「最近のランドスケープアーキテクトでチェックしておくべき人は誰ですか?」
先日のアーキフォーラムが終わった後、2次会で槻橋さんにこんなことを聞かれた。そのときの話が頭から離れない。
酒の席だから、場に居合わせた人がざっくばらんに自分の好きなデザイナーの名を挙げた。
「ウエスト8ですね。」
「僕はディーター・キーナストが好きです。」
「イヴ・ブリュニエは良かったなぁ。」
「今ならキャサリン・グスタフソンがお勧めです。」
「ペトラ・ブレーゼもいいと思います。」
「ピーター・ウォーカー御大も健在ですよ。」
「それを言うならジョージ・ハーグレイブスも。」
「マーサ・シュワルツもね。」
それを聞いていた槻橋さんは、「やっぱりその人たちが注目株ですか」と言うような顔をして頷いた。しかし勘違いしてはいけない。その人たちが注目株なのではない。僕らはその人たちしか知らないのである。
OMAがいて、ヌーヴェルがいて、リベスキンドがいて、ザハがいて、ペローがいて、MVRDVがいて、UNがいて、H&deMがいて、foaがいて、チュミがいて、シザがいて、ホラインがいて、アイゼンマンがいて、ゲーリーがいて、ピアノがいる。クラウス・エン・カーンもいる。メカノーもディラー+スコフィディオもいる。まだまだいる。そんな多くの選択肢から「自分が好きな建築家」を選ぶことのできる建築の世界とはわけが違う。「僕らが好きなランドスケープアーキテクト」は、「僕らが知っているランドスケープアーキテクト」とほぼ一致してしまう。換言すれば、それは「誰かが選んだランドスケープアーキテクト」と一致しているということなのである。
世界の建築家に関する情報だって、所詮は「誰かが選んだ建築家」の情報にすぎないさ、という意見もあるだろう。しかし、その情報量はランドスケープの比ではない。世界の建築家情報というのは、さらにそこから「自分の好きな建築家」を選び出すことができるほど多い。そこには、主体的な目線を差し込む余地がある。
日本のランドスケープアーキテクトは、与えられるわずかな情報をみんなで使いまわしている。これは市場規模の違いに起因する現象だろう。しかし、時は21世紀である。その気になればインターネットで海外のランドスケープアーキテクトの情報を得ることができるはずだ。ところが、僕の知る限りそんな努力をしているランドスケープアーキテクトはほとんどいない。
世界中で試行錯誤されているランドスケープアーキテクトの仕事を知らないまま、同じような悩みを抱え込むのはあまりに前近代的である。同時代のランドスケープアーキテクトが何を考え、どんなことに取り組んでいるのか。僕はいま、そんなことを知りたいと思っている。微力ながら、今後は少しずつ世界のランドスケープアーキテクトについて調べてみたいと思う。
山崎
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