土木、建築、造園、都市計画の諸分野におけるコラボレーションを考える研究会「コラボ研」に出席する。
前回のコラボ研で訪れた「友ヶ島」という島について、仮説のプロジェクトを提案した。インターネット上で友ヶ島に関する噂を流しまくるというプロジェクトである。害の無い噂であればなんでもいいから、関係者やその友人を通じて噂をばら撒く。「友ヶ島って一体どんな島なんだろう」と気になるくらい多様な噂がサイバー空間を漂えば、それらを見た人のうち何人かは実際に友ヶ島を訪れてみたいと思うのではないか。
実際に友ヶ島へ訪れれば、国防遺跡が有する強烈な印象に圧倒されることになるだろう。それだけの力を友ヶ島は持っている、と思う。「友ヶ島は面白い場所だ」といくら声高に叫んでも、実際に友ヶ島へ訪れてくれる人は限られている。その方法で人が集まるのであれば、既に観光地として繁盛しているはずだろう。新たな来訪者を呼び寄せたいのであれば、これまでとは違う方法が求められるはずである。
インターネット上で噂をばら撒くという方法について、コラボ研メンバーから「友ヶ島じゃ無くてもできる方法ではないか。日本全国、どこでも同じ手法でいいのか」という指摘があった。重要な指摘である。でも僕は、日本全国どこでも同じ手法でいいと思っている。
インターナショナルスタイルからの反省か、近代主義への罪悪感か、あるいは新地域主義の誤読なのか、最近では過度に地域主義が叫ばれることが多い。「その場所らしさを表現しなくちゃ」という強迫観念が漂っている。
しかし、僕は「その場所らしさを表現すること」自体が捏造だと感じている。「その場所らしさ」なんて幻想である。《正義》や《市場経済》と同じように、「あればいいな」とみんなが思っている幻想である。幻想の「その場所らしさ」をわざとらしく抽出して見せて、「だからこんなカタチです」とか「この場所にはこの方法が合います」なんて言うのは怪しい人間のやることである。その怪しさには下心がある。「だから僕に仕事をください」という下心である。
「場所性」は誰かが創り上げるものではない。出来上がってしまうものだし、日々変化するものである。日本全国、どこにでも同じ噂をばら撒くがいい。定着する噂と定着しない噂があるだろう。どんな噂が定着するのかによって、その場所の「場所性」が顕在化するのである。僕らが「この場所には、この噂がふさわしいのだ」なんて判断すること自体、おこがましいことなのである。
「日本全国、どこでも同じ方法です」という言い方に罪悪感を感じる必要は無い。コルビュジエは世界中のどこにでも建てられる住宅や美術館を提案した。あれはカタチが限定されている。「このカタチで建てなさい」ということになるから問題なのである。噂は違う。世界中に噂をばら撒いたって、地域によって定着するものと定着しないものがあるだろう。そこに働く力学こそが地域性なのである。
単純に言おう。日本語でばら撒いた噂は、アフガニスタンに定着するはずがないのである。その地域にそぐわない言語、内容、ニュアンス、表現を持つ噂は、決してその地域に定着しない。逆に言えば、世界中に同じ噂をばら撒くことによって、地域性を顕在化させることができるのである。
「どこでも同じやり方」をうまく利用すれば、地域ごとの特色を浮き彫りにすることができるはずである。
山崎
2005年7月2日土曜日
2005年6月29日水曜日
「子どもは勝手に育つ」
兵庫県立人と自然の博物館が変わろうとしている。改革のための委員会が実施されるというので、そのお手伝いをさせてもらうことにした。
委員会には、著述家の三浦朱門さん、総合地球環境学研究所の日高敏隆さんをはじめ、人と自然の博物館の岩槻先生、神戸大学の野上先生、大阪大学の鳴海先生、武庫川女子大学の角野先生、兵庫県立大学の岡田先生など、いずれも興味深い話をされる先生方が出席していた。
なかでも興味深い話をしたのが日高さん。子どもの教育という話になったとき、「子どもは本来自分で育つものである、という認識に立たなければならない。」と言われた。その通りだと思う。「先生方のなかには、教育しなければ子どもは育たないと考えている人が非常に多い。そういう考え方では、あるところで成長が止まってしまう。子どもたちは自分たちで育つものだということを基本にして、それをどう支えるのかが教育の考えるべきことだろう。」という日高さんの発言は、ユニセフパークプロジェクトが目指すところと一致している。
