアピールする絶好の機会である。

・講演会の講師は、鋭い質問をした人のことを忘れないものである。

・講演会で質問を受け付けたとき、3秒の間に手が挙がらなかった場合は退席することにしている。5秒以上待つと「質問のための質問」をする人が現れてしまうためである。

・質問することで相手がその人のことを馬鹿にしたり、軽蔑したり、軽んじたりすることは無い。むしろ質問することで話ができた、聞いてもらえた、喜んでくれたと愛される。

・わからないのにわかったような顔をする人は物事を複雑怪奇にしてしまう。わからなければ質問すればいい。質問は恥ずかしいことではない。質問を省略する態度が失敗を招く。

・質問力の次は回答力、提案力が必要になる。即座に回答や提案ができる準備をしておくことが重要である。

・タフなネゴシエーターは相手に嫌がられるが、その実「強敵だ」という畏敬の念を持って煙たがられているのである。

・セールスは議論ではない。顧客に議論で買っても話にならない。

・仕事は契約と納品だけで成立するものではない。一番重要なのは代金を回収することである。

・会議はいろいろな可能性を秘めたイベント。主宰者のワンマンショーでは意味が無い。

・会議の人数は少なければ少ないほどいい。最低でも10人以下に抑えること。

・情報は自分が体験した1次情報でなければ意味が無い。

・「知っていること」と「理解できること」は違う。「できること」と「実践していること」も違う。

・激しい摩擦を伴う議論の末に、相手との強固な信頼関係が築かれる。

・親鸞と弟子の唯円との会話をまとめた「歎異抄」。その会話は上下関係ではなく並列関係であり、対面関係ではなく同じ方向を向いている関係である。→コラボレーション。

・宮城谷昌光さんの言葉。「歴史上の偉人は多くの苦難を克服している。偉人になりたいと望むことは、天に死ぬほどの苦難をくださいとねだることである。」

・イスラエルのソロモン王の言葉。「賢者は聞き、愚者は語る」

・道元の言葉。「いま、おまえは山を見ているけれども、山もおまえを見ているんだ。」

・GEのCEO、ジャック・ウェルチの言葉。「組織力はエナジャイザー(力を与える人)の存在が左右する。」

・山本五十六の言葉。「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ。」→原典は上杉鷹山の言葉。

古本屋で見つけて105円で購入したのが申し訳なく思えるくらい面白い本だった。

山崎

2004年12月23日木曜日

「排他性」

国立京都国際会館を見に行く。

国立京都国際会館は、ウルトラマンセブンのなかで地球防衛センターとして活躍していた建築である。確かに地球全体を守っているかのように堂々たる外観の建物だ。いや、外観だけではない。この建物の中で話し合われていることもまた、まさに地球を守るために必要な議論である場合が多い。有名な「京都議定書」を採択した地球温暖化防止京都会議(COP3)も、この会議場で執り行われている。

写真で見ていた時の印象と違って、実物の国立京都国際会館は思いのほか巨大な建築だった。建築というよりはむしろ戦艦、あるいは都市といった巨大さである。竣工は1966年。設計は大谷幸夫が担当している。

とにかく「斜め」が多い、というのが全体的な印象である。大谷の師匠である丹下健三は、垂直と水平で「日本的なるもの」を捜し求めた。これに対して大谷は、傾斜と水平を用いることによって「日本的なるもの」を表現しているようだ。斜めの手すり。斜めの照明。斜めの柱。斜めの壁。斜めの刈り込み。外観や庭園だけを見ても、「斜め」の要素が多用されていることに気づく。

建築内部にも「斜め」がたくさん見られるだろう。そう思ってロビーに入ったとき、受付の女性に呼び止められた。一般人は建築内部の見学ができないのだという。

「国立」京都国際会館。国の税金を使って建てた建物とはいえ、その内観を僕らが自由に見学することはできない。重要な会議を行う場所である。自由な見学を認めて、万が一誰かに危険物を設置されたりすると大変なことになる。だから一般人の見学は不可だということなのだろう。わからない話でもない。

そういえば、冒頭に挙げた「ウルトラマンセブン」の撮影クルーも国立京都国際会館の内部での撮影を断られている。そのため、地球防衛センターの外観は国立京都国際会館を使ったが、内観は芦屋市役所を使うことになった。実際、室内ロケのほとんどは芦屋市役所で行われていたようだ。

仮に地球防衛センターというものが実在していたとしても、一般の見学者という立場からいえば現在の国立京都国際会館と似たような排他性を持つことになっていただろう。地球防衛センターの一般見学を可能にしてしまったら、それこそ地球の未来が危なくなる危険性があるのだから。

斜めの柱や斜めの壁で構成される逆台形型の建築形態は、それを見る人に対する排他性を強調している。威圧感がある。ウルトラマンセブンのプロデューサーが地球防衛センターに求めた特徴は、この威圧感であり一般市民が近寄り難い雰囲気だったのだろう。


斜めの柱や壁


斜めの刈り込み


斜めの柱


斜めの低柵

山崎

2004年12月22日水曜日

「オープンスペースのマネジメント」

ユニセフパークプロジェクトのメンバー数人に誘われて、京都大原温泉の旅に出かけた。大原と言えば「味噌鍋」と「しば漬け」が有名だ。比較的標高の高い盆地に位置する大原は、寒暖の差が激しいことから味噌づくりやシソの栽培に適した土地だという。そのことから「味噌鍋」や「しば漬け」が大原の名産になっている。

「味噌鍋」や「しば漬け」以上に大原で有名なのは三千院である。ところが、三千院の歴史は思いのほか浅い。中世の頃からその場所にはいくつかの寺があったというが、正式に三千院という名称で取りまとめられたのは明治維新以後のことだという。だからだろうか。通常、自慢げに語られる寺の由来や故事来歴は影を潜め、代わりに説教を引用した張り紙やポスターが多く貼られていた。

2600平方メートルという広大な敷地ではあるものの、庭の管理は驚くほど行き届いている。寺風情を壊すような要素(雨水桝や塩ビ管など)は執拗に木皮で覆われ、樋や出水口には竹が用いられている。膨大な管理費が必要なやり方である。

この管理費を捻出できているのが三千院の運営が優れている点だろう。「大原三千院」という名前をここまで知らしめることになったテレビCM。付近の旅館や参道の店舗と協力したPR活動。親切なホームページの作成。JRと協力したポスターの作成。マスメディアを通じた広告に余念が無い。

マスメディアだけに頼っているわけではない。院内にもさまざまな仕掛けがある。山門を抜けるとすぐに拝観料を徴収する窓口がある。拝観料は600円。妥当な値段である。室内に入ってしばらく歩くと、まず最初に書籍や土産物を売る部屋にたどり着く。三千院第1の土産物売り場である。次に写経のための部屋へと繋がる。続く客殿の大広間は、片隅に庭を眺めながらお茶の飲める茶席が設置されている。


客殿の大広間


片隅の茶席

客殿前の聚碧園(作庭:金森宗和)を通り抜けると、大正期に建立された宸殿にたどり着く。ここでは献金や献香を受け付けている。もちろん賽銭箱も設置されている。

宸殿の前、コケに覆われた有清園を通り抜けると紫陽花園が広がる。ここには、たくさんの桜が献木されている。個人から法人まで日本全国から桜の木が収められており、各々に献木者の氏名が明記されている。1本いくらの献木なのかは分からないが、その数はかなりのものである。

紫陽花園を抜けると、平成元年に建立された金色不動堂が見える。堂前の広場ではお茶が振舞われている。年配の女性3人が盛んに勧めるお茶を飲むと、即座にお茶の販売が始まる。金粉入りのシソ茶。ここでシソが大原の気候に合った植物であること、それゆえ大原では「しば漬け」が名産になったことなどを聞かされることになる。もちろん、お茶を振舞う横には土産物売り場がある。三千院第2の土産物売り場である。お守り、線香、書籍、朱印帳、絵葉書、ボールペン、クリアファイルなど、三千院グッズが勢ぞろいだ。

その先、三千院の最も奥に位置する観音堂でも三千院グッズが売られている。三千院第3の土産物売り場である。観音堂には、例によって説法らしき文章が壁に貼られている。ここに一例を挙げておこう。

■■■■■■

観音さまは私達をどんなふうに救って下さるのでしょうか?」
 あなたの苦しみや悲しみを大きな慈しみの心で受け止め悩みを聞いて下さいます。そしてあなたに届く率直なことばで真実をあかされ、最善で納得のいく解決を与えて下さいます。
 そして常に寄りそい、生涯にわたりあなたを助けようと誓われた菩薩が観音さまです。どうか今、お力添えをして頂いて願いをかなえて下さる為、ご祈願や観音像奉納をお進めします。
祈願:3000円、観音像奉納:10000円より

■■■■■■

赤い文字は張り紙に朱色で書かれていた文字である。文法や漢字の使い方に疑問が残る文章だが、それはともかくこの類の張り紙が院内のあちこちに貼られているのである。説法に始まり営業に終わる張り紙。ありがたいような迷惑なような張り紙である。

そもそも3000円もする祈願をお願いする参拝客はどれくらいいるのだろうか。ましてや10000円もする観音像奉納にいたっては、年間にどれくらいの申し込みがあるのか定かではない。そんなことを考えながらふと観音堂の右手に目をやると、実に下のような風景が広がっているのである。





驚きである。観音さまが21世紀の日本でもこれほどの力を持っているとは思わなかった。さらに観音像が並ぶ枠木の前には、またしても張り紙が。

■■■■■■

「今日のご縁に、ぜひ観音像の奉納を。終生お祀りします。一体:10000円」

■■■■■■

さすがである。これだけの運営能力があるからこそ施設の高密度管理が可能なのであり、平成の時代に金色堂を建てるだけの資本を回収することができているのだ。オープンスペースが持つ「永続性」をうまく利用した運営費の徴収。公園の運営が寺に学ぶことは多いのではないか。三千院の運営を垣間見ながら、僕は今後のユニセフパークプロジェクトにおけるマネジメントについて考えていた。

同行したユニセフパークプロジェクトのメンバーは、三千院に何を見ていたのだろうか。メンバーの一人は、そのあと出現した第4の土産物売り場で「交通安全ステッカー」を購入していた。




三千院聚碧園

山崎

2004年12月20日月曜日

「ページ紹介」

■ OKD Landscape Gallery「コラボ研」「Landscape Explorer」「けんちくの手帖」と多方面でお世話になっている岡田昌彰さんのギャラリー。産業遺産の写真がたっぷり。

■ ウズラボ一級建築士事務所
「archireview」で知り合った竹内正明さんの建築設計事務所。

■ WEBマガジン「インク・ライン」
同じく竹内さんが書いているWEBマガジンのサイト。竹内さんは「座れる名作:京都椅子探訪」と「建築<論争>の歴史」を担当。

■ アラウンド・藤白台
千里ニュータウンで知り合った奥居さんが運営するサイト。千里の「藤白台」(ふじしろだい)周辺で起きた出来事などを紹介。

山崎

2004年12月18日土曜日

「質問と回答」

夕方からアーキレヴューに参加する。今回のテーマはアーキグラム。ゲストコメンテーターは「アーキグラム」の訳者、浜田邦裕さん。プレゼンテーションは、二宮章さん、竹内正明さん、北川文太さんの3人が担当。コーディネーターは住本欣洋さん。

二宮さん、竹内さん、北川さんの3人が繰り広げるプレゼンテーションの流れは非常に刺激的だった。まずは二宮さんがアーキグラムの時代にどんなグラフィックデザインのムーブメントがあったのか(スペースエイジ/フラワーチルドレン/ポップアート/カウンターカルチャー)を整理する。続く竹内さんがその時代の世界と日本における建築のムーブメント(CIAM/チームⅩ/坂倉・前川・吉阪/丹下健三/磯崎新/メタボリズム)を整理する。そして北川さんが生活者の視点からアーキグラムの描く世界の実態(都市空間に対する記憶の喪失/個人のアイデンティティの喪失)を批評する。

二宮さんのプレゼンテーションによってアーキグラムが活躍した時代の背景を把握することができた。建築分野のみならず、関連分野におけるムーブメントを把握しておくことは重要である。特にアーキグラムのようなグループをテーマにするときはなおさらだ。二宮さんは、グラフィックデザイン、エディトリアルデザイン、映画、アートの世界で起こったムーブメントを時系列に整理し、アーキグラムの時代的な位置づけを明確にしてくれた。

竹内さんのプレゼンテーションは、アーキグラムの基礎を学ぶ教科書的な役割を果たした。今までのアーキレヴューに抜けていた種類のプレゼンテーションである。このプロセスが抜けていたため、時に来場者から「発表内容が独りよがりだ/ディスカッションの文脈が理解しにくい」などという批判を受けてきた。その部分をしっかりフォローしてくれたのが竹内さんの懇切丁寧な説明である。おかげで来場者がアーキグラムについての共通認識を持つことができた。すでにアーキグラムや近代建築ムーブメントについてしっかり勉強している人にとっては少々退屈な時間だったかもしれない。しかし、この退屈な時間が大切だったのである。この時間を我慢したからこそ、続く北川さんのプレゼンテーションで多くの発言が飛び出したのだから。

北川さんのプレゼンテーションは、一生活者という視点からアーキグラムが描く都市を疑似体験するとどうなるかについて語るものだった。独自の視点である。プラグ・イン・シティやインスタント・シティが生み出す都市は、生活空間として豊かなものになるだろうか。人々の記憶に残る街になるだろうか。都市のアイデンティティは、そこで生活する人のアイデンティティを蓄積したものである。そして個人のアイデンティティを支えているのは都市空間の記憶である。都市の記憶を消し去りながら発展しようとするアーキグラムの都市像は、発展の原動力である生活者のアイデンティティを崩壊させ続ける。この自己矛盾を解決しない限り、アーキグラムの掲げる都市が実現する可能性は低いままだろう。北川さんの論旨は以上のようなものだった。

本人の思惑通り、北川さんの発表に対しては多くの議論が巻き起こった。特に浜田さんの指摘の中で興味深かった点は以下の通り。

・アーキグラムは郊外主義者。無機質で面白くない郊外住宅地の生活をどう面白くするのかを真剣に考えていた。インスタント・シティの舞台が郊外ばかりなのもその理由。

・郊外住宅地にインスタント・シティがやってきて、イベント的な刺激を与えて、次の郊外都市へ移動する。刺激を与えられた郊外都市は、他の郊外都市と連携しながら独自の都市へと変貌する。

