2006年6月18日日曜日
「計画された偶然性」
この本の主張はきわめてシンプルだ。人生のキャリアは、自分がデザインしたとおり実現するものではない。キャリアデザインに固執しすぎて、突然目の前に現れたチャンスを掴み損ねるのはもったいないのではないか。むしろ、常にオープンマインドな状態を維持し、新たなチャンスに遭遇する機会を計画的に作り出し、チャンスに遭遇した際にはすぐそれに飛び乗れる準備をしておくこと。これこそが、偶然性をうまく利用したキャリアデザインだといえるのではないか。。。
多くの人の職業選びに関する実例を挙げて、生き方がどれだけ「偶然性」に左右されているのかを分かりやすく示してくれる本だった。最近、僕が考えていたこととぴったり一致する内容である。
自分が何に満足するか。その内容は常に変化し続けるだろう。たまたま僕らは22歳くらいで職業を選択することになっている。あるいは高校を卒業した18歳か、専門学校や短大を卒業した20歳か、大学院を修了した24歳で職業を選択する。そのとき、たまたま興味を持っていたことが基準となって、僕らは職業を選択することになる。
たまたまデザインに興味があったから、デザイナーを目指してアトリエ事務所に就職したとしよう。その情熱は、一体何歳まで持続するものだろうか。就職した後も、僕らはいろんな刺激を受け続ける。僕らを取り巻く環境だって変化する。そんななかで、50歳、60歳になってもまだデザインが好きでいられるだろうか。
ある調査によると、18歳のときに考えていた職業に就いているという人は全体の約2%しかいないのだという。「将来の職業をいま決める」というのは無駄なことではないか、と疑問に感じる数字である。将来、僕らにどんなチャンスやアクシデントが訪れるか予測することはできない。それなら、常に新たなチャンスや新たな興味の対象にアプローチできるような準備をしながら、現在の興味に基づいて仕事を続けるのが得策だといえよう。キャリアデザインはオープンスコアにしておくべきなのかもしれない。
クランボルツ教授はこう書いている。「『大きくなったら何になりたいの?』たいていの人は、子どもの頃にこの質問をされた経験があるでしょう。(中略)この質問は、トレーニングを受けた大人(エコノミスト、証券のディーラー、気象学者、政治アナリストなど)でさえ、将来を正しく予測することは難しいという現実を無視して、子どもが将来を予測できると想定した質問です。毎日たくさんの想定外の出来事や偶発の事態が起こり、将来を正確に予測することは不可能です。」
さらにこう続けている。「高校生や大学生になると、将来の職業を宣言しなければならないというプレッシャーはさらに増します。分別を持ち、素直に、ひとつの職業に決めてしまうことを拒否する生徒もいます。そうすると、彼らの先生や両親は大いに失望し、彼らに『優柔不断』、さらに悪く言うと『決断力が無い』というレッテルを張ります。やってみたこともないのに職業を決めることを彼らは期待されているのです。」
どの職業が楽しいのか。どの職場が自分に合っているのか。それは、実際に働いてみなければわからないことだろう。だから僕は、声をかけてもらった仕事は何でも試してみようと思っている。どんな仕事でも、考えようによっては面白いことになると信じている。実際にやってみてから、それが「今の自分」に合っているのかどうかを判断したいと考えている。だからこそ、「その先の目標」を設定しないまま、いろんなことに関わり続けているのである。
僕は職人になれるタイプではない。時代の変化に伴って、いろんな誘惑が僕をそそのかす。自分の知らなかった世界が目の前に現れる。そういうものどもを、僕はひとつずつ体感しながら生きていきたいと思っている。
山崎
2006年6月4日日曜日
「その先の目標」
建築家の青木淳さんが、建築文化の特集号でこんな文章を書いている。「ぼくのちょっと上の世代はどういうわけか『やりたいこと』がいっぱい詰まっているように見えて、こどものとき、ぼくはずっと劣等感を持っていた。いま君がいちばんやりたいのは何か。よくそう聞かれたものだ。ぼくはそのたびごとに、え、そうなんだ、皆はそういうことをしっかり持っているんだと、自分が情けなくなったものだった。でもいつ頃からだったか、その劣等感が薄れて、そのかわりに、最初から『やりたいこと』があるという言い方の方が嘘っぽく聞こえるようになってきた。」
