2005年3月26日土曜日

「何が可能か」

ユニセフパークプロジェクトの2日目。昨日に比べるとかなり暖かい1日だった。子どもたちは、昨日に引き続き遊び場を作った。

「暖かい場所」を作る子どもたち

子どもにインタビューするユニセフ本部のクリス氏

午後からユニセフパークプロジェクトの現場を抜け出して大阪の四ツ橋へ向かう。アーキフォーラムにコーディネーターとして出席するため。

今日のゲストはみかんぐみの曽我部昌史さん。曽我部さんの話は大きく2つに分類できる。ひとつは「建築家に何が可能か」という話。もうひとつは「使い倒される建築は可能か」という話。僕たちの問題意識に引き寄せて捉えなおすと、前者はランドスケープデザイナーという職能の問題に、後者はマゾヒスティックなデザインアプローチの問題にそれぞれ対応している。

■ 建築家に何が可能か

曽我部さんは、原広司さんの「建築に何が可能か(1974年:学芸書林)」を引用して自身の考えを説明した。原さんは「建築に何が可能か」の中でこう述べている。

『建築とは何か』という問いは、『人間とは何か』という問いが不毛であると同様に、行動の指標とはなりえない。もし私たちが人間について問うなら、『人間に何ができるか』を問うべきである。同様に建築についても、『建築に何ができるか』と問うべきであろう。

曽我部さんは、この問いをさらに推し進める。「建築に何ができるか」という問いは、社会との関係性の中に建築を位置づけるための問いである。その問いも重要だが、一方で社会の状況を読み取って自分のやるべきことを考えるという態度もあるだろう。このときに必要な問いは、建築全般を対象としたものではなく「建築家に何ができるか」という主体的な視点を携えたものになるはずである。

この問いは「目の前の状況にどう取り組むか」という少々場当たり的な建築家像について考えることでもある。そして、必要なら従来の建築家が見向きもしなかったようなプロジェクトに取り組もうという意思の表れでもある。事実そんな若手建築家が台頭しつつある、というのが曽我部さんの意見だ。

アトリエ・ワンは、積極的にアートプロジェクトへ参加したり、リサーチの結果をまとめて本を出版したりしている。阿部仁史さんは、倉庫を改装して設計事務所とイベントスペースを作り、設計活動の傍らイベントをプロデュースしている。クラインダイサムアーキテクツは、イベントスペースを買い取ってオーナーになり、「ぺちゃくちゃナイト」というイベントを主催している。

「建築家は建物を建てるだけの職能ではない」。以上の同時代的な動向を加味した上で、曽我部さんは自身のプロジェクトを説明した。例えば「十日町×十日町プロジェクト」。このプロジェクトで曽我部さんは、割り箸の箸袋をデザインしている。さらにその割り箸を使ってもらうために商店街の各店を回っている。箸袋には、その町に存在する面白いネタが印刷されている。箸袋から町のネタを仕入れた人が改めて町を眺めたとき、その風景が違って見えるとしたらそれも建築家の仕事だろう、と曽我部さんは言う。同感である。

その他、100円ショップで買った大量の「まな板」を使ったインテリアデザインやハンガーで作ったトンネル、チラシやフライヤーを挟み込むための透明な壁、アスファルトに丸い穴を穿って緑を育てる「音符ロード」など、曽我部さんの取り組みは多彩だ。

実は「建築家に何ができるか」という問いは、今に始まったものではない。1998年12月の新建築住宅特集に「建築家にできること」という特集記事が掲載されている。執筆者は安部良さん。安部さんは、バングラディッシュの村で清潔な水を確保するために、現地で簡単に作ることのできる雨水貯留設備を開発している。安部さんは雨水利用の専門家ではない。必要な情報を集めて、それを現場で建築的に展開しているのだ。安部さんは言う。「職能に縄張りは必要ない。われわれが活躍できるフィールドに垣根は無いと確信しながら、少なからずそれを実践していきたいと考えている」と。新しいタイプの「建築家」だといえよう。

新しいタイプの建築家といえば、ニューヨークに本拠地を置く「architecture for humanity」というNPOの代表、キャメロン・シンクレアさんを思い出す。シンクレアさんは毎年コンペを主催している。世界各地で問題となっている地域に対するアイデアコンペだ。コソボの難民、アフリカのエイズ患者、スリランカの津波被害などに対して、キャンプや移動診療所や学校などを提供するためのアイデアを募集しているのである。コソボの難民キャンプに対するコンペでは、日本の坂茂さんが1等を取って実際に現地でキャンプサイトが設営されている。

余談だがシンクレアさんは1972年生まれの33歳。同年代の彼の活躍を耳にするたびに僕は大変な刺激を受けている。僕がユニセフパークプロジェクトに取り組むモティベーションのひとつに、シンクレアさんの活動に対する敬意があることは確かである。