・プラグ・イン・シティは、メタボリズムなど海外の情報に触発されて考えた後期のアイデア。アーキグラム本来のアイデアはインスタント・シティに凝縮されている。

・メタボリズムの背後には丹下健三がいたのではないか。あの時代の資料を読み込むと、丹下が言いたいことを若いメタボリズムのメンバーに言わせていたという構図が浮かび上がる。

・メタボリズムは丹下を意識していて、丹下はコルビュジエを意識している。つまり、メタボリズムもコルビュジエ以降のモダニズムという枠の内側に留まっていたことになる。

・メタボリズムと丹下の関係については、かつてピーター・クックが指摘していた。その上で、アーキグラムはそのような師弟関係にある組織ではないとしている。

・アーキグラムのコンセプトメーカーはデヴィッド・グリーン。ドローイングはピーター・クックとロン・ヘロンが担当。デニス・クロンプトンはほとんど何もしていなかったのではないか。

・最近の建築シーンを見ていると、ムーブメントの消費が早すぎるように感じる。特に最近の日本の建築家は、世界の流行を消費し尽くしてしまうのが早過ぎるのではないか。

3人のプレゼンテーションにおける「流れ」が絶妙だったおかげで、浜田さんやアーキレヴューの米正太郎さんを巻き込む活発な意見交換がなされた。ただし、議論する各人がシナリオを作りすぎていたことは少し残念だったといえよう。自分がしゃべりたいと思っていることを固定しすぎているため、対話が十分に機能していなかったのである。

例えば、米正さんが浜田さんに対して投げかけた「アーキグラムは自分たちの計画案をどの程度実現させるつもりだったのか」という質問に対して、浜田さんは明確な回答を示すことなく「建築を設計しない人が建築を批評すること(例えば浅田彰さんの一連の発言)」の弊害について語った。また、浜田さんの「アーキグラムの持つガッツから僕らは学ぶ必要があるのではないか」という発言に対して、北川さんは「アーキグラムのガッツ以外から僕らが学ぶこと」を主題に語り続けた。いずれも質問と回答がうまくかみ合っていない。

あらかじめ準備したシナリオに沿って話を展開する場面が多かったため、個々の発言は興味深かったものの、全体としてはどこかすれ違ったディスカッションに終始してしまった感がある。「質問力」の重要性を実感した夜だった。

「質問力」を高めるため、家に帰ってすぐに中島孝志さんの「巧みな質問ができる人/できない人」を読んだ。アーキレヴューの運営から学ぶことは多い。

山崎

2004年12月17日金曜日

「活動の隙間」

夕方からコモンカフェで開催された「第2回けんちくの手帖」にナビゲーターとして参加する(そういえばコモンカフェも地下にあるので電波の届かない「異空間」だ)。ゲストは「あまけん」の若狭健作さんと綱本武雄さん。

「あまけん」が発行している「南部再生」というフリーペーパーの話を中心に、運河クルージング、イモコレ、メイド・イン・アマガサキなどのプロジェクトに関する話を聞いた。印象的だったのは以下の点。

・事業の資金は尼崎公害訴訟の保証金。その他、各種助成金を使って「メイド・イン・アマガサキ」という別冊を作っている。

・メイド・イン・アマガサキ・ショップというイベントを開催したところ、2日間で5000人の来店者があった。

・「南部再生」で取材させてもらった店や家の人から、次の取材先を紹介されることが多い。

・「南部再生」に掲載されている文章は原稿料無料で書いてもらったものばかり。有名な人も学生さんも同じく原稿料は無料。取材費も本人負担。それでも持ち込み企画や連載が後を絶たない。

・紙媒体の持つ力はインターネットのホームページとは違うように思う。紙媒体で印刷して配布してしまうと、誤字脱字にいたるまで編集者が責任を持たなければならない。WEBのように途中で更新/訂正することができない。それだけに紙媒体はWEBよりも読者に訴える力を持っているのではないか。

・冊子を発行することによってネットワークがどんどん広がっている。

・会費(年会費1000円)によって、現在では印刷費を賄えるようになっている。

「あまけん」はイベントやWEBや冊子をうまく使いこなしながら、尼崎市の南部地域に緩やかなムーブメントを作りつつある。フリーペーパーも第16号を数えるに至った。知名度も徐々に上がってきている。フリーペーパーもかなり質の高いものになっている。学ぶべき点は多い。

その上で考えておかなければならないことがある。このプロジェクトが当初から活動資金を持っていたということだ。同種のプロジェクトの多くは自費でフリーペーパーを作成、印刷、配布している。活動資金を手に入れるまでに消え去るフリーペーパーも多い。「あまけん」と同じスタートラインへたどり着く前に、実は多くの試練が待っているのだ。

活動資金が手に入るようになってからの方向性については「あまけん」が優れた手本になることだろう。問題はその手前にある。自費でのフリーペーパー発行から、継続的な活動資金の確保まで。巷にあふれるフリーペーパーと「あまけん」の活動をつなぐ部分。今後の「けんちくの手帖」は、その隙間部分に着目した議論を展開したいと思う。

山崎

2004年12月14日火曜日

「異空間」

兵庫県立大学の赤澤宏樹さんが結婚したので、友人5人でささやかなお祝いをしようという話になった。もちろんこの時期なので忘年会も兼ねたお祝い会である。「お祝い忘年会」の会場は心斎橋の「恋のしずく」という居酒屋。地下2層分を使って、路地や小橋や縁側など「和の異空間」が作り込まれた店だった。

最近オープンする店は地下空間を活かしたものが多い。事務所の周辺にも数件の地下居酒屋がオープンした。先日、精神科のドクターと食事したのも地下の店だった。なぜ地下の店が人気なのだろうか。

地下空間が「日常の喧騒から逃れたい」という客の心理をうまく掬い上げているからだ、という説明も可能だろう。地下へ潜るという行為そのものが現世から距離を取る行為であり、だからこそ地下はレクリエーションのための異空間になりやすいのだ、という意見。これはいかにも正しそうだ。でも、異空間に浸りたいというだけであれば、商業ビルの中にもそれなりの店が存在する。必ずしも地下である必要は無い。

たぶんこういうことなんだろう。地下の店は「携帯電話の電波が届かない」という点において地上の店よりも「異空間」になりやすい。最近では、携帯電話が繋がらないことの言い訳が「地下」以外に見当たらないほど街中に電波が飛び交っている。携帯電話の電源を切るという行為には本人の意図が感じられる。でも、地下へ潜るという行為からは携帯電話の電波を逃れるという意図が感じられない。だから、電波が届かなかったことを咎められる心配も無い。僕らが誰からも束縛されずに楽しい時間を過ごそうと思えば、もはや地下へ潜るほか無いのである。

店の客がそのことを意識しているのかどうかはわからない。単に「落ち着く店だなぁ」と感じているだけかもしれない。友人との会話に集中できて満足しているだけかもしれない。しかし、その心地よさや満足感は「外部から電話がかかってこない」という状況に支えられているのである。この点においては、東京ディズニーランドとて「異空間」になりきれていないのである。

友人の1人が「お祝い忘年会」の集合時間に遅れた。店の場所がわからなかった彼は僕らに何度も電話したそうだ。彼からの電波が「異空間」に届かなかったのは言うまでも無い。

山崎

2004年12月12日日曜日

「アウトレットモール」

アウトレットモールへ行く。特に買いたいものがあるわけではない。休日のレクリエーションとしてアウトレットモールという方法があるのではないか、と思ったからだ。

僕たちはレクリエーションというと公園を思い浮かべる。公園を設計している者の悲しい性だ。市民の健全なレクリエーションのために僕たちは公園を設計している。建前はそういうことになっている。ところが、世の中には公園のほかにもレクリエーション施設がたくさんある。いや、むしろ他のレクリエーション施設のほうが公園よりも人気がある。

ディズニーランドはその典型だ。公園よりもよっぽどレクリエーション機能を備えている。日常とは違う世界を味わうことによって、再生産のための鋭気を養うことができる。「ディズニーランドなんて消費社会にどっぷり浸かったレクリエーション施設じゃないか」という批判は意味が無い。ディズニーランドに代わる「健全な」レクリエーション施設が存在するとしても、それは所詮レクリエーションのための施設なのだから。

そもそもレクリエーションという概念自体が消費社会の産物なのである。レクリエーションとは「Re-Creation」であり、日々の仕事の効率を上げるために行う再生産行為である。つまりレクリエーションの目的は「日々の仕事」という消費社会を加速させるための行為なのだ。そんなレクリエーションのための施設に対して、それが「消費社会に迎合するものであるかどうか」を問うことはナンセンスなのである。

そんなことを考えながら、消費社会が生んだレクリエーション施設であるアウトレットモールを見に行った。日曜日のアウトレットモールは大変な賑わいである。人々は、アトラクションに乗る代わりにショップの品を眺める。「ビッグサンダー・マウンテン」に乗る代わりに「ナイキ」の新作シューズを試着する。「カリブの海賊」を見る代わりに「ユナイテッドアローズ」の商品の値段に驚く。

こうした体験も日常生活からの逸脱である。日常生活における商品の値段は固定されている。「ボーズ」のスピーカーの値段は決まっている。「レゴ」のブロックの値段も決まっている。定価、つまり定められた価格で売られる。ところが、アウトレットモールには定価とは違う値段が並ぶ。日常とは違う値段の世界がそこに広がる。その世界に身を浸すことは、十分にレクリエーション機能を持つ。

もちろん、値段が安いからといってすべての商品を買うことはできない。ほとんどの商品は「安い」という状況を体験するだけの対象となる。それだけで気持ちがいいのである。「グッチ」「プラダ」「アルマーニ」。日常世界で慣れ親しんだブランドの商品が、日常世界とは違う値段で売られている。それだけで非日常的なのである。ディズニーランドと同じく「異世界」を味わうことができる場所なのである。

アウトレットモールの外観がディズニーランドと同じくコロニアルスタイルなのも偶然ではないだろう。植民地時代の建築様式は、現代人が異世界へ浸るための記号になっている。ディズニーランドもアウトレットモールも、和風であってはならないのである。茅葺民家が立ち並ぶ集落を再現したアウトレットモールは、必ず失敗することになるだろう。異世界は、「時間」と「空間」の両側面において日常世界から遠く離れていなければならないのである。

アウトレットモールがディズニーランドに似ているのは、帰る人たちを眺めていてもわかる。アトラクションを楽しむための施設であるディズニーランドには、出口付近に多くのお土産屋さんが立ち並ぶ。夢の世界の思い出を日常世界に持ち帰りたい人々は、そこでいくつかのお土産を買って帰る。持ちきれないほどのディズニーグッズを買って帰る人を見かけることもあるが、多くの人は片手で持てるくらいのお土産を買って帰る。

アウトレットモールから帰る人も同じくらいのお土産しか持っていない。ショッピングを楽しむはずのアウトレットモールから帰る人が、ディズニーランドの客と同じ量の商品しか買わないというのは不思議なことかもしれない。しかし、異世界に身を浸すという機能から考えると、ディズニーランドもアウトレットモールも同じなのである。どちらもアトラクションを楽しむ空間であり、どちらもショッピングを楽しむ空間なのである。

その意味で、アウトレットモールの売り上げはそれほど大きくないのではないかと心配してしまう。人々は安い値段を楽しんでいるだけで、ショッピングを楽しんでいるわけではない。帰る人が手にしているお土産の量もディズニーランドのそれと変わらない。だとすれば、個々の店舗の売り上げは伸び悩んでいるはずである。入園料を取らないアウトレットモールはどうやって生き延びるのか。興味深いテーマである。

同じく入園料を取らない公園がどう生き延びるのか。これまた興味深いテーマである。


アウトレットモールの賑わい

山崎

2004年12月11日土曜日

「焼肉」

大阪で焼肉と言えば鶴橋駅周辺が有名である。電車を降りると焼肉の匂いがするほど焼肉屋が多い。その鶴橋でも有名なのが「鶴一」という店。夕食時には店の前に列ができることが多い。

本店と支店がすぐ近くにあるのも特徴的だ。本店は七輪を使っているため店内に煙が充満している。一方、支店は無縁ロースターを使っているため煙は少ない。鶴一の客は、まず店を選ぶことによって肉の焼き方を決めることになる。

どちらの店を選ぼうとも、夕食時には相当時間並ぶことを覚悟しなければならない。支店には待合室があるが、本店の場合は店の外に列を作って待つことになる。冬の寒空の下、列を作って焼肉屋に入るのを待つというのは過酷な作業である。並ぶ人が体を小刻みに揺らしているのも無理はない。

店内へ案内されるまでの時間は永遠にも感じる。ただし、店に入ってしまえば外に並んでいる人がいることを忘れてじっくり焼肉を味わってしまう。「満腹になって店を出る人」と「震えながら店の前で並ぶ人」とがすれ違う入口付近。そこには微妙な空気が流れている。店から出てくる人の満足げな顔に対する羨望と嫉妬とが入り混じった眼差し。一方で、またひとつ座席が空いたことに対する期待感。そんな感情を相殺しながら、店員が自分の名前を呼ぶその時をひたすら待ち続けるのである。

本店の場合、店に入ると炭火の入った七輪がテーブルの上に置かれる。支店では、無縁ロースターに残っている前の客の炭火の上に新しい炭が足される。送り込まれる風の強さを調節することによって、火を新しい炭に移すことができる。風の強さを調整して火力を調整するのは客の仕事だ。肉を焼き始めると油が滴り落ちて炭が燃え上がる。風量を調整することによって肉の焼き具合を制御しなければならない。

好みの肉を注文する。カルビ、ロース、ハラミ。いろいろな肉が大きな皿に盛られて配膳される。実際、素人の僕たちにはどの肉がカルビでどの肉がハラミなのか区別がつかない。仮に区別できたとしても、どの肉から焼き始めればいいのか判断できない。結局、皿の右側に盛られた肉から順に焼いていくことになる。

考えてみれば、焼肉とは不思議な食べ物である。自分が注文した料理を自分で調理して食べる。店が用意するのは薄くスライスした肉と炭火と調味料。火力は自分で調整する。肉の焼き具合も自分で調整する。焼けた肉の味付けも漬けダレを使って自分で調整するのだ。そんな食べ物のために、店の前で長い時間待ち続けているのである。僕たちはそこにどんな魅力を感じているのだろうか。