ところが、子どもが勝手に育つのであれば教育や学校が必要なくなってしまう。だから日高さんは「あまりそういう発言をしないで欲しい」と教育委員会に怒られたことがあるそうだ。もちろん、かなり昔の話だろうけど。
山崎
委員会には、著述家の三浦朱門さん、総合地球環境学研究所の日高敏隆さんをはじめ、人と自然の博物館の岩槻先生、神戸大学の野上先生、大阪大学の鳴海先生、武庫川女子大学の角野先生、兵庫県立大学の岡田先生など、いずれも興味深い話をされる先生方が出席していた。
なかでも興味深い話をしたのが日高さん。子どもの教育という話になったとき、「子どもは本来自分で育つものである、という認識に立たなければならない。」と言われた。その通りだと思う。「先生方のなかには、教育しなければ子どもは育たないと考えている人が非常に多い。そういう考え方では、あるところで成長が止まってしまう。子どもたちは自分たちで育つものだということを基本にして、それをどう支えるのかが教育の考えるべきことだろう。」という日高さんの発言は、ユニセフパークプロジェクトが目指すところと一致している。
ところが、子どもが勝手に育つのであれば教育や学校が必要なくなってしまう。だから日高さんは「あまりそういう発言をしないで欲しい」と教育委員会に怒られたことがあるそうだ。もちろん、かなり昔の話だろうけど。
山崎
2005年6月25日土曜日
「非過防備都市」
夕方から、コーディネーターとしてarchiforumに出席する。ゲストは五十嵐太郎さん。テーマは「過防備都市」。
いつごろからだろうか、熱中症という病気が声高に語られるようになった。僕が小学生のころ、日射病に注意するという話はあっても、熱中症に注意するという話はなかった。熱中症とは、暑いところで長く活動することによって体力が奪われてしまうことである。クーラーの効いた部屋で生活する子どもが多くなったために、最近では多くの子どもが熱中症にかかるようになっているという。快適な室内と過酷な屋外。このギャップが熱中症を引き起こす原因なのである。
どうすればいいか。公園にも道路にも駐車場にも運動場にも、都市のすべての場所に屋根をかけてクーラーを設置すればいい。いや、最近では中山間地域でも熱中症が問題になりつつあるのだから、里山にも畦道にも田畑にも屋根とクーラーを設置すべきである。都市のセキュリティに関する議論は、そんなことを主張しているように感じる。
学校の内部を安全にすればするほど、学校の外部おける危険に対応できない子どもを育成することになるだろう。住居の内部を安全にすればするほど、都市における危険に対応できない人たちが生み出されるだろう。ゲーテッドコミュニティで育った子どもは、都市の危険に対応できる大人になるのだろうか。都市の隅々まで防犯カメラを設置し、安全で安心なまちづくりを物理的に進めるべきなのだろうか。
都市の自由な活動を制限し、人々の活動を監視する。物理的な安全を追求すると、僕たちの自由はかなり制限されてしまう。安全か自由かという問いの立て方ではなく、安全で自由であるべきなのが都市なのである。都市の活力を十分に高めることによって、安心で安全な生活を確保することはできないだろうか。
安全だから安心なのではなく、活力が高まって相互に安心して暮らすことができるから安全な街が実現するのである。自由で安全なまちづくりとは、都市で生活する人々の活力に支えられたまちづくりなのだろう。
外部空間の隅々にまでクーラーが効いている都市ではなく、暑さを吹き飛ばすくらいの活力を持った人々が闊歩する都市に住みたい、と僕は思う。

五十嵐太郎さん
山崎
いつごろからだろうか、熱中症という病気が声高に語られるようになった。僕が小学生のころ、日射病に注意するという話はあっても、熱中症に注意するという話はなかった。熱中症とは、暑いところで長く活動することによって体力が奪われてしまうことである。クーラーの効いた部屋で生活する子どもが多くなったために、最近では多くの子どもが熱中症にかかるようになっているという。快適な室内と過酷な屋外。このギャップが熱中症を引き起こす原因なのである。
どうすればいいか。公園にも道路にも駐車場にも運動場にも、都市のすべての場所に屋根をかけてクーラーを設置すればいい。いや、最近では中山間地域でも熱中症が問題になりつつあるのだから、里山にも畦道にも田畑にも屋根とクーラーを設置すべきである。都市のセキュリティに関する議論は、そんなことを主張しているように感じる。
