2004年12月31日金曜日

「キャリーケース」

キャリーケースというのだそうだが、キャスターの付いたカバンを引いて歩く人が最近増えている。大晦日の今日は帰省客が多いので、それが当たり前の風景なのかもしれない。でも、少し前までの帰省客というのはみんな大きなカバンを抱えていたように思う。スーツケースを引いて歩く人はほとんどが海外へ行く人だった。

ところが、最近は盆や正月の帰省客が小型のスーツケースやキャリーケースを引いているのである。国内の出張へ出かける人もキャリーケースを引いていることが多い。新大阪から東京へ向かう乗客のほとんどがキャリーケースや小型のスーツケースを携えている。多い人になると2つのキャリーケースを引いて歩く。

なぜ、最近になってキャリーケースが人気を集め始めたのだろうか。

ひとつの理由は、その性能が向上したことにあるのだろう。軽量で丈夫な素材を使ったキャリーケースが増えているし、デザインも年々進化している。価格も手頃なものが多くなった。

キャリーケースを使いこなす人のイメージが一般に浸透しつつあることも理由のひとつだろう。ゼロハリバートン社やスチュワーデスといったイメージが、キャリーケースを引く人のイメージを作り上げているのである。

ノートパソコンという「重いけど固い容器に入れて持ち運びたいもの」が普及したことも、キャリーケースの増加に影響しているだろう。

それだけではない。実は、都市空間に段差が少なくなったこともキャリーケースの増加に影響している。バリアフリーやユニバーサルデザインが常識になりつつある昨今、車椅子利用者やベビーカー利用者のみならず、キャリーケース使用者にとっても「移動しやすい都市空間」が各所に出現し始めているのである。

試しにキャリーケースを引いてみた。手に舗装面の凹凸が伝わってくる。アスファルトよりも平板のほうが引きやすい。タイルの目地でケースがわずかにバウンドする。排水勾配に引きずられる。点字タイルに乗り上げる。。。地表面の変化が直接手のひらに伝わってくる。どうやら、キャリーケースは都市のペーヴメントを体感するための装置としても機能するようだ。

都市の表面を体感する装置=キャリーケース。より多くの人がキャリーケースを使用するようになれば、都市空間のバリアフリーについて発言をする人が増えるかもしれない。体感に基づいたバリアフリーへの提言。車椅子利用者とキャリーケース使用者が都市空間のペーヴメントについて語り合う日が来たら、都市はさらにアクセスしやすくなるだろう。





山崎

2004年12月29日水曜日

「ALE」

午前10時から、グラフィックデザイナーとユニセフパークプロジェクトのパンフレットについて打合せする。来年の早い時期にイラストレーターを交えた3者で打合せする必要があることを再確認した。

午後2時から、ランドスケープエクスプローラーの出版会議に出席。本のタイトルや目次構成について話し合う。

午後6時から、都市機構の武田重昭氏とALEのオフ忘年会を開催。ALEはメール上で都市/ランドスケープについて議論するユニットで、1998年から続くプロジェクトだ。

最近のALEにおける話題は、「僕らが思い描く将来の活動フィールド」に関するものが多い。今日の議論もこの延長にあった。

僕らはすでに「形を作るだけ」のデザイン志向でワクワクする未来像を描くことができなくなっている。建築やランドスケープのデザインについて、まどろっこしいくらい説明し尽くす態度もあまり感心しない。もっと素直なものづくりがあっていいし、ものづくりだけですべてを解決しようと無理する必要も無いはずだ。社会に横たわる問題を解決するためには、プログラム+人材+財源+空間形態など複数の側面からアプローチする必要がある。空間形態の操作だけで社会の問題が解決できると考えるのは短絡的過ぎる。