他の料理なら、すぐに食べられる状態まで調理してから配膳される。焼き加減や味付けは料理人に任せる。出てきたものがおいしければ料理人を褒め称え、出来が悪ければ料理人の文句を言う。料理が出てくるタイミングや順序も批評の対象となる。

料理する者と食べる者。通常のレストランでは客と店の役割が明快に分かれる。しかし焼肉屋の場合はこの構図が成り立たない。料理人が途中までしか料理しないからだ。焼き加減や味付けは客に任される。店と客のコラボレーションによって料理が完成する。そこに焼肉の魅力がある。焼き加減や味付けを自分用にカスタマイズできること。自分が焼いた肉を仲間に薦めることができること。料理の味に関する賞賛の一部を自分に向けることができること。

料理のプロセスをオープンにすることによって、食事を通して「できること」が広がる。レストランのコース料理には無い魅力である。これは、建築やランドスケープの設計にも通じる魅力だろう。

「作ることをどこで止めるか」。建築やランドスケープの設計プロセスをオープンにすることによって、たくさんの「できること」が出現する。可能性が広がる。コンクリートの打ち放しで完璧に作られた住宅もいいだろう。しかし、壁に絵を飾ろうと思っても金具ひとつ取り付けられないのは寂しい。設計者に相談しても「この空間にその絵は似合わない」と言われるのがオチである。

僕たちは「焼肉型」の空間を経験したいのか、それとも「コース型」の空間を経験したいのか。そんなことを考えながら、僕は自分で焼いた厚切りのカルビをたらふく食べた。

山崎

2004年12月10日金曜日

「研究者と設計者」

午前中は、兵庫県立淡路景観園芸学校の学生から修士論文の相談を受ける。子どもの遊び場や利用者が参加する公園づくりについて研究したいと言う。仙田満さんの公園や世田谷のプレイパーク、そしてユニセフパークプロジェクトなどを紹介しながら、論文の構成について議論した。

午後7時から兵庫県家島町の振興計画に関するブレーン会議に出席する。この計画には2年前から関わっている。通常の振興計画とは違って、計画の内容について住民が話し合い、その結果を計画本文に盛り込んでいる。家島町役場が考える「町の方向性」と、住民が考える「自分たちがやりたいこと」を重ね合わせた振興計画。この計画書の完成は、新しい振興計画のカタチを示すことになるだろう。

ブレーンの一人である清水郁郎さんはラオスでの調査を終えて帰国したばかりだった。来年3月には再度ラオスへ調査に行くという。話を聞くうちに研究者という生き方が羨ましく思えた。もちろん僕が想像するほど楽しいことばかりではないはずだが、自分の一生をどこでどのように過ごすかという点において研究者は幸せだと感じたのである。

午後10時から病院の庭の設計に関する打ち合わせに出席する。このプロジェクトには、異なる3つの設計事務所の設計者が関わっている。ランドスケープの設計プロセスとしては特殊な進め方である。3つの事務所が協働しているというよりは、たまたま3つの事務所に所属する個人が集まって新しいユニットを作った、というほうが正確な表現だろう。普段は別の事務所で仕事をしている3人だけに、集まって議論すると新鮮なアイデアが生まれる。朝まで続いたこの打ち合わせは非常に刺激的なものだった。こういうコラボレーションこそ、僕たちの世代が選び得る仕事のスタイルだということを実感した。

研究者にもこの種のコラボレーションはあるだろう。学際領域の研究には多く見られる研究スタイルである。設計者か研究者か。どちらも魅力的な生き方である。

山崎

2004年12月5日日曜日

「もうひとつの側面」

東京学芸大学の学生4人と話をする機会があった。サッカー部に所属する彼らは試合のために大阪を訪れていた。

礼儀正しく、周囲に気を配り、話題が豊富で、楽しい会話を次々と展開する4人だった。偏見かもしれないが、この特徴は僕が考える典型的な「体育会系の学生」である。個人差はあるものの、彼らは総じて外向的な性格の持ち主だった。初対面の僕もすっかり昔からの知り合いだったかのように夜中まで話し込んだ。

彼らは外交的であると同時に柔軟である。話題の変化にも即座に対応する。ひとつの考え方に固執しない。これは、変化への対応を即座に迫られるスポーツをしている人の特徴なのかもしれない。僕が考える外向的で柔軟な人(外/柔タイプ)の特徴は以下のとおりである。

・礼儀正しい。
・ノリがいい。
・場の雰囲気を即座に理解する。
・声が大きい。
・話のテンポを大切にする。
・話題が豊富である。
・盛り上がるとどこまでも調子に乗れる。
・話の切り替えが早い。
・諦めが早い。

一方、最近の僕は文化系の人とプロジェクトを進めることが多い。これまた偏見かもしれないが、文化系の人は内向的な性格の持ち主が多い。内向的で頑固な人が多いような気がするが、なかには内向的だけど柔軟な人もいる。僕がいま一番気に入っているのは、この「内向的で柔軟な人」である。鉄道マニアやコンピュータマニア。このフィールドに、実はかなり魅力的な人たちがいることに気がついたのである。

内向的で柔軟な人(内/柔タイプ)は以下のような特徴を持つ。

・じんわりと面白い話をする。
・少人数だとかなり面白い話をする。
・ひとつの話題を長く語り合う。
・物事を整理して考える。
・コツコツと作業を進める。
・緻密な作業を得意とする。
・完璧を目指す。
・簡単に諦めない。
・約束したことをちゃんと覚えている。
・友達を無駄に増やさない。
・ひとつのことにじっくりと取り組む。

ここ数年、僕は上記のような「内/柔タイプ」の人間になりたいと思って努力してきた。鉄道マニアやコンピュータマニアの友人から多くのことを学んだ。まだ完全な「内/柔タイプ」になれたわけではないが、それでも少しずつ理想像に近づいていると自惚れている。いずれ僕は憧れの「内/柔タイプ」の人間になるはずなのだ。

そういう状態で、体育会系「外/柔タイプ」の学生と接したのである。それはとても新鮮な体験だった。東京学芸大学サッカー部の学生4人との会話は、自分が持つもう一つの本質を呼び戻してくれた。かつてラグビー部に所属していた体育会系「外/柔タイプ」の人間だということを、僕に思い出させてくれたのである。

今でこそ自分が「内/柔タイプ」の人間であるかのようにすました顔をしているものの、僕はもともと体育会系「外/柔タイプ」の人間なのである。長い間「内/柔タイプ」の人たちと一緒にいたから、自分もそれに近づいたのではないかと勘違いしていただけなのだ。

文化系の生活を送っている人も、たまには体育会系の人と接するべきである。そうすれば、自分が本当はどちらのタイプに属する人間だったのかを見極めることができるからだ。

文化系/体育会系という2項対立はケシカラン、という意見もあるだろう。僕もそう思う。人間にはどちらの側面も宿っているのだから。でも、だからこそひとつの側面だけをアクティブにし続けないほうがいいと思うのである。もう一方の側面を顕在化させるような状況に身を置くことを薦めるのである。

そんなことを考えながら、僕は体育会系の学生4人とスポーツの話や体臭の話、女の話や金の話などを楽しんだ。

山崎

2004年12月4日土曜日

「やり方とあり方」

INAX大阪で開催されたアーキフォーラムにコーディネーターとして参加する。ゲストは塚本由晴さん。

あらかじめ1つのお願いを伝えておいた。塚本さんは過去のアーキフォーラムに何度も出演している。自作であるアニハウスやミニハウスやガエハウスについては、既に何度もプレゼンテーションしているのだ。一方、今回のテーマはランドスケープである。今回もいままでと同じように自分が設計した住宅を中心に話すのであれば、テーマがランドスケープである意味はないだろう。だから今回は、塚本さんが普段撮っている風景や建築の写真を通じて、ランドスケープをどう見ているのか、建築をどう体感しているのかを語って欲しいとお願いした。

簡単に言えば、自分の建築作品を使わずにプレゼンテーションして欲しい、というわけだ。塚本さんはこの条件を快諾してくれた。新しいプレゼンテーションに挑戦するつもりだという。アニもミニもガエも使わずに建築やランドスケープを語ってくれるというのだ。

講演のタイトルは「建築の経験」。建築の「あり方」とそこでの「やり方」とが一致しているとき、そこに豊かな建築の経験が育まれるというのが塚本さんの論旨だ。建築の形態と、その建築におけるマネジメントの整合性と言えば整理しすぎだろうか。塚本さんは以下のような例を挙げて「やり方」と「あり方」が一致した建築の体験について語った。

コスタリカのポルトビエホにあるホテルでの経験。このホテルは、熱帯雨林に生える樹木のうち、幹の直径が20cm以下のモノだけを伐採して確保したランダムな敷地に建てられている。ホテルといっても小さなコテージが熱帯雨林の中に分散しているだけの設え。コテージは屋根とデッキと蚊帳で構成される簡単なものである。

熱帯雨林では、室内と屋外を仕切る壁が要らない。虫の侵入を防ぐために蚊帳を吊るだけでいい。スコールに備えて簡素な屋根があり、地面を踏み固めないようにデッキがあれば、そこに蚊帳を設置して寝泊りできる。屋根は猿がいたずらして椰子の実を落とすため、弾力性のあるテント地で作られている。

熱帯雨林でのアクティビティはインストラクターが教えてくれる。高い木々の間を空中移動するアクティビティは専門のインストラクターの指導が不可欠だ。ところがこのインストラクター、夜になると厨房で料理を作っているという。1人が何役もこなすことで簡素なホテルの経営が成り立っているようだ。そのせいだろうか、無駄な設備はほとんど見当たらなかったという。

ホテルの「やり方」と「あり方」とが一致している。だからこそ豊かな建築の経験を味わうことができたのだ、と塚本さんは言う。その他、印象に残った建築の経験は以下のとおり。

・福岡県の「元祖長浜屋」。店に入ることがラーメンを1杯注文することを意味する。残された言葉は「麺の固さ」と「スープの濃さ」の指定だけ。作る人と食べる人の協働が見られる。

・ボストンのボールパーク。野球場の中にいろいろなお店や広場があって、凝縮された都市のように感じる。「野球好き」という共同性があるため、ボールパークのランドスケープは楽しげに見える。

・ストックホルムの湖水浴施設。北欧の短い夏を楽しむための施設。水に飛び込んだり日光浴をしたりするための建築で、自己責任による利用が前提となっている。管理は受付のおじさん2人が掃除をする程度。

・ストックホルムの水上カフェ。河川沿いを歩く人も水上に船を浮かべる人も立ち寄るカフェで、陸上と水上の人の間にちょっとしたコミュニケーションが発生する。

・シアトルの図書館。コールハースが設計した巨大な図書館には、随所にパブリックスペースが設けられている。そこでは職種や人種に関係なくいろいろな人が時間を過ごすしている。また、司書のサポートもレベルが高い。

一方、日本のパブリックスペースはほとんどが商業化してしまっている、と塚本さんは指摘する。お金を払わずに「ただ居られる場所」というのがますます減っているのではないか。渋谷の街や六本木ヒルズや難波パークスは、自分が責任を持たなくても誰かが掃除をしてくれる都合のいい「擬似公共空間」である。この種の公共空間に飼いならされると、人々は自分からアクションを起こそうという気持ちを忘れてしまう。そんな問題意識から、塚本さんは都市空間の実践を取り戻すべくさまざまなインスタレーションを行う。ホワイトリムジン屋台やファーニサイクル、コタツパビリオンなどは、参加者に空間の実践を楽しんでもらうための「きっかけ」なのである。

僕たちが考えている「自己責任の風景」や「獲得される場所」も同じ考え方だ。利用者が自分で獲得したと思える場所が都市に増えれば、無責任で無関心な風景が少しは改善されるのではないか。そのためには、デザイナーがサディスティックに空間を規定し続けるのではなく、ユーザーが空間を使いこなすためのきっかけを設定するようなアプローチが求められる。ユーザーに改変されてしまう空間を提供すること。改変されることを喜ぶ風景。僕たちは、そんな風景のことを「マゾヒスティックランドスケープ」と呼んでいる。

ところが塚本さんは「マゾヒスティックランドスケープ」という言葉から違う印象を受けたという。郊外や中山間に見られるようなケバケバしい看板や無機質な団地が並ぶ風景。痛めつけられて壊れてしまった風景。マゾヒスティックランドスケープという言葉からは、そんなイメージが立ち現れるような気がする、という。

代わりに塚本さんが提案したのは「セレブレーションランドスケープ」という言葉。祝福するランドスケープである。利用者を祝福し、迎え入れ、仲間になるようなランドスケープが、利用者の主体性を引き出すきっかけになるのではないか。塚本さんがストックホルムを訪れたとき、自分が街全体から祝福されているように感じたことが印象深かったという。

「マゾヒスティック」か「セレブレーション」か。正反対とも思える2つの言葉が共有しておかなければならないのは、そこでの「やり方」と「あり方」の一致だろう。往々にしてこれまでの建築は「あり方」だけで問題を解決しようと苦心してきた。そんな「力技の建築」を超えて、建築の「あり方」をそこでの「やり方」に一致させるべきだと思う。

アニハウスやミニハウスなどの自作を使わないプレゼンテーションは、塚本さんにとって初めての経験だったそうだ。だから過去に使ったプレゼンテーションのデータを転用することができない。画像と言葉を1つずつ選びながら、ゆっくりとプレゼンテーションが進められた。新しい画像のサイズを変更させたり回転させたりしながら、建築の経験について語る塚本さん。段取りが悪いという指摘もあった。でも僕は、そういう塚本さんの「やり方」を通して、塚本さんの「あり方」が以前よりも理解できたような気がした。その意味でなかなか興味深いプレゼンテーションだったと思う。

塚本さんがますます身近な存在に感じられた1日だった。そのせいだろうか。この後、夜中の3時まで塚本さんと飲みに歩くことになる。


塚本由晴さん

山崎

2004年12月3日金曜日

「2番手を維持する方法」

学生時代から付き合いがある精神科のドクターが大阪へ遊びに来た。2年ぶりの再会である。この2年の間に彼は職場を変わっていた。以前と同じく東京で働いているのだが、同時に学生として研究にも勤しんでいるという。

