2009年2月7日土曜日

ラウンドアバウトジャーナルの議論はなぜ「閉じている」と言われるのか。

20:00から、コモンカフェにて「けんちくの手帖」を開催。ゲストはラウンドアバウトジャーナルの藤村龍至氏と山崎泰寛氏。さすがに関西でも2人の人気は高い。けんちくの手帖始まって以来、初めてとなる80名の参加者がコモンカフェに集まった。先日のライブラウンドアバウトジャーナルでは、藤村氏が司会で僕は発表者のひとりだったが、今日は僕が司会で藤村氏が発表者の一人。ちょうど関係が入れ替わったことになる。

入れ替わった状態で、藤村氏はラウンドアバウトジャーナルの「手の内側」を明かしてくれた。「手の内側」というのは、先日のラウンドアバウトジャーナルで参加者の僕たちが明かすよう求められたテーマである。

ラウンドアバウトジャーナルの「手の内側」を明かしてくれた2人に対して、会場からは方法論に関する質問が多く寄せられた。中でも、「議論を次から次へとつなげていく」という方法は、その途中で議論に参加しようとする人にとってむしろ排他的な議論の内容になるのではないか、という意見が興味深かった。連続テレビ小説を途中から見せられるようなものだ。しかも、それまでのあらすじは伝えられない。むしろ「わからないやつは放っておくぞ、分かるやつだけ付いて来い」という態度。それでは、一連の議論に最初から参加している人だけが議論の内側に入ることができて、途中から参加しようとする人は常に蚊帳の外に置かれたような気分になるだろう。せめて「これまでのあらすじ」をPDFなどで読めるようにするとか、一連の議論のなかで恒常的に使われている特殊な用語(文脈に依存するような用語)は毎回説明を加えながら使うといった配慮がないと、結果的に「議論をつなげて終わらせないようにする」という意図は何のための意図かわからなくなる、という指摘だった。

さらに、そういう「議論のつなげ方」自体が、ラウンドアバウトジャーナルの議論が「閉じている」という印象を持たせることになっているのではないか、という指摘もあった。「これまでのあらすじ」も示さず、自分たちだけが文脈を理解している特殊な言葉で議論を続けるという態度(分かる人だけ分かればいいという態度)は、議論を終わらせず次へと繋げるという「手の内側」にとって有効な手法なのか、という問いである。

こうした質問に対して、藤村氏と山崎氏は「分かる人だけが分かればいい」「あらすじを示すつもりはない」「用語を平易にする必要はない」「議論が閉じているということは気にしない」という決意を新たにした。さらに、「議論が閉じているとか開いているという話題自体が面白くない」という話にもなった。

なぜ、ラウンドアバウトジャーナルの議論が「閉じている」と言われるのか。それは上記のような一連の構造が関係しているようだ。まず、彼らは議論をその都度ごとに切り分けたくないと思っている。だから、常に議論が続いているような場をつくろうとする。先日行われたライブラウンドアバウトジャーナルも、それ以前に行われたイベントから議論がつながっているという。そして、その議論は今回の「けんちくの手帖」につながった。今回の議論はさらに次のイベントにつながることだろう。そうやって、ずっと議論をつなげていくことで何度も同じような議論を繰り返すという無駄を排除しようとしている。

しかし、ずっと続く議論の内容は、その場にいなかった人に伝わりにくい。あらすじも伝えられない。となると、初めてラウンドアバウトジャーナルの議論に参加した人は会話について行きにくくなる。にも関わらず、一連の議論の文脈に依存したような用語の使用が多くなると、初めての参加者はますます話の内容が理解できなくなる。これは用語の難しさという話ではない。言葉の意味が独特の文脈に依拠しているため、その文脈を理解していない人はその意味内容を理解できないということである。その結果、初めて議論に参加した人たちは議論に排他的な力を感じてしまう。議論している人たちはそのつもりがなくても。。。「昨日のドラマみた?」「うん、見た見た」「圭吾くん、彼女にあれを言っちゃダメだよねぇ」というような話は、ドラマを見ていない人がいる場合は少し配慮が必要なんじゃないか、という話である。

あらすじも説明も無しで議論をつなげ続けると、排他的に感じる人がどんどん増える。その結果、ラウンドアバウトジャーナルの議論は閉じているんじゃないか、という話になる。それに対して、「用語が難しいと思うのなら勉強してから議論に臨め」とか「閉じているとか開いているとか言ってんじゃねぇ」というのは直接の答えになっていない。だからますます「やっぱり閉じてるなぁ」という感想を持つ人が現れるのだろう。さらに穿った見方をする人に至っては、「最初からドラマのストーリーを把握している人だけが、言葉の意味もこれまでの議論の内容も、すべてを把握していることになるはずで、結局それは藤村氏たち数名の主人公たちが有利に議論を進めるための手法なのではないか」と曲解してしまうだろう。そんないろいろな思惑が「議論が閉じている」という言葉のなかに含まれているのではないだろうか。司会者として、側面から会場とゲストとのやり取りを眺めながら以上のようなことを感じた。

しかし、だ。元を正せばラウンドアバウトジャーナルは藤村氏や山崎氏たちが自分たちで始めた活動である。自分たちが勉強しようと思っていろんな人たちを呼んで議論して、その内容を発信しているだけである。となれば、誰に遠慮する必要があろうか。極論すれば、自分たちが刺激を受けて、理解が深まって、仕事の方法が変化するような有意義な議論が展開できればそれでいいのではないか。そういうメディアにたまたま集まってきた人たちが、「途中参加者にも分かりやすいメディアにすべきだ」と吼えるのは少し違うのではないか、とも思うのである。

なんにしても、けんちくの手帖に出演しただけで80名もの人を集めてしまうほどの2人である。望むと望まざるとに関わらず、ラウンドアバウトジャーナルはすでに個人的な勉強会の枠を超えてしまったのだろう。本人たちは今でもプライベートな勉強の場だと感じているのかもしれないが、すでに規模が持つパブリックネスというものが発生してしまっている。だからこそ、「議論が閉じている」という指摘があるのだろう。関わる人の数が一定規模を超えたとき、不可避的に生じる公共性にどう対応するのか。ラウンドアバウトジャーナルがこれからどんなマネジメントを展開するのか、とても興味深い。

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