2006年3月20日月曜日

「マゾヒスティック・ランドスケープ」

数年前から「ランドスケープエクスプローラー」という活動に関わっている。ランドスケープに関わる計画者、設計者、研究者が集まるグループで、関西を中心に活動している。

ランドスケープエクスプローラーの活動から生まれた本が出版されることになった。タイトルは「マゾヒスティック・ランドスケープ」。マゾなランドスケープを目指そう、という本である。

グリッドとストライプで美しい風景を作り出そうというランドスケープのアプローチがあることは否定しない。そうやって作り出された美しい広場があることも知っている。しかし、僕らがそういう広場を使うとき、その美しさがゆえにどうもよそよそしく振舞わなければならないことが多いのも事実だ。「風景が人を美しくする」という言葉はきれいだが、美しく振舞わなければならない空間ばかりだと肩がこる。毎日オシャレなカフェでランチを食べなければならないことになると疲れるのと同じで、都市空間は緊張感を強いるようなオシャレ空間ばかりじゃ落ち着かない。

むしろ、自分達で改変できたり、使いこなすことができたり、別の使い方ができたり、作り出したりできるようなランドスケープがあってもいいんじゃないか。行く度に風景が変わっていて、誰かが使いこなした跡が残っているような空間があってもいいんじゃないか。そんなことを考えた。

グリッドとストライプで美しくつくった風景は、設計者によって「これが美しい風景である」と押し付けられた風景だと考えられないか。そう考えて、それらを「サディスティック・ランドスケープ」と呼んだ。いや、ランドスケープエクスプローラーのメンバー全員がそう呼んだわけではない。僕の心の中だけでそう呼んだのである。そう呼ぶと、僕らが目指したい風景が少し明確になる。デザイナーやプランナーが「美しい風景」をサディスティックに押し付けるのではなく、ユーザーが風景を使いこなして改変してしまうような「マゾヒスティック・ランドスケープ」。そんな被虐的な風景の成立を模索してみたいと思う。

そんなことを考えたのは、当時の僕が澁澤龍彦さんの本を読み漁っていたからだろう。「貢献するエゴイズム」とか「民営化」とか「ほとんど誰もが賛成」などという斜に構えたキーワードを出したのも、澁澤さんの影響だったように思う。

書店で「マゾヒスティック・ランドスケープ」を見かけたら、ぜひ手にとってナカミをご覧いただきたい。で、もし気に入ったらご自身のライブラリーに加えていただきたい。最もお願いしたいことは、同書を読んで感じたことをコメントしていただきたいということ。ぜひとも忌憚のないご意見をお聞かせ願いたい。

山崎

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