以上より、僕らの興味は以下の3種類に向かうことになる。

①デザインやプランニングをハード以外の側面と同時に考えること。
 →現在の仕事の延長線上。
②プロジェクトを企画したり、組織をマネジメントしたり、人材を育成すること。
 →ユニセフパークプロジェクトなど。
③個別のプロジェクトで解決できない問題に取り組むこと。
 →個別のプロジェクトに生きられる都市計画の研究。

そこで僕らはどう生きるのか。上記の道筋を既存の職能で表現すると以下のとおり。

①デザイナー/プランナー。
②ディレクター/マネージャー。
③都市計画家/研究者。

既存の職能枠に捕らわれる必要は無いが、それらを基軸として考えると便利なこともある。基軸からどれだけ飛距離を伸ばすことができるか。何と何をどう融合させればいいのか。自分の進むべき道筋が少し明確になった夜だった。

山崎

2004年12月25日土曜日

「質問力」

中島孝志さんの「巧みな質問ができる人できない人」を読む。

中島さんは「質問力」という言葉を使う。質問力とは「質問と回答の両者を通じて新たな価値を生み出すコミュニケーション」だという。いい質問といい回答が結びつくと、そこに新しい価値が生まれる。新しい価値を生み出す力として「質問力」に注目しているのである。

本書は、質問の回答についても言及している。良い回答というのは、第1に相手の質問に対して全力で応じていること、第2に相手のレベルに立って答えていること、第3に相手が理解しているか確認しながら答えていること、という3点に集約されている。第1、第2はともかく、第3に挙げられた「相手の理解度を確認する作業」は忘れがちである。ついつい質問に答えなければという焦りとともにしゃべり続けてしまうことが多いので、この点は個人的に注意したい。

その後、質問の話は議論の話へと展開する。議論は「私が正しい。あなたは間違っている」という話をするものではない。「私」も「あなた」も気づかなかった「第3の価値」を見つけ出す作業が議論なのだという。「私」も「あなた」もどちらも正解ではない、という点から議論をスタートさせるべきなのだろう。

本書はその他に、質問力をセールストーク、人間関係、人生論、組織のマネジメントへと応用する話が続く。印象に残った点は以下のとおり。

・質問は好奇心の赴くままに投げかけること。それが問題を解決するきっかけになる。

・いいアウトプットを出すためには、その10~100倍のインプットが必要である。インプットのきっかけになるのが質問である。

・人間は質問力によってどこまでも変わる。

・質問は自分の考えを積極的にアピールする絶好の機会である。

・講演会の講師は、鋭い質問をした人のことを忘れないものである。

・講演会で質問を受け付けたとき、3秒の間に手が挙がらなかった場合は退席することにしている。5秒以上待つと「質問のための質問」をする人が現れてしまうためである。

・質問することで相手がその人のことを馬鹿にしたり、軽蔑したり、軽んじたりすることは無い。むしろ質問することで話ができた、聞いてもらえた、喜んでくれたと愛される。

・わからないのにわかったような顔をする人は物事を複雑怪奇にしてしまう。わからなければ質問すればいい。質問は恥ずかしいことではない。質問を省略する態度が失敗を招く。