世界を見渡せば、建築家やランドスケープアーキテクトを必要としている地域はたくさんある。日本国内でも同じだ。社会の状況に合わせて建築家やランドスケープアーキテクトが携わるプロジェクトも変化していくべきなのだろう。

「建築に何が可能か」の中で原広司さんは以下のように述べている。

『何ができるか』なる問いにたいする解答の一般形は、ありそうもないことの記述であろう。『建築に何ができるか』を問われれば、いままで建築にできなかったことどもを答えればよい。技術はまさにできそうも無いことを可能にしてきた。建築や芸術も技術と同様に発見的でありたい。

この考え方は、「自分の仕事を社会の状況に合わせたい」というよりも、「とにかく今までに見たことも無いようなものを作り出したい」というメンタリティに支えられている。でも僕にとって「建築に何ができるか」はどうでもいいことである。むしろ、社会の要望に対して「建築家はどこまで応えることができるのか」という問題のほうが、少なくとも僕にとっては重要なのである。その意味で、僕は1974年当時の原さんの思考よりも、最近の曽我部さんや安部さんやシンクレアさんの活動に親和性を感じる。

■ 使い倒される建築は可能か

もうひとつは、ユーザーに使い倒される建築をどう作るか、というものである。ユーザーが自分の空間だと感じて使い倒す建築の作り方。これは僕らが「獲得される場所を目指して」という言葉で表現していることに通じる悩みである。市民が自分たちの場所だと感じるような場所をどう作るか。そのヒントに「獲得」という言葉があるように思う。

少なくとも、デザイナーが押し付けるサディスティックなアプローチで「使い倒される空間」が実現するとは思えない。この点に関しては、前述の原さんが「建築に何が可能か」の中で以下のように述べている。

デザインあるいはデザイナーという言葉には、どこかうさんくさい感じがある。憧れをもってみれば、デザインは美しいものを作るようであり、秩序を生む行為にうつる。けれども一方、皮肉に見ればデザイン行為は、ひどく独断的でおしつけがましい振舞であると見えるにちがいない。事実デザイン行為にはこうした両面がある。

この視点は僕も共感するところだ。原さんや僕だけではなく、建築空間のユーザーも、きっと同じように感じているだろう。「押し付けがましい空間」から「使い倒したいと思える空間」へ。曽我部さんは、使い倒される空間の作り方として以下の3点を挙げた。

・ゆるいカタチを作ること。不完全だと思われるくらい緩い形態がいい。ユーザーが自分で何か手を施そうと思えるような形態が、空間を使いこなそうというユーザーの意思を喚起する。形態の緩さが関わりの多様度を上げることになる。

・情報を提供すること。いろいろな使い方があるということを知らせるべきである。その情報がきっかけになって、新たな使い方が生まれることも多い。設計者の意図通りに使わなくてもいいということをユーザーに理解してもらうことが大切である。

・作るプロセスに関わってもらうこと。ユーザーが空間づくりに参加すると、その場所を使い倒しやすくなる。自分たちの空間として認識するのだろう。空間が完成した後も、使い方をいろいろ工夫することになる。

ただし、上記3点にも問題点が残っている。時間の経過である。これが曲者だ。例えば、設計者がユーザーに伝える情報はいつまで継承してもらえるのか定かではない。曽我部さんが設計した幼稚園でも、園長や先生や園児が入れ替わっていく過程で、当初の使い方の多様度が失われていったという。当初の設計意図や使い方をどう伝承していくのかが課題である。曽我部さんは、情報をまとめた本を作って保存しておくシステムを考えたいと言っていた。

参加も同じ問題を孕んでいる。参加した当時のユーザーは問題ない。問題はその後に場所を使うユーザーである。ある時代の人が参加して作った空間というのは、ある意味でその人たちの刻印が押されていることになる。遅れてきたユーザーはその刻印を随所に見て、他人の空間であると認識してしまう。空間を獲得して使い倒そうという気持ちにはなれない。ある一時期の参加が可能にすることと、後から来る人にとっての弊害をバランスよくマネジメントする必要がある。

いずれにしても、「使い倒されるデザイン」についての模索がどのあたりまで進んでいるのかを共有することができたのはありがたかった。曽我部さんが取り組んでいること、ランドスケープエクスプローラーが取り組んでいること、ユニセフパークプロジェクトが取り組んでいること。それぞれの取り組みの先端で悩んでいることに共通点があることは確かなようだ。

アーキフォーラムのディスカッションで確かな手ごたえを得た後、僕は終電でユニセフパークプロジェクトの現場へと戻った。


曽我部昌史さん

山崎

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