学校の内部を安全にすればするほど、学校の外部おける危険に対応できない子どもを育成することになるだろう。住居の内部を安全にすればするほど、都市における危険に対応できない人たちが生み出されるだろう。ゲーテッドコミュニティで育った子どもは、都市の危険に対応できる大人になるのだろうか。都市の隅々まで防犯カメラを設置し、安全で安心なまちづくりを物理的に進めるべきなのだろうか。
都市の自由な活動を制限し、人々の活動を監視する。物理的な安全を追求すると、僕たちの自由はかなり制限されてしまう。安全か自由かという問いの立て方ではなく、安全で自由であるべきなのが都市なのである。都市の活力を十分に高めることによって、安心で安全な生活を確保することはできないだろうか。
安全だから安心なのではなく、活力が高まって相互に安心して暮らすことができるから安全な街が実現するのである。自由で安全なまちづくりとは、都市で生活する人々の活力に支えられたまちづくりなのだろう。
外部空間の隅々にまでクーラーが効いている都市ではなく、暑さを吹き飛ばすくらいの活力を持った人々が闊歩する都市に住みたい、と僕は思う。
五十嵐太郎さん
山崎
2005年5月28日土曜日
「奇抜なカタチと選択的な利用」
夕方から、コーディネーターとしてarchiforumに出席する。ゲストは遠藤秀平さん。
遠藤さんがつくる建築は奇抜なカタチが特徴的である。そして、奇抜なカタチをユーザーがどう使いこなすかという点がよく考えられている。しかし、そのことはあまり多くの人に知られていない。そのため、カタチの奇抜さだけを問題にされることが多いようだ。今日のディスカッションでも、遠藤さんはカタチの奇抜さについてほとんど触れないように話を進めていた。奇抜なカタチが可能にする利用の多様性について議論しようとしても、慎重にカタチの話を避けて話を進めているように感じられた。
たぶん、遠藤さんはこれまでカタチについてかなり多くの議論を交わしてきたのだろう。あれだけ個性的なカタチである。いろいろな場所で議論のネタになったはずだ。その経験から、不用意な「カタチ議論」からは距離をとる習慣が出来上がっているのだろう。そう考えてしまうほどに、遠藤さんはカタチの話に寄り付かなかったのである。
「わからないことの位置づけをもう一度考えなければならない」と遠藤さんは言う。「ある種の正当性や妥当性、そういうわかりやすさの要求が防衛本能を優先させる状態を生み出している」というのだ。ランドスケープデザインにも同じことが言える。無駄の利をどう説くのか。機能がないことが全体にどう機能するのか。遠藤さんの考え方、そして出来上がる建築のカタチには、無駄や不可解や無機能といった空間的特長が多く見られる。それが大切だと遠藤さんは言うし、僕もそう思うのである。
帯状の連続した空間に、閉鎖した部分と開放した部分があって、利用者が場所を選んで使うことができる建築。遠藤さんの建築は、そんな建築だと思う。つまりそれは選択的に利用できる建築であり、家族構成や利用者層の変化に対応できる建築である。
遠藤さんとのディスカッションで面白かったのは以下の点。
・パブリックスペースを設計する際、個人をどう介入させるかが難しい。
・建築は場所によって変わるが、土木は場所性を消していく。景観法を作っても、土木構造物をつくるシステムが変わらなければ景観は全国一律にならざるを得ない。
・公園を住宅のように作れないか。プライベートな空間構成を有するパブリックスペース。住宅のような居心地で公園を使うこと。30年後、その場所に公園が要らないということになった場合、ガラスをはめ込めば住宅になるような公園。
・逆に、ガラスを取り外せば公園になるような住宅は設計できないか。人口減少時代に対応した住宅のあり方とは。
・扉や窓や階段など、建築のスケールを屋外へ持ち出すことによって、人々が「使いこなす外部空間」を作り出すことはできないだろうか。
・人々の関与のきっかけを与える建築をつくりたい。人々が環境に関与し始めるきっかけとなる空間とはどんなものか。
マゾヒスティックランドスケープとしても、郊外の安楽死プロジェクトとしても、興味深いディスカッションだった。

遠藤秀平さん
山崎
