この2日間、京都造形芸術大学の卒業制作審査会に出席した。建築デザインコース、ランドスケープデザインコース、地域デザインコースの3コースが合同で行う公開審査会である。大学生活4年間の集大成であり、1年間かけて作成してきた作品であると思うと、いずれも物足りないものばかりだったといえよう。同じ学生に同じ作品を3ヶ月でつくれといえば、きっと仕上げただろうと思える程度の作品ばかりだった。
実際、彼らが真剣に制作に取り組んだのは最後の1ヶ月間だっただろう。残り2ヶ月くらいはテーマ探しや基礎調査に費やしたとしても、合計3ヶ月で完成させられる程度の作品だというのは大げさな表現ではない。1年間あれば、もっと深く考えられるし、もっといろいろ表現できるし、もっと詳しく説明できるはずである。
このことは、学生の時間の使い方に大きく関係しているように思う。彼らに必要なスキルは、設計の方法や発想の奇抜さではなく、時間の使い方でありスケジュール管理の方法なのだということを感じる。いつまでに調査を終えるのか、いつまでにテーマを設定するのか、いつまでにどれくらいの図面を用意するのか、いつまでにプレゼンテーションパネルをどの程度作成するのか。そういうスケジューリングが重要であり、スケジュールに基づいて行動する力が求められる。
もうひとつ重要なスキルはプレゼンテーションスキルである。たとえ3ヶ月分の内容だったとしても、それを十分に相手に伝えることができればある程度の感動を与えることができるはずだ。ところが彼らは、3ヶ月分の作業内容を1週間分の作業内容に見せるようなプレゼンテーションを行う。伝えるべきことの半分も伝えられていない。逆に、伝えなくてもいいようなことに時間を使いすぎて、発表時間の終わりごろにやっと本題に入ることが多い。これはあまりにもったいないことである。
卒業制作のゼミを担当する場合、上記2点に徹するだけで学生の作品レベルはかなり上げられると思う。ただし、それは概ね作品の見栄えを上げるためのスキルアップである。本質的に卒業制作期間を通じて学生に伝えるべきことは「真剣に悩むこと」なんだと思う。極論すれば、「恥ずかしい結果を残すこと」であり、卒業制作を「トラウマ」にすることだといえよう。
社会に出たほとんどのデザイナーにとって「卒業制作」とは恥ずかしいものであり、改良すべき点が無数にあるものであり、できれば穴を掘って埋めておきたいものである。そんな「トラウマ」があるからこそ、それを乗り越えようとして実務に邁進することができる。人生の節目節目に思い出しては苦笑いし、今の自分は卒業制作のテーマに対してどんな回答を与えるだろうか、と自問自答する対象である。そんな卒業制作になれば、結果はどうであれ「これからの人生に効く」卒業制作となるだろう。こぎれいなパネルを作って、ちょっとした理論を構築したくらいで卒業制作の結果に満足してしまうと、その後にはあまり成長が望めない。卒業制作とは、本人が満足してしまうとマズイものなのである。
だから僕は「満足のいく卒業制作ができた」という言葉をあまり信用していない。どこまでも不満で、いつまでも恥ずかしいものこそ、卒業時の制作としてふさわしいのだと思う。
上記のようなことを考えながら、今年度の山崎ゼミを進めてきたつもりである。設計の手順を教えるわけでもなく、図面表現を教えるわけでもなく、スケジュールを管理するわけでもなく、プレゼンテーションの方法を教えるわけでもない。それらは、必要なら本人たちがどこかで学んでくればいいことである。むしろ、必要な議論に応じ、適切な疑問を投げかけ、しかるべき悩みを増幅させる。成果品に対しては、至らない点をたくさん指摘する。
大学4年の学生に対して僕ができることというのは、きっとそういうことくらいなんだと思う。
山崎
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