2005年1月29日土曜日

「居場所の建築」

INAX大阪で開催されたアーキフォーラムにコーディネーターとして参加する。ゲストは藤本壮介さん。

藤本さんは、2つの理由から是非とも話を聞いてみたかった人だ。

ひとつ目は、藤本さんのデザインアプローチと僕らのデザインアプローチの親和性が非常に高いということ。緩やかな空間領域を設定し、領域同士の関係性を組み立てるプランニング。利用者が空間を読み取って使いこなすことができるようなデザイン。僕らが「マゾヒスティックアプローチ」と呼んでいるデザイン手法を、既に藤本さんは共有しているような気がしてならない。

ふたつ目は、本人の言説によく登場する「弱い建築」というキーワード。隈研吾さんの「負ける建築」と比較されることもあるが、両者は本質的な違いを持っているように思う。「弱い建築」は、空間に対する利用者の多様な読み取りと使いこなしを前提にしている。一方、「負ける建築」は建築の建ち方の問題であり、そこに利用者による空間の使いこなしという視点は無い。

講演のタイトルは「Space in No Intention」。意図のない空間。意訳すれば「押し付けがましくない空間」ということになるだろうか。藤本さんは、押し付けがましくない空間のつくり方について以下の5点を挙げた。
・居場所
・部分からの建築
・形のない建築
・離れていて、同時に繋がっている
・レイアウトではなく新しい座標系を

これらのキーワードを用いて、藤本さんは自作である聖台病院、青森県立美術館のコンペ案、N-House Project、伊達の援護寮、T-House Project、安中環境アートフォーラムなどについて発表した。

聖台病院では、部屋と部屋を繋ぐ「廊下」を作るのではなく、小さなリビングルームが連なった「廊下のような役割を果たす空間」を作り上げている。この考え方は、青木淳さんがかつてよく使った「動線体」に近い。

青森県立美術館のコンペ案では、抑揚によって「場」を作り出そうとしている。ここで藤本さんは、「行き当たりばったり」と「全体の統一」を両立できないか模索したと言う。参照したのは有名なイリヤ・プリゴジンの「混沌からの秩序」。森における木と木の関係のように、部分と部分の関係が全体を作るような方法を探っている。「時を越えた建設の道」の著者、クリストファー・アレグザンダーの視点と共通するものを感じる。


聖台病院


青森県立美術館コンペ案


N-House Projectでは、動物の巣にようなものを作りたかったそうだ。350mmの段差が、空間の新しい利用方法を見つけるためのきっかけになっている。その段差について、青木淳さんから「椅子と机はうまく機能するかもしれないが、収納部分は荷物が見えてしまって雑然としてしまうのではないか」と指摘されたことがあるそうだ。しかし藤本さんは「雑然さが秩序だてられるような状態」を作り出したいと考えているのだと言う。なかなか難しい課題である。

伊達の援護寮では、基本図形が少しずつズレながら繋がっている状態を空間化している。ユニバーサルスペースのように均質な空間の連続ではなく、リズム感のある空間体験をユーザーに提供したいそうだ。楽譜に例えれば、音符を均質な箱に並べる五線譜が消えた状態。音符同士が直接関わり合うダイナミックな状態を目指している。


N-House Project 


伊達の援護寮


T-House Projectでは、ル・コルビュジエの「住宅は住むための機械である」に対抗して「住宅は住むための場である」という考え方で設計を進めている。生活にフィットした機能的な空間を提供するのではなく、生活者が居場所を見つけられるような空間の設計。居場所同士の関係性を何度も検討したそうだ。

安中環境アートフォーラムでは、「離れていて同時に繋がっている状態」を目指したと言う。離れていることに価値があるということを空間的に表現したプラン。湾曲する壁面によって緩やかに空間を分節すると同時に、それぞれの空間相互はしっかり結び付けている状態を作り出している。


T-House Project 


安中環境アートフォーラムコンペ案


藤本さんの建築が魅力的なのは、利用者の「居場所」を作り出そうとしている点だろう。しかし、「居場所」を巡る設計というのは難しいものである。「居場所」のための空間をユーザーに提供してしまうと、そこは「居場所」たり得なくなる。なぜなら、「居場所」は人から与えられるものではなく、自分で獲得する場所なのだから。

文部科学省が推進する「居場所づくり事業」は、小学校に児童の居場所を設置する事業である。大人に与えられる「居場所」空間は、きっと児童にとって本当の居場所にはなり得ないだろう。児童が自分で選び取る場所こそが、1人ひとりにとっての「居場所」になるのである。

利用者が場所を使いこなすことによってのみ「居場所」は出現する。「ここでゆっくり休みなさい」とか「この方向を向いて座りなさい」というような記号的空間は居場所になり得ない。利用者本人が「この場所ならゆっくり休めそうだな」とか「この高さなら座ることができそうだな」と読み取るような空間こそが居場所へと変異する可能性を秘めている。

とはいえ、何の読み取りも許さないような均質空間ではまずい。空間を使いこなす「きっかけ」が無くなってしまうからだ。記号的である必要はないが、利用者が空間に関わるきっかけは必要なのである。

人々が空間を読み取って、自分だけの居場所を作り出すことを可能にする建築。その建築は、従来のように空間の使い方を明示した「強い建築」ではなく、利用のきっかけだけを与える「弱い建築」であるべきである。つまり、藤本さんの「弱い建築」は、利用者が「居場所」を見つけ出すための空間を作りたいという本人の強い意志の現れなのである。

「Space in No Intention」と藤本さんは言うものの、メタレベルの空間には強い「Intention」が横たわっているようだ。そういえば、藤本さんは「独裁者になりたい」と言っていた。あの言葉は、藤本さんが自分の思考を忠実にトレースした結果の表れなんだと思う。


藤本壮介さん

山崎

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