2005年3月3日木曜日

「閉じつつ開く」

新建築の2005年2月号に掲載された塚本さんの巻頭論文「マイクロ・パブリック・スペース」を読む。

マイクロ・パブリック・スペースというのは塚本さんの造語で、小さなスペースだけれども個人主義的ではない、開かれた共同性を持つパブリックスペースを意味する。プライベートスペースとパブリックスペースの間に浮遊するコモンスペースのようなものではないかと僕は思う。

ただし、コモンスペース/コモンズという言葉には手垢が付き過ぎている。現代の都市に生きる僕たちの問題として公共空間を捉えなおすとき、塚本さんはマイクロ・パブリック・スペースという新しい言葉の必要性を感じたのだろう。

この論文の伏線にあるのは、ギャラリー間で行われた「この先の建築」というシンポジウムにおける原広司さんと塚本さんとの会話ではないだろうか。シンポジウムの席上で、塚本さんは原さんの建築家像と自分の建築家像のズレを以下のように指摘した。

「原さんは以前どこかで『建築家は空間を考える人』だとおっしゃっていましたが、とにかく人間が暮らしているとどうしても必要になるものの取り扱いをトータルに考える人であっていいのではないでしょうか。食べ物もどうしても必要になるわけですし、ゴミ、時間、週末なんかも、どうしても発生してしまう。そういう湧いてくるもの、流れてゆくものの取り扱い、つまり使い方と維持管理の仕方を考えていくと、風景というのができてくる。僕はそういうことから建築を考えることに感心があります」。

この発言に対して原さんは、もっと明確な言語で説明するよう塚本さんに詰め寄る。なぜ流動的なものの取り扱いが重要なのか。どうして今どきコミュニティなんてことが設計の根拠になるのか。なんで未だに共同体論的な話を引きずっているのか。都市にコミュニティなんて存在しないのではないか。コミュニティに代わる言葉を提示することはできないのか。

塚本さんは、コミュニティに代わる言葉として「トライブ(同類)」を挙げる。場外馬券売り場に集まる人と美術館に集まる人は明らかに違う集団である。こうした緩やかな同種の集まりを「トライブ」と呼ぶ。「10+1」に掲載された「トーキョー・サブディビジョン・ファイルズ」で調査した結果を踏まえた発言だろう。

コミュニティよりは弱い結びつきだが、同類であることをお互いに意識しているような集団(=トライブ)。今回の論文では、こうした集団が「流れ行くもの」や「湧き出るもの」を取り扱うときに作り上げる空間のことをマイクロ・パブリック・スペースと呼んでいるのである。

都市にはさまざまなマイクロ・パブリック・スペースが必要である。自分が気に入ったマイクロ・パブリック・スペースを見つけることができれば、その場所に好きなだけ自分の時間を繋留できる。緩やかに繋がりながら広く一般に開かれたスペース。残念ながら、街を歩いていてそんなパフォーマンスを発生させている場所に出会うことはほとんどない。塚本さんは大阪で開催された「天満埠頭」という社会実験をマイクロ・パブリック・スペースの例として挙げていたが、こうしたイベントはいつも開催されているわけではない。

流れゆくものの取り扱い(フラックス・マネジメント)を通じて、その場所に誰もが関われそうなパフォーマンスを発生させること。そのためには、公共空間のマネジメントにもっとNPOの力を活用するべきだろう。

山崎

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