遠藤さんがつくる建築は奇抜なカタチが特徴的である。そして、奇抜なカタチをユーザーがどう使いこなすかという点がよく考えられている。しかし、そのことはあまり多くの人に知られていない。そのため、カタチの奇抜さだけを問題にされることが多いようだ。今日のディスカッションでも、遠藤さんはカタチの奇抜さについてほとんど触れないように話を進めていた。奇抜なカタチが可能にする利用の多様性について議論しようとしても、慎重にカタチの話を避けて話を進めているように感じられた。
たぶん、遠藤さんはこれまでカタチについてかなり多くの議論を交わしてきたのだろう。あれだけ個性的なカタチである。いろいろな場所で議論のネタになったはずだ。その経験から、不用意な「カタチ議論」からは距離をとる習慣が出来上がっているのだろう。そう考えてしまうほどに、遠藤さんはカタチの話に寄り付かなかったのである。
「わからないことの位置づけをもう一度考えなければならない」と遠藤さんは言う。「ある種の正当性や妥当性、そういうわかりやすさの要求が防衛本能を優先させる状態を生み出している」というのだ。ランドスケープデザインにも同じことが言える。無駄の利をどう説くのか。機能がないことが全体にどう機能するのか。遠藤さんの考え方、そして出来上がる建築のカタチには、無駄や不可解や無機能といった空間的特長が多く見られる。それが大切だと遠藤さんは言うし、僕もそう思うのである。
帯状の連続した空間に、閉鎖した部分と開放した部分があって、利用者が場所を選んで使うことができる建築。遠藤さんの建築は、そんな建築だと思う。つまりそれは選択的に利用できる建築であり、家族構成や利用者層の変化に対応できる建築である。
遠藤さんとのディスカッションで面白かったのは以下の点。
・パブリックスペースを設計する際、個人をどう介入させるかが難しい。
・建築は場所によって変わるが、土木は場所性を消していく。景観法を作っても、土木構造物をつくるシステムが変わらなければ景観は全国一律にならざるを得ない。
・公園を住宅のように作れないか。プライベートな空間構成を有するパブリックスペース。住宅のような居心地で公園を使うこと。30年後、その場所に公園が要らないということになった場合、ガラスをはめ込めば住宅になるような公園。
・逆に、ガラスを取り外せば公園になるような住宅は設計できないか。人口減少時代に対応した住宅のあり方とは。
・扉や窓や階段など、建築のスケールを屋外へ持ち出すことによって、人々が「使いこなす外部空間」を作り出すことはできないだろうか。
・人々の関与のきっかけを与える建築をつくりたい。人々が環境に関与し始めるきっかけとなる空間とはどんなものか。
マゾヒスティックランドスケープとしても、郊外の安楽死プロジェクトとしても、興味深いディスカッションだった。
遠藤秀平さん
山崎
2005年5月24日火曜日
「ワークショップの名称」
夕方から大阪府堺市の南海堺東駅前を対象にしたまちづくりワークショップに出かける。ワークショップに参加するのは、地元の商店街組合、南海電鉄や高島屋、専門店街組合、ヤマハなど、駅前で商売している人たちだ。
堺市にはどうも縁があるらしく、いろんなことに関わらせてもらっている。「Studio:L」というグループで活動していた2000年には毎週のように堺市の旧環濠地区へ通っていたし、その成果としてまとめた本を読んでくれた山之口商店街の人が「一緒に面白いことをやろう」と声をかけてくれている。僕にとって親しみのある街なのである。
そして今回、旧環濠地区の東側に位置する堺東駅前のまちづくりに関わることになった。30名ほどのワークショップ参加者は地元で商売している人が多く、堺東駅前の将来を本気で考えようとしていることが伺える。7回ほどワークショップを担当することになったので、少しずつ参加者と知り合いながら街の面白いネタを探してみたいと思う。
参加者は面白そうな人たちが揃っているものの、1つだけ気がかりなことがある。このワークショップの名称である。
『せや堺、ええ街つくり隊』。
気取って横文字を使うことを是とするわけではないが、ことさら関西を強調する必要も無いんじゃないか、と考え込んでしまう。誰が決めたのかは知る由も無いが、この名称がすでに僕らの与条件となっている。
なるべく楽しい会にしたいと思う。
山崎