彼によると、医療や研究の現場では1番手よりも2番手のほうが面白い発想を生み出しやすいという。1番手はどうしてもトップを走り続けるという気負いを感じてしまうため、知らず知らずのうちに無難で汎用な手法に落ち込んでしまう。ところが2番手は1番手を追うことに徹するため、自由な発想を駆使して新たな世界を切り開こうとする。往々にして革新的な発想は2番手の思考から生まれることが多いのだ、と彼は言う。

デザインの世界でも同じことが言える。1番手を走るデザイナーは、俗に「守りに入った」と言われるようなデザインを展開し始めることが多い。一方、1番手を追う2番手はさまざまな手法で先頭を走るデザイナーを追撃する。その手法は多様でありユニークである。

仮に2番手が1番手を駆逐することができたとする。すると今度はその2番手が1番手になる。自分が1番手になった瞬間、彼は2番手の追撃がどれだけ激しいものなのかを思い知ることになるだろう。そして、社会が自分に期待している「無難さ」を思い知ることになるだろう。かくして、新たな1番手もかつての1番手と同じような無難さと汎用さを以てデザインの世界から姿を消すことになる。

それを回避する方法はいくつかあるだろう。そのひとつに「枠組みの拡大」という方法がある。ある枠組みで1番手になると同時に、上位の枠組みの最下位としてスタートすること。これによって、評価のフィールドは一気に広がる。隈研吾さんに代表される方法だといえよう。

アンチポストモダンという姿勢によって日本のポストモダンの1番手になるや否や、枠組みを建築全体に広げて「アンチ建築」を主張し始めた隈さん。その後、建築の世界で1番手になりつつあれば、さらに枠組みを広げて「アンチ資本主義社会」を唱えることになる。隈さんは「アンチテーゼ」を用いることによって、常に既存の枠組みを広げてきたのである。

現在自分が戦っているトーナメントは、もうひとつ大きなトーナメントの予選なんだと考えること。そんな考え方がトーナメント優勝をもたらすのかもしれない。

自分を包囲する枠組みをうまく操作することによって、僕は「攻める2番手」であり続けたいと思う。

山崎

2004年12月2日木曜日

「庭園の運営」

奈良の紅葉が見頃だよ、という話を聞いた。さっそく奈良へ行ってみた。

京都に比べて奈良は開放的な印象がある。特に、奈良市の中心部ではあまり「境界」を意識することがない。奈良公園、東大寺、興福寺、春日大社。どこまでもずるずると入っていける場所が続く。24時間、鹿も人間も自由に出入りできる。これは日本でも珍しい都市のあり方だと思う。

逆にいえば、優れた庭園が成立しにくい都市だということもできる。「園」は、その文字の形のとおり四方を囲まれた場所に作りこむ理想郷である。つまり、境界を必要とするものである。その意味で京都は有利である。境界や結界が張り巡らされた都市だからだ。

では、奈良に優れた庭園が無いのかというとそうでもない。実は奈良公園のすぐ近くに魅力的な庭園が2つ並んでいる。依水園吉城園である。奈良公園や県庁方面からはその入り口を見つけにくいが、それゆえひっそりとした落ち着きのある空間を保ち続けている庭園である。奈良の紅葉がきれいだというのであれば、見に行くべきはこの2つの庭園だろう。

吉城園は、依水園に比べると小さな庭だが、地形の起伏に富んだ風景は魅力的だ。特に、地形や植物が建物と相互干渉している様は興味深い。「池の庭」へ突き出た縁側と庭木の関係や、手打ちガラスに映りこむ紅葉の見え方などは、どうがんばっても僕には作り出せないような空間の質を担保している。

依水園は前園と後園から構成される庭園で、吉城園に比べると平坦な敷地である。前園はもともと興福寺の一部だった場所で、1670年頃から既に庭園として利用されていたという。一方、後園は明治32年に奈良の富豪が作った庭園であり、これら2つの庭園をあわせて依水園と呼ぶ。前園は閉鎖的で繊細な作りこみが多く見られる庭園だが、後園に至ると春日山、若草山、東大寺南大門を借景とする開放的な風景が広がる。庭園の特徴である「閉鎖」と奈良の特徴である「開放」をうまく組み合わせたシークエンスが楽しめる空間だ。

ただし残念なのは、後園の一番奥まで行くと突然観光バスの駐車場に出くわすことだ。依水園の名前の由来とされる杜甫の詩には「緑の水と竹林が美しい庭園」という一文がある。明治時代には後園の奥にちゃんと竹林があったそうだ。ところがその場所は東大寺の南大門に近かったため、奈良県が土地を買収して東大寺へ来る観光バスの駐車場にしてしまったという。依水園の経営者は、どうして竹林を奈良県に売ってしまったのだろうか。

気になることがある。吉城園と依水園は、隣り合う2つの庭園にもかかわらず、入園料に大きな差があるのだ。吉城園の入園料が250円なのに対し、依水園の入園料は650円。さらに依水園の入り口には、園内施設の改修などにかかる費用が足りないため寄付を募っている旨が示されている。

250円と650円。どうやら、奈良県が運営する吉城園に比べて、財団法人が運営する依水園は財源を確保しにくいようだ。明治期の富豪に依拠したこの財団法人は、入園料や寄付金によって施設維持に努めている。見た目は同質の管理が施されている2つの庭園だが、その運営体制においては大きな努力の差があるのだ。

民間組織で庭園の運営を持続させるのは難しいだろう。特に高度成長を終えた国において財団法人が運営資金を捻出するのは至難の業である。依水園の経営者には頭が下がる思いだ。県営と財団経営。ひょっとしたら、依水園の奥にあった竹林を奈良県に売らなければならなかった原因は、こうした「経営母体の体力差」にあったのかもしれない。

そうだとすれば、庭園名の由来にまでなっている「依水の竹林」を買い取った奈良県は、それを駐車場にしてしまうのではなく竹林のまま保存すべきだったのではないだろうか。経営難に陥っている財団法人に対する側面支援として竹林を買い取ること。その竹林を奈良県が保全すること。このことよって、依水園という公共財を適正な状態に保つことができるのだから。

開放的な東大寺の駐車場には、今日も多くの観光バスが並んでいた。


吉城園の庭と縁側のせめぎ合い


依水園の紅葉

山崎

2004年12月1日水曜日

「都市の縮図」

OPUSというフリーペーパーの編集部から「仕事のモットーは何ですか?」と問われた。改めて考えると、答えはいろいろ沸いてくる。

楽しいことをやりたいと思っているのは確かだ。しかし楽しいだけじゃダメだってこともわかっているつもり。最低でもクライアントに満足してもらえるような仕事をしたいと思っている。その上で、クライアントだけでなく社会に対してもプラスに働くようなオプションを狙っている。そして僕自身は、そんな仕事を楽しみながら続けたいと考えている。だから、仕事を持続していけるだけの儲けも必要になる。

以上の考えを「仕事のモットー4段階説」としてまとめると、以下のような優先順位が浮き彫りになる。

第1段階:クライアントの満足
第2段階:社会への貢献
第3段階:自分の楽しみ
第4段階:若干の儲け

しかし、こんな答えはいかにも教科書的だ。「いい人」だと思われかねない。もっと単純で根源的で汎用なモットーがあるはずだ。そんなことを考えながら、一言だけOPUS編集部に返答した。

その一言を含め、100人のデザイナーに聞いた「仕事のモットー」がフリーペーパーとして配布された。ライター、グラフィックデザイナー、プロダクトデザイナー、シェフ、アーティスト、編集者、アートディレクター、家具職人、カフェ店主、建築家、ランドスケープアーキテクトなどなど。「仕事のモットー」の百花繚乱である。

各人の「仕事のモットー」に共通しているのは「仕事を楽しむ」という態度。何らかの形で仕事を楽しんでいる人が多いようだ。でも、僕が気になったのはその表現。「仕事を楽しんでいる」という表現が、職種によって微妙に違っている。

面白い表現はグラフィックデザイナーやアーティストに多く見られる。一方、まじめな表現は建築家やランドスケープアーキテクトに多く見られる。大雑把に分けてしまえば、プライベートセクターの仕事に携わる人は比較的柔軟な表現で読む人を楽しませてくれるが、パブリックセクターの仕事に携わる人はまじめで硬い表現しか持ち合わせていない。

建築家やランドスケープアーキテクトはパブリックセクターの仕事に携わることが多い。社会的責任を意識する機会も多い。勢い、公的な発言に対しては慎重になる。フリーペーパーとはいえ、彼らにとってそれは立派な「パブリック」なのである。そこでは、読み手を楽しませることよりも政治的に正しいことが優先される。その結果、読み手に何の楽しみも与えない「まじめなモットー」が出現することになる。100人の「仕事のモットー」には、ところどころにこうした「まじめで面白くも無いモットー」が混在している。

この構図はちょうど日本の都市に似ている。刺激的で面白い空間の中に、まじめで正しいだけの施設が点在する。そしてそんなまじめな空間をデザインしているのが、ほかでもない建築家やランドスケープアーキテクトなのである。OPUSのフリーペーパーは都市の縮図だと言えよう。


オプスプレス特別号

山崎

2004年11月30日火曜日

「ツールと能力」

「マスマティカ」というソフトについて話し合う機会があった。僕は詳しく知らなかったのだが、このソフトは結構優れモノで、既にいろんな業界で使われ始めているらしい。

名前のとおり、基本は数学ソフトである。数式とコマンドによっていろんな操作ができるようになっている。だから物理学や生物学でも利用するし、マーケティングや人口予測にも活用できる。もちろん、建築やランドスケープや土木にも応用できる。

建築やランドスケープに応用した場合、敷地のレイアウトや意匠の検討、3Dモデリングによる構成の検討、多様な素材間に見られる相同性の検討など、さまざまなシーンで活躍する。

しかし、このソフトが優れている点はそれだけではない。マスマティカはいろんな業界で使われている。だからこそ、異業種同士のコラボレーションにおける共通言語として機能するのである。医療、福祉、教育、建設、経済、政治、文学、歴史、アート。異なる分野とコラボレーションする際、もっとも体力を使うのがコミュニケーションの問題だろう。それぞれの分野が独自の用語を使うため、その特定の意味が把握できないことが多い。建築を学ぶものにとって経済の本が読みにくいのと同様に、他の分野の人にとって建築の本は非常に読みにくいのである。ここに、異業種間における共通言語の必要性が見出される。

マスマティカの基本的な考え方を理解すれば、その応用方法は無限に広がる。各業界がマスマティカを使うことになれば、異なる業界でも同じ言語を使って作業を進めることになる。これによって、旧来の異業種間コラボレーションが全く新しいステージへと移行するかもしれない。だからこそ、少し大変だがこの「共通言語」を覚えようとする人が増えているのだろう。

ここで注意したいのは「コミュニケーション能力」と「コミュニケーションツール」の関係である。人は往々にしてコミュニケーションがうまくいかないことを「ツール」の問題として了解したがる。

英語という言語はコミュニケーションのためのツールである。外国人とのコミュニケーションがうまくいかないのは「英語」というツールのレベルが足りないからだと考え、あわてて英会話教室へ通う人がいる。海外で生活していたとき、日本からの留学生が語彙力を高めるために英単語をたくさん暗記しているのを目にした。そこには「英語というコミュニケーションツールのレベルを上げれば自動的にコミュニケーションがスムーズになるだろう」という楽観が漂っている。

しかし、英語は単なるツールである。英会話に求められるのはツールばかりではない。コミュニケーションの能力も重要な側面である。人と接するときの表情、言葉の選び方、会話のテンポ、話題の豊富さ、相づちの入れ方、話の速度や抑揚、身振り、自分の信念や意見など、全人的なコミュニケーション能力が相手に評価される。実際、使う英単語の数は驚くほど少ないにもかかわらず、いつも楽しそうに外国人と会話する人がいる。重要なことは、コミュニケーションに関わる能力とツールのバランスなのである。

自分のコミュニケーション能力の低さをツールでカバーしようとするのは間違いだ。マスマティカは単なるツールである。マスマティカをマスターすれば誰とでも快適にコラボレーションできると思わないほうがいい。どれだけツールの取り扱いに優れていても、コラボレーションしたいと思える相手でなければコミュニケーションは発生しないのだから。

共通言語が無くても、卓越したコミュニケーション能力でそれを乗り越えてしまう人がいる。僕はむしろ、そういう人の能力にあこがれる。

山崎

2004年11月29日月曜日

「St. Georges」

フィリップ・スタルクがボトルをデザインしたミネラルウォーターがある。コルシカ島の泉源水を封入したサン・ジョルジュ(St. Georges)のミネラルウォーターである。ボトルのデザインはシンプルで、黒いキャップが印象的だ。

このボトル、日本で手に入るかどうかはわからない。でも目下ペットボトルマニアな僕としては、なんとかしてこのボトルを手に入れたいと思っている。どうやら通販でフランスから取り寄せることができるようだが、時間がかかるし手続きもめんどくさそうなので別の方法を検討している。

ボトルのサイズは、1.5/0.5/0.33リットルの3サイズ。通常のスーパーマーケットでは扱っていないことが多く、高級食品スーパーやウォーター・バーなどで販売されているミネラルウォーターなのだという。

フランスでデザインされたものでも、その気になれば日本でそれを手にすることができる。所有することができる。これは嬉しいことだ。工業デザインと空間デザインの違いを感じる。


スタルクデザインのサン・ジョルジュ

山崎

2004年11月28日日曜日

「雑誌の編集」

雑誌の編集に携わるかもしれない。ランドスケープに関する雑誌の編集を担当しないか、という打診を受けている。でも僕は、雑誌がどうやって出来上がるのかを知らないし、広告をどうやって取ってくるのかもわからない。わからないけれど、新しい雑誌のディレクションを頼まれているからそれに応えたいと思っている。僕が編集した本が書店のランドスケープを変えるのなら、それも僕の仕事だと思い込むようにしている。

だから最近は雑誌が気になってしょうがない。ふと「pen」という雑誌が目に留まった。今回の特集が面白そうだったからだ。テーマは「美しいブックデザイン」。ついつい立ち読みしたくなるテーマだ。

立ち読みをし始めてすぐ、僕は内容の濃さに驚嘆した。今まで僕は、編集者という視点から雑誌を分析したことなんて無かった。改めて作る側から雑誌を眺めると、雑誌が持つとてつもない情報量に唖然としてしまう。

