2008年8月19日火曜日

後世への最大遺物

半農半Xの塩見さんがよく引用する内村鑑三という人の「後世への最大遺物」という本を読んでみた。すがすがしい気分になる内容である。最近、ずっと考えている「社会企業家」、あるいは「社会建築家」という生き方についてのヒントがたくさん含まれている。

この本の主題は、「自分が死んだ後に何を遺したいのか」というもの。自分を育ててくれたこの国、この地球に対して何も遺さずに死んでしまいたくない、という内村氏は、何を遺すべきかを真剣に考える。内村氏が引用する天文学者のハーシェルも同様の言葉を遺している。つまり「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして往こうではないか」と。

少しでも社会をよくするために何を遺すべきか。遺すべき意義のあるものはひとつではないだろう。ひとつは金だ、と内村氏は言う。意外な答えかもしれない。ただし、単に自分の家族のために遺す遺産というわけではなく、社会のために残す金は尊いものだという意味である。社会が少しでもよくなるために使うことのできる金を遺して死ぬこと。そのために必要な能力は2つある。ひとつは当然、金を生み出して貯める能力。もうひとつは、それを意味のあることに使う能力。この2つの能力が兼ね備わっていないと、結局お金がうまく貯まらなかったり、貯まったのに私利私欲のために使ってしまったり、遺産相続の争いを起こしたりしてしまう。明治期の林学家で億万長者になった本多静六氏などは、この両方の能力を備えた人だったのだろう(誰にも知られず、全財産を社会的な事業へこっそり寄付するあたりがうまい)。

もうひとつ、遺す意義のあるものがある。事業である。金を遺す能力が無いとしても、その金を有効に使うための正しい事業を遺すことができれば、世の中は少し良くなるだろう。社会をよくするための事業を遺すことは、金を遺すことと同じくらい重要なことだといえる。社会企業家の取り組みも、社会的事業という意味で遺すに値するものだ。

金を貯めることも事業を興すことも難しいとすれば、思想を遺すことを目指せばいい。思想とは、後の人に事業を興してもらうための起爆剤だといえる。思想を文字にして遺すこともできるし、後進を教育することで若い世代に思想を伝えることもできる。文学として遺すか、教育として遺すか。いずれにしても、自分の思想を文学か教育として後進に伝えることによって、託された人たちが意義のある事業を興してくれる可能性がある。

以上、金と事業と思想のいずれを遺したいのか。僕たちはそのことを考えながら自分の人生をデザインしたいものである。

が、内村氏に言わせると、これらはいずれも「最大の」遺物ではないという。いずれも重要な遺物で遺すべきものではあるのだが、最大遺物とは呼べない。最大遺物とは、金を遺すことでも、事業を遺すことでも、思想を遺すことでもなく、困難に打ち勝って意義深い人生を歩んだ「生き方」を遺すことだという。今置かれた状況からどれほどジャンプアップして意義深い人生を歩むことができたか。結果的に遺すことのできたお金が少なくても、小さな事業しか興せなくても、数人にしか広がらない思想しか遺せなくても、もともとおかれていた立場からどれほど果敢に抜け出して、克服して、戦って、価値ある人生を手に入れたか。その伸び幅こそが後世に生きる人を奮い立たせ、勇気付け、希望を持たせる最大の遺物だ、と内村氏は結論付ける。

逆に言えば、自分の置かれた現状が困難であればあるほど、そこからの絶対値は大きくなる可能性があるというわけだ。聡明な思想家が遺した思想もすばらしいが、恵まれない状況でありながらもその思想を遺したという生き方自体は僕たちをよっぽど勇気付けてくれる。巨額の金を社会のために寄付するという行為も大したものだが、貧乏な家に生まれて努力して努力して努力して巨額の金を蓄えたその人の人生こそが僕たちを奮い立たせてくれる。こうした「高尚なる人生」こそが、努力次第で誰もが遺すことのできる最大の遺物である、というのだ。

僕の生き方は、後世の人が眺めたときに奮い立つような生き方になっているだろうか。勇気を与えるような生き方になっているだろうか。金も事業も思想も、遺せるものはできるだけ後世に遺したいと思うのだが、遺し方のプロセスを追体験した後世の人たちを沸き立たせるような人生というのもまた、魅力的な遺物である。

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