・質問力の次は回答力、提案力が必要になる。即座に回答や提案ができる準備をしておくことが重要である。

・タフなネゴシエーターは相手に嫌がられるが、その実「強敵だ」という畏敬の念を持って煙たがられているのである。

・セールスは議論ではない。顧客に議論で買っても話にならない。

・仕事は契約と納品だけで成立するものではない。一番重要なのは代金を回収することである。

・会議はいろいろな可能性を秘めたイベント。主宰者のワンマンショーでは意味が無い。

・会議の人数は少なければ少ないほどいい。最低でも10人以下に抑えること。

・情報は自分が体験した1次情報でなければ意味が無い。

・「知っていること」と「理解できること」は違う。「できること」と「実践していること」も違う。

・激しい摩擦を伴う議論の末に、相手との強固な信頼関係が築かれる。

・親鸞と弟子の唯円との会話をまとめた「歎異抄」。その会話は上下関係ではなく並列関係であり、対面関係ではなく同じ方向を向いている関係である。→コラボレーション。

・宮城谷昌光さんの言葉。「歴史上の偉人は多くの苦難を克服している。偉人になりたいと望むことは、天に死ぬほどの苦難をくださいとねだることである。」

・イスラエルのソロモン王の言葉。「賢者は聞き、愚者は語る」

・道元の言葉。「いま、おまえは山を見ているけれども、山もおまえを見ているんだ。」

・GEのCEO、ジャック・ウェルチの言葉。「組織力はエナジャイザー(力を与える人)の存在が左右する。」

・山本五十六の言葉。「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ。」→原典は上杉鷹山の言葉。

古本屋で見つけて105円で購入したのが申し訳なく思えるくらい面白い本だった。

山崎

2004年12月23日木曜日

「排他性」

国立京都国際会館を見に行く。

国立京都国際会館は、ウルトラマンセブンのなかで地球防衛センターとして活躍していた建築である。確かに地球全体を守っているかのように堂々たる外観の建物だ。いや、外観だけではない。この建物の中で話し合われていることもまた、まさに地球を守るために必要な議論である場合が多い。有名な「京都議定書」を採択した地球温暖化防止京都会議(COP3)も、この会議場で執り行われている。

写真で見ていた時の印象と違って、実物の国立京都国際会館は思いのほか巨大な建築だった。建築というよりはむしろ戦艦、あるいは都市といった巨大さである。竣工は1966年。設計は大谷幸夫が担当している。

とにかく「斜め」が多い、というのが全体的な印象である。大谷の師匠である丹下健三は、垂直と水平で「日本的なるもの」を捜し求めた。これに対して大谷は、傾斜と水平を用いることによって「日本的なるもの」を表現しているようだ。斜めの手すり。斜めの照明。斜めの柱。斜めの壁。斜めの刈り込み。外観や庭園だけを見ても、「斜め」の要素が多用されていることに気づく。

建築内部にも「斜め」がたくさん見られるだろう。そう思ってロビーに入ったとき、受付の女性に呼び止められた。一般人は建築内部の見学ができないのだという。

「国立」京都国際会館。国の税金を使って建てた建物とはいえ、その内観を僕らが自由に見学することはできない。重要な会議を行う場所である。自由な見学を認めて、万が一誰かに危険物を設置されたりすると大変なことになる。だから一般人の見学は不可だということなのだろう。わからない話でもない。

そういえば、冒頭に挙げた「ウルトラマンセブン」の撮影クルーも国立京都国際会館の内部での撮影を断られている。そのため、地球防衛センターの外観は国立京都国際会館を使ったが、内観は芦屋市役所を使うことになった。実際、室内ロケのほとんどは芦屋市役所で行われていたようだ。

仮に地球防衛センターというものが実在していたとしても、一般の見学者という立場からいえば現在の国立京都国際会館と似たような排他性を持つことになっていただろう。地球防衛センターの一般見学を可能にしてしまったら、それこそ地球の未来が危なくなる危険性があるのだから。

斜めの柱や斜めの壁で構成される逆台形型の建築形態は、それを見る人に対する排他性を強調している。威圧感がある。ウルトラマンセブンのプロデューサーが地球防衛センターに求めた特徴は、この威圧感であり一般市民が近寄り難い雰囲気だったのだろう。


斜めの柱や壁


斜めの刈り込み


斜めの柱


斜めの低柵

山崎

2004年12月22日水曜日

「オープンスペースのマネジメント」

ユニセフパークプロジェクトのメンバー数人に誘われて、京都大原温泉の旅に出かけた。大原と言えば「味噌鍋」と「しば漬け」が有名だ。比較的標高の高い盆地に位置する大原は、寒暖の差が激しいことから味噌づくりやシソの栽培に適した土地だという。そのことから「味噌鍋」や「しば漬け」が大原の名産になっている。