まずは広告がすごい。最初のページがベンツの見開き広告。次のページはソニー。さらにケント、バーバリー、フジフィルム、マイクロソフト、グッチ、アルマーニと続く。どうすればこういう企業の広告契約を獲得できるのだろうか。

アルマーニの次のページまで進むと、やっと目次が登場する。コンテンツがまたすごい。まずは立て続けに世界のニュースが並ぶ。ニューヨークから3つのニュース。パリからも3つ、ロンドン、ローマ、ベルリン、ストックホルム、北京、サンパウロ、それぞれ3つずつのニュースが掲載されている。文章と写真は現地在住のライターが担当しているのだろう。執筆者や撮影者の名前を調べると、どうやら各都市に2~3人の契約ライターがいるようだ。

特集の内容もすごい。ムナーリの絵本、CBSのブックデザイン、原弘の装丁、バーゼル派のグラフィック、60年代のチェコデザイン、オッレ・エクセルのデザインを立て続けに紹介。さらに、現在の人気グラフィックデザイナー5人に「自分にとって重要なブック・デザイン」を聞いている。その人選も冴えている。一昔前のブルース・マウ路線ではなく、まさに今が旬のイルマ・ボームを筆頭に、マルコ・ストリーナ、フリードリッヒ・フォスマン、原研哉、チップ・キッドという顔ぶれ。半年前、かなりがんばって原研哉さんとの対談を実現させたことを思い出す。「pen」は、その原さんを含めた世界のグラフィックデザイナー5人に「重要だと思うブックデザインを挙げよ」と問いかけているのである。これはとてもかなわない。素直にそう思った。

その後のページでも、日本の個性派グラフィックデザイナー4人、世界の人気出版社3社、5人の書店店長が進める本15冊などが紹介されている。ここまでくると、何をどうすればこういう特集を実現できるのかがまったくわからない。僕の知っている世界とはまったく違うロジックで、雑誌という1冊の作品が組み立てられている。そう感じた。

特集のほかに11本のコラムが連載されている。さらに第2特集として「銀塩のような味が出せるデジタルカメラ」が紹介されている。すでに記事の内容はほとんど頭に入っていない。総ページ数は215ページ。これだけの情報量を毎月編集している人がいる。そのことを考えたとき、僕が取り組もうとしていることの重大さを改めて思い知った。

いや、もっと正確に表現すると、その重大さを思い知ったのはもう少し後のことだった。そう、この雑誌が「毎月」ではなく「月2回」発行されているのを知ったときだ。そのとき僕は、編集者の能力と作業量の甚大さを思い知ったのである。

僕はきっと違う路線を探すことになるだろう。情報収集の方法、執筆依頼の方法、写真撮影の方法、どれをとってもこんなに大規模で高速度な編集はできない。販売も同じだ。一般の書店に並ぶような流通経路とは別のルートを探すことになるだろう。定期購読から始めるべきなのかもしれない。考えるべきことは山ほどある。そのことに気づいただけでも相当有意義な立ち読みだった。

いや、立ち読みしている場合ではない。さっそく購入して内容を粒さに研究しなければ。。。

レジで雑誌を購入する僕は、そのとき更なる驚愕を経験することになる。かくも多くの人に協力させて作った雑誌が、なんとたったの500円で売られているのである。僕が新しい雑誌に対して漠然と考えていた定価の3分の1の値段である。発行部数と広告数のうまい連動があるからこそ実現できる定価だということはわかっているつもりだ。わかっているつもりだが、500円はあまりにもお買い得すぎると思うのである。

雑誌の編集を引き受けるのであれば、相当本気で編集の方向性を検討しなければならない。しごく当たり前の決意を再確認した夜だった。



山崎

「価値の相対化」

京都建築フォーラムで井上章一さんの話を聞く。

井上さんはゆっくりと正確にしゃべる人だった。ニコニコ笑いながら講演する。昨日の隈さんも物腰の柔らかい人だと思ったが、井上さんはさらに柔らかい。威圧感のないさわやかさが会場に漂っていた。

「愛の空間」を読んで以来、僕は井上さんの考え方に興味を持っている。この日の講演タイトルは「スケベ建築」。井上さんは講演タイトルの「ひどさ」を謝りながら話を始めた。

講演の主題は「建築表現が持つ力」について。井上さんは、建築の表現が人々を魅了するだけの力を持ち得るのか、ということを疑う。この点については僕も懐疑的で、建築を見て涙を流したと言う人の話はどうしても素直に聞くことができない。

井上さんは、ブルーノ・タウトというドイツの建築家が日本の桂離宮を絶賛したことを例にとって「建築が持つ力」を相対化する。ブルーノ・タウトが愛人であるエリカさんと日本へ訪れたのは1933年のこと。その際、訪問した桂離宮を褒めちぎったという。桂離宮は世界的な建築家タウトをして絶賛させるほどの建築である、というのが通説のようだが、果たして本当にそうなのだろうか。

井上さんは、タウトが日本へ来た経路に着目する。ドイツからトルコ、ソビエトへと渡り、シベリア鉄道でウラジオストックへ。さらにウラジオストックから船で敦賀へ。タウトとエリカは、極北の地を60日間も旅して京都へたどり着いた。そして、この長旅の翌日にタウトは桂離宮を見学することになる。

シベリア鉄道の旅や日本海の船旅を経てたどり着いた新天地で、愛人のエリカと2人で眺める桂離宮。旅の経緯を考えれば、そこが桂離宮でなくてもタウトは感動したのではないか、というのが井上さんの意見である。ドイツでナチスに命を狙われ、離婚裁判は泥沼化し、シベリア鉄道と船で長旅を敢行した先で出会った桂離宮。隣には愛人のエリカがいる。タウトが感動したのも無理はない。

この話は桂離宮の評価を低めるものではない。そうではなくて、建築を鑑賞する主体の心理状況、気温、気象、同伴者の有無等が、鑑賞される建築の評価に大きく影響するのではないか、ということを指摘しているのだ。さらには、建築よりも人間のほうが人に影響を与えるのではないか、ということを指摘しているのである。タウトの場合、エリカと2人だったことが桂離宮の評価に大きく影響しているのではないか。

事実、井上さんは都市や建築を調査しても、通りがかる女性に魅力を感じることのほうが多いという。

・パリを巡った後で脳裏に焼きついていることを丁寧に思い起こしてみると、建築や街並みよりも、風で偶然めくれたスカートの中に見たパリジェンヌの下着のほうが鮮明に思い出されるという。
・建築学会賞を受賞した建物を見学しても、建築の空間ではなく受付のお姉さんがきれいだったことのほうが印象に残る。
・つまり、建築は生モノ(女性)の魅力に勝つことができないのではないだろうか。

僕も同じ意見だ。建築の作品性を強調したり、建築の表現を神聖化しないほうがいいと思う。一般的には、建築に感動を求める人なんてほとんどいないのである。実際、彫刻を見る目と建築を見る目は違うのである。彫刻に感動する人はいるとしても、それが設置されている美術館という建築に感動する人は少ない。ランドスケープも同じだろう。「風景を見て涙を流す」というシチュエーションは、むしろ特殊な精神状況にある人の経験だと考えたほうが自然なのである。

人が感動するような風景を作りたい。ランドスケープデザインに携わる人なら一度は掲げる目標だろう。しかし、この目標を無批判的に輸入すべきではない。「美しい女性」と「美しい風景」のどちらに目が行くのか。そして、どちらが脳裏に焼きつくのか。建築やランドスケープにどれほどの力があるのか。それを冷静に判断しなければならない。

風景(ランドスケープ)の美しさを盲目的に信じたり、それを過大評価するようなメンタリティーに出会うと、僕はいつもげんなりしてしまう。僕らは風景の価値を一度相対化しておくべきなのである。

山崎

2004年11月27日土曜日

「サディスティックな負け方」

INAX大阪で開催されたアーキフォーラムにコーディネーターとして参加する。ゲストは隈研吾さん。

隈さんからは、亀老山展望台、運河交流館、森舞台、水/ガラス、石の美術館、陽の楽家、広重美術館、バンブーハウス、グレイト(バンブー)ウォール、ONE表参道、東京農業大学「食と農」の博物館、東雲キャナルコート、阿弥陀如来坐像収蔵施設、福崎立体広場に関するプレゼンテーションがあった。

ディスカッションで一番聞きたかったことは単純だ。「負ける建築」を標榜する隈さんの建築も、僕たちランドスケープ側から見ると「ぜんぜん負けてないじゃん」と思えるような強さを持っている。だから「どこが負けているんですか?」という率直な質問がしたかった。

隈さんの回答は以下の通り。建築はそもそも強いものである。この強さを少しでも和らげる必要がある。周囲を威圧するような建築は作りたくない。しかし逆に強さを覆い隠してしまうような偽物の弱さを捏造するのも嫌だ。つまり、建築を弱くしたいけど、建築が持つ強さを隠蔽したくはない。この相反する理想を実現するために「どう負けるべきか」を模索しているところなのだという。

隈さんは、今後さらに大きな建築物の設計を依頼されることになるだろう。「負ける」を標榜する者としては、さらに不利な状況に立たされることになるだろう。単純なことだが「負ける」の難しさは建物の大きさに比例する。小さい建物ほど「負け」やすい。建物のスケールによって「負け方のバリエーション」が必要になるかもしれない。

その他、ディスカッションでは隈さんから以下のような話が出た。

・ルーバーなど壁面の取り扱いに固執しているように見えるかもしれないが、一番こだわっているのは床面の取り扱いである。
・ルーバーのピッチは素材によって変えている。木材とアルミ材では、同じピッチでも印象がまったく違う。
・最初から面白い仕事を依頼されることはほとんど無い。条件の厳しいものばかりである。それをどこまで面白いものにすることができるか。隈さんの作品はほとんどが「面白くした」仕事の結果。
・亀老山のビデオ画面が灰皿として使われたり、広重美術館の庭に石や松を配されそうになったりする。このように市民が勝手に空間を改変するような力については、あまりポジティブに捉えていない。
・原広司研究室での修士論文は「住居集合と植生」。集落の家と周辺の植生との関係性を定量的に捉えたかった。結果は、明確な相関関係が出ずに大失敗。
・建築とランドスケープとでは取り扱っている素材の粒子が違う。両者の「きめ細かさ」や「硬さ」をなじませるよう努力することが多い。
・目指しているのは、建築が周辺環境に「負ける」という状況なのかもしれない。

隈さんが考えていることは驚くほどランドスケープ的だった。しかし、僕たちが考えているようなマゾヒスティックなアプローチではなかった。隈さんの『負け方』はサディスティックである。このことが実感できたのは大きな収穫だった。


隈研吾さん 


たくさんのご来場ありがとうございました。

山崎

2004年11月26日金曜日

「建築の愛し方」

隈研吾さんの「建築の危機を超えて」を読む。

本書は、隈さんが1977~87年(23~33歳)までに発表した文章をまとめたもの。冒頭から、「建築は悪である」ことが繰り返し述べられている。隈さんによれば、建築における悪は以下のとおり。

・建築自体があらゆる環境破壊の元凶であること。
・建築の施工から設計、そして評論に至るまでの広い領域で前近代的な談合体質が健在であること。
・建築産業全体が技術とも合理性とも遠い前近代的な斜陽産業であること。

さらに建築家に対する指摘は続く。痛快なものを以下に挙げる。

・建築家だけが空間をつくっているわけではない。建築家のつくるものだけが空間だと考えるのは建築家の思い上がりである。
・建築にあまり本気で取り組まないほうがいい。あまりむきになっていると、自分はこんなにむきになってやっているのにどうして金も女にも縁がなくて、一方高校のときの友達はくそつまらない保険会社なんかに勤めながらもなぜあんなに優雅にやっているのかと、醜い嫉妬に取り付かれる。
・いかにしたら建築批評独特のもったいぶって深刻で、そのくせ退屈で知的レベルの低いディスコースを解体できるか。

それでも隈さんは建築を愛している。

山崎

「カッコいい負け方」

「隈研吾読本」を読む。

1999年に出版されたこの本は、2004年に発行されることになる「負ける建築」に繋がる議論が多い。インタビュアーである二川さんのファシリテーションがうまいからだろうか、発展的な議論が展開されている。

この本のなかで隈さんは負けることの魅力について語っている。プロレスの話題にヒントを得て、建築にも「負ける」というワザがあることに気づいたという。「カッコ良く負けるのは勝つよりもよっぽどいいことかもしれない」。

さらにその後の議論で、負けをどう見せるのかが重要だという結論にたどり着く。ただ負けるだけではなく効果的な「負け方」を模索する必要がある。たとえば「何も作らない」という負け方がある。これはランドスケープにも大きく関係することだ。何も作らなかったということをどう表現するのか。このことをわかってもらわなければ、うまく「負けた」ことにはならない。

公園なんか作らなくても、ただ原っぱがあればいいんだ、という意見がある。言葉どおり原っぱのまま放っておけば、いずれ開発業者の手によって何かが建設されてしまうだろう。なぜ原っぱのままがいいのか。その理由を明確にして、その土地を確保する必要がある。何かを作ろうとするメンタリティを取り除くためには、それを上回るほどの「作らない理由」が必要なのである。

明日のアーキフォーラムでは、「負け方」のバリエーションについて隈さんとディスカッションしてみたい。

山崎

2004年11月25日木曜日

「建築的欲望」

隈研吾さんの「建築的欲望の終焉」を読む。

1920年代と1980年代のアメリカは、同様に好景気だった。それは、建築的欲望が最大限に膨れ上がっていた時代だったとも言える。しかしその後、両時代とも好景気の終焉を経験することになる。同時にそれは建築的欲望の終焉でもあった。本書は、2つの時代を照らし合わせることによって建築的欲望の特徴を探っている。

建築的欲望とは何か。建築はたくさんの欲望が集積することによって立ち現れる。隈さんは、建築を出現させるために必要な欲望のことを「建築的欲望」と呼んでいる。

建築は多くのお金を要する。大きな空間を要する。建設に長い時間を要する。完成したら簡単に取り壊すことができない。これほどやっかいなものを作ろうとすれば、よほど多くの欲望が集まらない限り建築をスタートさせることはできないはずだ。建築的欲望とは「建築を成立させるくらい大きな欲望」ということなのである。逆に言えば、欲望が無いところに建築が現れることはないわけだ。