堺市にはどうも縁があるらしく、いろんなことに関わらせてもらっている。「Studio:L」というグループで活動していた2000年には毎週のように堺市の旧環濠地区へ通っていたし、その成果としてまとめた本を読んでくれた山之口商店街の人が「一緒に面白いことをやろう」と声をかけてくれている。僕にとって親しみのある街なのである。
そして今回、旧環濠地区の東側に位置する堺東駅前のまちづくりに関わることになった。30名ほどのワークショップ参加者は地元で商売している人が多く、堺東駅前の将来を本気で考えようとしていることが伺える。7回ほどワークショップを担当することになったので、少しずつ参加者と知り合いながら街の面白いネタを探してみたいと思う。
参加者は面白そうな人たちが揃っているものの、1つだけ気がかりなことがある。このワークショップの名称である。
『せや堺、ええ街つくり隊』。
気取って横文字を使うことを是とするわけではないが、ことさら関西を強調する必要も無いんじゃないか、と考え込んでしまう。誰が決めたのかは知る由も無いが、この名称がすでに僕らの与条件となっている。
なるべく楽しい会にしたいと思う。
山崎
2005年5月23日月曜日
「ブリコラージュ」
昼から国立民俗学博物館の「ブリコラージュ・アート・ナウ」展を見に行く。以前見た「ソウルスタイル」展が衝撃的だったので、同じく佐藤浩司さんが企画した今回の展覧会を見に行くことにしたのである。正直に言えば、僕は佐藤さんの企画展を見る以外にみんぱくへ行こうと思ったことがない。佐藤さんの企画展以外に興味を惹かれるみんぱくの企画展に出会ったことがないのである。
ブリコラージュ展も前回のソウルスタイル展と同じく「これはまずいんじゃないだろうか」と思える仕掛けがいっぱいだった。大切な収蔵品が惜しげもなくブリコラージュアートとして利用されている。収蔵品が持つ文脈を無視したかのような取り扱いが、逆にその収蔵品に新しい魅力を与えている。そう感じた。
博物館に勤める人なら誰もが一度はやってみたいと思う企画かもしれない。偉い先生がアフリカの奥地で見つけた仮面に、子どもの体をひっつけてヘヴィメタを演奏させること。アジアの偏狭で見つけてきた像に、吹田市のリサイクルショップで買ってきた釣具と魚のおもちゃを組み合わせて「釣り人」にすること。苦労して収集した先生たちが見たら激怒するような収蔵品の扱いである。
しかし、釣具と組み合わされることによって初めて、僕はその仏像の穏やかな顔をじっくりと眺めたくなったのである。魚が釣り糸にかかるのをじっと待つその表情。背筋を伸ばして座禅しながら釣具を構える無駄のない構え。他の多くの仏像と共に「アジアの仏像」として展示されるよりもずっと親しみが湧く展示だといえよう。
パンフレットには次のように書かれている。「目的に合わせて材料や道具をそろえる近代科学的なアプローチに対して、ブリコラージュはありあわせの素材を利用して何かを成し遂げようとします。カレーライスをつくろうとして材料を買い揃えるのではなく、冷蔵庫のなかのありあわせの材料でつくるお惣菜のようなもの、といえばわかりやすいでしょうか。」
僕らの身の回りにあるものは、ほとんどが単一の目的のための作られたものだ。その目的を一度無視してみると、その他の使い方が思い浮かぶだろう。そんな風に生活を見直してみると、僕らの生き方はずっと楽しいものになる可能性を秘めていることに気づく。
「ビールの缶はビールを容れるためにあるのです。だから、中身のビールがなくなれば、空き缶は用済みになって捨てられてしまいます。ところが、ブリコラージュの仕事人は、空き缶から帽子やカバンや子どもの玩具を作り上げます。私たちは意表をつかれ、そこにビールの缶の可能性と作り手の想像力とを垣間見るのです。」
道路を道路として捉えるのではなく、単に細長い空間が繋がっていると考えてみると、道路空間の用途外利用をたくさん考えることができる。河川や港湾についても同じだ。「こう使うべき」と考えるのではなく「こうも使える」という発想で都市を見るとき、都市はまだまだ楽しめる場所だということに気づく。
道路際に設置された「パーキングメーター」に600円入れることによって、その前面の道路空間で60分間バーベキューをしてみよう。パーキングメーターの利用対象が車両等に限られるのであれば、キャスターを取り付けたボードの上に七輪を置いて焼肉をしてみよう。都市を使いこなす人が増えると、僕らの街はもっとワクワクする場所になると思う。
