塚本さんの「小さな家の気づき」を読む。
この本を読むと、塚本さんが建築物を単体で捉えることなく、常に都市との関係性のなかで捉えようとしていることが良くわかる。
例えば塚本さんは、建築が出現するときのことをこう表現する。建築はその出現にあたってたくさんの情報を引き寄せている。その情報は、周辺環境から取り出されたものだけではない。社会的、文化的、技術的環境といった、さまざまな側面から引き寄せられた情報である。いったん建築が出現すると、こうして引き寄せた情報が再び環境へと送り返されることになる。
だとすれば、風景を注意深く観察することによって、一つ一つの建築が環境をどう定義してきたのか読み取ることができるはずだ。塚本さんは言う。「ランドスケープ的なモノの見方の可能性は、実態の現れ方という最終局面の中に、それぞれを形作っている複数の意図の協調や対立や矛盾といった関係を読み取ることにある」と。つまり、目の前の風景の「あり方」を観察することによって、その場所における諸々の「やり方」を想起することがランドスケープ的なモノの見方だというのである。
さらに塚本さんは、この考え方を設計に反映させる。「建物と境界条件との結びつきの検討を徹底的に、これ以上ないという次元まで推し進めれば、あとから介入したひとつの住宅のほうが、条件の取り扱いの次元で周辺の既存住宅を逆に包囲してしまうことが起こりうる」。さらに、「この包囲の及ぶ範囲が、介入されたランドスケープのとりあえずの全体ということになる。物理的には周辺環境に包囲されつつ、条件の取り扱いの次元では周辺環境を包囲している」という。
例えば、高校野球で有名な甲子園球場がある西宮市。一般的な住宅街が続くその場所に新しいマンションが建った。その名も「ドムス芦屋」。隣の芦屋市が持つ高級な街のイメージを利用したネーミングである。「反則じゃないか」と思いながらも、その場所が芦屋に近いということを認識している自分がいることに気づく。そのときから、周囲の風景が少しだけ高級感を増したように感じることになる。後から介入したひとつのマンションが、周囲のランドスケープを包囲していたのである。少々力技だが、マンションのネーミングによって風景の見方が変わることもあるだろう。
この考え方は、レオ・レオニが「スイミー」で表現した視点に近い。一般的な住宅街に建つ「ドムス芦屋」は、赤い魚の中に混じる1匹の黒い魚「スイミー」の立場に似ている。
かつてたくさんいた友達の赤い魚たちが、全員マグロに食べられてしまって、1匹だけ生き残った黒い魚「スイミー」。新しく出会った赤い魚たちの群れに向かって、後から加わったスイミーは「ぼくが目になろう!」と言う。黒いスイミーが「目」の役割を担うことによって、赤い魚の群れはマグロより大きな1匹の魚に見えるようになる。
物理的には赤い魚たちに包囲されながらも、黒いスイミーは「目」になることで全体を「巨大な魚」というランドスケープにまとめてしまう。全体はスイミーを包囲し、スイミーは全体を包囲する。レオ・レオニはこう言っている。「一匹の小さな黒い魚は指導者というわけではなく、他の人にかわってものを見ることのできる芸術家であり、それがスイミーの社会における役割なのだ」。
塚本さんの建築は、都市における「スイミー」的な役割を果たしているように思う。
その他、興味深い記述は以下のとおり。
・いろいろな人が、思い思いの向きに、思い思いの姿勢で同時にいられる。そんな光景がマイクロ・パブリック・スペースのひとつのイメージである。建物や家具はそのとき、ヒトをレイアウトするための治具(ジグ:加工するときに、特定の角度や位置に材を固定するもの)のような役割を果たす。
・「建ち方」とは、例えば「とりうるヴォリュームの形状と隣地までの距離の相関」であり、「塀や庭と建物の関係」のようなものだ。
・小さな家にすることで周辺にオープンスペースができる。南面配置とは違ってどの面も表にすることができる。周辺の流動的な土地利用がどう変わっても対応することができる。
・自分のキャリアのあるひとつの成果物として、郊外でもいいから家を買うという感覚じゃなくて、東京で生活しやすくするために、どんな小さい家でもいいから作りたいという、都市をカスタマイズするために家を作るみたいな、そんな感じだと思う。
・建築だけを取り出して思考するのではなく、できるだけその建物がまとっている現実を含めた全体を思考するべき。
山崎
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