ランドスケープが設計の対象とする公共空間について考えてみよう。かつて、公共空間に人々が求めたものはモニュメントだった。明確なモニュメントがあれば人が集まった。為政者の欲望も同じだった。公共空間に記念碑を作りたがった。つまり、ここでは市民と為政者の欲望が一致しており、それゆえ多くのモニュメント空間が出現した。

しかし現在、人々は公共空間にモニュメントを求めていない。むしろ、自分達が関わることのできる公共空間を欲している。自分の家が狭いからなのか、あるいは暇な時間が増えたからなのか、もしくはコミュニティの大切さを刷り込まれているからなのか、とにかく人々は公共空間で活動したいと思っている。

為政者は、こうした市民の欲望をうまく絡み取る。市民の欲望はモニュメントを作るための言い訳として利用される。その結果、街には「市民参加型モニュメント空間」が増殖する。モニュメント空間が作り出されるのプロセスに立ち会わなかった人にとって、かつてのモニュメント空間と市民参加型モニュメント空間は見分けがつかない。建築的欲望の悪用とも呼べる行為である。

市民の欲望を素直に発露させることができる公共空間をデザインすることはできないのか。市民が欲望を吐露したくなるような公共空間。そのデザインにサディスティックなアプローチは馴染まない。作家の好みを押し付けるようなストライプやグリッドは到底機能しない。

市民の欲望を引き出し、受けとめる公共空間。空間が市民によって改変されることをも厭わないくらいマゾヒスティックなデザインアプローチ。

「建築的欲望の終焉」のなかで隈さんはこう述べている。『建築という行為を通じてあらゆる矛盾を解消し隠蔽しようとしてきた人類の文明の基本構造が問われている』と。そして『建築というエサを目の前にぶら下げることによって人々の欲望を喚起、誘導し、そのエサを与えることによってその欲望が充足されたという幻想を人々に与え続けてきた、この文明の本質が問われている』のだと言う。

そして最後をこう締めくくる。『もし今後も建築というものが世の中に建て続けられるとするならば、それは建築に対する苦い自己否定のなかからのみ、かろうじて搾り出されるべきものであろう』。

なんともマゾヒスティックな結論である。

山崎

2004年11月24日水曜日

「アンチ建築」

隈研吾さんの「10宅論」「グッドバイ・ポストモダン」を読む。

建築家は、住宅の設計が全ての建築の基本だと考えている。住宅は小さなものだが、新たな「建築的発明」をすれば世界中の住宅に影響を与えることができる。だから住宅の設計は大切なものだし、建築の世界をひっくり返す可能性を秘めた設計対象だというわけだ。

10宅論は、そんな『住宅に対する過度な思い入れ、住宅の神聖視、思わせぶり、建築家の自己宣伝―そういったものをすべて排除して、今日の日本人が実際にどういう住宅にどんな気持ちで住んでいるかをできる限り正確に記述』した本である。つまり、建築家がじっくり設計する「肩の力の入った住宅」だって、他のタイプの住宅と本質的な差異は無いんだ、ということを示した本である。

隈さんはこの本の中で、住宅を10種類に分けてそれぞれのタイプを分析している。もちろん、建築家が設計する住宅もそのうちのひとつであり、ワンルームマンションやペンション風住宅より上等でも下等でもない。住まい手にとっての住宅は、自分の世界を存分に表現できる空間であることに変わり無いのである。

そんな建築家の中でも、他の建築との差異を反復し続けたのがポストモダンの建築家達だろう。隈さんは「グッドバイ・ポストモダン」のなかで11人の建築家にインタビューしている。いずれもポストモダンの旗手と呼ばれていた建築家だ。

建築家へのインタビューは1985~86年にかけて実施された。その結果をまとめた「グッドバイ・ポストモダン」は1989年に出版されている。既に日本でもポストモダンの建築に翳りが見え始めた頃だ。ポストモダンにサヨナラするには絶好のタイミングだったのだろう。1989年の7月に初版が発行された「グッドバイ・ポストモダン」は、4ヶ月後に増刷されている。

ところで、隈さんの作品のなかでもっともポストモダンな建築「M2」は、1989年に設計されて1991年に完成している。1989年といえば、すでに隈さんがその著書でポストモダンに別れを告げた年である。にも関わらず、自作「M2」がこれほどポストモダン的なのはどういうことか。

ひょっとしたら、隈さんは1989年の時点でもなお、ポストモダンに可能性を感じていたのかもしれない。改めて「グッドバイ・ポストモダン」を読み直してみる。インタビュアーである隈さんの発言には、ポストモダンへの批判的な発言が見当たらない。インタビューを受ける11人のポストモダン建築家の発言にも迷いはない。つまり「グッドバイ・ポストモダン」は、全編を通じてポストモダンに肯定的な内容なのである。

「建築的欲望の終焉」「建築の危機を超えて」「反オブジェクト」「負ける建築」。隈さんの著作のタイトルはアンチ建築的なものが多い。ところが内容はやはり建築について論じている。批判的な文章も肯定的な文章も、建築についてのものなのである。1989年当時の隈さんは、徹底的にポストモダンを語りたかったのだろう。アンチポストモダンな態度を示しているものの、当時の隈さんはポストモダンを愛していたのである。

いま、隈さんは建築に批判的な態度を示している。建築を作ることが恥ずかしいのだと言う。でも隈さんは建築を愛しているはずだ。「グッドバイ・建築」というそぶりを見せながら、実は「アイ・スティル・ラブ・建築」なのである。

週末のアーキフォーラムでは、隈さんの建築批判に安易な同調を示すべきではない。一緒になって建築を批判した瞬間に足元を掬われることになるだろう。批判的な態度を示していても、彼は建築を愛しているのだから。


M2

山崎

2004年11月23日火曜日

「思考の変遷」

アーキフォーラムが週末に迫ってきた。第1回のゲストは隈研吾さん。今週は隈さんの著作を読み進むことによって、週末の論点を整理したいと思う。

隈さんの著作は1986年から2004年までに8冊出版されている(図面集などは除く)。

10宅論(1986)
住宅を10種類のパターンに分けて特徴を明確にしたもの。10種類をフラットに扱うことによって、建築家が設計する住宅だけが特別偉いわけではないことを示している。

グッドバイ・ポストモダン(1989)
1985~86年に滞在したコロンビア大学で、ポストモダンの建築家11人にインタビューした結果をまとめたもの。ポストモダンのムーブメントを冷めた目で分析している。

新・建築入門(1994)
「建築の歴史」を独自の視点でまとめたもの。旧石器時代から現代までの建築を眺めることによって、建築が内在せざるを得ない「構築」という手法を批評している。

建築的欲望の終焉(1994)
1986年にアメリカから日本へ帰ってきた後で発表した文章をまとめたもの。コロンビア大学時代に思考した1920年代の終焉と1980年代の終焉に見られるアナロジーについて検討している。

建築の危機を越えて(1995)
1977~87年(23~33歳)までに発表した文章をまとめたもの。本文は、建築に対する懐疑的な視点に始まり、建築がもたらす罪悪を認識することで終わっている。

隈研吾読本(1999)
二川さんのインタビューに答えるなかで、自作の考え方や「建築」との距離感を語ったもの。磯崎新さん、廣瀬通孝さん、中沢新一さんとの対談も収められている。

反オブジェクト(2000)
自己中心的で威圧的な建築(オブジェクト)を批判しながら、自作を解説したもの。オブジェクトにならない建築の作り方を模索している。

負ける建築(2004)
1995年以降に書いた文章をまとめたもの。建築は環境を破壊する。建築はお金やエネルギーを浪費する。勝ち続けようとする建築に対して、負けることで成立する建築のあり方を模索している。

以上の著作を読み進むことで、隈さんの思考の変遷を辿ってみたい。27日のアーキフォーラムまで、あと5日。隈さんの思考の変遷に僕の読書時間が追いつくかどうかが不安である。

山崎

2004年11月20日土曜日

「シチュアシオニスト」

午前中は三宮でUPPの会合に出席。先週のキャンプに参加した人たちがどれくらい来てくれるのか楽しみにしていたが、あいにく新しい参加者が集合するより前に三宮を出発しなければならなかった。そのまま四ツ橋のINAX大阪へ移動。

少し遅れてアーキレヴューの会場に到着。すでにゲストの木下誠さんが持っきたビデオを上映していた。今回のテーマはシチュアシオニスト(状況主義者)。ギー・ドゥボールの手による独特な映像を観ながら、数年前にシチュアシオニストの思想を基礎にまとめた「環濠生活」のことを思い出していた。

ドゥボールの映画は、一般的な映画とは違う手法で作られている。既存のフィルムをつなぎ合わせた「転用」という手法で作られているのである。ニュース番組、バラエティ番組、連ドラ、身分証明書の写真など、動画の一部や静止画像等を繋ぎ合わせる。そのうえで、それらを批評するテキストやドゥボール自身の声が映像の随所に挟み込まれる。無批判的な映像を再編集することによって、批評的な映画を作り出していると言えるだろう。

ドゥボールの映画や社会についての認識はこうだ。映画館で映画を観ることは楽しいことだと思い込まされている。しかし現実には、お金を支払って2時間も身動きが取れない状況を強いられているだけである。ほかに楽しいことができるかもしれないのに、椅子に縛り付けられて無駄に時間を浪費させられてしまっている。

「豊かな人生のために映画を観よう!」というスローガンを信じて映画を観に行く人にとって、映画も人生も同様に単なるスペクタクルでしかない。主体的に取り組むことのない観客としての人生。そんな人が多くなっているし、そういう人をどんどん生産しているのが「スペクタクルの社会」なのである。

だからドゥボールは「実生活の中で何かアクションを起こしてみろ」と言う。消費社会に支配されるのではなく自分なりの行動を起こすとき、社会構造はその体制を変化させなければならなくなるだろう。この考え方は、都市計画批判にも繋がる。都市計画は、知らないうちに人々の日常生活の隅々にまで入り込んでいるコカコーラのようなものだと言う。僕たちの生活は、見えない枠組みに飼いならされているというのである。

この見えない枠組みを打ち壊すような「状況の構築」が求められる。ドゥボール率いるシチュアシオニスト達は、都市に思いも寄らない状況を作り出す。数日間、あるいは数ヶ月間、都市を漂流して感じるままにアクションを起こす。誰からも援助を受けられずに、漂流の途中で病院へ運ばれることによって都市の無関心や冷血さを浮き彫りにする者もいる。

木下さんからは、現在のフランスで活動する「ネオ・シチュアシオニスト」的な団体が紹介された。「Stopub」という落書き集団である。「広告やめろ」と名乗るこの集団は、公共空間を私有化する広告に対して徹底的な攻撃を仕掛ける。「Stopub」は、自社の製品ばかりを宣伝する広告が公共空間に何の貢献もしていないこと、人々の生活を商品化していること等を指摘し、屋外空間に皮肉っぽい落書きを書きまくる「ペインティングツアー」を主催した。パリの地下鉄駅構内に貼られた広告が次々と餌食になった。

一連の落書きをドゥボール的な視点から分析すると、合格点を与えることができるものと落第するものを分けることができる。例えば、マニキュアの広告。女性の手が大きく掲載された広告に対して「気をつけろ!資本の手に捕まれるぞ!」と書くものは合格だろう。既存の広告にテキストを組み合わせることによって、ちゃんと別の意味を発生させている。一方、広告の内容に関わらず「やめろ!」とか「×」とか「金を使う代わりに頭を使え!」等を書き込んだものも散見される。これらはおよそ知的な落書きとはいえない。うまい「転用」が図られていない。

「転用」は「模倣」と区別されるべきだろう。ヒップホップにおけるサンプリングは「転用」に近い。過去の曲を部分的に利用したり、ほかの曲と重ね合わせたりして違う曲を作り出している。あるいは正反対の歌詞(ライム)を乗っけることによって、新しい曲のイメージを作り出す。そこには、既存の素材を組み合わせることによって新しい関係性を表出させようとする意図が見える。

シチュアシオニストは、既存の素材をアレンジする「転用」という手法を用いることによって、消費社会に取り込まれないような芸術のあり方を模索していたんだろう。僕たちは、無駄にオリジナルな図面を捏造すべきではないのかもしれない。長い時間をかけて真摯に検討する空間のオリジナリティこそが、消費される空間の生産を助長しているのだから。

僕も「転用」によるランドスケープデザインを模索してみよう。

山崎

2004年11月8日月曜日

「100年後の都市」

地域開発の11月号に原稿が掲載された。郊外住宅地の現在に関するレポートである。タイトルは「夏草やウワモノどもが夢の跡:死にゆく郊外について」。かつての夢の都市《ユートピア》が、いまや夏草に覆われつつある状況を報告した。

100年かけて増加した人口は、今後100年かけて減少する。100年後、日本の人口は6000万人になるという予測がある。1億3000万人から6000万人。急激な人口減少である。出産奨励策や移民受入れ策などの政策も、常識の範囲内で施行する限りは人口を増加させるに至らない。おのずと都市規模も縮小せざるを得ないだろう。都市の高度利用やインフラの効率的配置を考えると、都市域は明治期の広がりと同じくらいまでコンパクトになる可能性がある。大阪で言えば、ほぼ環状線の内側に建築物が集積する。つまり、天王寺が郊外になるわけだ。

コンパクトシティに関するスタディが盛んなのは、こうした気分を反映してのことなのかもしれない。しかし問題がある。昨今の議論では、コンパクトになった都市のあり方ばかりが強調され、残された郊外住宅地の環境についてはほとんど検討されていないのだ。素敵なコンパクトシティが完成したとして、その外側をドーナツのように廃墟が取り巻く風景をどう考えているのか。

2100年、休日に山登りへ。家を出て山へ向かう。途中50kmは廃墟の町。楽しかった山登りから帰ってくるときも同じ。どの方角から都心へ戻ろうと、必ず50kmの廃墟の帯を通り抜けなければならない。魅力的な未来とは程遠い状態である。

廃墟は、たまにあるから貴重なのであり、それを楽しむことができるのである。自分の住む都市の周囲50kmを廃墟が取り囲むことになると、僕らの廃墟に対する考え方は一気に変わってしまうだろう。もはや廃墟は珍しいモノでもなければ、ワクワクする対象でもない。消し去るべき対象になるのである。