「味噌鍋」や「しば漬け」以上に大原で有名なのは三千院である。ところが、三千院の歴史は思いのほか浅い。中世の頃からその場所にはいくつかの寺があったというが、正式に三千院という名称で取りまとめられたのは明治維新以後のことだという。だからだろうか。通常、自慢げに語られる寺の由来や故事来歴は影を潜め、代わりに説教を引用した張り紙やポスターが多く貼られていた。

2600平方メートルという広大な敷地ではあるものの、庭の管理は驚くほど行き届いている。寺風情を壊すような要素(雨水桝や塩ビ管など)は執拗に木皮で覆われ、樋や出水口には竹が用いられている。膨大な管理費が必要なやり方である。

この管理費を捻出できているのが三千院の運営が優れている点だろう。「大原三千院」という名前をここまで知らしめることになったテレビCM。付近の旅館や参道の店舗と協力したPR活動。親切なホームページの作成。JRと協力したポスターの作成。マスメディアを通じた広告に余念が無い。

マスメディアだけに頼っているわけではない。院内にもさまざまな仕掛けがある。山門を抜けるとすぐに拝観料を徴収する窓口がある。拝観料は600円。妥当な値段である。室内に入ってしばらく歩くと、まず最初に書籍や土産物を売る部屋にたどり着く。三千院第1の土産物売り場である。次に写経のための部屋へと繋がる。続く客殿の大広間は、片隅に庭を眺めながらお茶の飲める茶席が設置されている。


客殿の大広間


片隅の茶席

客殿前の聚碧園(作庭:金森宗和)を通り抜けると、大正期に建立された宸殿にたどり着く。ここでは献金や献香を受け付けている。もちろん賽銭箱も設置されている。

宸殿の前、コケに覆われた有清園を通り抜けると紫陽花園が広がる。ここには、たくさんの桜が献木されている。個人から法人まで日本全国から桜の木が収められており、各々に献木者の氏名が明記されている。1本いくらの献木なのかは分からないが、その数はかなりのものである。

紫陽花園を抜けると、平成元年に建立された金色不動堂が見える。堂前の広場ではお茶が振舞われている。年配の女性3人が盛んに勧めるお茶を飲むと、即座にお茶の販売が始まる。金粉入りのシソ茶。ここでシソが大原の気候に合った植物であること、それゆえ大原では「しば漬け」が名産になったことなどを聞かされることになる。もちろん、お茶を振舞う横には土産物売り場がある。三千院第2の土産物売り場である。お守り、線香、書籍、朱印帳、絵葉書、ボールペン、クリアファイルなど、三千院グッズが勢ぞろいだ。

その先、三千院の最も奥に位置する観音堂でも三千院グッズが売られている。三千院第3の土産物売り場である。観音堂には、例によって説法らしき文章が壁に貼られている。ここに一例を挙げておこう。

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観音さまは私達をどんなふうに救って下さるのでしょうか?」
 あなたの苦しみや悲しみを大きな慈しみの心で受け止め悩みを聞いて下さいます。そしてあなたに届く率直なことばで真実をあかされ、最善で納得のいく解決を与えて下さいます。
 そして常に寄りそい、生涯にわたりあなたを助けようと誓われた菩薩が観音さまです。どうか今、お力添えをして頂いて願いをかなえて下さる為、ご祈願や観音像奉納をお進めします。
祈願:3000円、観音像奉納:10000円より

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赤い文字は張り紙に朱色で書かれていた文字である。文法や漢字の使い方に疑問が残る文章だが、それはともかくこの類の張り紙が院内のあちこちに貼られているのである。説法に始まり営業に終わる張り紙。ありがたいような迷惑なような張り紙である。

そもそも3000円もする祈願をお願いする参拝客はどれくらいいるのだろうか。ましてや10000円もする観音像奉納にいたっては、年間にどれくらいの申し込みがあるのか定かではない。そんなことを考えながらふと観音堂の右手に目をやると、実に下のような風景が広がっているのである。