青木さんはこう書いた上で、設計も同じだ、と続ける。「設計はそもそも、与条件に先立って『やりたいこと』があってもぜんぜんしようのない作業である。内部空間と外部空間の融合という『コンセプト』をいくらたててみたところで、厳寒の北海道では凍死するのがオチだ。いつも設計者を離れて受け入れざるを得ない事柄がある。それを前提として何をどうすればいいのか。それに臨機応変に答えていくのが設計である。設計をしていると自分が透明になるのを感じる。与条件が、透明になった自分を通り過ぎて、かたちをつくっていく。それが面白い。そこに発見がある。思わぬことが起きる。最初からある『やりたいこと』を目指すのではこうはいかない。」
設計にも人生にも言えることだが、そこには2つの態度があるように思う。ひとつは最初から「やりたいこと」が決まっていて、それに向かって邁進する態度。もうひとつは「やりたいこと」が与条件によって変化し、その時々によって方向性を変える態度。僕はどちらかといえば、設計も人生も後者のほうが好きなタイプだ。そのほうが面白い空間ができあがるような気がするし、面白い人生になるような気がするのである。
ところが、周りの人にとっては僕の態度が前者、つまり「やりたいこと」に向かって突き進んでいるように見えるらしい。「何を目指しているんですか?」と問われることが多い。
その問いには答えようが無い。むしろ僕が知りたいくらいだ。この先がどうなるのかは特に考えないまま、いま「楽しそうだ」「やりがいがありそうだ」と感じる方向へ進んでいるだけなのだから。結果的に「こうなりました」という説明はできるのだが、「こうなりたいから今これに取り組むのです」とはいえない。いま僕がしていることは、何かになるために取り組んでいるわけではないのである。
僕にそういうことを尋ねる人達だって、僕の将来を心配してくれているわけではないだろう。僕の活動が、自分の想定する人生観の内側にあるかどうかを確認してみたいんだと思う。そこで僕が明確に「これを目指しています!」って言い切れればいいのだが、残念ながら僕は特に目指しているものがないので、その期待に応えられない。
1年ほど前から独立した立場で仕事をするようになった。特に自分の城を築きたかったわけではない。いろんな事務所の人と面白いプロジェクトをたくさんやりたかったからだ。「独立した立場になったら一緒に仕事をしよう」と言ってくれた人がいたことが大きな理由だろう。今年の4月から社会人ドクターとして研究にも携わるようになった。僕が取り組んでいたプロジェクトのひとつが、たまたま研究室の研究テーマに合っていたことがきっかけだった。博士課程で研究することを薦めてくれた人がいたからやる気になったのである。
特任講師として京都の芸術系大学へ勤務することになった。それまで非常勤講師として関わっていた僕を、専任講師として関わることができるよう大学側に推薦してくれた人がいたから実現した。芸術系大学の学生と接することは僕にとっても大きな刺激になりそうだ、ということでお引き受けした。
非常勤講師として大阪の専門学校で授業を担当することになった。建築設計事務所に勤める先輩が紹介してくれたのでお引き受けした。建築系の専門学校で環境デザインを教えるという立場が気に入っている。
兵庫県が持っている研究所の非常勤研究員として、安心・安全のまちづくりなどについて研究することになった。以前仕事でご一緒した先生が誘ってくれたことがきっかけである。その先生は経済学が専門で、僕たちとは違った視点から鋭い指摘をしてくれる。そんな先生が所長を務める研究所で研究ができるということなので、喜んで非常勤研究員をお引き受けした。
ここ1年の間に起きた変化を思い出しても、すべて「その先がどうなるのか」を想定していないことがわかる。誘ってくれたり紹介してくれたりする人がいて、それが面白そうだと感じたから引き受けた、というのがほとんどである。その結果どうなるのかというのは何も想定していない。というか、僕には想定しようがない。どうなるのかがわからないのである。僕にできることは、変化のきっかけを与えてくれた人達の期待に応えられるよう努力することだけだ。この人達には本当に感謝しているから。
人生の目標を設定して、それを達成するために計画的な生き方をすることができない僕の場合、せめて「面白そうだと感じたことに躊躇せずに飛び込む」という態度くらいは大切にしたいと考えている。
もちろん、「楽しいと思ったことをやるだけさ」という態度もいずれ変わるかもしれない。数年後には「やっぱり計画的な人生さ」と言っている可能性だってある。計画的な人生について語ることが楽しいと思えば、僕はきっとそうするだろう。適当な人生の目標を仮設定して。
山崎