小さくなる都市について考えるのと同時に、小さくなった後の環境について考えておく必要がある。それはまさに、今後50年は生きるであろう僕らの世代が考えておくべき問題なのである。

山崎

2004年11月7日日曜日

「病院の庭」

尼崎にある関西労災病院が新しくなった。長い建て替え工事を終えてのリニューアルオープン。前庭の設計をうちの事務所が担当した。

病院側との協議の結果、「使える庭」を作ろうということになった。単にきれいな花を植えて眺めるだけの前庭ではなく、病院利用者や地域住民が自由に使える庭を作る計画とした。

まず考えたことは、入院患者とその家族が利用できる庭。お見舞いに来た家族が、相部屋で他の患者に遠慮しながら会話するというのは辛い。庭に出てのんびり話をするほうが気持ちいいだろう。語り合える空間が必要である。

病院は病名を告知される場所でもある。告知の内容によっては、一人になりたいときもあるだろう。患者自身が一人になりたいときもあれば、患者の家族や恋人が一人になりたいときもあるはずだ。一人で泣くことのできる空間も必要である。

リハビリのために庭を利用する人も多いだろう。庭全体を安易にバリアフリー化するのではなく、あえてバリアフルな場所を作っておく。退院してから自力で生活できるように、庭の一部に一般的な道路と同じような排水勾配や縦断勾配を設ける。それは、車椅子初心者が走行練習できるような場所である。

庭を介して入院患者が地域住民と接することも重要だろう。庭の維持管理や患者の利用サポートを担うボランティアを募集したところ、定員の4倍を上回る応募があった。800字の論文審査を経て30名のボランティアを登録した。庭の近くには専属の園芸療法士が1名常駐している。ボランティアたちは、この園芸療法士を中心にして庭のマネジメントにあたっている。

現在、日本人が5人いれば1人は65歳以上である。この割合は今後もどんどん高まる傾向にある。政府は、関連施設による治療や介護に加えて、地域での予防や介護を推奨している。これを受けて福祉に関わる協議会やNPOが地域で様々な活動を展開している。

これからの病院とこれからの地域。どちらも福祉的視点を持ってダイナミックに変化していくだろう。どちらの変化も大切である。その上で気になるのが、両者の境界部分である。病院と地域が接する部分。そこは病院利用者と地域住民が出会う場所になる。

関西労災病院の前庭は、福祉型社会における「境界部分」の取り扱いについて考えるきっかけを与えてくれた。


一人の庭


ガーデンボランティア

山崎

2004年11月6日土曜日

「Maggie's Highlands」

「Maggie's Highlands」の計画案を見る。前述のマギーズ・センターが現在建設中の施設である。建築の設計はスコットランドの建築家デイビッド・ベイジ。ランドスケープの設計はチャールズ・ジェンクスが担当している。

マギーズ・センターは癌患者のケアを目的とした施設である。この種の施設では、建築のみならずランドスケープのあり方が重要になる。建築内部でできることの限界をランドスケープが広げるのである。

植物が育つことを利用したセッション。太陽の下で軽く作業することによる作用。季節や時間を意識できる環境。プログラムの質を担保するためにランドスケープはどうあるべきか。チャールズ・ジェンクスの出す解答が楽しみである。

「Maggie's Highlands」は来月オープンする予定。


Maggie's Highlands の計画案

山崎

2004年11月5日金曜日

「Maggie's Centre」

イギリスにマギーズ・センターという施設がある。癌の告知を受けた人をケアする施設である。創始者はマギー・ケスウィック・ジェンクスという女性。自身が癌患者だった。病院建築の侘しさや心のケアの貧しさに憤慨して、1995年に設立したのがこのセンターだ。

第1号はイギリス北部の街「Edinburgh」にオープン。以降「Glasgow」に第2号がオープン、そして先日第3号が「Dundee」にオープンした。いずれもイギリス北部の街である。

すでにマギーは癌で亡くなっている。その意思を引き継いでセンターの建設を進めているのは、マギーの夫で建築批評家のチャールズ・ジェンクス。先日オープンした「Maggie's Centre Dundee」の設計は、ジェンクスの友人であるフランク・ゲーリーが担当。ゲーリーは施設の趣旨に賛同し、無償で設計を引き受けている。

メタリックな外観と木材を多用した内装。コンパクトな規模にまとめられた建築は「家」のような暖かさと親しみやすさを持っている。患者やその家族が情報を収集したり交換したりするためのスペースが用意されている。各種セラピーやエクササイズも行われている。

マギーが問題にしたのは建築のカタチだけではない。建築のカタチに加えて「心のケア」というナカミを問題にしている。換言すれば、それはプログラムや人材における質の問題である。建築の形態だけを突き詰める議論で見落としがちな「ナカミの質」という問題。僕らはカタチとナカミの質をバランスよく考える必要がある。至極当然のことだが、これが意外と難しいことなのである。

今後、マギーズ・センターは英国中に13の関連施設をオープンさせる予定。すでにダニエル・リベスキンド、ザハ・ハディッド、リチャード・ロジャースなどが設計を引き受けている。




Maggie's Centre Dundee

山崎

2004年11月4日木曜日

「Auroville」

インド南部の都市、マドラスのさらに南にオーロヴィルという都市が建設されている。この都市は1968年から作り続けられており、未だ全体計画の半分しか完成していない。「作り続けるプロジェクト」のなかでも息の長い部類に属するプロジェクトだ。

この都市の基本的な考え方は、インドの哲学者スリ・オーロビンドが唱えた「人類は、自己中心的な存在から共生主義的な存在へと進化しなければならない」というコンセプトに基づいている。具体的な都市の建設は、オーロビンドの弟子だったフランス人芸術家ミラ・アルファッサによって進められた。

現在の人口は1500人。インド政府によるロ護法やユネスコによる支援によって、オーロヴィルは着実に安定した都市へと近づいている。オーロヴィルでの生活に規則はなく、良心に基づいた行動が尊重されている。また、明確な指導者の存在を否定していることも特徴的である。

都市の作り方にしても、基本的なマスタープランはあるものの、細部は住民の興味に任せて作られている。新たな試みや実験を繰り返しながら同時多発的に都市建設が進んでいる。ゴールが設定されていないため、急激な開発も起きずゆっくりと都市建設が進められている。

1500人もの人が暮らし、基本的なマスタープランを軸にゆっくり都市建設が進められているオーロヴィル。そこには規則も指導者も存在しない。確かに宗教っぽい匂いのする側面も多い。しかし細かな教義が明文化されているわけではない。緩やかな信条のようなものが住民の間で共有されているだけだ。

オーロヴィルの建設が始まったのは1968年。この都市が60-70年代のヒッピー文化を引き継いでいることは確かだろう。ほかのヒッピーコミュニティと同様、オーロヴィルも熱心な環境保全主義コミュニティである。

程度の差こそあれ、「作り続けるプロジェクト」は思想や宗教の力を借りなければ持続させられないのだろうか。特にカタチに関する宗教的な側面を抑えることはできないのだろうか。オーロヴィルの中心部には、いかにも宗教的なモニュメントが建っている。




オーロヴィルの中心部

山崎

2004年11月3日水曜日

「水面利用」

9日間だけ中ノ島の東に川のターミナルを作るという「天満埠頭」へ行く。天満埠頭は、僕が主宰する「けんちくの手帖」のイベントに来てくれた中谷ノボルさんや岩田雅希さんが関わっている「水都OSAKA」のプロジェクトだ。アトリエ・ワンの塚本由晴さんが大阪に来たときボートに乗せてくれた吉崎かおりさんもこのプロジェクトに関わっている。各人から話を聞いていたので、ぜひ期間中に現場へ行きたいと思っていた。

大川に浮かべられた桟橋の上に臨時のカフェが設営されており、その西側には船の発着所が設けられている。水に浮いた床面の上で食事をするのは不思議な気分だ。微妙な揺れが気分を落ち着けてくれる。隣の発着所から出て行く船や戻ってくる船を見ているだけでも飽きない。ついつい長居してしまった。

天満埠頭は、大阪の水辺を活用するための社会実験なのだという。こんな楽しい社会実験なら、ぜひ何度も繰り返して水面を気楽に利用できる世の中にして欲しいと思う。

前回僕らを船に乗せてくれた吉崎さんも現場に来ていた。彼女は自動車の運転免許を持っていない。当然、車も持っていない。しかし船舶の運転免許は持っていて、自分の船も持っている。中古船は、中古車を買うような値段で買うことができるそうだ。

彼女は船で大阪を移動している。どんなに道路が混んでいても、水路はいつもすいている。快適なドライブを楽しむことができる。ゆっくりできるときは、エンジンを止めて船の上でのんびり読書をするという。

普段は意識しないけれど、実は僕の知らないところで気持ちよく移動している人がいる。僕の目の前の道路がどれだけ渋滞していても、水路をのんびり移動している人がいる。水路を利用してみて、そのことを初めてリアルに感じた。

この感じ、かつてメーリングリストの存在を知ったときのようだ。僕の知らないところで大量の情報が移動しているという事実。このことを知ったとき、僕は新しい世界に出会った喜びと、そのことを今まで知らなかった悔しさを同時に感じた。すぐにいくつかのメーリングリストに登録したのを覚えている。今回も同じだ。さっそく僕は船舶の免許が欲しくなってきている。




天満埠頭

山崎

2004年11月2日火曜日

「ゆっくり作り続ける」

ゆっくり作り続けるプロジェクトに興味がある。例えばバルセロナのサグラダファミリア。技術的には20年で完成するようだが、資金集めを考えると今後200年ほど続くプロジェクトなのだという。

サグラダファミリアのプロジェクトにおいて、設計図はどういう役割を果たしているのだろうか。財源はどうやって確保しているのだろうか。人材はどのように育てているのだろうか。「ゆっくり作り続ける」ということは、カタチの問題だけではない苦労が付きまとう。そういった諸々のことを僕は知りたいと思っている。

インドの南部に位置するオーロヴィル。ここは環境実験都市と呼ばれている。哲学者スリ・オールビンドの考えに従って、弟子のミラ・アルファッサが作り始めた都市だ。環境都市の建設に対しては、インド政府だけでなく国連のユネスコもたびたび援助している。

アメリカのアリゾナに位置するアーコサンティ。パオロ・ソレリという建築家が先導する自力建設都市。当然、環境にも配慮している。ソレリの造形哲学は「アーコロジー」というもの。建築とエコロジーを組合わせた彼の造語である。

日本では、代官山のヒルサイドテラス(槇文彦氏)や八王子の大学セミナーハウス(吉阪隆正氏)のプロジェクトが「ゆっくりつくり続ける」という側面を持っている。特に吉阪氏の「不連続統一体」というコンセプトは、それ自体に「ゆっくり作る」という考え方が含まれているようで興味深い。

ただし、どのプロジェクトにも「作り続ける」ための方向性を示す人が存在している。それはガウディであり、アルファッサであり、ソレリであり、槇であり、吉阪である。「作り続ける」ためには、作る側の強烈な牽引者が必要なのだろうか。参加者が主体的に作り続けることによって空間が自己組織化されていくようなプロセスは望めないのだろうか。

クリストファー・アレグザンダーは、具体的な図面を示さず「作り続けるプロセス」に方向性を示そうと努力した人だといえる。建設に携わる人たちが相談して空間のあり方を決める。その際に使われる「パタンランゲージ」というルールブックは、空間を生み出すときに留意すべき項目だけを示している。

ただし、パタンランゲージにはアレグザンダーの好みが大いに反映されている。全編を通して歴史回顧主義的な空間を勧める記述が目立つのである。

あと1歩、何かが足りない。「作り続ける」プロセスに参加する人すべてが主体的に関わることのできるプロジェクト。そんなプロジェクトは理想的過ぎるのだろうか。カリスマ設計者が描いた空間の実現を手伝うだけではなく、かといって「様式」を強要するルールブックに従って作るわけでもない方法。

そこにこそ、ユニセフパークプロジェクトが作り続けるプロジェクトになるための答えが隠されているような気がする。

山崎

2004年11月1日月曜日

「Unicef Park Project」

前回ここに書いた「子どもと遊び場を作る計画」の名称は「ユニセフパークプロジェクト」。国連のユニセフと日本の国土交通省がタイアップして進める事業である。

このプロジェクトでは、参加する子どもだけでなく子どもの活動をサポートする大学生や社会人がとても重要な役割を担っている。総勢70人のファシリテーターと呼ばれる大学生や社会人。彼らを募集するのに「ユニセフ」という看板が必要だった。

「子どもと遊び場を作るプロジェクトに参加しませんか?」という呼びかけに応募する人の属性は想像通りである。子どもが好き、自然が好き、遊びが好き。そういうボランティアが集まることになるだろう。プレイパークや公園づくりのワークショップを何度か主催して、集まるボランティアの属性が固定化していることに気づいた。

5年前このプロジェクトを始めるとき僕は、多様な属性の大学生や社会人を公園づくりに巻き込みたかった。少なくとも、子どもや自然や遊びが好きな人だけで群れ固まるのはやめたかった。多様な属性の人にアピールする言葉は無いか。そのとき思い浮かんだのが「ユニセフ」だった。

「ユニセフ」という言葉からイメージされるものはさまざまだろう。「ユニセフ+パーク」からイメージされるものはさらに多様だろう。案の定、このプロジェクトのボランティアに応募した人たちの属性は多様だった。国際交流、福祉、子ども、自然、公園、教育、世界平和、遊び環境。さまざまな専門分野を持つ人たちが集まった。

それから5年。来年の3月には、世界10ヶ国の子どもたちがユニセフパークプロジェクトに参加する。多様な国の子どもたちと多様な専門分野を持つボランティアたちは、いつもどおりじっくりと公園づくりを楽しむことだろう。


Unicef Park Project 2003

山崎

2004年10月31日日曜日

「ゆっくりという方法」

「3DCG」という方法でしか作れないものがあるとすれば、逆にじっくり時間をかけた手作業でなければ作れないものはあるのだろうか。大島哲蔵さんは「コンピュータ社会と建築」の中で、同じスペインにあるゲーリーのビルバオグッゲンハイムとガウディのサグラダファミリアを比較してこんなことを書いている。