驚きである。観音さまが21世紀の日本でもこれほどの力を持っているとは思わなかった。さらに観音像が並ぶ枠木の前には、またしても張り紙が。

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「今日のご縁に、ぜひ観音像の奉納を。終生お祀りします。一体:10000円」

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さすがである。これだけの運営能力があるからこそ施設の高密度管理が可能なのであり、平成の時代に金色堂を建てるだけの資本を回収することができているのだ。オープンスペースが持つ「永続性」をうまく利用した運営費の徴収。公園の運営が寺に学ぶことは多いのではないか。三千院の運営を垣間見ながら、僕は今後のユニセフパークプロジェクトにおけるマネジメントについて考えていた。

同行したユニセフパークプロジェクトのメンバーは、三千院に何を見ていたのだろうか。メンバーの一人は、そのあと出現した第4の土産物売り場で「交通安全ステッカー」を購入していた。




三千院聚碧園

山崎

2004年12月20日月曜日

「ページ紹介」

■ OKD Landscape Gallery「コラボ研」「Landscape Explorer」「けんちくの手帖」と多方面でお世話になっている岡田昌彰さんのギャラリー。産業遺産の写真がたっぷり。

■ ウズラボ一級建築士事務所
「archireview」で知り合った竹内正明さんの建築設計事務所。

■ WEBマガジン「インク・ライン」
同じく竹内さんが書いているWEBマガジンのサイト。竹内さんは「座れる名作:京都椅子探訪」と「建築<論争>の歴史」を担当。

■ アラウンド・藤白台
千里ニュータウンで知り合った奥居さんが運営するサイト。千里の「藤白台」(ふじしろだい)周辺で起きた出来事などを紹介。

山崎

2004年12月18日土曜日

「質問と回答」

夕方からアーキレヴューに参加する。今回のテーマはアーキグラム。ゲストコメンテーターは「アーキグラム」の訳者、浜田邦裕さん。プレゼンテーションは、二宮章さん、竹内正明さん、北川文太さんの3人が担当。コーディネーターは住本欣洋さん。

二宮さん、竹内さん、北川さんの3人が繰り広げるプレゼンテーションの流れは非常に刺激的だった。まずは二宮さんがアーキグラムの時代にどんなグラフィックデザインのムーブメントがあったのか(スペースエイジ/フラワーチルドレン/ポップアート/カウンターカルチャー)を整理する。続く竹内さんがその時代の世界と日本における建築のムーブメント(CIAM/チームⅩ/坂倉・前川・吉阪/丹下健三/磯崎新/メタボリズム)を整理する。そして北川さんが生活者の視点からアーキグラムの描く世界の実態(都市空間に対する記憶の喪失/個人のアイデンティティの喪失)を批評する。

二宮さんのプレゼンテーションによってアーキグラムが活躍した時代の背景を把握することができた。建築分野のみならず、関連分野におけるムーブメントを把握しておくことは重要である。特にアーキグラムのようなグループをテーマにするときはなおさらだ。二宮さんは、グラフィックデザイン、エディトリアルデザイン、映画、アートの世界で起こったムーブメントを時系列に整理し、アーキグラムの時代的な位置づけを明確にしてくれた。

竹内さんのプレゼンテーションは、アーキグラムの基礎を学ぶ教科書的な役割を果たした。今までのアーキレヴューに抜けていた種類のプレゼンテーションである。このプロセスが抜けていたため、時に来場者から「発表内容が独りよがりだ/ディスカッションの文脈が理解しにくい」などという批判を受けてきた。その部分をしっかりフォローしてくれたのが竹内さんの懇切丁寧な説明である。おかげで来場者がアーキグラムについての共通認識を持つことができた。すでにアーキグラムや近代建築ムーブメントについてしっかり勉強している人にとっては少々退屈な時間だったかもしれない。しかし、この退屈な時間が大切だったのである。この時間を我慢したからこそ、続く北川さんのプレゼンテーションで多くの発言が飛び出したのだから。