パンフレットの最後にこんな文章が載っている。「展示の背景にはひとつの社会イメージがあります。それは、社会の理想にあわせて個人が無理をしなければならなかったり、リストラをしたりするのではなく、生きる目的を持った個人の、あるがままの個性の集合を前提にした社会。つまり、ブリコラージュな社会への夢です。」
山崎
ブリコラージュ展も前回のソウルスタイル展と同じく「これはまずいんじゃないだろうか」と思える仕掛けがいっぱいだった。大切な収蔵品が惜しげもなくブリコラージュアートとして利用されている。収蔵品が持つ文脈を無視したかのような取り扱いが、逆にその収蔵品に新しい魅力を与えている。そう感じた。
博物館に勤める人なら誰もが一度はやってみたいと思う企画かもしれない。偉い先生がアフリカの奥地で見つけた仮面に、子どもの体をひっつけてヘヴィメタを演奏させること。アジアの偏狭で見つけてきた像に、吹田市のリサイクルショップで買ってきた釣具と魚のおもちゃを組み合わせて「釣り人」にすること。苦労して収集した先生たちが見たら激怒するような収蔵品の扱いである。
しかし、釣具と組み合わされることによって初めて、僕はその仏像の穏やかな顔をじっくりと眺めたくなったのである。魚が釣り糸にかかるのをじっと待つその表情。背筋を伸ばして座禅しながら釣具を構える無駄のない構え。他の多くの仏像と共に「アジアの仏像」として展示されるよりもずっと親しみが湧く展示だといえよう。
パンフレットには次のように書かれている。「目的に合わせて材料や道具をそろえる近代科学的なアプローチに対して、ブリコラージュはありあわせの素材を利用して何かを成し遂げようとします。カレーライスをつくろうとして材料を買い揃えるのではなく、冷蔵庫のなかのありあわせの材料でつくるお惣菜のようなもの、といえばわかりやすいでしょうか。」
僕らの身の回りにあるものは、ほとんどが単一の目的のための作られたものだ。その目的を一度無視してみると、その他の使い方が思い浮かぶだろう。そんな風に生活を見直してみると、僕らの生き方はずっと楽しいものになる可能性を秘めていることに気づく。
「ビールの缶はビールを容れるためにあるのです。だから、中身のビールがなくなれば、空き缶は用済みになって捨てられてしまいます。ところが、ブリコラージュの仕事人は、空き缶から帽子やカバンや子どもの玩具を作り上げます。私たちは意表をつかれ、そこにビールの缶の可能性と作り手の想像力とを垣間見るのです。」
道路を道路として捉えるのではなく、単に細長い空間が繋がっていると考えてみると、道路空間の用途外利用をたくさん考えることができる。河川や港湾についても同じだ。「こう使うべき」と考えるのではなく「こうも使える」という発想で都市を見るとき、都市はまだまだ楽しめる場所だということに気づく。
道路際に設置された「パーキングメーター」に600円入れることによって、その前面の道路空間で60分間バーベキューをしてみよう。パーキングメーターの利用対象が車両等に限られるのであれば、キャスターを取り付けたボードの上に七輪を置いて焼肉をしてみよう。都市を使いこなす人が増えると、僕らの街はもっとワクワクする場所になると思う。
パンフレットの最後にこんな文章が載っている。「展示の背景にはひとつの社会イメージがあります。それは、社会の理想にあわせて個人が無理をしなければならなかったり、リストラをしたりするのではなく、生きる目的を持った個人の、あるがままの個性の集合を前提にした社会。つまり、ブリコラージュな社会への夢です。」
山崎
2005年5月21日土曜日
「学習の循環」
朝から神戸市北区の藍那にある国営明石海峡公園神戸地区(予定地)へ出かける。ユニセフパークプロジェクトのファシリテーター研修キャンプに参加するためだ。
久しぶりに電車で藍那へ向かう。神戸電鉄に乗り換えるあたりから、バックパックを背負った学生さんを見かけるようになる。明らかにユニセフパークプロジェクトのファシリテーターキャンプに参加する人たちだ。藍那駅で電車から降りると、多くの学生さんも一緒に下車する。彼らと一緒にバックパックを背負って改札を出る。
駅の改札からキャンプの現場までは30分ほどの道のりだ。参加者たちは、初対面にもかかわらずすぐに仲良くなる。歩きながらいろんな話をしているのが聞こえる。「UPPに関わるようになって長いんですか?」と僕も聞かれる。微妙な質問だが「ええ。6年ほどになります。」と答える。プロジェクトを企画した頃から数えれば今年で6年。早いものだ。