フランク・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイム美術館のように「金属の花」といわれるような入り組んだ架構が、ガウディの建物の数十分の一の時間と労力で完成してしまう。これこそ「進歩」であり何の問題も無いと思われるかもしれないが、そうとも言い切れない。つまり長い時間と手間をかけて、多くの関係者の頭脳、技術そして労働力を集約するからこそ、精神的な価値観と文化的な象徴性を地域の人が共有できるのかもしれない。

大島さんの指摘は正しいと思う。郊外住宅地の開発に見られる感情的な問題のうち、大きな比率を占めるのがスピードの問題である。開発の速度が速すぎるため、今まで土地に住んできた人たちにとっては変化が「突然」すぎるのである。

従来、地域は少しずつゆっくり変化してきた。旧市街地でもそれは変わらない。都心部の再開発問題で取り上げられるのは日照権など目に見えるものが多いが、実は異質なものが「突然」地域に入り込んでくることに対する心理的な抵抗感が背景にあるように思う。

環境問題もスピードの問題に関わる。つまり、人間の開発速度が自然の回復速度を上回ってしまうから環境問題が顕在化するわけだ。人間の手で少しずつ自然を開墾している場合、それほど大きな問題は起きないし、結果的に里山などの豊かな2次自然環境が出来上がることも多い。問題は人間の手の力を大幅に上回る機械を導入し始めたときに起きる。機械による開発は、自然の回復能力を凌駕するスピードを持ってしまうからだ。

里山に子どもの遊び場を作る。5年前にそんな計画を担当した。今までのやり方なら、里山の木を切って土地を造成して、自分がデザインした遊具を配置しただろう。でも、当時の僕はそうしたくなかった。速度の問題である。里山の中に遊び場を「突然」作り上げても、それはあまりハッピーなことではない。部分的に「里山ゾーン」を残すことも嘘くさい。「里山ゾーン」と「遊具ゾーン」の持つ速度がバラバラだとすれば、2つのゾーンが隣り合っている理由は見当たらない。

以来5年間、その遊び場はゆっくりと作られている。今年の夏も、50人の子どもと50人の大学生が遊び場を作り続けた。来週も1泊2日で遊び場の続きを作る。5年前に子どもだった参加者が大学生になって戻ってきている。遊び場が成長する速度と子どもが成長する速度が一致し始めていることを感じている。


Unicef Park Project 2004

山崎

2004年10月30日土曜日

「3DCGという方法」

「Ty Nant」のボトルをデザインしたロス・ラヴグローブ氏の作品集「supernatural」を眺めてみる。そこには、ペットボトル、椅子、自転車、テーブル、照明器具、螺旋階段など、うねるような曲線で構成されたプロダクトが並ぶ。いずれも、水や骨、樹木、人体、民族家具などといった有機的な対象をモチーフにしている。

「Ty Nant」の図面も少しだけ載っている。図面と言っても、3次元で表現されたコンピューターグラフィックによるものである。立面図や平面図などで表しにくい「Ty Nant」の形態は、自由に回転できる3次元の図面で表現される。ペットボトル表面の割付は、3次元で各面を同時に考えないと全体がつながらないのだろう。サイバー空間でバーチャルなボトルを作りながら検討しているようだ。

フランク・ゲーリーも同じようにサイバー空間内で一度建築をすべて建ててしまうという。最近では、リチャード・セラも同じような3次元ソフトを使って作品の構造を計算しているそうだ。

建築やアート、そしてプロダクトデザインの世界で、サイバー空間における緻密な作業が展開されている。一方、ランドスケープデザインはもともと地形という不定形な要素を相手にしてきた。しかし、ランドスケープデザインの事務所では、いまだに等高線を読み取って模型を作成し、その模型を見ながら地形の改変について話し合っていることが多い。今、複雑な起伏のデザインが求められた場合、建築家やアーティストやプロダクトデザイナーのほうが面白い解答を提示する可能性が高い。

等高線を読み取って模型を作りながら地形改変をスタディする方法に限界があるのなら、3DCGについてしっかり勉強するべきだろう。「やっぱり等高線を読み取ることが大切だよね」とか「模型を手でじっくり作ることは何物にも変えがたいな」という言葉は、「3DCGという方法」を完全にマスターしてから使いたいものだ。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0714843679/qid=1099827905/sr=1-2/ref=sr_1_26_2/250-6538407-6682617

山崎

2004年10月29日金曜日

「archiforum」

不思議な経緯で、今期の「archiforum」におけるコーディネーター役の末席を担当することになった。ランドスケープがテーマだということなので、以前から考えてきた「マゾヒスティック・ランドスケープ」について建築家の方々と語り合う場にしたいと思う。

マゾヒスティック・ランドスケープについて議論するのであれば、まずは「負ける建築」を書いた隈研吾さんと話をしてみたい。ということで、第1回は隈さんにお越しいただくこととなった。以降、第2回には「ランドスケープを包囲する建築」について語る塚本さん、第3回には「弱い建築」を目指す藤本さんが来てくれるとのこと。

第4回以降については、ヨーロッパにおけるランドスケープの動向に詳しい槻橋さん、「非作家性の時代」を生きる曽我部さん、「環境ノイズエレメント」を調査する宮本さんなど、魅力的な方々が出演を了承してくれている。感謝、感謝。

以下、来月のアーキフォーラムに関するお知らせ。

■archiforum
 マゾヒスティック・ランドスケープ
 ~獲得される場所を目指して~

『ランドスケープは犠牲者でもないし、都市に対立するものでもないし、人々を癒すものでもない。食われてしまうべきものだ。』
アドリアン・ヒューゼ/WEST8
そもそも、ランドスケープとは、本質的にマゾヒスティック(被虐的)な素養をもった対象なのかもしれない。ここでいうランドスケープとは、ロマン主義的な庭園風景のことではなく、アーバニズムとしてのランドスケープを指している。現在、日本の都市空間を眺めてみると、新しいパブリック・スタイルとも言える行為や空間が胎動しつつあることに気づく。そこには、巧みなまでに環境を読み取って、自分の居場所を見つけている人々の姿がある。このことは、これまでの「公共空間」をかたちづくってきた一元的なシステムの限界や市民の多様な欲求にもとづく「私的領域」の変化を示しているのかもしれない。すなわち、ランドスケープにおいて、“与えるもの”から“獲得されるもの”へと変化していくアプローチが求められており、その中で建築との関係性の再考も必要となっている。
<負ける>、<弱い>、<意気地なし>、<いたれりつくせりでないこと>という言葉で語られつつある建築。
今回のアーキフォーラムでは、様々な建築家の方々を中心にお招きし、ご自身の作品などのプレゼンテーションとそれを受けたディスカッションを通じて、都市空間にマゾヒスティックな状況を引き起こすデザインアプローチの可能性について考えていきたいと思う。

Vol.01/11月27日(土)
ゲスト:隈研吾氏「負ける建築」
Vol.02/12月04日(土)
ゲスト:塚本由晴氏「建築の経験」
Vol.03/01月29日(土)
ゲスト:藤本壮介氏「Space of No Intention」

今後のゲスト予定(敬称略):
槻橋修、曽我部昌史、宮本佳明、五十嵐太郎、長坂大、遠藤秀平ほか

コーディネーター:
忽那裕樹(株式会社E-DESIGN主宰)
長濱伸貴(株式会社E-DESIGN主宰)
山崎亮(株式会社SEN環境計画室所属)

山崎

2004年10月28日木曜日

「My Water」

ペットボトルのデザインを依頼された。コンビニエンスストアなどに並ぶペットボトルをデザインすることによって、店内のランドスケープが変わるのであればそれも僕の仕事だろうと思って引き受けた。実際にスタディを始めてわかったことは、ペットボトルのデザインが持つ奥深さ。なかなか面白い仕事だ。

デザインの参考にするため、世界中のペットボトルについて研究し始めた。もっとも有名で美しいとされているのがロス・ラヴグローブ氏のデザインした「Ty Nant」というミネラルウォーターのボトル。確かに驚くべき美しさとグリップと弾力構造を兼ね備えてたボトルだ。

さらにいろいろ探してみると、台湾にこれとそっくりなミネラルウォーターがあることを発見。早速入手してみる。品名は「My Water」。ラベルが楕円形なところも丁寧に真似してある。並べてみるとリブの入り方が微妙に違うことがわかる。そのため弾力性が違っている。台湾の「My Water」のほうがやわらかくて頼りない。グリップも悪く、油断すると手から滑り落ちてしまいそうだ。一方、本家「Ty Nant」はさすがに計算しつくされた構造で、しっかりした強度を保ちながらボトルの握りやすさも実現している。

ところでこの複雑な形は、不定形な水のかたまりをイメージしたものだと言われている。ミネラルウォーターのかたまりを持ち歩いているような気分にさせるペットボトルなのである。水は不定形でやわらかく、手のひらから零れ落ちていく存在だ。その意味では、きっちりデザインされた「Ty Nant」よりも「My Water」の頼りなさのほうが「水」っぽいのかもしれない。

実際、僕は「My Water」のボトルを2回落としたことがある。


「My Water」と「Ty Nant」

山崎

2004年10月27日水曜日

「佐原鞠塢」

川添登さんの「東京の原風景」と飯島二郎さんの「日本文化としての公園」を読む。大正期の井下清さんに続いて、江戸期にも気になる人がいた。佐原鞠塢(さはらきくう)さんという人。東京の向島にある「百花園」という公園を作った人だ。

佐原さんは1766年に仙台で生まれた。成人してから江戸へ出てきて、芝居茶屋で10年ほど働いた。その間にお金を貯めて、日本橋に骨董屋を開いたところ大ヒットしたという。お金持ちになったので、新しく3000坪の土地を買って花を育て始めたのが「百花園」の始まり。友達に有名な作家や詩人がたくさんいたので、その人たちに庭に対する意見を聞いたり、梅の木を寄付してもらったりしながら百花園を作る。関わった文化人は、加藤千蔭、村田春海、亀田鵬斎、太田南畝、大久保詩仏、抱一上人、川上不白、大柳菊旦、市川白猿など。佐原さんはなかなか顔の広い人だったようだ。

こんな有名人たちを庭園づくりに参加させるというのは驚きだ。現代で言えばどんな感じだろう。大江健三郎、村上春樹、筒井康隆、辻仁成、江國香織、花村萬月、中沢新一、養老孟司、宮崎駿といった顔ぶれを集めて庭園を作るようなものか。

百花園には茶屋があって、そこで梅干や煎茶を味わうことができたという。梅干は寄付してもらった梅の木になる実を使い、お茶の葉は園内の茶畑で採れたものを使い、お茶碗やお皿は隅田川の土を使って園内の窯で焼いた「角田川焼き」だった。

この庭園には一般人もたくさん遊びに来たようだ。これも佐原さんのPRがうまかったから。佐原さんは、百花園の周辺にある寺や名所6ヶ所と百花園を合わせて7ヶ所選び、それらを結んで「七福神参り」というコースを作った。この周遊コースを人々に知らせるとたちまち流行り、百花園への来園者が急増したそうだ。江戸時代の人にしてはなかなか冴えている。

さらに、人気が出てきた角田川焼きの器を土産物として売るだけではなく、来園者みずからが「マイ湯呑み」を焼ける陶芸教室を開いたという。恐ろしいプロデューサーだ。

平成のランドスケープアーキテクトはいったい何をしているんだ!と自省の念が起きた夜だった。僕らはまだまだ面白いことができる。。。はず。


佐原鞠塢

山崎

2004年10月26日火曜日

「井下清」

小野良平さんの「公園の誕生」と白幡洋三郎さんの「花見と桜」を読む。江戸期から明治期にかけて、公園や公園的な空間でどんなことが行われていたのかがよくわかる。「公園の誕生」では制度や計画について、「花見と桜」では庶民のレクリエーションについて、それぞれ詳しく書かれている。

この時期の公園関係者で気になる人がいる。明治期の東京市公園課長だった井下清さん。この人、東京の公園をたくさん計画した人なのだが、子どもの遊び場についてこんなことを言っている。

「児童遊園の価値を生ずるものは面積にあらず、施設にあらず、実に指導者如何によるのである。それは単なる体操教師役にあらずして遊園を如何に有機的に運用するかの手腕を要する。」

児童公園の価値は、面積の広さではなく、施設の充実度でもなく、実際はプレイリーダーの質によるところが大きいんだという。しかも、単に遊びを教えたり危険を回避したりするだけのプレイリーダーではなく、公園のマネジメントもできるような人間である必要があるんだという。

的を射た言葉である。こんなことを大正期に考えていたわけだから、井下さんってのはすごい人だと思う。当時は「まだまだ公園が少ない」「遊具広場を増やせ」という時代だったのだから。


井下清

山崎

2004年10月25日月曜日

「自転車置場」

3ヶ月ほど前に「Landscape Explorer」というシンポジウムを開催した。シンポジウムでいくつかの提案を発表したが、そのひとつに「駅前駐輪プラザ」というものがあった。駅前の空虚な広場に、現れたり消えたりする園路を作り出そうという提案。舗装面に簡単なスリットを入れることによって駐輪の列を作り出し、時間によって出現したり消え去ったりする「ミラージュ・サーキュレーション」を作り出す、なんてことを考えた。

一緒に模型を作ってくれた大学院生から、さっきメールが届いた。どうやら今月号のA+Uに、同じような駐輪用スリットを持つ広場が載っているらしい。添付されていた画像を見ると、確かに「駅前駐輪プラザ」のスリットと似ている。瞬間的に「真似されたか!」と思ったが、実際そんなわけはない。ヨーロッパの建築家がすでに実現させている写真である。真似できるとすれば、その可能性は100%こちら側にある。

自分とまったく同じアイデアが遠くはなれた地で実現していることを知ったときの気持ちは説明しにくい。悔しい気持ちに少しだけ嬉しい気持ちが混ざった感覚といえば表現できているだろうか。悔しいけれど、少しだけ可能性を感じるのである。

この空間を設計したアレス・ヴィルトグートは、普通の自転車置場にスリットを利用している。でも、それではスリットを使う意味が十分に機能していない。車輪止めが地表面に突出しない「スリットという特性」を十分活かすためには、その平面形態についてのスタディがもう少し必要なんだと思う。僕が可能性を感じているのは、きっとこのスタディに関わる部分なんだろう。

近い将来、スリットを活かした駐輪スペースをしっかりデザインしてやろう、と思う。でもきっと、アレス・ヴィルトグートが僕の設計した空間を知ることはないだろう。その逆はあったとしても。



山崎