北川さんのプレゼンテーションは、一生活者という視点からアーキグラムが描く都市を疑似体験するとどうなるかについて語るものだった。独自の視点である。プラグ・イン・シティやインスタント・シティが生み出す都市は、生活空間として豊かなものになるだろうか。人々の記憶に残る街になるだろうか。都市のアイデンティティは、そこで生活する人のアイデンティティを蓄積したものである。そして個人のアイデンティティを支えているのは都市空間の記憶である。都市の記憶を消し去りながら発展しようとするアーキグラムの都市像は、発展の原動力である生活者のアイデンティティを崩壊させ続ける。この自己矛盾を解決しない限り、アーキグラムの掲げる都市が実現する可能性は低いままだろう。北川さんの論旨は以上のようなものだった。

本人の思惑通り、北川さんの発表に対しては多くの議論が巻き起こった。特に浜田さんの指摘の中で興味深かった点は以下の通り。

・アーキグラムは郊外主義者。無機質で面白くない郊外住宅地の生活をどう面白くするのかを真剣に考えていた。インスタント・シティの舞台が郊外ばかりなのもその理由。

・郊外住宅地にインスタント・シティがやってきて、イベント的な刺激を与えて、次の郊外都市へ移動する。刺激を与えられた郊外都市は、他の郊外都市と連携しながら独自の都市へと変貌する。

・プラグ・イン・シティは、メタボリズムなど海外の情報に触発されて考えた後期のアイデア。アーキグラム本来のアイデアはインスタント・シティに凝縮されている。

・メタボリズムの背後には丹下健三がいたのではないか。あの時代の資料を読み込むと、丹下が言いたいことを若いメタボリズムのメンバーに言わせていたという構図が浮かび上がる。

・メタボリズムは丹下を意識していて、丹下はコルビュジエを意識している。つまり、メタボリズムもコルビュジエ以降のモダニズムという枠の内側に留まっていたことになる。

・メタボリズムと丹下の関係については、かつてピーター・クックが指摘していた。その上で、アーキグラムはそのような師弟関係にある組織ではないとしている。

・アーキグラムのコンセプトメーカーはデヴィッド・グリーン。ドローイングはピーター・クックとロン・ヘロンが担当。デニス・クロンプトンはほとんど何もしていなかったのではないか。

・最近の建築シーンを見ていると、ムーブメントの消費が早すぎるように感じる。特に最近の日本の建築家は、世界の流行を消費し尽くしてしまうのが早過ぎるのではないか。

3人のプレゼンテーションにおける「流れ」が絶妙だったおかげで、浜田さんやアーキレヴューの米正太郎さんを巻き込む活発な意見交換がなされた。ただし、議論する各人がシナリオを作りすぎていたことは少し残念だったといえよう。自分がしゃべりたいと思っていることを固定しすぎているため、対話が十分に機能していなかったのである。

例えば、米正さんが浜田さんに対して投げかけた「アーキグラムは自分たちの計画案をどの程度実現させるつもりだったのか」という質問に対して、浜田さんは明確な回答を示すことなく「建築を設計しない人が建築を批評すること(例えば浅田彰さんの一連の発言)」の弊害について語った。また、浜田さんの「アーキグラムの持つガッツから僕らは学ぶ必要があるのではないか」という発言に対して、北川さんは「アーキグラムのガッツ以外から僕らが学ぶこと」を主題に語り続けた。いずれも質問と回答がうまくかみ合っていない。

あらかじめ準備したシナリオに沿って話を展開する場面が多かったため、個々の発言は興味深かったものの、全体としてはどこかすれ違ったディスカッションに終始してしまった感がある。「質問力」の重要性を実感した夜だった。

「質問力」を高めるため、家に帰ってすぐに中島孝志さんの「巧みな質問ができる人/できない人」を読んだ。アーキレヴューの運営から学ぶことは多い。

山崎