ファシリテーター研修キャンプは、既存のファシリテーターたちが自ら企画し、参加者を募集し、準備し、プログラムを実施する。したがって、僕がやらなければならないことはほとんどない。お客さんのように、ただキャンプへ参加していればいいだけなのである。
ファシリテーター研修キャンプは1泊2日。ユニセフの活動について、里山の仕組みについて、遊び場づくりについて、戦争について、水について、食料について、健康についてなど、それぞれアクティビティプログラムを通じて学ぶ。また、プログラムの間に食事の用意やテントの設営などを行い、グループ内部の結束力を高める。このとき、既存のファシリテーターと新規参加者がどれだけ仲良くなれるかが重要だ。キャンプが成功すると、多くの新規ファシリテーターがユニセフパークプロジェクトに登録する。その定着率の高さは、キャンプの完成度に左右される。キャンプの完成度は、そのキャンプを企画・準備・運営した既存のファシリテーターたちのがんばりに左右される。
レベルの高いキャンプを経験して入ってくる新規ファシリテーターは、次のファシリテーター研修キャンプをさらにレベルの高いものへと昇華させてくれる。「サステイナブル・エデュケーション」とでも呼ぶべき「学習の循環」が発生すると、プロジェクトにおける人材育成はどんどんレベルが上がる。
今回のファシリテーターキャンプの結果、どれだけの人がUPPに定着するだろうか。既存のファシリテーターたちがキャンプの準備に追われているのを眺めながら、僕はどの参加者がUPPのファシリテーターとしてプロジェクトに定着しそうかを観察していた。

グループに分かれてUPPについて学ぶ

新しいUPPのメンバーたち
山崎
久しぶりに電車で藍那へ向かう。神戸電鉄に乗り換えるあたりから、バックパックを背負った学生さんを見かけるようになる。明らかにユニセフパークプロジェクトのファシリテーターキャンプに参加する人たちだ。藍那駅で電車から降りると、多くの学生さんも一緒に下車する。彼らと一緒にバックパックを背負って改札を出る。
駅の改札からキャンプの現場までは30分ほどの道のりだ。参加者たちは、初対面にもかかわらずすぐに仲良くなる。歩きながらいろんな話をしているのが聞こえる。「UPPに関わるようになって長いんですか?」と僕も聞かれる。微妙な質問だが「ええ。6年ほどになります。」と答える。プロジェクトを企画した頃から数えれば今年で6年。早いものだ。
ファシリテーター研修キャンプは、既存のファシリテーターたちが自ら企画し、参加者を募集し、準備し、プログラムを実施する。したがって、僕がやらなければならないことはほとんどない。お客さんのように、ただキャンプへ参加していればいいだけなのである。
ファシリテーター研修キャンプは1泊2日。ユニセフの活動について、里山の仕組みについて、遊び場づくりについて、戦争について、水について、食料について、健康についてなど、それぞれアクティビティプログラムを通じて学ぶ。また、プログラムの間に食事の用意やテントの設営などを行い、グループ内部の結束力を高める。このとき、既存のファシリテーターと新規参加者がどれだけ仲良くなれるかが重要だ。キャンプが成功すると、多くの新規ファシリテーターがユニセフパークプロジェクトに登録する。その定着率の高さは、キャンプの完成度に左右される。キャンプの完成度は、そのキャンプを企画・準備・運営した既存のファシリテーターたちのがんばりに左右される。
レベルの高いキャンプを経験して入ってくる新規ファシリテーターは、次のファシリテーター研修キャンプをさらにレベルの高いものへと昇華させてくれる。「サステイナブル・エデュケーション」とでも呼ぶべき「学習の循環」が発生すると、プロジェクトにおける人材育成はどんどんレベルが上がる。
今回のファシリテーターキャンプの結果、どれだけの人がUPPに定着するだろうか。既存のファシリテーターたちがキャンプの準備に追われているのを眺めながら、僕はどの参加者がUPPのファシリテーターとしてプロジェクトに定着しそうかを観察していた。
グループに分かれてUPPについて学ぶ
新しいUPPのメンバーたち
山崎
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