六本木ヒルズの森美術館で「アーキラボ」という企画展が開催されている。この展覧会にあわせて東京と大阪でシンポジウムが行われるというので、さっそく会場へ出かけてみる。大阪会場は万博公園にある彩都IMI大学院スクール。ゲストは加藤晃規さん、宮本佳明さん、長坂大さん、そして藤本壮介さん。アーキフォーラムでお世話になっている面々だ。
この日の議論で印象的だったのはカタチの話。最近、カタチの美しさを褒め称える態度に出会うことが少なかった僕にとって少し新鮮な議論だった。ともすれば「単なるカタチの問題なんて」ということになってしまうデザインの問題を、もう一度ひっくり返して「やっぱりカタチでしょう」と語っているのが面白かったのである。
議論がカタチの問題へとシフトするきっかけになったのは藤本さんの発言。藤本さんは、アーキラボ展に出展しているフランスのフィリップ・モレルさん(EZCT Architecture & Design Reserch)が自作の説明に用いた言語を俎上に上げた。例えば、3DCGで描かれたぐにゃぐにゃな建築を、モレルさんはこう説明したと言う。「13の無限極と12の水平域によってできあがるヴァイア-シュトラス複素数関数を平準化した形態」。
藤本さんは、この説明に対して言う。「何のことやらさっぱり分からない」。そして続ける。「建築は人が生活する空間である。それを単なるカタチの理論だけで語るのは何か物足りない。僕は空間を建築の理論として語りたいと思う」。
藤本さんの発言は、デザインを巡る昨今の議論のなかでよく耳にする類のものだ。プログラム至上主義に繋がる考え方かもしれないが、僕はこの意見に概ね賛成である。
ところが、加藤晃規さんは少し違った視点を提示した。カタチの理論が空間の行為を連想させることもあるのではないか、というのである。例えば公共性の定義をこんなふうにしてみる。「公共性とは、公共空間における行為の特性である」と。
この定義は、一見何も説明していないように思える。しかし、公共空間における人々の利用形態から、その場所の公共性が読み取れることを僕たちは経験的に知っている。あるいは、公共空間における「空間形態」がどんな「利用形態」を生み出すのかをよく理解している。つまり、公共空間の空間形態(カタチ)が利用形態(行為)を生み出し、利用形態がその場所での公共性を生み出しているのである。
カタチが行為を連想させる。このことを宮本佳明さんは「機能は形態に宿る」と表現する。ここから、カタチと美についての話が展開することになる。
この話の展開の中で面白かったのは加藤さんの意見。一般的に、建築のカタチを考える時は「用/強/美」が大切だとされている。ところが「用(機能や用途)」は時代によって変化するもので信用できない側面である。「用」に基づいて設計を進めれば、求められる機能や用途が変わった瞬間に使えない建築ができあがってしまう。だから「用」に従って建築のカタチを決定すべきではない。
「強(構造)」については、すでに耐震構造や免震構造などの技術が発達しており、あらゆる重力の制約を克服している。だから「強」が建築のカタチを決定する主要因にはなり得ない。
そのうえで加藤さんは、建築が「美」の問題を取り扱うことの重要性を説く。地域や時代によって変化する「用」や「強」の問題ではなく、普遍性を持った「美」の問題を取り扱うべきである、と。「美」の問題こそが世界標準なのであり、いつの時代/どの場所でも「自分にとっての美の問題」は変わらない、というのだ。
自分が美しいと思うもの。建築の用途や機能や構造に依拠するのではなく、自分が美しいと思う建築を作ることが地域や時代を超えた名作を作ることに繋がる。加藤さんの提言は非常に力強いものであり、魚の鱗が美しいとするフランク・ゲーリーのデザインポリシーに似たものを感じた。
シンポジウムの最後に会場から面白い質問があった。自分が美しいと思うものをみんなも美しいと思うだろうか、という質問。建築は社会的な存在である。独りよがりな美しさに基づいて建築を作ることが、本当に万人にとって美しい街を作ることに繋がるのだろうか、という疑問を抱いた学生の質問だった。
「個人的な美を突き詰めると、かなり深いところで他人と共有できる美を見つけ出すことができる」というような答えが返ってくるのかと思った。しかし加藤さんの答えは違っていた。「自分が美しいと思うものをみんなが美しいと思うなんてことはあり得ない。自分の嫁さんですらぜんぜん好みが一致しないのだから」。
おや?
誰とも共有できない「美」の問題を僕らが学ぶ意味はあるのだろうか。独りよがりの美に依拠して建築を設計すればいいというのだろうか。
最後の最後で論理矛盾を露呈したまま会場を去る加藤さんに対して、僕はフランク・ゲーリーの後姿に似たすがすがしさを感じていた。
ビルバオ・グッゲンハイム美術館
(設計:フランク・ゲーリー)
■追記01:
個人の美が他人の美と一致しないことは、地区の景観を考える際にも顕在化する問題である。ある地区が目指すべき景観を考えていくプロセスで、多様な美意識をどう統合していくのかが僕らに問われている。地区の景観の全体像は誰が決めるのか。景観の専門家か、住民の総意か、代表者の合議か、権力者か。昨今の景観行政では、「全体性の決定手法」や「民意の取りまとめ方」が問題になっている。当然、僕らも僕らなりの手法を見出しておかなければならないだろう。
■追記02:
ところがそこにもうひとつの問題がある。景観法に関わるほとんどの委員会に、いわゆる「ランドスケープアーキテクト」は呼ばれていないのである。各地の景観委員会における主なメンバー構成は、建築/土木/都市計画/法律/経済。景観(ランドスケープ)を職能に掲げる造園分野から景観委員会へ出席しているケースは稀である。景観法に関する書籍を執筆しているメンバーも工学系や法学系が多い。どうやら、農学系ランドスケープアーキテクトは、都市景観を語る際に必要とされていないようだ。造園へ引きこもるか、工学のフィールドへ打って出るか。僕らが考えなければならない問題がここにもある。
■追記03:
造園に引きこもるとしても、デザインに使える言語が少なすぎるのは問題である。今回は否定的に扱ったEZCTであるが、彼らが持つデザイン言語の豊富さは見習うべきものがある。EZCTがカタチを生み出すために用いている関数は、前述のヴァイア-シュトラス複素数関数やgggRibbon関数など多数。提唱している概念は神経系市場主義や積分系資本主義。生命資本主義的景観という考え方についても研究している。ランドスケープデザインがグリッドや地形を使いまわしている間に、世界では新しいカタチが生み出され続けているのである。
山崎
0 件のコメント:
コメントを投稿