昨日に引き続き塚本さんの発言を追跡する。
塚本さんと曽我部さんの対談「スーパーフラットはダメなものへ接近する方法論」を読む。美術手帖の2000年5月号に掲載されたもの。前回引用したとおり、この対談のなかで塚本さんは「環境ユニットは建ち方に関するフィジカルなことに問題が限定されている」と発言しており、環境ユニットに変わる言葉を捜し始めたことが窺える。
建築文化の2000年11号(ランドスケープ特集)に掲載された対談のなかで、塚本さんは「隣接性」という言葉を用いている。隣接性というのは、建物が何と隣り合っているかということを示す言葉。2000年12月に出版された「住宅という場所で」の中では、「敷地境界なんて無視して、その外側までどんどん触手を広げていって、建物の輪郭を超えたまとまりを作りたい」、「隣にあるものをどれだけ利用するかということを常に考えている」と発言している。この頃、塚本さんは「環境ユニット」を別の言葉で表現しようと模索していたのかもしれない。
2001年の8月に出版された「メイド・イン・トーキョー」のなかで塚本さんは、「我々が問題にしているのは、都市環境における多様な『まとまり』のつくられ方と、『まとまり』の中に見出される使われ方、すなわち都市の生態である」と述べている。この『まとまり』こそ、環境ユニットの別名なのかもしれない。
さらにここで注目すべき言葉が登場している。「都市の生態」という言葉。「都市の生態」とは、複数の異なる建物が「形態」からではなく「行為系」からひとつにまとめられたものである。生活空間というのはひとつの建物だけで成立するのではなく、複数の建物及びそこに隣接する様々な環境の結びつきによって成立している。逆に生活者から見れば、ひとつの活動はいくらでも複数の構造物にまたがって成立しうる。「都市の生態」という概念を用いることによって、空間のフィジカルな側面に特化していた「環境ユニット」という考え方へ「生活」や「使い方」という指標が組み込まれることになる。
2000年9月に出版された「10+1:トーキョーリサイクル計画」のなかでも、塚本さんは生活と空間のまとまりについて言及している。トーキョーリサイクル計画の説明に「環境ユニット」や「都市の生態」と同様の考え方が示されているのである。例えば、東京という街は外見上は非常に混乱していて図像としての統一感はないけれど、そこで毎日結構楽しく生きている自分がいる。これはいったいどういうことなのか。塚本さんはそんな疑問を僕らに投げかける。そして答える。そこには「生活する」というところからの秩序が組み立てられているんじゃないか、と。人々は各人各様に生きるための環境を自由に編集することによって、意味のある環境のまとまりを形成しているのかもしれない。だとすれば、住宅をデザインする際にも各人にとって「意味のある環境のまとまり」を考えておく必要があるだろう。だからこそ「環境ユニット」や「都市の生態」という視点が重要になるのである。
山崎
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